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週報短文

教会員向けなので、わかりにくい表現もある教会員向けなので、わかりにくい表現もあるかと思いますが、どうぞお読みください(金田佐久子)。

2020年 8月 2日

自分のために説教する説教者

 インターネットで、ある動画説教を視聴しました。初めに説教者が「自分のために、自分に語るつもりで説教します」と語り出された姿が印象的でした。
 キリスト品川教会を会場にした東京説教塾の例会に出席するようになって、十数年経ちます。通い始めた時、加藤常昭先生は説教者についての考察を試みておられました。その考察が「説教者を問う」(キリスト新聞社 説教塾ブックレット1)という本にまとめられました。説教者としての自分が問われましたので、私はこの本を熟読しました。その第5章には「自分のために説教する説教者」という文章があります。こう語られています。
 “……説教再生の道がここにあるのではないかとさえ思っております。説教の場合「あなた自身のために説教せよ!」(Preach it for you!)ということは、絶対に許されないことなのでしょうか。…自己陶酔の危険は常にあります。
 しかし、それにもかかわらず、われわれもまた、まず何よりも自分自身に説教をすることが求められているのではないか。自分が語る言葉によってそこで救われ、慰められる出来事が起こり、聴き手はそれに立ち会うということが起こるのではないか。そのように思います。…神学生は…聖書を今日の聴き手にわかりやすく説明し、身近なものにしてあげるために努力します。…しかし…根本的に重要なことが欠落したままであるように思われます。それは、聖書の言葉と自分とがひとつになっていないということでもあります。…言ってみれば、説教者根性のようなものから外へ出ないといけないのです。…そして、「自分のために説教をする」ことに集中するのです。それは情熱的なことです。福音、喜びを語る者が、まずその喜びの言葉を自分が浴びるように聴くのです。自分で自分に聴かせるのです。…聖書の言葉を外からの言葉として聴きつつ、それとひとつになり、自分がそれに生かされきるとき、言葉と存在の一体化が起こるのであろうと思います。…”(No.837)

2020年 7月 26日

弱いときにこそ強いから

 毎朝、日本キリスト教団出版局の月刊誌「信徒の友」の「日毎の糧」という聖書日課に従って聖書を読み、祈っています。「日毎の糧」の欄の左端には、一日に一教会ずつ、全国の日本基督教団の教会が紹介されていて、近況や祈りの課題が書かれています。7月は愛媛県の諸教会が紹介されていました。直近の2日間は次の通りでした。
“・7月24日…A教会(創立1897年、現住陪餐1人、礼拝出席4人、予算100万円。〔主任担任教師はおられず代務者〕)。現住陪餐会員は1名ですが、近隣協会に支えられて寂しさなどは感じません。感謝いたします。専任教師が与えられる、ふさわしい時がもたらされますように。
・7月25日…B教会(創立1949年、現住陪餐8人、礼拝出席7人、聖研祈祷会出席4人、予算200万円。〔主任担任教師と担任教師〕)。賛美、喜び、祈り、感謝、解放のある教会になる。新たな希望を見つけて歩んでいけるように。祈ることによって、祈りを知る者になりたい。”
 地方の教会の現状を知らされるひと時です。望みをもって使命に生きている教会の姿に励まされます。
 今月に入って、夕拝を再開できました。夕拝は、コロナ感染のため4月からお休みしましたが、その前から朝の礼拝に比べれば、まことに少人数の集会です。夕拝をささげるとき「小規模教会の礼拝はこのような感じかな」と思うこともあります。そして、この新型コロナ感染は、全国各地の教会にも試練となりました。自分の教会ばかりでなく、同じキリストの体である他の地域教会のためにも、主の助けを祈りましょう。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。・・・それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。(コリント二12・9~10)(No.836)

2020年 7月 19日

モーセの召命と派遣命令から

 祈祷会・昼間祈祷会で旧約聖書の出エジプト記の学びを始めて、先週は第3章に入りました。とても楽しい学びです。
 不思議な導きで、エジプト王ファラオの娘の養子として育ったモーセですが、イスラエルの民の一員という自覚も持っていました。大人になったモーセはイスラエル人同士の争いを仲介しようとしましたが、同胞から拒絶されました。エジプト人を殺したこともファラオに知られ、罰を逃れるために、遠くミディアンの荒れ野に逃れます。彼はそこで出会った家族と暮らし、羊飼いとして生きていました。モーセがいつものように羊の群れを移動させていたら、燃え尽きない柴があったので好奇心をそそられ、道をそれて柴に近づきました。そのとき突然、神はモーセに語りかけられました。神はモーセに、イスラエルの民の苦しみをご覧になったこと、民を救い出し、導き出すというご計画を告げられました。そして言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3・10)。モーセは答えます。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。モーセの反応は、私たちはよく理解できます。神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12節)。
 この神の言葉は、私たちにも語られているのです。ある先生が(牧師就任式の祝辞であったと思いますが)この聖書の言葉を引用して挨拶されたことが忘れられません。「『わたしは必ずあなたと共にいる』。この神の約束の言葉だけを握っていけばいい。それがあなたへのしるし。これ以上の約束はありませんよ」と。今より若く、未熟で、「能力もない、知識も乏しい」と思っていたので(今も十分ではありませんが)、まことに肝心なことは神への信頼であると、心に刻んだのでした。(No.835)

2020年 7月 12日

「不安な時代をどう生きるか」

 キリスト新聞2020年7月1日号に、上智大学同窓会企画のイベントで、多数の著書で知られる片柳弘史神父(イエズス会司祭)と晴佐久昌英神父(東京教区司祭)の両氏が、「不安な時代をどう生きるか」と題してオンラインで対談した記事が載っていました。一部引用して紹介します。
 “(片柳神父) ・・・いま方々で「テレワーク」への移行が話題になっていますが、究極のテレワークは祈りだということです。お祈りをすることによって、外に出なくても相手のために何かしてあげることができるわけです。そして、私たちがささげる祈りというのは誰かに向けてささげられた愛なわけですから、その愛を神様がしっかりと受け止めて、神様の愛と一つになった私たちの愛がこの世界を包んでゆく。そして、どんどん世界を変えてゆくという、ダイナミックな変化が起こっていくときなのかなと私は思っています。・・・そして祈る中で、身近なところに困っている人がいる、あの人がこんなことを言って嘆いていたとか、そんなことを思い出したら、じゃあ、あの人にあれをしてあげよう、これをしてあげよう、というようなことがどんどん見つかって、そういうことの積み重ねの中で、これまでとは違った形での「新しい宣教様式」が少しずつ築き上げられていくのではないかと思っています。・・・
 (晴佐久神父) ・・・お互いに「この人と出会えてよかった」とか、「この人と苦しみを共有したい」とか、「本当に辛いときは、必ず助け合おう」と言える、そういう共同体が絶対に必要だとみんな分かっているはず。・・そこにあなたがいるだけで嬉しいと言い合えるような温かいコミュニティを持っている人が、コロナの時代にはとっても強いんです。・・・今この対談を見ている人で、現実に辛い思いをしていたり、苦しい思いをしている人たちもたくさんおられるでしょうが、とても良いことがいま始まろうとしている、そういう希望だけは持ち続けてください。・・・心に火を灯していただきたいなと思います。”(No834).


