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週報短文

バックナンバー 2020年


2020年12月27日

すべての出来事に時がある

 現在、月1回放映中のNHKこころの時代「それでも生きる 旧約聖書コヘレトの言葉」(講師は牧師・東京神学大学教授の小友聡先生)を興味深く視聴しています。本来は上半期の放送でしたが、4月の第1回放送後、コロナで番組制作が中断して、11月から再開されました。今、コロナ禍という苦難の中で、いっそう「コヘレトの言葉」のメッセージが響くのではないかと思います。先週は第3回の放送で「すべての出来事に時がある」でした。「コヘレトの言葉」の中で、最も知られた「時の詩」から始まりました。
“天の下では、すべてに時機があり
 すべての出来事に時がある。
 生まれるに時があり、死ぬに時がある。・・・
 殺すに時があり、癒すに時がある。
 壊すに時があり、建てるに時がある。
 泣くに時があり、笑うに時がある。
 嘆くに時があり、踊るに時がある。・・・
 黙すに時があり、語るに時がある。
 愛するに時があり、憎むに時がある。
 戦いの時があり、平和の時がある。
 人が労苦したところで何の益があろうか。・・・神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。”(聖書協会共同訳コヘレト3・1~9、11)
 この番組には小友先生の対話相手として、批評家・随筆家の若松英輔氏が出演しておられて、そのやりとりもとても興味深く、教えられます。先週の放送で、若松氏が、コヘレトの言葉を読んで次のように語られ、なるほどと思いました。
 「私たちが絶望を感じる時は、実は、自分で分かったような気になっている時だと思うのです。・・・コヘレトは、自分で納得するということを、どこかで人間に戒めていると思うのです。自分で納得するという小さな世界で自分の人生を決めてはならない。見極められないというのが現実なのだ。その最たるものが『時』だと。・・・」(No.858)

2020年12月20日

あけぼのの光が我らを訪れ

 今年もクリスマス礼拝の日を迎えることができました。皆様と共にキリストの御降誕の祝いに与ることができ、心から感謝いたします。
 今年のアドベント(待降節)の期間、心を動かされた御言葉は、ルカによる福音書のザカリアの賛歌の終わりの部分です。「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(ルカ1・78~79)。ザカリアは洗礼者ヨハネの父です。ヨハネが生まれたとき、ザカリアは、我が子ヨハネが救い主に先立って民に罪の赦しによる救いを告げ知らせる、と預言しました(ルカ1・77)。そのようにして福音が宣べ伝えられるのは、神の憐れみの心に基づくものである、とザカリアは賛美しました。
 今年はコロナ禍のクリスマスとなり、今このとき、コロナの災いに覆われている世界は、まるで「暗闇と死の影に座している者たち」のようであると感じました。神の憐れみはそこにこそ、あけぼのの光のように差し込んで、平和へと導いてくださるのです。私たちはこうして神に顧みられているのだと、御言葉を通して、希望を新たにさせられました。
 主イエスのお誕生も、明るい昼間ではなく夜の出来事であり、大勢の目を引き付けたり、驚かせたりするようなことでもありませんでした。けれども、夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちに天使が告げた通り、あの夜、ベツレヘムで生まれた幼子こそ、すべての人にとっての大きな喜び、かけがえのないただ一つの救いなのです。
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2・10~12)。
(No.857)

2020年12月13日

役割が生まれれば「逆境」は「順境」に

  先日、樋野興夫(ひの・おきお)先生から、「サンデー毎日」12月20日号に掲載の記事を教えていただき、拝読しました。
 ご存知の方も多いと思いますが、樋野興夫先生は現在、順天堂大学名誉教授、新渡戸稲造記念センター長、一般社団法人がん哲学外来理事長でいらっしゃいます。川口がん哲学カフェいずみでは、毎年講演にいらしていただき、お世話になっています(来年1月23日にも講演会を予定)。
 サンデー毎日の記事のタイトルは「コロナ時代のがん哲学」。そこに、「コロナの時代を生きる5カ条」が紹介されていました。
① 自分の力が人の役に立つと思う時は進んでやれ
② 人の欠点を指摘する要はない。
  人のあやまちは語るには足らぬ
③ 理由があっても腹を立てぬこそ非凡の人
④ 感謝は優しき声に表れる
⑤ 心がけにより逆境も順境とされる
 サンデー毎日の記事から一部引用いたします。
 “・・・私淑する新渡戸稲造の言葉に「人生に逆境も順境もない」があります。がんになっても、自分のことばかり考えると、悩みや苦しみが立ちはだかって逆境になる。でも、自分より困った人に手を差し伸べようとすれば、自らの役割が生まれ、逆境はむしろ順境になるのです。
 人は人生に期待するから絶望するのであって、要は人生から期待されるようになればいい。それは自分なりの使命を見いだすことで可能になります。・・・
 繰り返しますが、人は必ず死ぬのです。それが新型コロナが原因か、がんが原因か、別の原因によるものかは誰にも分からない。
 連日の報道に引きずられ、目の前の危機が新型コロナだけだと考えないこと。あまりに恐れすぎれば、他者の排除や差別につながります。過度に自粛することも軽度に恐れることもダメ、常識的に狭き門、真ん中を歩くことです。・・・”(No.856)

