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週報短文

教会員向けなので、わかりにくい表現もあるかと思いますが、どうぞお読みください(金田佐久子)。

2018年 7月 15日

アシュラムと研修の恵み

 7月7日・8日と、第43回西川口教会アシュラムが開催されました。コロサイの信徒への手紙がテキストでした。講師の西海満希子先生の、力強いみ言葉の説き明かしをいただき、励まされました。御言葉に静かに耳を傾け、豊かに養われました。また1年、新しく互いのために祈り合います。西海先生は、もう1年、アシュラムの参加者のため、西川口教会のため、毎朝お祈りしてくださいます。まことに感謝です。
 アシュラムの静聴の時、伝道者、牧会者である使徒パウロの教会に対する熱い思いが感じられるところに、特にわたしの心が動かされるように思いました。御言葉を分かち合います。
 「この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです」(コロサイ2・19)。西海先生の説教で、「コロサイの信徒への手紙の主題は『教会の頭はキリスト』です」と語られました。この頭にしっかりと結ばれているとき、キリストの体である教会が育まれ、成長させていただけます。「頭にしっかりと結ばれる」とは、使徒パウロがフィリピの信徒への手紙で書いているように「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」(フィリピ3・12)との信仰にとどまることだと思います。自分の頑張りではありません。
 「神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。・・・時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」(コロサイ4・3、5~6)。「塩で味付けされた言葉とはどういうことか」と、問いながら、追い求めます。
先週の7月10日、大宮教会で埼玉地区教師一日研修会が開催され、参加しました。主題は「牧会」でした。3人の牧師の発題とグループディスカッションは、体験からの率直な発言が多く、とても有益でした。教会を形成する伝道、牧会のあり方を学びました。感謝です。(No.730)

2018年 7月 8日

礼拝の本質

 2016年6月から始まった佐々木家家庭集会は、先週の7月3日で第13回目となりました。「人生を導く5つの目的―自分らしく生きるための40章」(リック・ウォレン著)をテキストとして、信仰に生きるとはどういうことか、語り合っています。知識を増やすことよりも、テキストが語っていることと、今の自分の信仰とがどういう関係にあるのかを考えます。実際の信仰生活の利益となるように願って、急がず、確実に、時に立ち止まって、という感じで進めています。何よりも、「こうして今日、顔と顔を合わせて、神様のお話を聞けた。それこそが恵み」と感謝して、毎回を過ごしています。
 この本では、各章の最初の文章がその章のテーマとして提示され、テーマを説き明かしていく流れになっています。
 先週の家庭集会では、第10日目「礼拝の本質」を途中まで読みました。「礼拝の本質は降伏にあります」と語られ、このように続きます。
 「…神に降伏することは礼拝の本質です。それは神の驚くべき愛と憐れみに対する自然な応答です。私たちは、恐れや義務感からではなく、『神がまず最初に私たちを愛してくださった』ので、自分自身を神にささげるのです。・・・
 私たちが神に降伏するのを妨げるものが三つあります。それは、恐れ、プライド、そして混乱です。私たちは神がどれほど私たちを愛してくださっているのかが分からず、自分で自分の人生をコントロールしたいという欲求に駆られます。・・・
 しかし、神に降伏するということは自由になることであって、決して虜(とりこ)になることではありません。私たちが自ら進んで主イエスに明け渡す時、私たちは神が圧制者ではなく救い主であること、上司ではなく兄弟であること、そして独裁者ではなく友であることを見出すのです」。
 昨日から教会アシュラムを過ごしています。礼拝と祈りの中で、主の愛を受けとって、主に自らをささげることができますように。
(No.729)

2018年 7月 1日

恵みを受け継いで

 先週は、第35回女性教職神学研究会に出席しました。わたしがこの研究会に出席したのは、大宮教会で開催されるようになってからで、今年で3回目です。
 懇談の時間に、この研究会の経緯を伺いました。「女性教職神学研究」第30号(2014年6月)に経緯について記録があります。この研究会の発端は、日本基督教団教会婦人会連合の婦人教職問題研究委員会の委員であった女性教職数名が、自分たちで学び合おうとの志を与えられたことにあります。教会婦人会連合が日本の女性教職の歴史を記録「豊かな恵みへ」(山本菊子編)としてまとめたとき、日本での最初の女性牧師の按手礼が1933年12月5日の日本基督教会大会(富士見町教会)において行われたこと、高橋久野牧師が按手を受けたことが明らかになりました。「1983年12月5日、東京の銀座教会に全国から女性の牧師が集まった。その日が女性教職の先輩の高橋久野が按手を受けてからちょうど50年であることを記念する集会をという10名ほどの呼び掛け人によってなされたのに応えて、70余名がこれに参加したのであった」(「豊かな恵みへ」137ページ)。その次の年に、「女性教職神学研究会」第1回が開催され、毎年集まることとなりました。35年前の発足当時は女性教職はまだまだ数少なく、教会に男女の偏見がないとは言えない状況でした。女性だけの神学研究会が必要でなくなるまでは、研究会が続けていけるようにとの願いがありました。しかし近年は、中心になって研究会を担って来られた女性教職の先生方が隠退され、神の御許に召されたとのことです。
 埼玉地区は、女性教職(この言い方も不自然ではありますが)が主任牧師の教会がいくつもあり心強く思っています。そのような状況になるまでは、先輩の女性教職の牧師たちの苦闘、忍耐、励まし合いがあったことを思います。牧師へと召しだしてくださった神の恵みを受け継いで今があることを感謝しました。
(No.728)

2018年 6月 24日

生が誘惑となること

 先日、説教の黙想のために、竹森満佐一師の説教を読んでいたところ、非常に考えさせられる文章に出会いました。それは、人が生きることそのものが、神から離れさせる力となりうる、という指摘です。ご紹介します。
“死も生も、・・・その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。(ローマ8・38~39、口語訳)
 パウロが最後に挙げた、キリストの愛に抵抗する力があります。・・・
 生はなぜ、われわれを脅かすのでしょうか。生の場合は、死がすべてのものを脅かし、灰色に塗りつぶしてしまうのに対して、生は、あらゆるものに希望があるかのように思わせるのではないでしょうか。命がありさえすれば、何とかなる、死んではすべておしまいだというのですが、それは死が恐ろしいからだけではなくて、生がたくみに多くの喜びを生み出すことを、示しているのであります。それらのものはみな、死の前には消え去るかもしれませんが、それがある限りは、人間の生活は喜びがあるように思われるのであります。しかも、その喜びは、信仰の喜びにまさるようにさえ、思われることがしばしばあるのであります。そこで、生はキリストの愛から、われわれを引き離しうる力を持つと考えられるのであります。
 しかし、生が造り出すものは、どんな魅力のあるものでも、力強く見えるものでも、死の前には、皆無力であることは、前に申したとおりであります。・・・”
 死も、キリストの愛には勝つことはできません。「最後の敵として、死が滅ぼされます」(コリント一15・26)。地上を生きる限り、誘惑との戦いは避けられません。生も誘惑となるのです。だからキリストの愛を信じて生きるのです。キリストの愛を受けとるのは祈りによってです。その祈りに生きるための訓練が教会アシュラムです。キリストの愛によって、戦いに勝利するのです。(No.727)

2018年 6月 17日

絶えず変化する時代の中で

 今わたしは、隔月で、草加キングスガーデン(以下、KG)と川口KGの礼拝の奉仕をしています。草加KGも川口KGも、毎日、礼拝をささげています。近隣の諸教会から牧師たちが交代で礼拝の奉仕をしています。
 それぞれの施設で、以前、西川口教会員や教会員のご家族が入所していたことがありました。そのつながりを大切にしたいと思い、2012年7月から礼拝の奉仕を始めました。早いもので丸6年となりました。少しずつ、知っている人も増えてきました。礼拝奉仕を終えると、月報「西川口だより」をお渡ししています。月報を楽しみにしてくださる方もおられ、うれしく思っています。

 いつもは草加KGでの礼拝を終えると、すぐに川口KGに移動しますので、草加KGの礼拝参加者と話す機会はありません。草加KGのボランティア担当の方から依頼があり、一昨年から年に一度、草加KGの礼拝の後、草加KGケアハウスに入所されている方々のうち10数人と、約1時間「交わりカフェ」という時を過ごすようになりました。「地域交流スペース」というカフェのような居心地のよい場所があり、そこで行われています。6月11日、わたしにとって3回目の交わりカフェがありました。救いの証、献身の証、関心のあることなどお話しして、参加者の方々から質問などを受けます。
 先日の交わりカフェではこのような問いを投げかけられました。「自分たち高齢者にとって、この時代の変化はあまりに速く大きくて、ついて行けない。若い人たちの使う言葉はカタカナが多くて理解できない。先生は、どう思い、どう考えますか」。「子供たちや若者の伝道はどうしていますか」。どちらも元牧師の先生からの問いで、まことに真剣な、安易には答えられない問いかけでした。今はどのような時代なのか、絶えず変化していく時代の中で、揺るがない福音を、誰に、どのように伝えていくか、常に問われています。(No.726)

2018年 6月 10日

「麦の会」を知ってください

 本日は、祈り待ち望んでいた特別礼拝と講演会です。「麦の会」のメンバーの方々がいらしてくださいました。特別礼拝の説教者ジュリアーノ・デルペーロ師は、聖ペトロ・パウロ労働宣教会の修道士でいらっしゃいます。配付された資料に基づいて「麦の会」を紹介させていただきます。
 「被拘禁者更生支援ネットワーク麦の会」は、現在この聖ペトロ・パウロ労働宣教会に事務局を置いています。「麦の会」は1980年、死刑廃止を目的に拘置所の中の5人の未決死刑囚の人たちによって結成されました。名前はヨハネ福音書第12章24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」からとられました。会員一人ひとりが自己犠牲の精神で自ら不利となってでも死刑廃止のための一粒の麦となるという目的をもって命名されました。
 「麦の会」の活動は、死刑問題に加え、更生を目指す方の支援、人間の尊厳や更生を阻害するような行き過ぎた処遇の改善を求めることなどを目的とし、麦の会通信『和解』(年三回)を発行しています。獄外者に広くご協力を求め、死刑囚の心を支え、獄中者の真の更生の支えとなるような文通を継続的に行い、一人一人との人格的なつながりを育む根を張った活動をしています。
 麦の会では文通者を募集しております。あたりまえの感情をあたりまえに表現できる、受け止めてくれる誰かがいる。それこそが更生への第一歩です。受刑者たちの心の声にどうか耳を傾けてみてください。理解してくれる人がいたら、もしかしたらその犯罪は防げたかもしれません。手紙は閉ざされた彼らの心の扉を少しだけ開いてくれるかもしれません。(以上、資料より)
 「さあ・・・天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちはわたしが、・・・牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25・34~36)。 (No.725)