2020年 7月 5日

Y兄召される

 Y兄が、7月1日朝、肺炎のため息を引き取りました。オーストラリア在住のK姉より、お父様の逝去の知らせを聞きました。諸事情により7月3日の午後、斎場で、火葬前の祈りをささげました。K姉ご一家は、新型ウイルス感染拡大のため、帰国できません。最後のお別れができなかったのは悲しく寂しいことだと思いますが、ご親族のお助けで、インターネット通信を利用して、お顔を拝見し、お声をかけ、祈りの時を共にされていました。
 葬儀の準備のため、Y兄が洗礼を受けるにあたって書かれた証を読み返しました。一部をご紹介します。
 “私が教会の礼拝に出席するようになったのは、私の娘の影響があります。・・・私の娘が小学校の頃から毎日曜日に教会に通っているのを見て、「何のためだろう!」と理解に苦しみましたが、娘は母親の反対を押し切って「受洗」しました。・・・
 数年前に・・・私は会社をリタイアしたばかりで・・・落ち込んだ辛い毎日を過ごしておりました。そのとき娘より「教会へ通ったり、ボランティアの仕事をしたら!」と言われ、それから教会に通うようになりました。最初は礼拝に通うのも戸惑っておりましたが、回数を重ねるごとに、だんだん雰囲気にも慣れ、多くの人たちとも話し合い、良い交流を得ることができました。また毎週の礼拝での説教を聞き、自分なりに解釈し主の偉大さを理解しかかってきました。日曜の礼拝の時間は、一週間のうちで私がいちばん心が落ち着く時です。・・・”(「西川口だより」2006年5月号より)
 Y兄の愛唱讃美歌は讃美歌21・403番「聞けよ、愛と真理の」でした。K姉の大好きな讃美歌だそうです。この2節の歌詞は「仰げ、あがないの主を、世のため苦しみ 永遠(とこしえ)のいのち 与えたイエスを」。葬儀の時は、ヨハネ福音書第3章16節・17節を朗読し、この歌詞を紹介しながら、「Yさんは神に愛され、キリストに救われました」と説教しました。(No.833)

2020年 6月 28日

「しかし、勇気を出しなさい」

 先週6月23日は、3ヶ月ぶりに、埼玉県南牧師会が開催されました。会場は、川口神召キリスト教会(安田眞牧師)の、川口市西立野に2018年9月に献堂された「西立野グレースチャペル」でした。この新しい会堂はログハウスです。木のぬくもりに包まれる素敵な会堂です。9人が集いました。
 県南牧師会では、会場を提供してくださる教会の牧師が奨励をしてくださり、その後で共に祈ります。今回は安田眞先生から歴代誌下第15章より、御言葉の説き明かしをいただきました。
 「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。・・・しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」(歴代誌下15・3~4、7)
 コロナ禍の苦難を通らされています。信仰の再興のとき、再建のとき、労すべきは祭司であり、教師であること。主を大胆に、かつへりくだって慕い求めること。コリントの信徒への手紙一第15章58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」の通りである、と語られました。
 出席された先生方から、近況を伺いました。新型ウイルス感染防止のため、西川口教会と同様に、礼拝堂の礼拝をお休みした教会がほとんどでしたが、短縮した礼拝を続けた教会もありました。御言葉を届けるために、インターネットで礼拝や説教の動画の配信をされたり、説教の動画に英語のテロップをつけたという先生もおられ、そのご労苦に頭が下がりました。困難な中にも、御言葉を届けるために、惜しまず仕えておられる先生方に、とても励まされました。感謝です。(No.832)

2020年 6月 21日

出エジプト記を読もう

 先週6月17日と18日の祈祷会から、出エジプト記を学び始めました。出エジプト記について少し紹介します。
 “特徴…出エジプト記という書名はギリシア語の「エクソドス」という語(「出て行くこと」「出発」)に由来する。七十人訳ギリシア語聖書〔ギリシア語に訳された旧約聖書〕はこのエクソドスという語によって、神がモーセを選び、エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人を導き出したことを強調している。…冒頭で創世記46章8節とほぼ同じ文章を繰り返すことによって、創世記に始まった神の民の物語が続いていることが強調されている。
なぜ書かれたのか?…出エジプト記は古代イスラエル史上の二つの重要な出来事を描いている。一つはエジプトからの脱出であり、もう一つはシナイ山での律法の授与である。
 エジプトからの脱出の物語はモーセ誕生の物語から始まる。モーセはエジプトの王女の養子として育ち、その後、神の命によりエジプトの地からヘブライ人を解放する指導者となる。神はイスラエルの民を解放するために、エジプトの地で次々と災いを起こした。そしてついには葦の海を渡らせるという奇跡によって、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのである。後の世代はこの出来事を偉大なる神の救いの業として語り継ぐことになる。
 もう一つの重要な出来事であるシナイ山での律法の授与では、モーセを通して民に十戒と律法が与えられた。十戒と律法は神の民が礼拝し、共に生きるための指針であり、そこには聖なる幕屋の建設、祭具や祭司の服の作り方なども含まれていた。シナイ山における神との契約の締結は、神がアブラハムと最初に結んだ契約に基づくものであった。民がイスラエルの神にのみ忠実で、神の命令に従うことによって、約束された神の祝福は確かなものになる。”(「聖書スタディ版」より)
 主が何を語ってくださるか期待しています。(No.831)

2020年 6月 14日

礼拝を再開して

 先週6月7日は、元通りではありませんが、主日礼拝を再開できました。神の恵みに深く感謝しました。讃美歌21・162番「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1より)を心から賛美いたしました。埼玉地区内教会のホームページをいくつか見てみましたが、西川口教会と同様7日に、また本日から礼拝の再開がなされているようです。
 日本基督教団から5月29日付で「新型コロナ新型コロナウイルス感染拡大に伴う『緊急事態宣言』の解除にあたって(第四信)」が発信されました。一部引用します。
 “・・・今後、それぞれの教会・伝道所のご判断で、徐々に、あるいは段階的に、通常の活動の回復をはかっていかれることと思いますが、なお、以下の諸点についてご配慮ください。
1. 第一信にてお伝えしましたように、三密(密閉 密集 密接)を避ける方法で、礼拝やその他の集会を行ってください。また、換気と消毒にはくれぐれも留意をお願いいたします。
2.主日礼拝や大きな集会は、時間差で、数回に分散して行うことも一つの方法です。
3. これまでのデータから分かりますように、高齢の方、基礎疾患のある方は、感染によって重症化する確率が高いことが分かっています。体調の変化などがみられた場合は、礼拝などに出席はされず、自宅で過ごされることをお勧めください。
4. 今回の感染拡大によって、教会の内外で、傷つき、痛みを負った大勢の方々がおられます。その方々へ愛の配慮をいたしましょう。
聖霊降臨は、愚かな一致を図ろうとした人間の罪によって散らされた“民”が、聖霊によって再びまことの一致に導かれた出来事です。イエス・キリストの霊によって、一人ひとりが豊かに結ばれています。主が与えられている恵みと賜物に感謝して、なお、一層、諸各教会・伝道所と関係団体・学校とが、そして、一人ひとりが、なすべき務めに仕えて、連帯して行きましょう。”
(No.830)