2020年12月 6日

落ち着いて、主を待つこと

 アドベント(待降節)の主日礼拝では、讃美歌21の242番「主を待ち望むアドベント」を賛美しつつ、キャンドルに火をともしています。4週間かけて、目に見える形でクリスマスを待ちます。アドベントは、再び来られる主イエス・キリストを待ち望む期間でもあります。この世界を正しく裁き、すべての人に報いてくださるキリストの到来を待っています。
 祈祷会では現在出エジプト記を学んでいて、先週は第14章の葦の海の底を渡るという主の救いの出来事を読みました。その直前、イスラエルの民は、前は海、背後は自分たちを追ってくるエジプトの軍勢に挟まれて、どうしようもない状況に陥っていました。民は死の恐怖のあまり、モーセに不満をぶつけます。その時モーセは民に答えます。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(出エジプト14・13~14)。
 私たちは自分で自分を救うことは決してできません。私たちを脅かす敵だけを見つめるのでもありません。私たちのためになされる主の救いを見るよう語られ、勇気を与えられました。
 このモーセの言葉は、アドベントのこの時、主を待つ信仰のこころに通じるものがあると感じました。本日の交読詩編で唱えた詩編第46篇11節「力を捨てよ、知れ わたしは神」にも通じますし、もう一つ、イザヤ書第30章15節「まことに、イスラエルの聖なる方 わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、立ち帰って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある』と」にも通じます。待つとは地味で静かなので、人から見れば何もしていないではないか、と思われるかもしれません。しかし神は、私たち一人ひとりの心のまなざしがどこを向いているかご存知です。(No.855)

2020年11月29日

愛の実践を伴う信仰こそ大切

 2020年は西川口教会創立70周年の記念の年で、昨年から、今までの70年を感謝し、これからの宣教のために祈りを積み重ねていこうと語ってきました。創立70周年を記念して、今年は歴代の先生方をお迎えしてお祝いをする予定でした。しかし、今年の春からの新型コロナウイルスの感染拡大という事態によって、先生方をお迎えすることができず、やむなく延期とさせていただきました。今年、お会いすることは叶いませんでしたが、歴代の先生方から「西川口だより」に創立70周年を記念してご寄稿いただき、温かい励ましの言葉と祈りを賜り、心から感謝しております。西川口教会はまことに祈っていただいている教会です。先生方のために、私たちも主のお守りと励ましを祈るものです。
 来年の教会の御言葉を、ガラテヤの信徒への手紙第5章6節「キリスト・イエスに結ばれていれば、(割礼の有無は問題ではなく、)愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と決めました。ガラテヤの信徒への手紙を書いた使徒パウロは、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(コリント一13・13)とも書いています。信仰と希望と愛は、結びついているものです。教会の信仰において「信仰によって義とされる(救われる)」、いわゆる「信仰義認」は、私たちの行いによって救いが決定するのではないことを伝えているのであって、私たちの行いがどうでもよいということを言っているわけではありません。信仰に行いが伴うことは、「行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2・26)とある通りです。信仰と関係のある行いとは愛の行いです。口でどんなに「信仰、信仰」と言っていても、愛の実践が伴わない信仰であるならば、かえって災いとなることがあります(それは信仰ではないでしょうが)。主イエスの愛の命令「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)を果たすべく、愛の実践を伴う信仰を祈り求め、共に生かされたいと願っています。(No.854)

2020年 11月22日

「閉ざされた世界の中で紐解く旧約聖書」

 先週11月16日に東京説教塾公開講演会がオンラインで開催されました。講師は左近豊(さこん・とむ)先生(日本基督教団美竹教会牧師、青山学院大学教授)。講演「閉ざされた世界の中で紐解く旧約聖書」を伺いました。
 私がまず心を動かされたのは、「弱さを直視する」ことでした。ある政治学者の論考を紹介され、ドイツのメルケル首相、ニューヨークのクオモ知事を引き合いに出して、2人に共通するのは「弱さ」だというのです。メルケル首相が演説を通して、「私たちがどれほど弱いか、どれほど他の人の思いやりある行動に依存しているか」と語り、感染者や死者の数字について、「これは統計上の抽象的な数字だけの話ではない。具体的なお父さんであり、お母さんであり、おじいちゃんであり、おばあちゃんであり、パートナーの話である」と心震わせながら語ったことで、人々が、自分たちの痛みと同じところに立っていると思った。弱さが見えるリーダーが共感され、弱さを隠さない人間こそ、強さを持っている、というのです。
 また新約学者N・T・ライトの言葉に認識を新たにしました。「・・・聖書の奥義は、神も嘆かれる、ということなのだ。クリスチャンはつい、神はそういった全てを超越しておられ、なんでもご存知で、全てを掌中に収めて、ご自身の世界のトラブルの影響など全く受けられないと考えがちである。けれどもそれは聖書の描く御姿ではない。神は被造物である人間の暴虐に、心から悲しまれたことを創世記は告げる。花嫁であるイスラエルの民が背を向けて背徳の限りを尽くすことに愕然とされた・・・」。
 もう一人、旧約学者のW・ブルッゲマンの言葉にも同意しました。「説教者の働きは、ウィルスを究極以前のことと見なし、その致死的な力でさえ、神の恵みによって駆逐されるものであることを示すことである。・・・神の恵みが死の脅威を前にしても決して揺らぐものでないことを、最も深いしかたで知っているのだから・・・」。
(No.853)