2018年 6月 3日

教会は何をするか

 2018年度も、原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けています。
 4月から、日本基督教団信仰告白の前半部の第4段落に入りました。教会についての信仰を告白している箇所です。
 教会は主イエス・キリストの体であり、神の恵みによって選ばれた者たちの集まりです。ここでの「教会」とは教会堂ではなくて、信徒の群れである信仰共同体です。言い換えれば、洗礼を受けてキリストのものになったわたしたちです。
 その主キリストの体である教会(わたしたち)は何をするのか。そのあとに続く日本基督教団信仰告白の言葉がそれを述べています。すなわち、「公の礼拝を守る」、「福音を正しく宣べ伝える」、「洗礼と聖餐を執行する」、「愛の業に生きる」、「主の再臨を待ち望む」ことです。これらのためにこそ教会は地上に置かれています。わたしたちは、キリストの体である教会のなすべき業を担い、果たしていくために、神に招かれ、選ばれたのです。
 「公の礼拝を守る」とは、教会の存在自体が、世にあって公の存在であるということ。英語で言うと、プライベート(私的)ではなく、パブリック(公)であるということです。礼拝は公的な行為です。説教を始め、語られる言葉も公的な言葉であることが求められます。そのようにして、教会は社会的責任を負う存在とされています。

 この公の礼拝において、福音が正しく説教され、洗礼と聖餐の聖礼典が執行されます。主日礼拝は教会活動の中心です。それをきちんとふまえたところで、福音の宣教と聖礼典の執行は、わたしたちが遣わされたところにおいてもなされます。
 先月の5月25日にMさんの病床洗礼式を執行しました。二日後の27日に病床聖餐を執行しました。その病床において、福音の言葉が語られ、聞かれました。病床において、洗礼と聖餐が執り行われました。まことに思いがけないこと、それだけに、人の思いを越えた神の恵みの選びであることをひしひしと感じました。(No.724)

2018年 5月 27日

第68回関東教区総会

 5月23日から24日まで関東教区総会が開催されました。
 開会礼拝では、佐野教会(栃木地区)の石川榮一牧師が説教をされました。礼拝の後、組織会があり、教区総会開会宣言がなされました。仮執行順序が承認され、議事が進められました。来賓の紹介、新任教師の紹介、隠退教師の紹介、関東教区で25年仕えた教師の感謝の時が持たれました。
 午後の冒頭は、按手礼式と准允式が執り行われました。坂口慶行師(水戸自由ヶ丘教会)が按手を受けられ、大久保一秋師(飯能教会)、佐藤繁師(菖蒲教会)、高橋真之師(大宮教会)、平向倫道師(東中通教会)、山野心師(下館教会)、渡邊典子師(所沢武蔵野教会)の6人が准允を受けられました。

 今年の秋に開催される教団総会議員選挙が重要議案ですが、それに先立ち議案第20号「教団総会選挙に関する件」が上程されました。教師・信徒共に14名を選出するところを、全数連記ではなく、教師・信徒共半数の7名連記するというものです。こちらの審議が先になされ、無記名投票により、反対が過半数を超えたので、この議案は否決されました。全数連記で第1回選挙(予備)が行われました。午後5時からは、西川重則氏による学習会が行われました。今年から分科会がなくなり、夕食後も議事を進めました。
 2日目は、最初に福島純雄副議長の司式で逝去者追悼礼拝が行われました。その後、昨日行われた選挙の結果では、信徒・教師とも28人が選ばれ、第2回目の選挙(本選)が行われました。その後、九州教区から来られた副議長の日下部遣志牧師が挨拶をされ、続いて教団問安使の雲然俊美教団書記の挨拶と質疑がなされました。
 議事に入り、昨日から続いていた議長報告は、報告文の一部を削除し、承認されました。教団総会議員選挙結果が報告されました。時間が押していたので一部の議案は常置委員会付託となりました。最後に福島純雄副議長の祈りをもって関東教区総会が無事終了しました。(No.723)

2018年 5月 20日

聖霊に生かされる人間

 報告が遅くなりましたが、皆様のお祈りに支えられて、5月7日から10日まで、片道1時間のドライブの通い参加で、説教塾の東京セミナーに出席できました。東京、埼玉、神奈川のほか、タイのバンコクから、また沖縄から、関西、金沢、群馬から、18人の参加者が、加藤常昭先生のご指導のもと、説教黙想から作成、説教演習と説教批評まで、共同の学びをいたしました。
 加藤先生は、先月入院して心臓のカテーテル手術を受けた後にもかかわらず、御自分の黙想と、釈義資料、さらにドイツ語の説教黙想の翻訳と、26ページもの資料を作成してくださいました。また、説教演習と説教批評を一人でも多くできるように、3日目の夜の終わりの時間を10時まで延長しようと加藤先生がおっしゃって、その情熱に頭が下がりました。命を削るようにご指導され、これが最後になるかもしれないとの思いの中、真剣な学びの時を過ごしました。
 今までの説教塾の学びで加藤先生が話され、書物にもお書きになり、今回のセミナーでも触れておられましたが、「der Geistliche」というドイツ語があります。牧師、説教者のことを指しますが、意味は「霊に生きるひと」「聖霊に生かされる人間」です。けれども、今日ではあまり用いられなくなってきているそうです。それは、説教者が聖霊によって生かされるということについて確信が無くなっているからではないか、という問いがあります。日本の牧師たちも他人事ではありません。牧師の説教がただのお務めにすぎなくなってしまったら、教会は倒れてしまいます。説教によって、教会は立ちもし、倒れもすると言われます。そのことは分かっているのですが、自己吟味にも限界があります。ですから、こうしたセミナーに参加して、信頼関係の中で説教批評をいただけるのは、本当に貴重な機会です。参加者全員はできないので、くじで説教演習者を決めましたが、見事にくじに当たりました。尊い学びを感謝しています。
 加藤先生の体調のためにもお祈りください。(No.722)

2018年 5月 13日

神に呼ばれたいのちを生きる

 今日は母の日。また午後には、春日部墓苑で墓前礼拝をささげます。人は関係の中で生きていることを改めて思います。先週の週報短文に引き続き、5月3日の「関東こころの友伝道講習会」の深井智明先生の講演のお言葉を分かち合いたいと思います。改革者ルターが「全信徒祭司性」に関わる大切なこととして「召命」(ドイツ語で「ベルーフ」)を大切にしたことを語られました。
 講演②より  召命(ベルーフ)というのは神さまに呼ばれていること。ルーフは「呼ぶ」という意味。ドイツ語では「職業」という意味でもある。ベルーフというのはとても広い概念で、わたしたちに命や人生をくださった神様がわたしたちを呼び出す時、それをベルーフという。
ルターが生きていた時代のベルーフは、王、貴族 聖職者であった。「あの人たちは神に特別に召されているから」と特別視している言葉であった。しかし、ルターは、パン屋さんも農家も教師も、あらゆる人にベルーフがあると言った。これが「全信徒祭司性」で言いたかった重要な点。皆がそれぞれの仕事に召されている。この仕事は、偶然ではなくて、神が「あなたにしかできないから」と言って与えられたもの。すべてをご存知の神が一人ひとりに、ベルーフを与えてくださっている。これがルターの考え。
 ルターはこんなことも言っている。それは仕事だけではない。あなたがこの人と結婚すること、きょうだいになる、親になる。これもベルーフ。あなたにしかありえないから、あなたはこの人と結婚した。子供が与えられる。この子の親はあなたしかありえないから、あなたはこの子の親なのだ。神は、仕事だけではなく、関係も使命もくださっている。近頃、自分の子供をどう育てていいのかわからない、家庭をどう考えていいかわからないということがある。ルターの答えは、この家族は、この家庭は、あなたでなければならない使命が与えられている、というものである。(No.721)

2018年 5月 6日

「伝道の喜び」

 2018年5月3日に、第46回「関東こころの友伝道講習会」が開催され、西川口教会からは8人が参加しました。会場は日本基督教団新宿西教会(新宿区歌舞伎町)でした。講師は、深井智朗(ふかい・ともあき)先生(東洋英和女学院院長)。「伝道の喜び―私たちが救われたこと、私たちが伝えたいこと」(コリント一15・1~11)」の主題のもと、2回の講演を伺いました。ごく一部ですが、心に残ったことをご紹介します。
 講演①より。 聖書を読み直してみた。弟子たちの姿を見て気がつくことは、失敗談ばかり。ペトロは主イエスに「サタンよ、引き下がれ」と言われた。また主イエスを三度も知らないと言ってしまう。パウロはキリスト教徒を迫害したという過去を持っている。弟子たちは、伝道していく間に、ケンカしたり、裏切ったりということがたくさん出てくる。伝道の破れ、人間の破れの話である。気づいたことがある。「これが伝道説教だったのではないか」。わたしは昔このような人間で、こんな失敗をした。しかし今は、イエス・キリストに出会い、救われ、生きる喜び、力をいただいている。だから弟子たちは過去を語れた。過去を乗り越えたということ。これが最初の伝道説教だったのではないか。救われた喜びの確かさを語る。われわれの伝道はそこが出発点ではないか。

