大連最後の夜

 

大連一日目の観光を終え麗景大酒店に着いた。一日歩き廻ったので疲れがどっと出た。食事も後にすることにして部屋のベッドに横になる。今日一日を思い返す。明日は北京へ帰らなければならない。明日の晩中には・・。これで満足といえば満足でもあるが,今日見たところが全く母の予想と違ったところであると・・という思いが募る。そこで,もう一度母に電話してみることにした。今日見てきた南山麓周辺は,はっきり目に焼きついているので電話でも説明できる。

私と母,双方でまた地図を準備する。しかし,色々な形の家があって坂が多く森が多い・・と説明していくうちに,だんだん母の生家付近と違っていることに気づいた。とにかく目印がないのである。

『家の特徴は,同じような家がいくつも同じ方を向いて並んでいる街並みで,ちょうど積み木のような感じかしらね・・。』

と母が言う。これで明らかに違っていることが判った。そして地図をもう一度確認する。

白雲山から降りて来ている道の脇に大連運動場があって,これは良く目立つはずだと言う。しばらく時間が経って,『馬欄河』と言う川が西に流れており,馬と書いて,欄干の欄と書いて大河の河と書く・・と母は教えてくれた。そう言えば特徴ある名前である。川という川もこの大連市内で,そんなに多くはない。私は地図で,その名前と同じ川を見つけることができた。

馬欄河と大連運動場の間に生家も芙蓉高女もあると言う。母の持っている古い地図で,大連運動場から馬欄河に向かって大きな道を5番目の辺りと言う。これで,いくつも判らなかったことが納得できた。私の新しい地図には,古い地図のように沢山の道は出ていないが,大体見当がつき絞り込めた。そして,海水浴場(星が浦)が近くにあったという話も,ようやく判ってきた。その星が浦は,新しい地図で星海公園となっている。また地図を観察してみるとビーチパラソルの挿絵がついているのだ。私は,その星海公園を含めて明日見て廻る所を決めた。疲れてはいたが,これで何かもやっとしたものが急に吹っ切れたようで気持ちだけは元気になる。

早速地図を持ってロビーカウンターに向かう。呂さんは途中で帰ったので頼めないが,この麗景大酒店に着いたとき親切にも散策場所を紹介してくれた王英華さんの顔が浮かんだ。英語しか判らないけれど,この人にガイドを頼んでみよう,居てくれればいいのだが・・。

カウンターに着いて王さんを呼んでもらった。王さんに,今日のことを一つ一つ説明する。そして先程母と電話して,母の生家があるところの確認を取ったことを説明する。王さんは,

『明日は休みで予定がありません。いいです。』

と快くガイドを引き受けてくれた。今度は廻るところが絞られているので,頼む方としても気が楽である。簡単な打ち合わせをする。

『明日,このホテルで日本語のレッスンがあるので,それが終わったら明朝8時にカウンタで呼んでくれませんか?』

と言う。時間的に早いが承知する。王さんは将来的に旅行業務に就きたく転職を考えており,自ら進んで日本語を勉強しているのだそうだ。このことを後で知った。

時計は20時をとうに回っていた。大連最後の夜である。ちょっと贅沢な海鮮料理を食べようとこのホテルの中華レストランへ入ることにする。レストランに入ると結構日本の観光客が多い。しかもグループで来ている人が多い。ウェイトレスも日本語でしゃべりかけていることから,これまで結構日本人客が訪れているのだろう。でも,こうして日本語が飛び交っている中にいると何だか懐かしくなる。そう言えば,二日ばかり日本人と話していない,日本人に合っていないのである。私は,ウェイトレスにお勧めの大連海鮮料理と青海ビールを頼んだ。一人きりの私のテーブルに,チャイナドレスを着たウェイトレスのチーフが座ってきて一緒に話しをした。このウェートレスは,日本語が随分できる。私は,大連の訪問の目的と今日までのことや今の日本の様子などを話した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     
大連市内観光−第二日目

 

芙蓉町周辺と星海公園の地図(1992年9月)

 