2020年 6月 7日

共に集う恵み・神からの問い

 月刊誌「信徒の友」6月号に、代田教会の平野克己先生が「時のはざまに響く声」と題して、今この時代を生きる教会へ、特にこのコロナ禍の事態の中にある教会へのメッセージをお書きくださいました。一部引用して紹介します。
 “・・・週日はほとんど部屋に閉じこもる慣れない生活に、体も心もまだ追いつきません。けれども、無性に読み返したくなった本がありました。・・・ボンヘッファー『共に生きる生活』です。
 この本は次の文章から始まります。
 「キリスト者にとって、彼が〔ほかの〕キリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは、決して自明的なことではない」
 そして少し飛んで、ハッとさせられる文章が出てきます。
 「〈キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかも知れない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかも知れないものである〉ということがとかく忘れられがちである。だから、・・・〈われわれが今日なお、キリスト者の兄弟との交わりの中で生きることを許されているのは、恵みであり、恵み以外の何ものでもない〉ことを知りなさい」。
 教会の礼拝に加わるのも離れるのも自分の自由だと勘違いしていた若い日、わたしにはこの文章の意味がよくわかりませんでした。しかし今だからこそ、よくわかります。・・・
 神は、どうしてこのような状況を放置しておられるのでしょう。わかりません。・・・いったい神は何をお考えなのか。歴史の中で、幾度も繰り返されてきた問いです。・・・けれどもこのように問うことならできるかもしれません。いったい神は、この時代に、あなたにそしてわたしに、何をしようとしておられるのでしょうか。そのように問うとき、今度はわたしたちが答えなければならなくなります。きっと答えが求められているのは、わたしたちの方なのです。・・・”
(No.829)

2020年 5月 31日

賜物としての聖霊

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)。
 復活した主イエス・キリストは、弟子たちにエルサレムにとどまるようお命じになりました。
 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1・4~5)。
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1・8)
 この約束を語り、主イエスは天に上げられました。弟子たちは主の言葉を信じ、祈りつつ聖霊を待ち望んでいました。
 使徒言行録第2章を読むと、主イエスが約束されたとおり聖霊が弟子たちに降り、「イエスがキリストである」と力強く説教したペトロの姿を見ることができます。教会の時代が始まったのです。この聖霊のお働きは今も続き、キリストの教会を宣教へと押し出してくださっています。
 このペトロの説教を聞いて心を打たれ、「わたしたちはどうしたらいいのですか」と問う人々に、ペトロはこう答えました。
 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒2・38~39)。
 聖霊は神からの賜物であって、人の手でどうにかできるようなものではありません。特別な人だけが聖霊を受けるのではありません。神は人を分け隔てなさいません。聖霊は、子供にも大人にも、遠くにいる人―エルサレムから見れば、はるか地の果て、極東の日本に生きる私たち―にも、信じるすべての人に与えられる神の賜物です。
(No.828)

2020年 5月 24日

コヘレトの言葉を読もう(2)

 既に3月15日の週報短文に旧約聖書の「コヘレトの言葉」を学び始めたことを書きました。2か月ほど経ち、先週第9章を楽しく学び、全部で12章までですから残り少なくなってきました。
 第9章11~12節にはこうありました。
 「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに 必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも 聡明だからといって富を得るのでも 知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ。 魚が運悪く網にかかったり 鳥が罠にかかったりするように 人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」(傍線は筆者)。
 この学びで用いている小友聡先生の著書「コヘレトの言葉を読もう 『生きよ』と呼びかける書」では、この箇所がこう説き明かされていました。
 “…コヘレトは世界の不確かさ、先行き不透明さを語ります。世界記録を保持するアスリートがオリンピックでは必ずしも優勝できないように、思わぬ出来事が生じます。それが私たちの世界です。人間も突然不運に見舞われます。
 この段落は「コヘレトの言葉」の中で、3章1~17節の「時の詩文」と対応します。「神はすべてを時宜にかなうように造り」「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」というコヘレトの認識は、「時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ」という言葉とつながっています。神は「時」を創造されました。それはカイロス〔時計で計ることができない質的な時間〕です。けれども、人間はそのカイロスをつかむことができません。後になって初めてそれに気づかされます。大切なのは、不確かな世界でどう生きるかなのです。”
 コロナショックの日々ですが、2千年以上前に、聖書は「世界は先行き不透明なのだ」と語っていたのでした。神が時を支配してくださっている。そこに希望を置きます。(No.827)

2020年 5月 17日

主の昇天

 2017年度から、主日礼拝において月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教を続けてきました。日本基督教団信仰告白は、前半と後半とに分けられます。信仰告白の後半は、「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べられて「使徒信条」が続く部分です。
 ところで現在、コロナウイルス感染拡大防止のため、やむを得ず礼拝堂に集まる礼拝をお休みして、それぞれ家庭(自宅)礼拝をささげています。週報に掲載した家庭礼拝順序には、教会の信仰の告白として使徒信条を入れています。家庭礼拝においても「教会の信仰に立つ」ということが大切です。個人的な礼拝ではないということです。
 「日本基督教団信仰告白」に基づく説教は使徒信条に入って、2020年1月19日の主日礼拝で「死にて葬られ」を取り上げました。
 今年のレント(受難節)では、「十字架上の七つの言葉」を一つずつ取り上げて説教しました。
 そして復活日(イースター)を迎えました。ですので「三日目に死人のうちよりよみがへり」は、イースターの説教で取り上げたこととして、今度の5月24日の説教では、使徒信条の「天に昇り」を取り上げます。
 ルカによる福音書の最後には、復活された主イエスが弟子たちを祝福したのち、天に上げられた出来事が記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24・50~51)。
 ルカ福音書を書いたルカは、使徒言行録も書きました。使徒言行録第1章にも昇天の出来事が記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)。
 今年の昇天日は5月21日です。私たちの救い主イエス・キリストは祝福の神、私たちをを祝福してやまない神です。主イエスの祝福の手は、今も、私たちのために上げられています。(No.826)