 講演②より。 マタイ福音書第25章14節以下のたとえばなしの「1タラントン」は、あえて言えば「1兆円」で、要するに「使えきれないほど」という意味。それほどの才能を既に与えられている。そんなに持っていると自分は気づいていない。大事なのは、タラントンに気づき、用いること。神の前に出ることによって、日々新たに自分を発見していく。伝道者の訓練はそれだと思う。神が既に与えてくださっているのに気づいていないタラントンを見つけること。それが礼拝の時であり、聖書を読み祈る時である。神という鏡の前に出る。そこで真実のわたしを見つける。神はわたし以上にわたしをご存知の方である。(No.720)

2018年 4月 29日

教会はキリストの体

 2018年度も、原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けます。共に、教会の信仰の筋道を理解し、それによって、キリストの教会を建て上げていきましょう。
 日本基督教団信仰告白の構成について、もう一度書いておきます。「我らは信じかつ告白す」と宣言し、その次に四つの段落があります。ここまでがこの信仰告白の前半部です。次いで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べ、「使徒信条」が導入されます。これが後半部となります。
 前半部の第1段落は「聖書は神の言葉」、第2段落は「三位一体の神、キリストの受肉と贖いを信じる信仰」、第3段落は「恵みの選び、信仰義認、聖化についての信仰」、第4段落は「教会についての信仰」を告白しています。
 本日の礼拝から第4段落に入ります。
 「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」
 日本基督教団宣教研究所編の「信仰の手引き 日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ」には、教会についてこういう問答があります。
“問70 「キリストの体」とは何ですか。
 答え 「キリストは教会の頭であり、一人一人はその部分である」と言われています。ですから、教会は単なる人間の集まりではなく、まず何よりも、聖霊によって生まれ、形づくられたものです。それは、すでに天に昇られたイエス・キリストが、霊においてこの地上に現臨し、形づくっておられる体です。このキリストの体は信仰によって捉えられるものなので「見えない教会」とも呼ばれます。” 教会は「キリストの体」とは平易な表現でありながら、奥深い内容を含んでいます。教会を理解できますよう、聖霊の助けを祈ります。(No.719)

2018年 4月 22日

神とその恵みの言葉にゆだねて

 先週4月15日の主日礼拝に、西川口教会の初代牧師の横山義孝先生がおいでになり、共に礼拝をささげました。91歳の高齢にもかかわらず、お一人で電車を乗り継いで、西川口教会に来られました。礼拝では、横山先生の力強い賛美の声に一同驚きました。横山先生は、どの集会でも常に一番前の席にお座りになりますが、この礼拝でも同じで、ただひたすら主を慕い求めて礼拝をささげるお姿に感銘を受けました。礼拝の報告の時に横山先生からご挨拶がありました。このたび横山先生は自分史「恩寵溢れる歩み ―70年の伝道の恵み―」を出版されました。西川口教会員に贈呈してくださるとのことで、感謝して頂戴いたしました。礼拝後の愛餐会も、主にある交わりの喜ばしいときとなりました。横山先生の存在が神の祝福のしるしであると思いました。
 横山先生の御本を読みながら、使徒パウロの言葉が思い出されました。
「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒20・31~32)。
 これはパウロがエフェソ教会の長老に告げた勧告の言葉です。このパウロと横山先生が重なるようでした。御本をいただいて「目を覚まして生きるように」と、励ましをいただいた思いがします。御本を通して、溢れる恩寵に生かしてくださった神を証しておられます。
 横山先生が開拓伝道を始められたのが1950年4月です。今年68周年を迎えました。本日は教会総会があります。思いを新たにして、わたしたちを造り上げ、聖徒として共に恵みを受け継がせてくださる神の言葉にゆだねて、また神の言葉に立つ教会として、歩んでまいりましょう。(No.718)

2018年 4月 15日

熊本大分地震から2年

 2018年4月16日には、熊本・大分地震発生から2年となります。関東教区総会議長の東野尚志先生(聖学院教会牧師)と、関東教区災害対応支援委員会の飯塚拓也先生(竜ヶ崎教会牧師)の連名で、関東教区諸教会・伝道所に向けて、「熊本・大分地震から2年 4月16日を迎えるにあたって」と題してのメッセージが届きました。またこのメッセージに添えて、九州教区総会議長梅崎浩二先生から「九州教区より、関東教区の皆様へ」と題して、再建復興の現状報告と支援のお願いのメッセージが届きました。

 これらは掲示板に掲示してありますが、かいつまんでメッセージをお伝えします。
 被災地においては、仮設住宅へと被災者の生活の場は移りましたが、まだ復興にもたどり着けない多くの人々がおられます。
 日本基督教団九州教区は、在日大韓基督教会と連携して、ボランティアセンター・エルピス熊本を設立して、仮設住宅での生活支援に取り組んでくださっています。
 日本基督教団九州教区では、15の教会に建物被害がありました。そのなかで、再建・補修が完了したのは8教会、再建・補修の途上にあるのが2教会、再建・補修の目途が立たない教会が5教会あります。
 4月16日を迎えるにあたり、被災地・被災教会に思いを寄せ、祈りを共にしていただきたく、被災の出来事を風化させることのないように祈りましょう。4月15日の各教会の礼拝において、熊本・大分地震からの復興を覚え祈ってくださるようお願いいたします。
 関東教区は、第67回関東教区総会において、日本基督教団が取り組んでいる「熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金」(目標額1億8千万円)に対して、関東教区として総額2千万円を目標に取り組むことを可決しました。現在は、その目標額の半分まで達成しています。引き続きお祈りとお支えをよろしくお願いいたします。(No.717)

2018年 4月 8日

聖霊による愛と赦しの教会

 2018年度が始まりました。4月22日の教会総会の議案書は、来週15日に皆様の週報ボックスに入れますが、ここで教会の活動方針案から、主題についてお伝えしておきたいと思います。
 西川口教会は6つの目標を掲げています。これは変わりません。
「1.主日礼拝を重んじる教会へ」、「2.聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)」、「3.各自の賜物がよく活かされる教会へ」、「4.次世代への信仰の継承」、「5.受けるより与える教会へ」、「6.地域に奉仕する教会へ」。
 そして、2018年の西川口教会の御言葉は、「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙第3章14節)。教会は主の愛の共同体です。もしも、どんなに立派な先生をお招きして特別集会をしても、いろいろな行事が無事に終わったとしても、教会の中に、祈り合い、赦し合い、支え合い、助け合う愛がなければ、どうなのでしょう。「愛がなければ、無に等しい」(コリント一13・2)。互いに陰口を言ったり、差別や排除や自己主張や争いがあったりしたら、それは主を悲しませ、主の名を汚し、互いを傷つけ、人々を教会から遠ざけることになります。主の愛で愛し合う愛の共同体であることが、宣教につながるのです。主の愛こそが、すべてを完成させて、わたしたちを結び合わせてくださるきずなだからです。
 そのことを心に留め、2018年度の教会の主題を「一人ひとりが祈る人―聖霊による愛と赦しの教会―」と提案しました。「一人ひとりが祈る人」これは昨年度と同じです。副題を変えました。祈りの中で、聖霊から注がれる愛に満たされて、互いに愛し合い、赦し合う教会に、共に生かされますように。一人ひとりが、神にどこまでも愛され、どこまでも赦されている喜びに生きられるように。その愛に押し出されて赦し合い、愛の業に生かされるように。主を待ち望みます。(No.716)

2018年 4月 1日

復活を信じるとは

 主の復活ハレルヤ! 主イエスは復活されました。教会は復活信仰に生きています。
 使徒言行録第26章に、使徒パウロがアグリッパ王に対して弁明している記事があります。パウロはこう語っています。
「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。・・・つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」(8節、23節)
 神が死者を復活させてくださるとはとても信じられない、と人は言うでしょう。けれどもパウロは、そうではなくて、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたは、どうして、信じようとしないのだ」と言っているのです。
 考えてみますと、これほど信じたいことはないのではないでしょうか。もし自分が死んでも、なお復活できるならば。それならば、信じればいいではないですかと、パウロは言うのです。なぜ信じようとしないのだ、と言っているのです。
 使徒パウロは、死者の復活を信じなければ、人生はすべて空しくなると語っています。復活の信仰は、現実的なことであり、日々の生活に非常に関わりのあることなのです。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(コリント一15・32)。つまり、「どうせ何十年かの命なので、それから先は、もう真っ暗闇なんだから、まぁ、なるべく楽しんで生きよう」と言うのでしょうか。それとも「どんなことがあっても、わたしにはこの復活の希望がある。この希望によって生きていくのだ」と言うのでしょうか。主の復活の出来事は、あなたはどちらを選ぶのですか、と問うているのです。
 主イエスの復活は、すべての人の希望です。この希望に共に生かしていただきましょう。
(参考 竹森満佐一説教集「わが主よ、わが神よ」)(No.715) 

2018年 3月 25日

「ネガティブ・ケイパビリティ」

 最近「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(朝日選書)を読みました。精神障害者支援事業を行うNPO法人を運営している信仰の友が紹介してくれた本です。著者の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏は、小説家であり、臨床40年の精神科医。初めて聞く「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉と、副題の「答えの出ない事態に耐える力」に興味を持ちました。
この本の「はじめに」の章にこうあります。
“・・・私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
 ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。・・・
 私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。
 だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです。私自身、この能力を知って以来・・・随分楽になりました。いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています。・・・”
 この本を読みながら、わたしはどうだろうかと問われる思いがしました。
 本日から受難週に入ります。ひたすら十字架へ向かわれた主イエスを思い起こすときです。主イエスは弟子たちに裏切られました。イエスをねたんでいた人たちの企みによって、主は不当な裁判で死刑の判決を受けました。十字架の上で「わが神、わが神」と祈り叫びましたが、父なる神は沈黙しておられました。不条理の極みの十字架刑を、主イエスは耐え抜いてくださいました。(No.714)

2018年 3月 18日

嘆き、泣く声を聞いてくださる方

 日本基督教団出版局発行の雑誌「信徒の友」に「日毎の糧」が掲載され、この聖書日課に従って、朝ごとに聖書を読み、お祈りしています。最近の聖書個所は旧約聖書のエレミヤ書が続いています。神の憐れみの御言葉に聴き、驚き、心揺さぶられるような思いがしています。時々お伝えしているように、日課の聖書を読んでから、分かち合いメールを配信しています。3月15日の聖書個所は、エレミヤ書第31章15節から22節まででした。分かち合いメールには、このように書きました。