最後の日となった。今日は荷物を持って芙蓉町から星海公園を巡り,そのまま周水子空港へ行かねばならない。老虎灘の風景はこれが最後である。朝食後,辺りの風景を撮った。そして8時前にカウンタに行きチェックアウトを済ませ王さんを待つ。カウンタの青年が、日本語のレッスンはすでに終わっていると言うのでロビーのチェアに座っていると,玄関から王さんがドレスアップして現れた。黄色のワンピースにハイヒールである。日本語レッスンが終わって,きっと時間をかけていたのかもしれない。タクシーをポーターに回してもらい玄関から王さんと乗り込んだ。外は雲一つ無い良い天気である。暑いが乾燥していて独特な雰囲気がある。王さんには,昨晩地図を見せて芙蓉町の辺りまで行ってもらいたいとお願いしてあるので,そのまま直行する。ただし呂さんと違って,王さんには全部英語で話さなければならないので辛い。今朝,日本語のレッスンをしていると言うので少し聞いてみたが,まだまだのようであった。タクシーの中で,母のこと,家族が引揚げる前の大連でのこと,日本のこと等,たどたどしい英語で話した。いつか日本へ行ってみたいと王さんは言う。しかし手続きとか色んな問題で難しいとも言う。王さんは,遼寧省の外国語短期大学を出たそうである。発音も素晴らしいが,さすがにきちんとした表現を知っている。風景も見ないで王さんと顔を合わせながら,しばらくの間楽しい会話を続けた。そんなうちに打ち合わせの芙蓉町辺りに着いた。王さんが,

『この辺だと思います。』

と言うので車から降りる。辺りの風景は,昨日見た風景と違って同じような形の家が並んでいた。集団住宅街のようである。確かに母が言っていた感じである。でも,この中から,母の生家を見つけるのは所詮無理である。私は,家の様子を色んな角度から写真に収めることにした。塀がずっと続いていて塀の内側には,同じような家が等間隔で並んでいる。

二階建四軒で一棟の家,二階建二軒で一棟の家,一階建二軒で一棟の家がある。それらを写真に収める。又場所によっては住宅の間に遠く大連富士(旧名)が見える。家々の前の塀が少しづつ崩されている所もある。いずれは壊されるのであろう。

ある大きな通りに面した家々の前には,アカシアの並木が続いていて家の目隠しになっている。人通りも少なく静かである。家々はベージュ色の壁である。初秋の午前の柔らかい日差しを受け良い雰囲気であった。私は、王さんと昔のことを想像しつつ話しながら歩いた。

しばらく歩いて、何でもかんでも頼むのに少しためらわれたが,王さんに満鉄の独身寮を見つけられるだろうかと聞いた。この事は昨日話していない。本当は,王さんがハイヒールで歩いているので心配でもあったわけである。この独身寮,和英辞典があれば何とかなったであろうが,英語で言うのは難しい。私がたまたま知らなかっただけである。そこで紙に漢字で書いて説明する。寮という制度は,中国にもあるようで字面で判ったらしく,

『特定の建物は,ひょっとすると判るかもしれません。でも,老人に聞いてみないと無理でしょう。』

と王さんが言う。何人か、私の書いた紙を見せて聞いて廻ってくれる。その中で,一人のお爺さんが,

『知っているから案内する。』

と言った。王さんと二人で,お爺さんの後をついて行く。途中建設中のマンションが見えてきた。この辺りも,だんだん変わりつつあるようである。母の話で聞いたところでは,本当に見渡す限り同じような建物が並んでいたということであるから,これだけでも面影はずっと無くなったのでないかと思われる。しばらく行って,児童病院の隣にある中庭に案内された。お爺さんが建物を指差して,これがそうだと言う。三階建てである。『寮』といえば,なるほどそうかも知れない。そんな感じの窓が付いているようであるが・・。

『本当に,これが満鉄の独身寮かどうか?』

王さんに通訳して聞いてもらう。お爺さんは,

『間違いない。』

と言う。庭には,崩されたかなり古い煉瓦が積まれていた。もしここが満鉄独身寮なら,50年近く経っているのであるから,一画の煉瓦だとするとこんなに朽ちていてもおかしくない。いづれこの独身寮も壊されるのであろう。私は,積まれた煉瓦に触ってみた。

 昨日母から電話で聞いたことを色々,お爺さんに尋ねてみる。

 『昔,聖徳太子像があったということですが,今もありますか?』

 『芙蓉高等女学校を母は卒業したのですが,それは今でもありますか?』

と,王さんに中国語で通訳してもらう。私は,漢文でそれを地図に書き込んだ。下手な文法でも,おととい老虎灘公園で通じたから度胸もついているのだ。まあ,旅の恥はかき捨てでもある。