2020年 5月 10日

「病気は人生の夏休み」

 週報短文のタイトルは、がん哲学外来を提唱しておられる樋野興夫先生の「言葉の処方箋」の一つです。
 3月から新型コロナウイルスの感染の影響を受け、西川口教会も通常の教会活動の変更を余儀なくされました。感染が日々拡大する状況の中で、予定していた集会の中止の決断やお知らせが相次いでいます。長い目で見れば、新型ウイルス感染はいつかは収束を迎えるのですが、それはいつのなのか、誰もわかりません。
 西川口教会の集会室を会場にお借りして、川口がん哲学カフェいずみを続け、樋野興夫先生の「言葉の処方箋」を味わい、カフェに参加されたがん患者さんの心の声に耳を傾けてきました。特に、進行がんの患者さんが、今受けている治療の結果がどうなるか分からないとか、数か月先の予定を立てることもできないとか、先の見えない中で、ご家族のことやお仕事のことに対する心配も抱えつつ、今を大切に、一所懸命に生きる方たちとの出会いに、何度も心を動かされました。
 新型ウイルス感染拡大の状況がどうなるか分からず、教会活動をどうするか考えている中で、心身共に大きなストレスを受けた感じです。そう感じながらも、心の隅で、「がん哲学カフェで出会った方々と、今、私も、ほんの少し似たような体験をしているのかな」と思っていました。
 「病気は人生の夏休み」。そのこころは、そう考えてみて、これまでやれなかったことに、時間を使ってみてはどうでしょうか、ということ。
 今まで忙しく働いてきたのに、病気になったためにポッカリと時間が空いてしまい、他の人は懸命に働いているのに、自分は毎日時間をもて余している。何をしていいか分からない・・・と思っている人に、差し出された「言葉の処方箋」です。
 今この時は、一人ひとりも、社会全体においても、思いがけない「夏休み」が来たのかもしれません。本当に大切なこと、なくてならないことを知るための時間かもしれません。(No.825)

2020年 5月 3日

神の言葉を届けるために

 先月は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、通常の教会活動を自粛せざるを得なくなりました。4月5日の定例役員会で、新型ウイルスの感染拡大防止のため、4月12日から礼拝堂の礼拝を休むことを決めました。4月19日の役員会では、緊急事態宣言と埼玉県より外出自粛要請が出されている間の教会活動を次の通りといたしました。
① 主日は、各自が家庭礼拝を続け、夕拝、その他の集会をお休みする。
② 平日は、祈祷会・昼間祈祷会以外の集会をお休みする。
 牧師としては、教会の兄姉に家庭礼拝をお願いするにあたり何も示さないわけにはいきません。近隣教会の牧師から、また説教塾のメーリングリストから、礼拝堂の礼拝を休むにあたり、さまざまな対応の情報をいただくことができました。それらを参考にして、週報に家庭礼拝のための短い礼拝順序を掲載しました。、また、礼拝献金を聖別するようお勧めしました。
 牧師は、日曜の午前10時30分から役員(有志。2人程度)と、礼拝堂で礼拝し、家庭(自宅)で礼拝をささげる人と心を合わせています。この時の礼拝は家庭礼拝と同じ順序で、約30分の短い礼拝です。この礼拝の音声を録音して、西川口教会のホームページから、礼拝音声を聴けるようにしました。また、説教要旨もこの音声を聴きながら書き起こして、教会のホームページに載せています。日曜の夜に更新の作業をしています。礼拝音声を聴けるようにするために、3日間ほど集中して試行錯誤しましたが、何とかできるようになり、神様に感謝しています。パソコンまたはスマートフォンから聴けますので、礼拝の助けにしていただければ幸いです(スマートフォンの方は通信料の設定にご留意ください)。インターネットが利用できない人もいますので、説教要旨は祈りの栞・週報短文の裏に印刷しました。緊急事態宣言が延長とのこと。今しばらく忍耐が必要です。(No.824)

2020年 4月 26日

ヘブライ人への手紙を読もう

 主の年2020年は、西川口教会創立70周年の記念の年で、ヘブライ人への手紙第3章6節を教会の御言葉として掲げて歩み出しました。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」。
 主日礼拝では、マタイによる福音書の説教を終えて、本日(4月26日)からヘブライ人への手紙の説教を始めます。礼拝堂での礼拝ができないのは本当に残念ですが、新型コロナウイルスの感染のリスクがある以上、止むを得ません。今できることを模索して御言葉を届けていきます。主イエスが語られたとおり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)からです。
 今、外出自粛要請が出され、もしかしたら、聖書を開く時間が与えられた人もあるかもしれません。ヘブライ人への手紙の通読をされてみてもいいかもしれません。
 主日礼拝の聖書テキストはどこが選ばれるかといえば、四つの福音書あるいは、パウロ書簡(ローマ、コリント、ガラテヤなど)が圧倒的に多いという現実があります。特にヘブライ人への手紙は、旧約聖書の引用も非常に多いので、難しく思われて、後回しにされやすいようです。しかし、ヘブライ人への手紙がはっきりと主張していることは、キリストが永遠の大祭司でいらっしゃるという真理です。ヘブライ人への手紙は言葉を尽くして、この真理をしっかりと説き明かしてくれています。ヘブライ人への手紙から、私たちのために主イエス・キリストがとりなしていてくださる恵みを発見していきたいと思います。この新型コロナウイルス感染拡大の状況の中で、思い起こされた御言葉は次の言葉です。「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(ヘブライ12・28)。アーメン。(No.823)


2020年 4月 19日

日本基督教団からの勧告

 日本基督教団より、4月10日付で、「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第三信)が発信されました。以下、一部引用します。
 “…わたしたちプロテスタント教会は、御子キリストを十字架に架けられるほどに愛してくださった神の愛に応えるために、いかなるときにあっても、一人ひとりが、礼拝をささげることによって信仰を守って来ました。礼拝に『信仰の命』があります。
 しかしながら、今や、その礼拝が、新型コロナウイルス感染のリスクによって脅かされています。神の愛に応える尊い行為そのものが〝ウイルスの感染〟に繋がる危険が生じています。この危険を避けるために、これまでのように礼拝堂など一つの箇所に集ってささげることが、果たして相応しいのか問われる事態となっています。
 命の主である神のみこころに従い、今わたしたちは、この恐ろしいウイルスを感染させないためのあらゆる手段をとり、教会・伝道所が、新型コロナウイルスの感染源とならないようにしなければなりません。症状はなくとも、既に一人ひとりが感染源であるかもしれないのです。
 よって、以下のことを、勧告します。
1. 新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために、「緊急事態宣言」が適用された地域にある教会・伝道所では、極力、教会に集わない方法で礼拝をささげることを講じてください。とくに、高齢の方、基礎疾患のある方は、自宅で礼拝をささげるようにしてください。 
2. 自宅で礼拝をささげることも、他者にウイルスを感染させないという意味で「神の愛の業」です。・・・
今、教会に求められていることは、新型コロナウイルスという世と人々を引き裂く“悪しき力”に打ち震えている人々のために真摯に祈る群れとなることです。・・・今このときも、ウイルスの感染による病に罹り苦しむ人々のために、治療と防止にあたっている尊い働き人のために祈ります。”(No.822)