“主はこう言われる。
 ラマで声が聞こえる
 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
 ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
 彼女は慰めを拒む
 息子たちはもういないのだから。
 主はこう言われる。
 泣きやむがよい。
 目から涙をぬぐいなさい。
 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。エレミヤ31・15~16)
 
 あまりの苦悩に、慰めを拒否する人の心を、神はご存知です。その苦悩を癒し、苦悩から解き放ち、回復させてくださる神。教会に生きる者にとっては、主イエス・キリストがおられるから、主の言葉の確かさを信じます。十字架の死に至るまで苦悩しつくされた方。死に勝ち、死を死なせ、よみがえられた方が希望そのものです。”

 最近、思いがけず、苦悩のために呻くほかないような方々との出会いが続いていました。ですから、主なる神が「苦悩に満ちて嘆き、泣く声が聞こえる」とのエレミヤ書の御言葉に「主が聞いておられるのだ」と、勇気を与えられました。まことに主なる神は「苦しみは報いられる」と言ってくださるのだと、改めて確信しました。苦しみは苦しみで終わらず、涙がぬぐわれるときが来る。主から希望を受け取りました。(No.713)

2018年 3月 11日

3月11日を迎えるにあたって

 本日は、東日本大震災からちょうど7年となります。東野尚志関東教区総会議長(聖学院教会牧師)のメッセージを掲載します。

「2018年3月7日(水)

関東教区 諸教会・伝道所・関係学校・団体の皆様へ

 2018年3月11日を迎えるにあたって

 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。(エレミヤ書33章16節)

 主のみ名を賛美いたします。

 レントの日々を歩み、主のご受難の道をたどる私たちです。
 さて、来る3月11日(日)に、「東日本大震災」発生から7年を迎えようとしています。この7年の間に再建の取り組みが進められていますが、しかしなお大津波の被害によって失われた尊いいのちへの悲しみと喪失の思いは消えることはありません。そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染の被害は、福島の地に深刻な影響を及ぼしたままです。
 また、「東日本大震災」発生以降も大規模な自然災害が連続し、2015 年9月9日から11日にかけて発生した「関東・東北豪雨」や、2016年4月14日に発生した「熊本地震」、2017 年7月5日から6日にかけて発生した「九州北部豪雨」による被災は各地に大きな被害をもたらしています。
 関東教区では、「東日本大震災」による被災の支援として、被災教会の会堂再建を中心に取り組んできました。また、東北教区被災者支援センターエマオへのボランティア派遣に取り組み、大津波によって大きな被災を受けた方々や被災地への支援に携わることを許されてきました。そして、関東教区内の被災教会や関連施設、アジア学院の再建にほぼ区切りをつけることができましたので、2018年3月11日を迎えるにあたっては教区として記念礼拝の開催や共同の祈り作成は行わないこととなりました。
 しかし、来る3月11日の主日礼拝においては、諸教会・伝道所におかれましてはぜひ覚え祈っていただきたくお願い申し上げます。
 このために、奥羽教区から「東日本大震災7年を覚えての礼拝」式文と、東北教区から「3・11わたしたちの祈り」をいただきましたので、「関東教区ホームページ」にて紹介しています。ぜひご覧くださって、被災の地に思いをはせながら、お祈りください。
 現在、日本基督教団では、「熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金 」を1億8千万円を目標に取り組んでおり、関東教区ではその内2千万円をささげることを先の第67回教区総会で可決しました。この献金の推進が、私たちの大きな課題です。諸教会・伝道所におかれては今までも覚え祈り、ささげてくださっていますことを感謝いたしますと共に、引き続き募金が目標に達するようご協力いただけますようお願い申し上げます。
 レントを経て、4月1日は主の復活の喜びを迎えます。そのような中で、関東教区諸教会・伝道所の皆様が、主の復活の希望のうちに歩むことができますようお祈りいたします。

日本基督教団関東教区 総会議長 東野尚志
      災害対応支援委員会 飯塚拓也 」
(No.712)

2018年 3月 4日

神は十字架の上に

 今年のレント(受難節)は2月14日から始まりました。復活日(イースター)の前の、日曜日を除く40日間がレントとなります。主の苦難と十字架の出来事に思いをはせて過ごしています。
 昨年の2017年はルターの改革から500年の記念の年でした。ルターの生涯や改革の出来事などを改めて知ることができました。ルターは「受難の中に隠された神」を語りました。十字架の中に神が隠されているというのです。
 この世には不条理なこと、答えのないこと、助けのないことがあります。戦争や内戦が絶えず、難民を生み出しているこの世界。米国の銃乱射事件は寒々とした思いになり、心が痛みました。この国では若い世代の人たちが「死にたい」「消えたい」とつぶやく投稿がSNS(ソーシャルネットワークサービス)上にあふれています。不慮の事故や突然の災害に見舞われることがあります。そのとき、神はどこにおられたのでしょうか。
 神の十字架の中に隠されている、これがルターの答えでした。ルターは、キリストを本当に理解するためには、栄光に輝いている姿ではなくて、逆に十字架の上で苦しんでいる姿を通して、理解しなければいけないというのです。キリストが十字架の上で苦しんでいるということは、神が人間の罪を背負い、そのことによって人間の罪が赦されたということです。それは、むしろ十字架上で苦しむという姿で、神があらわれているのである。隠されてはおらず、恵みの神があらわれて、神の救いが啓示されている。隠された神こそ啓示の神である、とルターは言いました。人生の苦悩の中で、わたしたちが出会うのは「隠された神」。その神こそ、赦しと恵みの「啓示の神」。とは言え、ルターは、神の究極の姿はこの世では隠され続けるというのです。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(コリント一1・21)。(参考 NHKカルチャーラジオ「ルターと宗教改革500年」江口再起著)(No.711)

2018年 2月 25日

浦和別所教会献堂式

 2月18日(日)午後3時から、浦和別所教会献堂式が行われました。新会堂は、旧会堂から約500メートル離れたところに新築されました。国道17号(中山道)に面し、JR武蔵浦和駅から徒歩約10分、好立地です。
 献堂式の司式は担任教師の澤田石秀晴先生、説教は代務の大友英樹先生(赤羽教会)が担当されました。エゼキエル書第47章1~12節より、「命の川の流れるところ」と題して、大友先生は「第一に、新会堂が伝道のために大いに用いられ、ここから命の川、すなわち聖霊があふれ流れて、この浦和別所の地域に命を満たしていく、そのような教会になること。第二に、毎月実をつける果樹のように、救いの実りを収穫する教会とされることを願う」と、説教されました。献堂式の終わりには、関東教区総会議長・東野尚志先生(聖学院教会)と、ホーリネスの群委員長・村上義治先生(岩手・舘坂橋教会)が祝辞を述べられました。
 埼玉地区の近隣の教会から、そしてホーリネスの群の首都圏の教会から、大勢の教師と信徒の方たちが駆け付け、喜びを共にした、祝福に満ちた献堂式でした。出席者が礼拝堂に入りきらず、扉を解放して、椅子を並べて対応しておられました。それもまた溢れる喜びを表しているようでした。
 献堂式直後に礼拝堂で記念撮影があり、1階で感謝会がありました。1階は集会室と小礼拝堂があり、扉を開ければ大きく使えます。さらにご挨拶が続き、楽しいお祝いのときとなりました。
 西川口教会は68年前浦和別所教会の開拓伝道によって始まりました。昨年度、西川口教会は、親教会である浦和別所教会の新会堂建築のために大きな献金をささげることができました。献堂式で報告を伺い、浦和別所教会の苦難と忍耐があったからこそ、この日の喜びの献堂式を迎えたのだと思いました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5・3~4)。新会堂を献堂した浦和別所教会の宣教の業を、主が豊かに祝福してくださいますようお祈りいたします。(No.710)

 「被拘禁者更生支援ネットワーク麦の会」は、現在この聖ペトロ・パウロ労働宣教会に事務局を置いています。「麦の会」は1980年、死刑廃止を目的に拘置所の中の5人の未決死刑囚の人たちによって結成されました。名前はヨハネ福音書第12章24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」からとられました。会員一人ひとりが自己犠牲の精神で自ら不利となってでも死刑廃止のための一粒の麦となるという目的をもって命名されました。
 「麦の会」の活動は、死刑問題に加え、更生を目指す方の支援、人間の尊厳や更生を阻害するような行き過ぎた処遇の改善を求めることなどを目的とし、麦の会通信『和解』(年三回)を発行しています。獄外者に広くご協力を求め、死刑囚の心を支え、獄中者の真の更生の支えとなるような文通を継続的に行い、一人一人との人格的なつながりを育む根を張った活動をしています。
 麦の会では文通者を募集しております。あたりまえの感情をあたりまえに表現できる、受け止めてくれる誰かがいる。それこそが更生への第一歩です。受刑者たちの心の声にどうか耳を傾けてみてください。理解してくれる人がいたら、もしかしたらその犯罪は防げたかもしれません。手紙は閉ざされた彼らの心の扉を少しだけ開いてくれるかもしれません。(以上、資料より)
 「さあ・・・天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちはわたしが、・・・牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(マタイ25・34~36)

2018年 6月 3日

教会は何をするか

 2018年度も、原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けています。
 4月から、日本基督教団信仰告白の前半部の第4段落に入りました。教会についての信仰を告白している箇所です。
 教会は主イエス・キリストの体であり、神の恵みによって選ばれた者たちの集まりです。ここでの「教会」とは教会堂ではなくて、信徒の群れである信仰共同体です。言い換えれば、洗礼を受けてキリストのものになったわたしたちです。
 その主キリストの体である教会(わたしたち)は何をするのか。そのあとに続く日本基督教団信仰告白の言葉がそれを述べています。すなわち、「公の礼拝を守る」、「福音を正しく宣べ伝える」、「洗礼と聖餐を執行する」、「愛の業に生きる」、「主の再臨を待ち望む」ことです。これらのためにこそ教会は地上に置かれています。わたしたちは、キリストの体である教会のなすべき業を担い、果たしていくために、神に招かれ、選ばれたのです。
 「公の礼拝を守る」とは、教会の存在自体が、世にあって公の存在であるということ。英語で言うと、プライベート(私的)ではなく、パブリック(公)であるということです。礼拝は公的な行為です。説教を始め、語られる言葉も公的な言葉であることが求められます。そのようにして、教会は社会的責任を負う存在とされています。

