トップページへ戻る週報短文へ戻る

週報短文


バックナンバー 2002年3月分


2002年3月31日
「I君のこと」

 皆さんは、北海道の牧場へ行ったI君のことを覚えておられるだろうか。昨年の9月末の特伝(岸義紘師)に初めて教会に来て、神さまの不思議な導きで彼が願った根釧原野のY牧場へ行くことができた。あれから半年、寒い道東の牧場でよくがんばったと思うが、残念ながら3月一杯でこちらに戻ってくることになった。戻ってくるといっても、住む家も働く場所もないのだから、何とか辛抱して欲しいと思ったが、彼の手紙ではもう限界だということと、牧場の奥さんとの電話でも、牧場としてもこれ以上は難しいとのことで、やむを得ないと思った。せめて、彼が車の免許を持っていたら、もう少し状況は違っていたかもしれない。残念である。北海道の牧場はアメリカに似て、車がなければどこにも行けないし、仕事の上でも大きなマイナスになる。アメリカでは免許取得は比較的易しいと聞くが、日本では難しく、金もかかる。今から免許を取るのは難しいと奥さんは言うし、彼にもその意欲はない。
 彼は小さいときに親と死別して、家庭の温かさやしつけを受けることが出来なかった。以来、今日までずいぶんつらいところを通らされて、彼なりの人生観ができてしまった。若いけれども、ある意味で老成したような諦めの人生観である。奥さんも、まだ若い彼にいろいろ諭してみたが、通じないと嘆いておられた。
 昨年、彼のことを二度にわたってこの週報短文で紹介したが、それを西川口教会ホームページで見たアメリカの友人が、彼には彼の心をじっくりと聴いてくれるカウンセラーが必要だといち早くメールをくれた。そうだとは思っても、それをすぐに実現させることは難しかった。牧場からは教会に行くこともできなかった。牧師が一度訪ねてくださったが、それ以上は無理だったろう。私たちにできることは彼のために祈ることだけであった。
 半年振りに川口に戻ってくるI君をせめて温かく迎えてあげたい。皆様にもお願いする。


2002年3月24日
「受難週を迎えて」


 今年度は受難週とイースターの主日をもって閉じ、新年度を迎えることになる。昔は、受難週を克己週間と呼び(克己という言葉もほとんど死語になったが)何かを絶つ習慣があった。例えば、断食をしたり、甘いものを控えたり、娯楽を慎むというようなことが行われた。近年はだんだんそれがなくなり、信仰生活全体に禁欲的な要素が極めて希薄になった。キリスト教は禁欲とは関係がないというのである。それはそれで正しい。が、同時に、禁欲の持つ意味もしっかりと知らねばならない。
ジョン・ウェスレーがオックスフォードの研究生だった頃、弟のチャールス・ウェスレーや友人達が「ホーリークラブ」というグループを作って、聖書研究や祈祷に励み、聖餐に規則的に与かり、食事を抜いて貧しい人を助けるなど、一般の学生生活から見ると非常に厳しい生活をしていた。それで学生達は彼らを馬鹿にして「メソジスト」(規則屋、几帳面屋)というあだ名をつけた。これが後のメソジスト会の名称となり、ウェスレーの死後、メソジスト教会となった。このウェスレーらのメソジスト運動が、18世紀の英国を救ったと言われるほどの歴史的意味を持ったのである。
 もちろん、メソジスト運動は単なる禁欲的なものではない。それは聖霊による運動であったから永続的な意味を持った。しかし、人間的な面から見れば、禁欲的な要素は大きかった。晩年のウェスレーは昔を懐古して「ホーリークラブの時代に返りたい」と述懐したというが、あながち老人の懐古趣味とは言えない真実がある。さて、私たちはどんな受難週を送るだろうか。(島)

受難週に、マルコによる福音書を通読したい(一時間ほどあればOK)。イエスはどのような方か新しく発見したい。そしてイースターを迎えたい。同伴者が起こされるならば、説教者にとって大きな慰めと励ましです。この願いに皆さんは耳を傾けてくださるでしょうか。 (金田)