2020年 4月 12日

主は生きておられる

 本日は主イエス・キリストのお甦りを記念するイースター(復活日)。主は甦られました。主は生きておられ、復活のいのちの祝福を注いでくださっています。わたしたちは祝福されています。この主の祝福は、何があっても揺るぎません。
今年は、西川口教会の創立70周年の記念の年として歩み始めていました。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の状況を受け、3月15日の特別礼拝とチェロコンサートは延期となりました。4月5日の役員会では、4月12日と19日の礼拝と夕拝とその他の集会の中止を決定しました。苦渋の決断でした。イースター礼拝を共にささげられないとは、まったく考えられないことが現実となりました。「この試練は何のためですか」と主に祈っています。
 先週の受難週の祈祷会では、主イエス・キリストの十字架上の七つの言葉を改めて心に留めました。そして昨年秋に来日されたローマ教皇フランシスコが長崎でされた説教を紹介しました。
 “「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23・42、43)”
 説教は、主イエスの傍らで、十字架にかけられた犯罪人が言い表したこの信仰の告白に集中するものでした。他の人々は主イエスを嘲っていましたが、この悔い改めた犯罪人だけが主イエスに寄り添い、信仰を表明しました。主イエスはこの人を救われました。この出来事は私たちにとって希望となります。いつでも、どこにおいても、主の救いは差し出されると信じることができます。
 死に勝ち、復活されたキリストは、今も生きておられます。キリストは聖霊を注ぎ、私たちの間で働かれ、いのちの充満へと導いておられます。キリストは、私たちに生きる者であってほしいと願っておられます。まことに、キリストは私たちの、すべての人にとっての希望です。(No.821)

2020年 4月 5日

今こそ祈りのとき

 本日は棕梠の主日。今日から受難週に入ります。キリストの十字架への歩みを思い起こしながら、祈りの時を過ごします。
 新型コロナウイルス感染拡大が止まず、世界中を覆う災いとなっている状況です。日本基督教団も加盟している日本キリスト教協議会(NCC)のホームページに、関連団体のWCC(世界教会会議)および各地域エキュメニカル組織による共同声明「今こそ、キリスト教の牧会的、預言者的、実践的な使命を果たそう」が掲載されていました。
 “・・・わたしたちは、いかなる所においても、人々がこの状況に対して真摯に向き合い、どのような形であれ、いのちを守るために協働することを最優先するよう求めます。そして今こそ、神が愛をもってお創りになったいのちを守るために、わたしたちが、言葉と分かち合いと行動によって、また、為しえないことにおいてさえも、互いに心からつながり合うべき時です。・・・
 いのちの神に対するわたしたちの信仰は、このウィルスを伝染させないためのあらゆる手段をとることによっていのちを守るよう、わたしたちを駆り立てています。安全かつ実際的な方法でいのちを守り、苦痛を和らげ、そして教会や公共サービスの場が決してウィルス感染の中心地になることがないよう十分に注意しながら、神の無条件の愛を具現化してゆこうではありませんか。・・・
 レントにおけるわたしたちの巡礼の旅は、苦労と困難と誘惑の荒れ野を通って、死から復活へ、神と共にある新しいいのちへと至ります。この荒れ野は、新型コロナウィルスによって一層わたしたちに対して厳しく、恐ろしいものとなりました。しかしわたしたちは、心を合わせて連帯し、嘆く者と共に嘆き、不安を抱えた人々と平安を分かち合い、信仰における連帯を通して希望を取り戻すよう招かれています。・・・
 神の愛はあらゆるものを包んでいます。いのちの神は、苦難の中にあってもなお、わたしたちと共にいます。”アーメン。(No.820)

2020年 3月 29日

「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第二信)

 3月27日付で、日本基督教団より「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第二信)が届きました。一部引用します。
 “新型コロナウイルスによる感染の拡大は収まる様子がありません。・・・
 そこで改めて、教団としての方針をお伝えしたいと思います。
1. 教会活動の基本は、毎主日の礼拝です。しかし専門家によれば、礼拝は「感染リスクの高い環境」であることを認識する必要があることに変わりはありません。そこで、礼拝をささげる場合は、礼拝時間の短縮や換気の徹底など、可能な限り感染のリスクを減らす対策を必ず取るようにしてください。
2. 教会が礼拝をささげない(中止する)ということはありません。礼拝は集会でもイベントでもないからです。たとえ礼拝堂に集うことがなくとも、「教会は礼拝をささげる」ということを大切にしてください。
3.現実的には、各教会・伝道所の判断が優先されますが、いうまでもなく、「祈り」をもって慎重にご判断ください。
4.感染リスクが高くなるのは「換気の悪い密室空間」「多くの人が密集した場所」「近距離(手を伸ばしたら届く距離)での会話や発声」です。これらの条件が重なる場合は、礼拝堂での礼拝を中止することも検討してください。・・・
 日本基督教団は「日本基督教団信仰告白」を告白し、「教憲教規」を守ること以外は、各人と各個教会・伝道所による〝自由な証し〟を大切にしてきました。その信仰を、このたびの感染対策にも生かしたいと思います。一人ひとりが、諸教会・伝道所が、諸教区(支区 地区 分区)が、神に向かって真摯に祈り、最も良い答えを見出させていただき、この“試練の時”をご一緒に乗り越えたいと願います。・・・”(No.819)

2020年 3月 23日

新型ウイルス感染拡大と教会の現場

 新型コロナウイルス感染拡大に歯止めがかからない事態に、様々な領域で、大きな影響が出ています。3月初めの学校の休校には驚かされました。日本全国に感染が広がり、川口市や私の住む戸田市からも感染者がありました。最近では、ヨーロッパでの急激な感染の拡大にも驚いています。
 2月末に、日本基督教団総会議長名で、「新型コロナウイルスの感染症に伴う注意喚起」の文書が届きました。訂正版も発信されました。礼拝が感染リスクの高い環境となり得るので、感染リスクを減らすようにとの要請です。改めてお読みくださいますように、お願いいたします。
 先週の火曜日は、久しぶりに埼玉県南牧師会が開催されました。昨年のリリア音楽ホールでのクリスマスの夕べの評価と展望を語り合い、近況を分かち合いました。最後の方では、新型コロナウイルスの感染拡大に対する、教会の現場はどうなのかということも話されました。礼拝以外の集会を取りやめている教会、讃美歌を歌わないで礼拝を短くしている教会、礼拝を自粛する人や、家族から礼拝を休むように言われている信徒もいる、インターネットなどで礼拝を配信している、外国人の信徒が多い教会は来られない人が増えた、子供たちの活動を休んでいる教会など、苦慮している状況が伝わりました。日本基督教団では対応は各教会に任されていますが、他の教団や教会によっては一律に、礼拝はお休みというところもあります。
 教会活動の基本は主日礼拝にあります。感染の状況も、地域で異なりますし、教会の規模なども各教会で異なりますから、各教会がそれぞれに、どう礼拝をささげるかを検討していくほかないでしょう。これは長期戦になりそうです。こういう時だからこそ、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6・18)。(No.818)