 この公の礼拝において、福音が正しく説教され、洗礼と聖餐の聖礼典が執行されます。主日礼拝は教会活動の中心です。それをきちんとふまえたところで、福音の宣教と聖礼典の執行は、わたしたちが遣わされたところにおいてもなされます。
 先月の5月25日にMさんの病床洗礼式を執行しました。二日後の27日に病床聖餐を執行しました。その病床において、福音の言葉が語られ、聞かれました。病床において、洗礼と聖餐が執り行われました。まことに思いがけないこと、それだけに、人の思いを越えた神の恵みの選びであることをひしひしと感じました。(No.724)

2018年 5月 27日

第68回関東教区総会

 5月23日から24日まで関東教区総会が開催されました。
 開会礼拝では、佐野教会(栃木地区)の石川榮一牧師が説教をされました。礼拝の後、組織会があり、教区総会開会宣言がなされました。仮執行順序が承認され、議事が進められました。来賓の紹介、新任教師の紹介、隠退教師の紹介、関東教区で25年仕えた教師の感謝の時が持たれました。
 午後の冒頭は、按手礼式と准允式が執り行われました。坂口慶行師(水戸自由ヶ丘教会)が按手を受けられ、大久保一秋師(飯能教会)、佐藤繁師(菖蒲教会)、高橋真之師(大宮教会)、平向倫道師(東中通教会)、山野心師(下館教会)、渡邊典子師(所沢武蔵野教会)の6人が准允を受けられました。

 今年の秋に開催される教団総会議員選挙が重要議案ですが、それに先立ち議案第20号「教団総会選挙に関する件」が上程されました。教師・信徒共に14名を選出するところを、全数連記ではなく、教師・信徒共半数の7名連記するというものです。こちらの審議が先になされ、無記名投票により、反対が過半数を超えたので、この議案は否決されました。全数連記で第1回選挙(予備)が行われました。午後5時からは、西川重則氏による学習会が行われました。今年から分科会がなくなり、夕食後も議事を進めました。
 2日目は、最初に福島純雄副議長の司式で逝去者追悼礼拝が行われました。その後、昨日行われた選挙の結果では、信徒・教師とも28人が選ばれ、第2回目の選挙(本選)が行われました。その後、九州教区から来られた副議長の日下部遣志牧師が挨拶をされ、続いて教団問安使の雲然俊美教団書記の挨拶と質疑がなされました。
 議事に入り、昨日から続いていた議長報告は、報告文の一部を削除し、承認されました。教団総会議員選挙結果が報告されました。時間が押していたので一部の議案は常置委員会付託となりました。最後に福島純雄副議長の祈りをもって関東教区総会が無事終了しました。(No.723)

2018年 5月 20日

聖霊に生かされる人間

 報告が遅くなりましたが、皆様のお祈りに支えられて、5月7日から10日まで、片道1時間のドライブの通い参加で、説教塾の東京セミナーに出席できました。東京、埼玉、神奈川のほか、タイのバンコクから、また沖縄から、関西、金沢、群馬から、18人の参加者が、加藤常昭先生のご指導のもと、説教黙想から作成、説教演習と説教批評まで、共同の学びをいたしました。
 加藤先生は、先月入院して心臓のカテーテル手術を受けた後にもかかわらず、御自分の黙想と、釈義資料、さらにドイツ語の説教黙想の翻訳と、26ページもの資料を作成してくださいました。また、説教演習と説教批評を一人でも多くできるように、3日目の夜の終わりの時間を10時まで延長しようと加藤先生がおっしゃって、その情熱に頭が下がりました。命を削るようにご指導され、これが最後になるかもしれないとの思いの中、真剣な学びの時を過ごしました。

 今までの説教塾の学びで加藤先生が話され、書物にもお書きになり、今回のセミナーでも触れておられましたが、「der Geistliche」というドイツ語があります。牧師、説教者のことを指しますが、意味は「霊に生きるひと」「聖霊に生かされる人間」です。けれども、今日ではあまり用いられなくなってきているそうです。それは、説教者が聖霊によって生かされるということについて確信が無くなっているからではないか、という問いがあります。日本の牧師たちも他人事ではありません。牧師の説教がただのお務めにすぎなくなってしまったら、教会は倒れてしまいます。説教によって、教会は立ちもし、倒れもすると言われます。そのことは分かっているのですが、自己吟味にも限界があります。ですから、こうしたセミナーに参加して、信頼関係の中で説教批評をいただけるのは、本当に貴重な機会です。参加者全員はできないので、くじで説教演習者を決めましたが、見事にくじに当たりました。尊い学びを感謝しています。
 加藤先生の体調のためにもお祈りください。(No.722)

2018年 5月 13日

神に呼ばれたいのちを生きる

 今日は母の日。また午後には、春日部墓苑で墓前礼拝をささげます。人は関係の中で生きていることを改めて思います。先週の週報短文に引き続き、5月3日の「関東こころの友伝道講習会」の深井智明先生の講演のお言葉を分かち合いたいと思います。改革者ルターが「全信徒祭司性」に関わる大切なこととして「召命」(ドイツ語で「ベルーフ」)を大切にしたことを語られました。
 講演②より  召命(ベルーフ)というのは神さまに呼ばれていること。ルーフは「呼ぶ」という意味。ドイツ語では「職業」という意味でもある。ベルーフというのはとても広い概念で、わたしたちに命や人生をくださった神様がわたしたちを呼び出す時、それをベルーフという。
ルターが生きていた時代のベルーフは、王、貴族 聖職者であった。「あの人たちは神に特別に召されているから」と特別視している言葉であった。しかし、ルターは、パン屋さんも農家も教師も、あらゆる人にベルーフがあると言った。これが「全信徒祭司性」で言いたかった重要な点。皆がそれぞれの仕事に召されている。この仕事は、偶然ではなくて、神が「あなたにしかできないから」と言って与えられたもの。すべてをご存知の神が一人ひとりに、ベルーフを与えてくださっている。これがルターの考え。

 ルターはこんなことも言っている。それは仕事だけではない。あなたがこの人と結婚すること、きょうだいになる、親になる。これもベルーフ。あなたにしかありえないから、あなたはこの人と結婚した。子供が与えられる。この子の親はあなたしかありえないから、あなたはこの子の親なのだ。神は、仕事だけではなく、関係も使命もくださっている。近頃、自分の子供をどう育てていいのかわからない、家庭をどう考えていいかわからないということがある。ルターの答えは、この家族は、この家庭は、あなたでなければならない使命が与えられている、というものである。(No.721)

2018年 5月 6日

「伝道の喜び」

 2018年5月3日に、第46回「関東こころの友伝道講習会」が開催され、西川口教会からは8人が参加しました。会場は日本基督教団新宿西教会(新宿区歌舞伎町)でした。講師は、深井智朗(ふかい・ともあき)先生(東洋英和女学院院長)。「伝道の喜び―私たちが救われたこと、私たちが伝えたいこと」(コリント一15・1~11)」の主題のもと、2回の講演を伺いました。ごく一部ですが、心に残ったことをご紹介します。
 講演①より。 聖書を読み直してみた。弟子たちの姿を見て気がつくことは、失敗談ばかり。ペトロは主イエスに「サタンよ、引き下がれ」と言われた。また主イエスを三度も知らないと言ってしまう。パウロはキリスト教徒を迫害したという過去を持っている。弟子たちは、伝道していく間に、ケンカしたり、裏切ったりということがたくさん出てくる。伝道の破れ、人間の破れの話である。気づいたことがある。「これが伝道説教だったのではないか」。わたしは昔このような人間で、こんな失敗をした。しかし今は、イエス・キリストに出会い、救われ、生きる喜び、力をいただいている。だから弟子たちは過去を語れた。過去を乗り越えたということ。これが最初の伝道説教だったのではないか。救われた喜びの確かさを語る。われわれの伝道はそこが出発点ではないか。

 講演②より。 マタイ福音書第25章14節以下のたとえばなしの「1タラントン」は、あえて言えば「1兆円」で、要するに「使えきれないほど」という意味。それほどの才能を既に与えられている。そんなに持っていると自分は気づいていない。大事なのは、タラントンに気づき、用いること。神の前に出ることによって、日々新たに自分を発見していく。伝道者の訓練はそれだと思う。神が既に与えてくださっているのに気づいていないタラントンを見つけること。それが礼拝の時であり、聖書を読み祈る時である。神という鏡の前に出る。そこで真実のわたしを見つける。神はわたし以上にわたしをご存知の方である。(No.720)

2018年 4月 29日

教会はキリストの体

 2018年度も、原則として月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに説教を続けます。共に、教会の信仰の筋道を理解し、それによって、キリストの教会を建て上げていきましょう。
 日本基督教団信仰告白の構成について、もう一度書いておきます。「我らは信じかつ告白す」と宣言し、その次に四つの段落があります。ここまでがこの信仰告白の前半部です。次いで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べ、「使徒信条」が導入されます。これが後半部となります。
 前半部の第1段落は「聖書は神の言葉」、第2段落は「三位一体の神、キリストの受肉と贖いを信じる信仰」、第3段落は「恵みの選び、信仰義認、聖化についての信仰」、第4段落は「教会についての信仰」を告白しています。
 本日の礼拝から第4段落に入ります。
 「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。教会は公(おほやけ)の礼拝(れいはい)を守り、福音を正しく宣 (の)べ伝へ、バプテスマと主の晩餐(ばんさん)との聖礼典を執(と)り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」
 日本基督教団宣教研究所編の「信仰の手引き 日本基督教団信仰告白・十戒・主の祈りを学ぶ」には、教会についてこういう問答があります。
“問70 「キリストの体」とは何ですか。
 答え 「キリストは教会の頭であり、一人一人はその部分である」と言われています。ですから、教会は単なる人間の集まりではなく、まず何よりも、聖霊によって生まれ、形づくられたものです。それは、すでに天に昇られたイエス・キリストが、霊においてこの地上に現臨し、形づくっておられる体です。このキリストの体は信仰によって捉えられるものなので「見えない教会」とも呼ばれます。” 教会は「キリストの体」とは平易な表現でありながら、奥深い内容を含んでいます。教会を理解できますよう、聖霊の助けを祈ります。(No.719)