芙蓉高女の話も昨晩,王さんにしていなかった。王さんには,少し申し訳ないと思う。お爺さんは,

 『聖徳太子像は,まだある。芙蓉高等女学校は,現在教育学校になっている。』

と,中国語で話しながら,地図に書き込んでくれた。でも

『芙蓉高等女学校の場所は判らない。』

と言う。王さんに,周りの人に尋ねてもらいたいとお願いする。王さんは,自分の事のように真剣に色んな人に声を掛けてくれた。そして,通りがかった朱さんという男性の技師を連れてきて私に紹介してくれた。肩章のある半そでシャツを着た,いかにも技師らしい人である。

 『小さいとき,セーラー服を着た女学生を見たことがあります。特に襟に特徴があって,錨のマークがついていました。本当は,母が一番良く知っているのですが,今は時間がありません。でもその場所をよく知っているから,案内したいが如何ですか?』

と朱さんが言う。そう言われても芙蓉高女がそんな校章を付けていたかどうか判りはしない。ここまでは,昨晩電話で確認できなかったし,又確認する必要もないと思っていた。こんなことなど予想もしなかったからである。準備をしないで訪ねていることが後悔される。電話で得た情報以外に何もないわけである。

でも,そう思うと何でもやってみようという気持ちになった。ただ,これで母の卒業した学校を突き止められることにはならないことを,王さんと朱さんに確認し了解してもらう。訪ねるところが,芙蓉高女であれば良いと,王さんも朱さんも私もただそう願った。

南山路を通って,その女学校へと向かう。途中,柳の並木の美しいところがあちこちに見られる。又赤煉瓦造りの美しい建物があり,大切に保存されているようである。朱さんと王さんと私とで英語と中国語を話しながら歩いた。朱さんのお母さんは,昔の大連のことを良く知っているそうである。日本人と付き合いがあって,朱さんも小さいころ連れられてよく日本人と遊んだということである。私は国際会議で北京に来ており,ついでにこちらの大連に来たことなどを話した。

『今電子関係のエンジニアで,あちこち出張が多いです。』

と朱さんが言う。私もエンジニアであるから,専門のこと等どかなり込み入ったことを王さんに通訳してもらいながら話す。しかし,こんな専門の話まで,素人の王さんに通訳してもらって話すことになろうとは思わなかった。王さんには世話になりっぱなしである。一々訳すのも辛かったろう。

女学校に着いた。赤レンガのとても綺麗な建物である。玄関に共産党大連本部の看板が出ている。校庭には,沢山駐車されていて人の出入りが多い。校舎を背景にして王さん朱さんを交え二人づつ,あるいは一人づつ写真を撮り合った。

芙蓉高女と願いつつこの女学校を後にし一路,タクシーで天津街へ向う。私は,王さんにお願いして朱さんも交えて食事をすることにした。食事をしながら思った。女学生の当時の様子を知っている朱さんの思いがそのまま出たのであろう。どうしても案内したいという熱い気持ちが感じられて嬉しかった。たとえ,女学校が芙蓉高女と違っていてでもである。

芙蓉町周辺の集合住宅−1

二階建四軒で一棟の家

芙蓉町周辺の集合住宅−1

の南側の大通り

芙蓉町周辺の集合住宅−2

と大連富士

芙蓉町周辺の集合住宅−3

二階建二軒で一棟の家

芙蓉町周辺の集合住宅−3

とアカシア並木

芙蓉町周辺の集合住宅−4

一階建二軒で一棟の家

旧満鉄独身寮への通り

旧満鉄独身寮

南山路の柳の良く似合う美しい建物

南山路の柳の並木道(旧柳町)

南山路,正門側から見た神明女学校

(煉瓦と彫刻が美しい)

南山路,校庭側から見た神明女学校

(芙蓉高女と思って訪ねた)

 

星海公園観光

 

昼食を終えて,最後の観光地星海公園(旧星が浦)を訪ねる。王さんに周水子空港から発つフライトの時間を知らせ,搭乗手続きの余裕を見て何時ぐらいまで行けばよいかを確認する。日本と違い事情も異なるだろうから,早めに着きたいと王さんに頼んだ。時間は十分あることが判り安心する。王さんに全てを任せることにする。何でも頼みっぱなしで申し訳ない。ガイド料も相当弾まなければならないだろう。