2002年3月17日
「挫折がない」


 先週の週報短文に、40年の自分の歩みを総括したことを記した。この拙文を文集の編集者に送る前に、何人かのメール友達に送って、読んでもらった。意外な反響を頂いたので、図に乗ってさらに5-60名に送った。こういうのを押し掛けメールと言うらしい。
 ところが、面白いと思ったのは、ノンクリスチャンの友人からのメールに、「だれでも人生の挫折を経験しているのに、貴兄には挫折がないようだ」という批評があった。自分では「研究に挫折して牧師になった」と書いたつもりだったのに、彼の目にはそうは映らなかったらしい。それはひとつには、私の書き方が甘かったからだろう。どうしても自分の過去を美化したり、格好良く書いたり言ったりする。そこに、人間の根本的な弱さがある。だから、証しには注意が必要だ。「あなたはすばらしい人ですね」と言われる証しは、本当の証しではない。人間がほめられるのではなく、神がほめたたえられる証しが本当である。「あなたをそのように変えてくださった神はすばらしい方ですね」と言われる時に、クリスチャン冥利に尽きると言わねばならない。だから、彼の批評で反省した。
 しかし、一方、彼の評価を素直に喜ぼうと言う気持もある。その理由は、私たちクリスチャンは復活信仰に生きている。復活信仰とは、主イエスが墓の中から甦ったことである。もし挫折と言うなら、主の十字架以上の挫折があるだろうか。人間の目から見れば、完全な挫折である。しかし、神はその挫折を用いて、我らを罪から救う「救いの道」を拓き、また、復活によって挫折を覆して栄光を表わされた。
 だから、主の十字架と復活を信じる信仰の道には明るさがある。絶望を乗り越える明るさがある。その明るさが、クリスチャンの証しにはあるはずである。わたしの拙い証しにも、幾分かその明るさを感じて、「挫折がない」と言ってくれたのなら、素直に喜ぼうと思う。
 先週は、この反省と喜びを与えられた。


2002年3月10日
三つの総括

 先週は三つの総括がありました。一つは東京聖書学校の卒業式です。当教会出身のM姉をはじめ、3名の兄姉が4年間の学びと訓練を終えて学校を巣立ちました。
 第二は、O兄とM姉との結婚式です。結婚式を総括というのもおかしいようですが、やはり人生の一つの総括です。独身時代への訣別の涙がない結婚は偽りだと誰かが言いました。信仰的に言えば、訣別というよりも死別という方が当たっているかもしれません。結婚と信仰は類似しています。
 第三は、個人的なことで恐縮ですが、この三月で大学を卒業してちょうど40年になり、昔の仲間と文集を出す事になりました。化学教室を30名が卒業したのですが、3名が他界しましたから、20数名が残っているはずです。それぞれが40年を総括して、それを集めて文集とし、秋には北海道に集まろうという計画が発表されたのです。そこで、私も昔の仲間に、牧師になった理由を話してみたくなり、私なりに40年を総括してみました。私の心に響いてきたみ言葉は「与えられたこの生涯」(詩編39・6)という一句です。就職から始まって、伝道者として献身したことも、赴任した教会も、結婚も、現在仰せつかっている東京聖書学校の務めその他も、みな神から、また人から与えられたものばかりであって、自分から進んで積極的に得たものはほとんどないことに気づいたのです。なんという消極的な、受身の人生であったかと改めて思いました。自分で積極的に選び取ったのは、香港の日本人教会に赴任したことくらいでしょうか。
 これは私の性格から来ているでしょうが、一部はキリスト教信仰によるかもしれません。聖書の信仰の特色は「待つ」ということです。神の時を待つのです。もちろん、積極的に打って出る生き方もありますが、私の場合は、じっと神の時を待ちながら生きてきました。しかし、怠惰ではなかったかとの反省もあります。


2002年3月3日
祈ってください!

 庭の沈丁花が薫り、3月を迎えました。
 去る25日からディボーション・トレーナースクールが開校しました。5月20日まで11回開かれる予定です。第1回は受講生9名、講師の崔浩皙先生、証者やオブザーバーなど全部で16名で賑やかでした。受講生の8名は西川口教会から、もうひとりはU教会のY先生です。一同が健康も支えられて、最後まで受講できるようにお祈り下さい。
 私も佐久子先生に奨められて、もう一度受講することにしました。実は、静江牧師と私は、5年前に亀有教会まで通って受講したのですが、その頃は7回で終りました。毎回新潟から新幹線で出席する方があり、その熱心に脱帽しました。鎌倉からも姉妹が出席されました。私たちは以前からアシュラムに導かれてディボーションを続けていましたから、特別に新しい印象は受けなかったのですが、この度の崔先生のお話によれば、10週間が一つの目安になるとのこと、つまり、10週間ほどこのディボーションを続けると、それが身について楽しさと喜びが満ちてくるというのです。なるほどと思いました。7週間ではちょっと短かった。だから、結局元のやり方に戻ってしまい、あまり新しいことが始まらなかったのでしょう。尊敬する尾山令仁師は、「このディボーションを始めて、自分の信仰生活が変わった」と輝いて証ししておられたのが強く印象に残っています(あのお歳で!)。
 先に天に召された松木祐三先生は、10数年前にスイスのハンス・ビュルキ師に接して、霊性の深みに導かれたとご葬儀で伺いました。
 神様は一人ひとりにチャンスを備えて、ご自身との深い交わりに私たちを招いておられます。神様との交わり以上に価値あることがこの世に存在するでしょうか。
「草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

                 (ペトロの手紙 一 1:24−25)
 この生ける主の言葉によって、神様との深い交わりに導かれたいと願っています。


トップページへ戻る週報短文へ戻る