2018年 4月 22日

神とその恵みの言葉にゆだねて

 先週4月15日の主日礼拝に、西川口教会の初代牧師の横山義孝先生がおいでになり、共に礼拝をささげました。91歳の高齢にもかかわらず、お一人で電車を乗り継いで、西川口教会に来られました。礼拝では、横山先生の力強い賛美の声に一同驚きました。横山先生は、どの集会でも常に一番前の席にお座りになりますが、この礼拝でも同じで、ただひたすら主を慕い求めて礼拝をささげるお姿に感銘を受けました。礼拝の報告の時に横山先生からご挨拶がありました。このたび横山先生は自分史「恩寵溢れる歩み ―70年の伝道の恵み―」を出版されました。西川口教会員に贈呈してくださるとのことで、感謝して頂戴いたしました。礼拝後の愛餐会も、主にある交わりの喜ばしいときとなりました。横山先生の存在が神の祝福のしるしであると思いました。
 横山先生の御本を読みながら、使徒パウロの言葉が思い出されました。
「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒20・31~32)。
 これはパウロがエフェソ教会の長老に告げた勧告の言葉です。このパウロと横山先生が重なるようでした。御本をいただいて「目を覚まして生きるように」と、励ましをいただいた思いがします。御本を通して、溢れる恩寵に生かしてくださった神を証しておられます。
 横山先生が開拓伝道を始められたのが1950年4月です。今年68周年を迎えました。本日は教会総会があります。思いを新たにして、わたしたちを造り上げ、聖徒として共に恵みを受け継がせてくださる神の言葉にゆだねて、また神の言葉に立つ教会として、歩んでまいりましょう。(No.718)


2018年 4月 15日

熊本大分地震から2年

 2018年4月16日には、熊本・大分地震発生から2年となります。関東教区総会議長の東野尚志先生(聖学院教会牧師)と、関東教区災害対応支援委員会の飯塚拓也先生(竜ヶ崎教会牧師)の連名で、関東教区諸教会・伝道所に向けて、「熊本・大分地震から2年 4月16日を迎えるにあたって」と題してのメッセージが届きました。またこのメッセージに添えて、九州教区総会議長梅崎浩二先生から「九州教区より、関東教区の皆様へ」と題して、再建復興の現状報告と支援のお願いのメッセージが届きました。

 これらは掲示板に掲示してありますが、かいつまんでメッセージをお伝えします。
 被災地においては、仮設住宅へと被災者の生活の場は移りましたが、まだ復興にもたどり着けない多くの人々がおられます。
 日本基督教団九州教区は、在日大韓基督教会と連携して、ボランティアセンター・エルピス熊本を設立して、仮設住宅での生活支援に取り組んでくださっています。
 日本基督教団九州教区では、15の教会に建物被害がありました。そのなかで、再建・補修が完了したのは8教会、再建・補修の途上にあるのが2教会、再建・補修の目途が立たない教会が5教会あります。
 4月16日を迎えるにあたり、被災地・被災教会に思いを寄せ、祈りを共にしていただきたく、被災の出来事を風化させることのないように祈りましょう。4月15日の各教会の礼拝において、熊本・大分地震からの復興を覚え祈ってくださるようお願いいたします。
 関東教区は、第67回関東教区総会において、日本基督教団が取り組んでいる「熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金」(目標額1億8千万円)に対して、関東教区として総額2千万円を目標に取り組むことを可決しました。現在は、その目標額の半分まで達成しています。引き続きお祈りとお支えをよろしくお願いいたします。(No.717)

2018年 4月 8日

聖霊による愛と赦しの教会

 2018年度が始まりました。4月22日の教会総会の議案書は、来週15日に皆様の週報ボックスに入れますが、ここで教会の活動方針案から、主題についてお伝えしておきたいと思います。
 西川口教会は6つの目標を掲げています。これは変わりません。
「1.主日礼拝を重んじる教会へ」、「2.聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)」、「3.各自の賜物がよく活かされる教会へ」、「4.次世代への信仰の継承」、「5.受けるより与える教会へ」、「6.地域に奉仕する教会へ」。
 そして、2018年の西川口教会の御言葉は、「愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(コロサイの信徒への手紙第3章14節)。教会は主の愛の共同体です。もしも、どんなに立派な先生をお招きして特別集会をしても、いろいろな行事が無事に終わったとしても、教会の中に、祈り合い、赦し合い、支え合い、助け合う愛がなければ、どうなのでしょう。「愛がなければ、無に等しい」(コリント一13・2)。互いに陰口を言ったり、差別や排除や自己主張や争いがあったりしたら、それは主を悲しませ、主の名を汚し、互いを傷つけ、人々を教会から遠ざけることになります。主の愛で愛し合う愛の共同体であることが、宣教につながるのです。主の愛こそが、すべてを完成させて、わたしたちを結び合わせてくださるきずなだからです。
 そのことを心に留め、2018年度の教会の主題を「一人ひとりが祈る人―聖霊による愛と赦しの教会―」と提案しました。「一人ひとりが祈る人」これは昨年度と同じです。副題を変えました。祈りの中で、聖霊から注がれる愛に満たされて、互いに愛し合い、赦し合う教会に、共に生かされますように。一人ひとりが、神にどこまでも愛され、どこまでも赦されている喜びに生きられるように。その愛に押し出されて赦し合い、愛の業に生かされるように。主を待ち望みます。(No.716)

2018年 4月 1日

復活を信じるとは

 主の復活ハレルヤ! 主イエスは復活されました。教会は復活信仰に生きています。
 使徒言行録第26章に、使徒パウロがアグリッパ王に対して弁明している記事があります。パウロはこう語っています。
「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたはなぜ信じ難いとお考えになるのでしょうか。・・・つまり私は、メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人にも光を語り告げることになると述べたのです。」(8節、23節)

 神が死者を復活させてくださるとはとても信じられない、と人は言うでしょう。けれどもパウロは、そうではなくて、「神が死者を復活させてくださるということを、あなたがたは、どうして、信じようとしないのだ」と言っているのです。
 考えてみますと、これほど信じたいことはないのではないでしょうか。もし自分が死んでも、なお復活できるならば。それならば、信じればいいではないですかと、パウロは言うのです。なぜ信じようとしないのだ、と言っているのです。
 使徒パウロは、死者の復活を信じなければ、人生はすべて空しくなると語っています。復活の信仰は、現実的なことであり、日々の生活に非常に関わりのあることなのです。「もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(コリント一15・32)。つまり、「どうせ何十年かの命なので、それから先は、もう真っ暗闇なんだから、まぁ、なるべく楽しんで生きよう」と言うのでしょうか。それとも「どんなことがあっても、わたしにはこの復活の希望がある。この希望によって生きていくのだ」と言うのでしょうか。主の復活の出来事は、あなたはどちらを選ぶのですか、と問うているのです。
 主イエスの復活は、すべての人の希望です。この希望に共に生かしていただきましょう。
(参考 竹森満佐一説教集「わが主よ、わが神よ」)(No.715) 

2018年 3月 25日

「ネガティブ・ケイパビリティ」

 最近「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(朝日選書)を読みました。精神障害者支援事業を行うNPO法人を運営している信仰の友が紹介してくれた本です。著者の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏は、小説家であり、臨床40年の精神科医。初めて聞く「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉と、副題の「答えの出ない事態に耐える力」に興味を持ちました。
この本の「はじめに」の章にこうあります。
“・・・私たちは「能力」と言えば、才能や才覚、物事の処理能力を想像します。学校教育や職業教育が不断に追求し、目的としているのもこの能力です。問題が生じれば、的確かつ迅速に対処する能力が養成されます。
 ネガティブ・ケイパビリティは、その裏返しの能力です。論理を離れた、どのようにも決められない、宙ぶらりんの状態を回避せず、耐え抜く能力です。・・・
 私たちの人生や社会は、どうにも変えられない、とりつくすべもない事柄に満ち満ちています。むしろそのほうが、分かりやすかったり処理しやすい事象よりも多いのではないでしょうか。
 だからこそ、ネガティブ・ケイパビリティが重要になってくるのです。私自身、この能力を知って以来・・・随分楽になりました。いわば、ふんばる力がついたのです。それほどこの能力は底力を持っています。・・・”
 この本を読みながら、わたしはどうだろうかと問われる思いがしました。
 本日から受難週に入ります。ひたすら十字架へ向かわれた主イエスを思い起こすときです。主イエスは弟子たちに裏切られました。イエスをねたんでいた人たちの企みによって、主は不当な裁判で死刑の判決を受けました。十字架の上で「わが神、わが神」と祈り叫びましたが、父なる神は沈黙しておられました。不条理の極みの十字架刑を、主イエスは耐え抜いてくださいました。(No.714)

2018年 3月 18日

嘆き、泣く声を聞いてくださる方

 日本基督教団出版局発行の雑誌「信徒の友」に「日毎の糧」が掲載され、この聖書日課に従って、朝ごとに聖書を読み、お祈りしています。最近の聖書個所は旧約聖書のエレミヤ書が続いています。神の憐れみの御言葉に聴き、驚き、心揺さぶられるような思いがしています。時々お伝えしているように、日課の聖書を読んでから、分かち合いメールを配信しています。3月15日の聖書個所は、エレミヤ書第31章15節から22節まででした。分かち合いメールには、このように書きました。