天津街からタクシーに乗って星海公園まで飛ばす。星海公園に着いて,朱さんを先頭に見晴らしのいい所へ向かう。ここの観光地は訪れる人が多いらしく,途中色んなみやげ物売り場(露天の類もある)が並んでいた。日本でもよくある風景である。よく似ているので,戦前日本人もこうして露天を出していたのだろうかと思われた。そんな売り場を見廻しながら浜辺へ出る。砂利が多いのに驚いた。海水浴場といえば,日本では砂浜をすぐ連想するがここは違う。浜辺には,玉砂利がずっと広がっていた。この位だったら,裸足で歩いても痛くないだろう。それにしてもごみが落ちていない。どこでもびっくりしたことであるが,この大連は本当にごみが落ちていないところである。これなら,歩いていても確かに気持ちよいはずである。そう思った。

浜辺には,海の家らしきものが見える。戦前のものかどうか判らない。又建設中のリゾートマンションのようなものもある。遊覧船も遠くに見えたりして,市民の憩いの場になっているようである。浜辺の奥行きはどちらかと言うと狭い感じがする。砂利の浜があってその後ろに切り立った岩もあったりする。浜辺が続き,海の向こうに近々と西尖山が見えている。美しい光景である。私は,朱さんに逆光の西尖山と海岸をバックに写真を撮ってもらうことにした。朱さんは電子エンジニアであるのだが,カメラマニアでもあると言う。難しいアングルも撮れるから安心してくれと言うのでお任せする。王さんとの記念写真も撮ってくれるというのでお願いした。(この星海公園,後で母に聞くとよく家族で貝採りに来たところだということが判った。)三人で,午後ののんびりした雰囲気を楽しんだ。憩いの場となっているこの星海公園,夏場でなくとも四季を通じて出かける人は多いのだろう。帰りのフライト時間が迫ってきたので,王さんに話して周水子空港へと向う。星海公園のアスファルト通りへ戻り,タクシーを拾って途中の東北路へと向う。朱さんには途中までタクシーに乗ってもらって別れることとした。別れしな,朱さんに丁重にお礼を言う。御礼を少し渡そうかと思ったが,受け取らなかった。お昼に沢山ビールをご馳走したから良いかもしれない。名刺を渡した。帰国してから,女学校が間違いないかどうか教えて欲しいと言うので手紙を出す約束をした。タクシーから降りて往く朱さんに手を振る。握った拳の親指を突き立てて合図するのでこちらも返す。このジェスチャー,同朋の意味である。

東北路と中山公園の交差点を過ぎると,繁華街と離れて周水子空港へと郊外の道を行くこととなる。周水子空港へはしばらく時間があるので,王さんとまた話す。郊外にも新しいマンションが建っている。低い斜陽を受けて赤く反映しているのが目に焼きついた。どんどん発展するのであろう。古い建物がいつしか消える運命にある。仕方のないことである。

周水子空港についた。赤い夕日が空港を照らしている。十分フライトまで余裕がある。王さんに何時からフライトの手続きができるかを窓口で確認してもらう。少し心配であったので,じかに私も王さんの横にいて聞いた。まだまだ先であった。ロビーに行く。土産物は買ってあるので見る必要もない。ロビーには沢山の搭乗客が座っていた。その中に,大連友諠商店の隋さんが見える。際立ったビジネススーツを着ているので直ぐ判った。大連を見て廻った話をしようと,王さんと一緒にそちらに向うことにした。王さんの紹介をし,隋さんの紹介をする。隋さんに王さんに世話になったことを話す。隋さんも喜んでいた。しばらく三人で,大連訪問であったことの話をする。星が浦を南北の海で間違えたことも話した。これもいい思い出になるだろう。話に花が咲いているうちに時間が過ぎた。王さんが,日本語のできる隋さんに搭乗手続きのことをお願いして帰ると言う。今まで,お世話になりっぱなしでどうお礼しょうかと迷っていたが,とりあえず帰宅のタクシー代に含めて渡すことにした。最初断ってきたが,両手を取って,

『これは,気持ちです。』

と握らせる。小さい体で色々引きずり廻して辛かったろう。このとき,目頭が熱くなった。帰国してから手紙を書く約束をし別れることにした。王さん有難う。王さんに限らず,隋さん,呂さん,朱さん,満鉄独身寮を案内してくれたお爺さん,他いろいろの人のお世話になり,何の準備もなく訪ねた私のこの大連訪問が無事終わった。有り難かった。いつの日か,また新しい大連を訪ねたい。

 

星海公園へ向う途中の郊外風景

星海公園−1

(旧あけぼのの浜)

星海公園−2

(旧たそがれの浜)

星海公園−3

(旧霞半島)

西尖山と浜辺

星海公園から周水子空港へと

向うとき見たマンション

東北路交差点−いよいよ大連とお別れ

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