2020年 3月 15日

コヘレトの言葉を読もう

 先週の祈祷会から、旧約聖書「コヘレトの言葉」の学びを始めました。参考図書は、東京神学大学教授の小友聡先生の「コヘレトの言葉を読もう 『生きよ」と呼びかける書」です。小友先生の生き生きとした説き明かしとなっていて、とても楽しみです。ぜひ、ご一緒にコヘレトの言葉を読みましょう。お待ちしています。この本の「序『コヘレトの言葉』について」から一部引用します。
 “・・・私は新しい視点でこの書を説明できると考えています。それは、黙示思想との対論がこの書の中で一貫していると見られるからです。・・・私はダニエル書との比較においてこのことを考えます。・・・
 ダニエル書の成立は紀元前2世紀半ばと考えられていますが、私は「コヘレトの言葉」も同時期に成立したと見ています。現在、このように考えることは通説とは異なりますが、私はこの線で考えるのが妥当ではないかと思います。・・・黙示的生き方は来世に価値を置き、現世は堕落して破局に向かうゆえに、これを試練として耐え、禁欲的に生きるという態度です。
 コヘレトはこれに対して、現世を喜び楽しみ、すべてを神からの賜物と受け入れ、与えられた生を徹底して生きることを説いているのではないでしょうか。歴史に終末などなく、あるのは人間の死という終末。これは伝統的な知恵文学の思想です。その終わりを見つめ、そこから翻(ひるがえ)って今を生きよ、とコヘレトは呼びかけているのではないでしょうか。「空しい」とは人生を儚(はかな)む言いではなく、むしろ人生の短さを単に述べているのだと考えられます。コヘレトは生きることにこだわります。このように「コヘレトの言葉」を読み取ること。これが、本書で試みる新しい読み方です。今、生きている時を全力で生きよ。「コヘレトの言葉」が指し示す生き方は、今日、なお光を放ちます。さあ、新しい視点で「コヘレトの言葉」を読んでいきましょう。”
(No.817)

2020年 3月 8日

3月11日を迎えるにあたって

 2月27日付で、関東教区諸教会に宛てて、関東教区総会議長福島純雄先生と教区の災害対応支援委員会統括の飯塚拓也先生の連名で「2020年3月11日を迎えるにあたって」のメッセージが届きました。一部を紹介します(全文は掲示板に)。
“「主よ、わたしの神よ
  御名のために、わたしに計らい、恵み深く、慈しみによって、わたしを助けてください。」(詩編109編21節)
  「東北教区3.11 わたしたちの祈り 2020」より
 
 主の御名を賛美いたします。
 2020年3月11日(水)は「東日本大震災」発生から9年を迎える日です。
 9年前のこの日、わたしたちは根底からくつがえされるような出来事を経験しました。わたしたちはこのことを忘れることはできませんし、今もなお震災による苦しみや悲しみを携えて生きざるをえない方々がいらっしゃることを覚えたいと思います。
 また、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、神さまから託された世界を放射能によって汚しました。そして、原子力に頼る私たちの社会のあり方に、大きな問題があることを教えました。原発周辺の方々は避難を余儀なくされ、今もなお不安の中におかれています。
 私たちは、今もなお痛みと悲しみ、大きな不安の中にある方々を覚えつつ、3月11日を迎えたいと思います。私たちの内で、3月11日の出来事を風化させるることのないよう、むしろ思いを新たに迎える日としましょう。・・・
 2月26日(水)に「灰の水曜日」を迎え、レントへと導かれました。主の受難を思いつつ、主が人の苦難をその身におわれたことに、深く心を動かされたいと思います。そして、私たちも、苦難の中を歩む方々と共に在りたいと願います。”(No.816)

2020年 3月 1日

「神にゆだねて」

 ある先生からのご紹介で、フィリップ・パーハム著「神にゆだねて 回復のためのクリスチャンの瞑想」という祈りの本を知り、入手しました。この本の帯には「米国のアルコール依存症救済の会で採用されている回復までの12ステップから生まれた本! 回復のための祈りと歩み」とありました。この本の巻頭の「はしがき」にはこうありました。
 “「神にゆだねる」はアルコール依存症自助グループのスローガンの「悩まず神にゆだねよう」を簡潔にした表現です。・・・本書は回復中のクリスチャンのために書かれています。・・・キリストにある癒す神の力を信じているなら、そして嗜癖の原因についてのあなたの判断を「神にゆだねる」ことに意味を見い出すでしょう。
 本書は、神について書かれています。「神にゆだねる」とは、緊張からの解放、信頼への明け渡し、病気から安らぎに至る証言をしています。毎日与えられるのはキリストにあるくつろぎと平和です。・・・聖なる生活というのは聖徒であるという意味でなく、平安な状態である存在のことです。奮闘することをやめ、緊張を要する努力をやめ、高い力のイエス・キリストの腕にゆだねるときにそれは得られるのです。
 「神にゆだねる」ことはすべての平安や霊的経験への秘訣です。内と外で神にゆだねること、キリストの人間性を認めること、人間の神聖さを認めることは「神にゆだね、神に任せること」です。・・・神が神であることがわかるとき、私たちは神の癒しの愛を受け入れます。愛が流れるのに任せます。・・・自分の弱さを認め、神の力を受け入れます。・・・
 ゆだねて、コントロールできない私たちの無力さを認め、最初のステップを踏むとき・・・私たちは神の前にあって傷つきやすく、無防備であることを知り、神を受け入れることがいかに素晴らしく、恵まれたことであるかを学びます。・・・”(No.815)