“主はこう言われる。
 ラマで声が聞こえる
 苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。
 ラケルが息子たちのゆえに泣いている。
 彼女は慰めを拒む
 息子たちはもういないのだから。
 主はこう言われる。
 泣きやむがよい。
 目から涙をぬぐいなさい。
 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。エレミヤ31・15~16)
 
 あまりの苦悩に、慰めを拒否する人の心を、神はご存知です。その苦悩を癒し、苦悩から解き放ち、回復させてくださる神。教会に生きる者にとっては、主イエス・キリストがおられるから、主の言葉の確かさを信じます。十字架の死に至るまで苦悩しつくされた方。死に勝ち、死を死なせ、よみがえられた方が希望そのものです。”

 最近、思いがけず、苦悩のために呻くほかないような方々との出会いが続いていました。ですから、主なる神が「苦悩に満ちて嘆き、泣く声が聞こえる」とのエレミヤ書の御言葉に「主が聞いておられるのだ」と、勇気を与えられました。まことに主なる神は「苦しみは報いられる」と言ってくださるのだと、改めて確信しました。苦しみは苦しみで終わらず、涙がぬぐわれるときが来る。主から希望を受け取りました。(No.713)

2018年 3月 11日

3月11日を迎えるにあたって

 本日は、東日本大震災からちょうど7年となります。東野尚志関東教区総会議長(聖学院教会牧師)のメッセージを掲載します。

「2018年3月7日(水)

関東教区 諸教会・伝道所・関係学校・団体の皆様へ

 2018年3月11日を迎えるにあたって

 その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。(エレミヤ書33章16節)

 主のみ名を賛美いたします。

 レントの日々を歩み、主のご受難の道をたどる私たちです。
 さて、来る3月11日(日)に、「東日本大震災」発生から7年を迎えようとしています。この7年の間に再建の取り組みが進められていますが、しかしなお大津波の被害によって失われた尊いいのちへの悲しみと喪失の思いは消えることはありません。そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染の被害は、福島の地に深刻な影響を及ぼしたままです。
 また、「東日本大震災」発生以降も大規模な自然災害が連続し、2015 年9月9日から11日にかけて発生した「関東・東北豪雨」や、2016年4月14日に発生した「熊本地震」、2017 年7月5日から6日にかけて発生した「九州北部豪雨」による被災は各地に大きな被害をもたらしています。
 関東教区では、「東日本大震災」による被災の支援として、被災教会の会堂再建を中心に取り組んできました。また、東北教区被災者支援センターエマオへのボランティア派遣に取り組み、大津波によって大きな被災を受けた方々や被災地への支援に携わることを許されてきました。そして、関東教区内の被災教会や関連施設、アジア学院の再建にほぼ区切りをつけることができましたので、2018年3月11日を迎えるにあたっては教区として記念礼拝の開催や共同の祈り作成は行わないこととなりました。
 しかし、来る3月11日の主日礼拝においては、諸教会・伝道所におかれましてはぜひ覚え祈っていただきたくお願い申し上げます。
 このために、奥羽教区から「東日本大震災7年を覚えての礼拝」式文と、東北教区から「3・11わたしたちの祈り」をいただきましたので、「関東教区ホームページ」にて紹介しています。ぜひご覧くださって、被災の地に思いをはせながら、お祈りください。
 現在、日本基督教団では、「熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援募金 」を1億8千万円を目標に取り組んでおり、関東教区ではその内2千万円をささげることを先の第67回教区総会で可決しました。この献金の推進が、私たちの大きな課題です。諸教会・伝道所におかれては今までも覚え祈り、ささげてくださっていますことを感謝いたしますと共に、引き続き募金が目標に達するようご協力いただけますようお願い申し上げます。
 レントを経て、4月1日は主の復活の喜びを迎えます。そのような中で、関東教区諸教会・伝道所の皆様が、主の復活の希望のうちに歩むことができますようお祈りいたします。

日本基督教団関東教区 総会議長 東野尚志
      災害対応支援委員会 飯塚拓也 」
(No.712)

2018年 3月 4日

神は十字架の上に

 今年のレント(受難節)は2月14日から始まりました。復活日(イースター)の前の、日曜日を除く40日間がレントとなります。主の苦難と十字架の出来事に思いをはせて過ごしています。
 昨年の2017年はルターの改革から500年の記念の年でした。ルターの生涯や改革の出来事などを改めて知ることができました。ルターは「受難の中に隠された神」を語りました。十字架の中に神が隠されているというのです。
 この世には不条理なこと、答えのないこと、助けのないことがあります。戦争や内戦が絶えず、難民を生み出しているこの世界。米国の銃乱射事件は寒々とした思いになり、心が痛みました。この国では若い世代の人たちが「死にたい」「消えたい」とつぶやく投稿がSNS(ソーシャルネットワークサービス)上にあふれています。不慮の事故や突然の災害に見舞われることがあります。そのとき、神はどこにおられたのでしょうか。
 神の十字架の中に隠されている、これがルターの答えでした。ルターは、キリストを本当に理解するためには、栄光に輝いている姿ではなくて、逆に十字架の上で苦しんでいる姿を通して、理解しなければいけないというのです。キリストが十字架の上で苦しんでいるということは、神が人間の罪を背負い、そのことによって人間の罪が赦されたということです。それは、むしろ十字架上で苦しむという姿で、神があらわれているのである。隠されてはおらず、恵みの神があらわれて、神の救いが啓示されている。隠された神こそ啓示の神である、とルターは言いました。人生の苦悩の中で、わたしたちが出会うのは「隠された神」。その神こそ、赦しと恵みの「啓示の神」。とは言え、ルターは、神の究極の姿はこの世では隠され続けるというのです。「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(コリント一1・21)。(参考 NHKカルチャーラジオ「ルターと宗教改革500年」江口再起著)(No.711)

2018年 2月 25日

浦和別所教会献堂式

 2月18日(日)午後3時から、浦和別所教会献堂式が行われました。新会堂は、旧会堂から約500メートル離れたところに新築されました。国道17号(中山道)に面し、JR武蔵浦和駅から徒歩約10分、好立地です。
 献堂式の司式は担任教師の澤田石秀晴先生、説教は代務の大友英樹先生(赤羽教会)が担当されました。エゼキエル書第47章1~12節より、「命の川の流れるところ」と題して、大友先生は「第一に、新会堂が伝道のために大いに用いられ、ここから命の川、すなわち聖霊があふれ流れて、この浦和別所の地域に命を満たしていく、そのような教会になること。第二に、毎月実をつける果樹のように、救いの実りを収穫する教会とされることを願う」と、説教されました。献堂式の終わりには、関東教区総会議長・東野尚志先生(聖学院教会)と、ホーリネスの群委員長・村上義治先生(岩手・舘坂橋教会)が祝辞を述べられました。

 埼玉地区の近隣の教会から、そしてホーリネスの群の首都圏の教会から、大勢の教師と信徒の方たちが駆け付け、喜びを共にした、祝福に満ちた献堂式でした。出席者が礼拝堂に入りきらず、扉を解放して、椅子を並べて対応しておられました。それもまた溢れる喜びを表しているようでした。
 献堂式直後に礼拝堂で記念撮影があり、1階で感謝会がありました。1階は集会室と小礼拝堂があり、扉を開ければ大きく使えます。さらにご挨拶が続き、楽しいお祝いのときとなりました。
 西川口教会は68年前浦和別所教会の開拓伝道によって始まりました。昨年度、西川口教会は、親教会である浦和別所教会の新会堂建築のために大きな献金をささげることができました。献堂式で報告を伺い、浦和別所教会の苦難と忍耐があったからこそ、この日の喜びの献堂式を迎えたのだと思いました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5・3~4)。新会堂を献堂した浦和別所教会の宣教の業を、主が豊かに祝福してくださいますようお祈りいたします。(No.710)

2018年 2月 18日

最良のものを与え続ける

 カトリック教会のインターネットのサイト「心のともしび」からの、「今日の『心の糧』」というメール配信のサービスを利用しています。いろいろな方(執筆者はカトリック信徒・聖職者の方々)のエッセイが届きます。2月15日の「心の糧」の中で、マザー・テレサの詩が紹介されました。わたしはこの詩を初めて知りました。
 『人は不合理、非論理的、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行なうと、利己的な目的でそれをしたと思われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達成しようとするとき、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。良い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが、壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの最良のものを、世に与えなさい。蹴り返されるかもしれません。でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい』。
 このマザー・テレサの詩を紹介した方は、「この詩は彼女の人生体験からにじみ出た愛の勝利の賛歌であり、弱い私たちへの力強い励ましのメッセージだと思います」と述べておられました。本当にそうだと思いました。
 2月14日から今年の受難節が始まりました。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1・10~11)。世は主イエスを認めず、拒否しましたが、主は最良のもの、すなわち御自身をお与えになりました。わたしたちは主によって救われました。主の十字架への歩みを、主の十字架の死とその意味を、このとき、いっそう深く思いめぐらします。(No.709)

2018年 2月 11日

共に喜び、共に泣くこと

 1月29日の埼玉地区「三区合同教師会」と、先週の「婦人教職の集い」に出席して、各地で奮闘している牧師たちと、主にある交わりのひとときを与えられました。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12・15)との御言葉を改めて深く思い起こさせられました。
 三区合同教師会では、地区委員長の川染三郎先生からの発題がありました。埼玉地区ホームページ掲載の報告(報告者は熊谷教会・大坪直史先生)から引用します。
 “川染先生は、主イエス・キリストを中心として、教職が羊飼いとして務めを果たすべき…また、教職の伝道と牧会の務めのもとで信徒が務めを果たすことを通して、教職の教会ではなく信徒の教会でもないキリストの教会が建てられていく…、特に、埼玉地区においては、多くの小規模教会・伝道所があることから、最寄地区活動の充実の必要性、つまり、諸教会・伝道所間の支え合いと協力関係の必要性について、力強く述べられました。特に印象的だった言葉は、「一教会・伝道所の終わりは、その地域の全教会・伝道所の終わりに繋がる」という一言でした。一つの教会も終わらせてなるものか、一つの伝道所も終わらせるわけにはいかない、そういう地区委員長の主にある教会・伝道所に対する熱い思いと、また、固い決意がひしひしと伝わってまいりました。その熱い思いと固い決意は、私たちすべての教職が共有するものでもあります。…”
 「婦人教職の集い」では、初参加の、四国の過疎の地域にある教会の牧師とお話しをしました。「大学がないので、若い人は高校を卒業すると町を離れていく。仕事が無いので離れた人たちは戻ってこない。こうして町の人口はどんどん減っていく。教会も若い人を都会の教会へ送るばかり」とのことです。顔と顔を合わせて、その言葉を伺えたのは大きなことでした。
 「共に喜び、共に泣く」教会、苦労と喜びを分かち合う教会として生かされますように。(No.708)