2020年 2月 23日

「ひたすら前に」

 現在、火曜会で、私は「あなたのままで輝いて マザー・テレサが教えてくれたこと」という本から、マザー・テレサの言葉を一つずつ紹介しています。この本では、片柳弘史神父がマザーの言葉を説き明かされています。
 マザーの言葉の一つ、「わたしは、神様の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」という言葉があります。この言葉について、片柳神父が、カトリック教会の「心のともしび」運動の「心の糧」に最近寄せられた文章「ひたすら前に」を読みました。
 “マザー・テレサはよく、「わたしは、神様の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」と言っていた。
彼女の人生という一枚の素晴らしい絵は、彼女という鉛筆を使って、神様が描いたものだというのだ。彼女はただ、神のみ旨のままに線を描き続けたに過ぎない。
 そのように生きているとときに、「なぜこんな線を引くのだろう」と思うことがあるかもしれない。だが、神のみ旨のままに描いていれば間違いはない。いつか天国から神様と一緒に完成した絵を見るとき、わたしたちは全ての線が完璧に引かれていることに気づくだろう。
 そんな話をしていたとき、ある子がこんなことを言った。「わたしの絵の先生は、間違った線を引いてもすぐ消すなと言います。描き続けて、絵の一部にしてしまえばいいんだって」。その言葉を聞いてわたしは深く感動した。
 わたしたちはときに、神の思いを離れ、自分勝手に間違った線を引いてしまうことがある。だが、それでも諦めたり、自暴自棄になったりする必要はない。最後まで描き続ければ、神様はその間違った線さえ、美しい絵の一部にしてしまうことができる方なのだ。むしろ、その線が、絵に更なる深みを与えるかもしれない。子どもの言葉を聞いたとき、わたしはそう思ったのだ。・・・
 大切なのは、間違いを犯しても諦めないことだ。神のみ旨のままに、人生の絵を描き続けたい。”(No.814)

2020年 2月 16日

がん哲学カフェから学ぶこと

 教会堂をお借りして川口がん哲学カフェ「いずみ」を続け、先月の1月25日には、開所3周年記念講演会を開催しました。樋野興夫先生には開所記念講演会から4回連続、毎年講師としていらしてくださって、感謝でいっぱいです。
 これに先立ち、昨年12月、日本キリスト教団出版局より「教会でもがん哲学外来カフェを始めよう」(樋野興夫編著)が刊行されました。現在、日本全国に「がん哲学外来カフェ」が200ヶ所ほどあり、教会で開かれているカフェは約50ヶ所で、どんどん増えています。この本には、教会で開かれている各地のカフェの代表の方々の苦労や喜びや驚きなどがつづられています。わたしも書かせていただきました。
 この本の第1部「教会で、がん哲学外来を開くために、大切なこと」にカフェがどのように行われているのか、具体的に紹介されています。
 その中で、わたしが皆様に紹介したいのは、次の二つです。
①がん哲学外来カフェを安心、安全な場にするための約束
・自分の考えや価値観を押し付けません。
・相手の意見や考えを否定しないで聞きます。
・全員が話せるように、一人で長く話しません。
・強引な販売や勧誘はしません。
・カフェの外での交流は各自の自己責任で行います。
②対話のルール
・何を言ってもよい
・聞いたことを批判しない
・発言したいときは手をあげる
・参加者への質問は大歓迎
・沈黙の時は「考える時」
・ただ聞いているだけでもよい
 様々な苦しい思いを抱えている人が来られます。そのような人を受け入れ、寄り添うための心得です。教会でこそ、必要ではないでしょうか。(No.812)

2020年 2月 9日

再び、中村哲医師のこと

 アフガニスタンでNGO「ペシャワール会」の現地代表の中村哲医師が、銃撃によって亡くなられてから2月4日で2ヶ月が経ちました。中村さんの追悼の企画が各地で行われ、追悼記事もしばしば目にします。私は著書「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」を読了し感銘を受けました。アフガニスタンの沙漠地帯に、用水路を拓いていく苦闘の記録です。用水路、取水堰、堤防、貯水池等、建設工事の内容は理解しきれませんが、言わんとしていることは伝わります。水路を作っても、水が通らなければ意味がないのです。凄まじい自然の猛威の中で、何度も立ち止まり、研究し、取り組まれる中村さんの姿に頭が下がります。2010年の大洪水を経て、こう記されています。
 “いかに強く作るかよりも、いかに自然と折り合うか・・・自然の理を知るとは、人間の技術の過信を去ることから始まる。主役は人ではなく、大自然である。人はそのおこぼれに与かって慎ましい生を得ているに過ぎない。・・・この事態を前に、初めて骨身に染みて実感したのである。・・・こうして未曽有の大洪水は多くの教訓を残した。・・・どこか人間中心の未練を拭いきれず、河川を眺めてきた。河川の側から人里を見ることが徹底して求められたのだ。・・・自然は制御できない。恩恵は自然と和してこそ褒美として与えられる。うなだれるように、そう思った。・・・”
 「骨身に染みて」、「うなだれ」、振り出しに戻って、中村さんは研究を進め、改良工事を完成させました。2013年の夏。数度にわたって、2010年をさらに上回る洪水が襲ったとき、どの取水口も被害を免れ、「洪水にも渇水にも強い堰」は、多くの人の命を救いました。
 「はじめに」に中村さんはこう記しています。“現地三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。”アーメン。(No.811)

2020年 2月 2日

摂理の信仰に生きる

 創世記の学びは先週の祈祷会で第65回となり、そろそろ終わりが見えてきました。先週読みました創世記第45章はヨセフ物語のクライマックスで、懐かしい兄弟を前にして、ついに自分がヨセフであると身を明かすところです。祈祷会の学びでは、松野俊一先生の創世記講解説教を紹介しています。第45章の説教にこうありました。
 “・・・ここに示されているヨセフの信仰は、ひと口で言って「摂理信仰」であると言えます。ヨセフが過去における兄たちの仕打ちを恨んだりしない、その復讐を企んだりしないということの背後には、彼の摂理信仰があったことを思わされます。それは、恨み、つらみのかなたへ、恩讐の彼方へ人の心を飛躍させる信仰の力と言えます。・・・摂理には、神が前もって見ていてくださる、先を見通していてくださるという意味があることになります。・・・
 摂理という言葉には・・・神見たもう、神備えたもう、というこの二つの内容が同時に込められていることを考えさせられます。私たちはその理性をもってしては見極めることのできない、不思議な神の御手によって導かれながら、日々を過ごしていると言えます。・・・”
 摂理の信仰と言えば、ローマの信徒への手紙第8章28節が思い起こされます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神は先を見通しておられる、神が備えていてくださる、この神の摂理を信じる信仰です。キリストの教会に生きる私たちにとっては、神の備えとは、イエス・キリストの福音です。
 西川口教会の歩みにおいても、私たちの理性では見極められない神の御手の導きがあることを信じます。日々の歩みも、来週の教会総会・全体懇談会も、新しい年度も、この神の摂理を信じる信仰をもって臨みたいと思います。(No.810)