2018年 2月 4日

教会総会を前に―役員の資質ということ

 来週11日の教会総会は、役員選挙が議題です。
 かつて1988年の西川口教会の教会修養会に講師としてお招きした辻宣道先生(当時の教団総会議長。故人)の印象は強烈でした。その著書「教会生活の処方箋」は今でも教会生活の指針としています。役員に関する項目の文章を引用します。
 “・・・集会を休まぬひと、ユーモアを解するひと、金銭に淡白なひと、これはいずれも常識的なことでさほど説明を必要とはしません。むしろ次の項目でのべることは、教会形成の中心にふれる問題になるかもしれません。・・・
 一つは「教理に強い役員」ということ・・・信仰が自分のものになり、これだけは自分のいのちをかけ得るという確固たる自信・・・われここに立つと断言できればよいのです。・・・
 その二は「祈りのひととしての役員」です。・・・豊かな祈りをするひとによって教会のいのちは維持されます。・・・まず密室の祈りに力を入れることです。・・・役員が祈りのひとで、密室の祈りをそのまま祈祷会に反映させるだけで、教会は大きく変わってきます。・・・改まったところできちんと祈りのできるひと、それが役員です。・・・
 第三にあげたいこと、それは「調和のとれた役員」です。ここでいう調和とは・・・自分の意見をきちんともちながら、教会形成的視点を備えているひとのことです。役員は牧師と会員の間に立つ行司であってはなりません。いつも教会員の方を向いてものをいう人であるべきです。役員は牧師と共に会員の訓練にあたるつとめをもっていますから、すべてのこと、教会をいかにたてるかというところから出発しなければなりません。・・・
 役員は濾過器の役目も果たします。いったんここをとおると、どんな泥水も清水になってでてくるのです。・・・半年自分のうちにためておき、いうべきことといわずともいいことを識別する判断の持ち主。私の役員に対する信頼はそこから生まれました。・・・”(No.707)

2018年 1月 28日

樋野興夫先生と「言葉の処方箋」

 本日は特別礼拝として、講師に樋野興夫先生をお迎えでき、心から感謝です。樋野先生は、順天堂医学部病理・腫瘍学教授、一般社団法人がん哲学外来理事長で、がん哲学外来を開設し、現在も精力的にこの活動を展開されておられます。
 西川口教会の会堂を会場に、昨年から「川口がん哲学カフェいずみ」が始まりました。いずみの活動は、有志の世話人会が運営しています。わたしは世話人会の代表として奉仕しています。本日の午後は、川口がん哲学カフェいずみ開所1周年記念講演会として、樋野先生に講演をしていただきます。これも本当にうれしいことです。
 樋野興夫先生が現在のがん治療・がん研究に足りないものは何かと考え、思い至り、提唱された「がん哲学」、そしてその実践の場である「がん哲学外来」、がん哲学外来で樋野先生が患者さんに与えた「言葉の処方箋」。この「言葉の処方箋」がまとめられて、次々と刊行されています。
 がん哲学と共にわたしの関心は、樋野先生の「言葉の処方箋」にあります。その言葉で、多くの人の心に気づきを与え、光を与え、救われていくのです。その言葉に力があるのです。どうしてその言葉が人々の心に届くのか、問いがあります。
 今、川口がん哲学カフェいずみでは、カフェの初めに樋野先生の著書「人生から期待される生き方」を少しずつ読んでいます。この本のタイトルも、そうですが、言葉の処方箋は「えっ?」と思わせる言葉、「何だろう?」と考えさせる言葉なのです。この本で紹介されている言葉の処方箋をいくつかここに書かせていただきます。
 *「今日が人生最後の日」と思えばいい
 *死ぬのは確実、いつ死ぬかは確率
 *あなたはそこにいるだけで価値ある存在
 *人生いばらの道、にもかかわらず宴会
 *八方塞がりでも天は開いている
 *人生の目的は「品性の完成」
 いかがですか。心が動きませんか?
(No.706)

2018年 1月 21日

埼玉地区の交わり喜ぶ

 日本基督教団関東教区埼玉地区には、現在61教会・伝道所があります。埼玉地区は、成人の日の祝日を「地区デー」として、地区の交わりを特に大切に思って過ごしてきています。埼玉地区新年合同礼拝を行い、「地区デー」献金をささげ、埼玉地区内の教会で講壇交換礼拝の実施を呼びかけています。講壇交換礼拝は、西川口教会も毎年参加してきました。今年度は川越教会と行うことになりました。木ノ内一雄牧師をお迎えでき、感謝です。埼玉地区の今年度の主題は「主にある交わりを深めよう」で、2008年度からこの主題を掲げていますが、地区の活動に参加したり、奉仕を担える人が限られていますので、新年合同礼拝や、講壇交換礼拝は、埼玉地区を身近に、そして親しく感じられる活動だと思います。
 木ノ内先生から、川越教会の紹介をいただきました。感謝して転載します。
 「1890年、メソジストの流れをくむ教会として創立。初代牧師は山内庫之助。後に社会的弱者救済のため弁護士となり、また県会議員となり、県議会副議長を務めた。4代目牧師別所梅之助は讃美歌21・155番「山辺に向かいて目をあぐ」の作者として知られている。
 当初、教会は川越駅東口の小江戸と呼ばれる市街地にあったが、1969年に現在の旭町に移転した。それと共に1年後、教会学校幼稚科いずみ学園を始めたが、1982年に廃園となった。
 現在(2017年4月総会時)現住陪餐会員28人、平均礼拝出席者数21名、CSは0です。教会標語は「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」です。現在、委員会を作り会堂改修を計画中です。
川越は古く歴史的な町で、神社仏閣も多く保守的なところですが、信徒の方はとっても良い方ばかりで、礼拝に熱心で将来の発展を期待できると思います。」
この出会いが祝福に満ちたものとなりますように。
(No.705)

2018年 1月 14日

聖化についての信仰

 2017年度の主日礼拝において、月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教をすることにしましたが、年度内には終わりませんので、終わるまで続けたいと思います。どうして日本基督教団信仰告白を学ぶかというと、これに心から「アーメン」(「本当にそうです」「然り」という意味)と応答することが、教会の信仰の筋道であり、信仰によって立ち続けるところであるからです。さらに、この信仰告白に「アーメン」と言える人は洗礼を受けることができるからです。
 改めて、日本基督教団信仰告白の構成について書いておきます。「我らは信じかつ告白す」と宣言し、その次に四つの段落があります。ここまでがこの信仰告白の前半部です。次いで「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べ、「使徒信条」が導入されます。これが後半部となります。
 前半部の第1段落は「聖書は神の言葉である」ということ、第2段落は「三位一体の神、キリストの受肉と贖いを信じる信仰」、第3段落は「恵みの選び、信仰義認、聖化についての信仰」、第4段落は「教会についての信仰」を告白しています。
 今日の礼拝では、第3段落の「聖化についての信仰」を確認したいと思います。第3段落はこうです。「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦(ゆる)して義としたまふ。この変らざる恵みのうちに、聖霊は我らを潔(きよ)めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したまふ」。ここで「ただキリストを信ずる信仰」とはわたしたちの信仰ですが、この文章では、信仰が主語ではなく、神が主語です。神が恵みをもってわたしたちを選び、赦し、義としてくださいました。後半の文章で「潔め」(聖化)が語られます。ここでも聖霊の神が主語です。神の恵みの中で、聖霊のお働きによって、わたしたちは潔められ、義の果実を結ばせていただき、そのことによって神の業は成就する。一貫しているのは、神の業、恵みと義です。これが肝心です。
(No.704)

2018年 1月 7日

争いから交わりへ 対立から対話へ

 救い主イエス・キリストのご降誕の喜びのなかで、主の年2018年を迎えました。
 2017年はルターの改革から500年の記念の年でした。ルターとその改革について学び、紹介することができました。
 日本のキリスト教界では、2017年11月23日、カトリック浦上教会(長崎)にて、「日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会共同開催の宗教改革500周年記念シンポジウムとすべての人を一つにしてください」と題して共同記念礼拝が行われました。インターネットの動画でこの集会を見ることができます。1967年から、ルーテル世界連盟とローマ・カトリック教会の間で対話が重ねられてきたそうです。日本においても、日本福音ルーテル教会とローマ・カトリック教会の間で1984年から対話が続けられ、2017年の宗教改革500年記念の準備が積み重ねられてきました。
 カトリック中央協議会が発行したパンフレット「ローマ・カトリックと宗教改革500年」をインターネットで読むことができます。「現代のルター像」の章にはこうありました。
 “ルターが異端者であり、西方教会の分裂の責めを負う者と見る時代は過ぎ去りました。現代カトリックのルター研究においては、ルターが抱いていた真の宗教的な意図を理解することにより、彼がプロテスタント、ローマ・カトリックの共通の教会博士であると認識されています。・・・”
 50年もの時間をかけて対話を積み重ね、分裂の痛みを克服すべく、共同の礼拝が開催されたことの意義は大きいと思います。現代の日本でも世界でも、人と人との間でも、分断が進んでしまうような危機があります。教会はたゆまず一致を求め、正義と平和を実現することができるようにと祈ります。わたしたちの家庭でも、教会の営みにおいても、主に共に生かされている者として、対話を重ねて歩むことができますように。
(No.703)

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