2020年 1月 26日

献身の喜び・救いの喜び

  本日は、今年度の日本基督教団埼玉地区講壇交換礼拝を三芳教会と実施しました。講壇交換礼拝を行うと、相手教会の牧師とお出会いし、お互いのために祈り合うことができますので、貴重な機会です。このたび、中山弘隆先生のプロフィールを拝見し、私が生まれる前から、教職として仕えてこられたことを知りました。中山先生が、なお現役で主と主の教会に仕えておられるのは、大きな励ましです。主の祝福を見るようです。
 さて、昨年牧師室で書類を整理中、思いがけず自分が洗礼を受けたときの証しが載っている月報を見つけました。何を書いたか記憶にはありませんでした。掲載されていたのは1982年1月10日発行の「西川口だより」第163号でした。
 “私が洗礼を受けようと決心したのは、去年の夏休みに参加したホーリネスの中高生聖会のことでした。・・・神様は、私たちのために、この世にイエス・キリストをつかわして下さり、罪人である私たちにも、恵みといつくしみを与えて下さいます。それを知らない人たちが、世の中にはたくさんいます。その人たちに、神様のことを知ってもらうのが、これからの私のキリスト者としての大切なことだと思います。・・・今、受験をひかえて日曜日など試験に重なってしまうこともあるので、その他の日曜日には必ず休まず礼拝に出席するようにします。信仰問答で・・・父なる神、子なるキリスト、聖霊である、三位一体の神様について、教会について、罪と赦しについて、などなど。今まで知らなかったことがわかって、もっともっと神様について知りたくなっています。・・・長い間教会に通って12年目のイエス様の誕生日に受洗できて、本当にうれしいです。”
 中学3年生の時の受洗の証しは気恥ずかしく感じますが、それでも、救いの喜びが伝わってきました。今日まで主からの喜びに生かされ、感謝でいっぱいです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8・10)。
(No.809)

2020年 1月 19日

鹿児島への旅

 神様に守られ、1月11日から14日までの鹿児島の出張の旅は、予定されていた奉仕を果たして、無事戻ることができました。皆様のお祈りを心から感謝いたします。
 今回鹿児島に参りましたのは、毎年成人の日に開催される「こころの友伝道南九州支部講習会」の講師として招かれたためでした。実は、昨年の講習会にお声をかけていただいたのですが、埼玉地区新年合同礼拝があるため、やむなくお断りをしました。再びお招きをいただき、伝道のためということで、今回は埼玉地区の方はお休みして、鹿児島に伺うことにしました。
 講習会は当日の朝から始めるため、遠方からの講師には早めに来ていただき、前日の主日礼拝説教も合わせて奉仕をする慣例となっているそうで、それもお引き受けしました。1月12日は今回の講習会の会場でもある日本基督教団鹿児島加治屋町教会で主日礼拝をささげました。鹿児島加治屋町教会は、1877年(明治10年)に米国メソジスト教会から派遣された宣教師によって伝道が始まり、翌年に教会が発足しました。1916年(大正5年)に敬愛幼稚園が創設されました。長い歴史を持ち、幼児教育を始め地域に仕えてきた鹿児島加治屋町教会の良き伝統を肌で感じました。教会の皆様は、説教をよく聴いてくださり、礼拝後の挨拶でも素直に応答してくださった方々が多く、とても励まされました。
 13日(月・祝)には、第30回こころの友伝道南九州支部講習会が開催され、鹿児島県内から9教会、47人(子供含む)の出席者があり、その熱意に感動しました。午前と午後と約1時間の講演を2回いたしました。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・39)の御言葉を念頭に、午前は「自分を愛するとはどういうことか」を共に考え、午後は「隣人を愛するとはどういうことか」を共に考え、特に「聞くという奉仕」についてお話させていただきました。(No.808)

2020年 1月 12日

「いい覚悟で生きる」

 いよいよ、川口がん哲学カフェいずみ開所3周年記念講演会が近づいて参りました。1月25日(土)午後1時30分から3時30分までです。会場は、西川口教会の礼拝堂です。講師は今回も樋野興夫先生(新渡戸稲造記念センター長、順天堂大学名誉教授、順天堂大学医学部病理・腫瘍学客員教授、一般社団法人がん哲学外来理事長)です。樋野先生は、2008年に「がん哲学外来」を開設。がんで不安を抱えた患者と医療の間にある「隙間」を埋める活動を続けています。
 この週報短文を書いている時点で、講演会の参加申込は約20人です。まだ席は空いています。ぜひご参加ください。また今回は講演会後、樋野先生との面談を受付けています。1組20分で2組までです。こちらも現時点でまだ申込がありませんので、樋野先生の「がん哲学外来」を希望する方は金田までお電話ください。
 今回の講演会のテーマは「いい覚悟で生きる―がん哲学外来の原点―」です。樋野先生の著書「いい覚悟で生きる」から言葉の処方箋「いい覚悟を持って生きる」をご紹介します。
 “がんや病気と向き合う「ふつうの覚悟」ではなく、自分の役割意識と使命感を持って生きる決意、それが「いい覚悟」です。・・・
「いい覚悟」とは、主人公は病気ではなく、あなた自身が人として成長していくために持つものです。・・・生きている限りは、人は役割と使命感を持っていると私は思います。そこでは、病気だから、がんだから、体が不自由だから、という言い訳は通じません。これまで人生に期待するばかりだったとしたら、これからの自分は人生から何を期待されているのかを、ぜひ謙虚な気持ちになって問うてみてください。
 それで苦しみが消えることはおそらくありません。病気という問題が解決されることもありません。けれども、苦難をとおしてこそ気づく、自分の役割意識と使命感があると思うのです。・・・”
(No.807)

2020年 1月 5日

成人祝福式によせて

 主の年2020年を迎えました。
 本日は、新年最初の主日礼拝です。わたしが来週鹿児島に出張する都合により、本日の主日礼拝で成人祝福式を行うことになりました。3人の成人の方をお迎えできて、大きな喜びです。
 若い世代の人へ、皆さまならどのような言葉を送りますか。教会生活の長い人であれば、若い人へ送る御言葉として、以前使用していた口語訳聖書の伝道の書第12章1節を思い起こすことでしょう。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」教会学校暗唱聖句の定番の聖句でした。
 新共同訳聖書では、書名が「コヘレトの言葉」となりました。第12章1節は、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」
 ちなみに、2018年12月に発行された聖書協会共同訳では同じ箇所が、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」と訳されました。
 この有名な聖句は、このように続きます。
「苦しみの日々が来ないうちに。
 『年を重ねることに喜びはない』と
 言う年齢にならないうちに。」(新共同訳 コヘレト12・1)
“若いうちに創造主を知れば、年を取って幸せになれる、とは書かれていません。「苦しみの日々が来ないうちに・・・」と記され、年を重ねる「闇」の恐怖をあおるような書き方がされています。・・・
 旧約時代の平均寿命は四十歳に満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られているのです。二十歳になった若者の平均余命が六〇年、七〇年という現代とは全く意味が違います。終わりまでの時間はわずかです。その終わりを前にして、今この時を創造主から与えられた掛け替えのない賜物として受け止めなさい。こうした呼びかけが、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という言葉に込められているのだと思います。・・・”(小友 聡著「コヘレトの言葉を読もう」より)
(No.806)



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日本基督教団 西川口教会 332-0035 川口市西青木1-25-21
TEL 048-252-7036 FAX 048-258-6630
http://church.jp/nishikawaguchi (←このアドレスでもOKです)