2020年 11月15日

「人の業が尽き果てたところから」

 先週11月13日、キリスト教放送局FEBCの番組「『時のしるし』を求めて」に、日本基督教団総幹事の秋山徹先生が出演され「人の業が尽き果てたところから―日本基督教団の実情を聞く」を興味深く聞きました。以下に一部紹介します。
 “日本基督教団(以下「教団」)は、伝道推進に即した機構の改正に取り組んでいます。現在、教団の教会の主要メンバーは70代の人たちです。教団は、一年に一つの教区が消えるほどの急速な教勢低下となっています。教団の財政が2030年には半分になるという予測があり、急速に対応しなければなりません。検討の委員会で方針を出しました。その町にしかない教会・伝道所、特に小規模教会の為に、「毎月、祈りを集めよう」ということを始めています。教団の強みは日本全国、北海道から沖縄までの町々に教会があることです。そこにこそ力を注ぐことから立ち上げていこう。一つひとつの教会・伝道所は熱い思いと祈りがあって建てられたのです。それを維持していく祈りを集めていきます。
 キリストの教会を建てるところに思いを置かなければいけない。「主は一人。信仰は一つ。洗礼は一つ」(エフェソ4・5)主の教会がバラバラになるようでは、日本の伝道にとって、御言葉に忠実であるとは言えません。一つである根拠は何か。「まあ、いいんじゃないの」というわけにはいきません。キリストが私たちの和解の主ということが、どれだけ実質化されるか。そこには血が流される。贖いがなければ。ファリサイ派の人たちは、主イエスを殺すことを正しいと確信を持って行なったわけです。皆良いことをしようと思っています。そこに渦巻いている人間的なことに、どうメスを入れるか、宣教の課題です。・・・
 日本の教会は、キリストを頼りにする以外にないというところまで深くならないと、御業が現れないと思っています。私たちは必ず罪と死の現実に直面させられます。そのとき御言葉の命が立ち上がってくると思います。”(No.852)

2020年 11月 8日

S兄召される

 敬愛するS兄が10月30日、神のみもとに召されました。93歳でした。ここ数年は体を弱くされて礼拝を休んでおられたので、時々ご自宅を訪問しておりました。90歳となられた頃だと思いますが、訪問の折、故人略歴を提出されました。2年ほど前に遺影も準備されていたと、ご親族から伺いました。地上の生涯を終えるときを見据えておられました。
 Sさんは1997年3月30日に西川口教会で島隆三牧師より洗礼を受けられました。洗礼を受けるに至るお証を「西川口だより」第347号(1997年5月号)に書いておられます。一部紹介いたします。
 “神のお恵みとお導きにより私のような者がイースターの大切な日に、という喜びと戸惑いのうちに受洗させて頂き、また皆様からの祝福も有難く感謝にたえません。
 毎日神への感謝の祈りと共に祈願している亡き妻に会うことの出来る道がやっとみえたと安堵、受洗に際し島先生から頂いた聖句「一粒の麦の死」の尊き恵みを信じ、天での妻との再会を実現していただけるようその日まで信仰を強めて待ちたいと思います。…
 妻が召されてもう六年。最初は妻の為にと始めた朝夕の祈りも続けるうちに私自身に心の安らぎ、孤独への慰めが与えられている神の恵みに気付き、ありがたく感謝の内に神の御名を賛美しつつ日々を過ごしております。…”
 受洗のお証を読み返して、Sさんの信仰生活は、最愛のお連れ合い様への愛と神への愛に裏打ちされたものであったと、改めて思いました。
 Sさんの愛誦聖句は旧約聖書ミカ書第6章8節です。
「人よ、何が善であり
 主が何をお前に求めておられるかは
 お前に告げられている。
 正義を行い、慈しみを愛し
 へりくだって神と共に歩むこと、これである。」 (No.851)

2020年 11月 1日

体の復活を信じます

 本日は、召天者合同記念礼拝をささげます。ご遺族の皆様に、主の慰めと励ましが豊かにありますように。
 私も遺族の一人として、この礼拝に連なっています。召天された西川口教会員と関係者の方々のお写真のパネルを礼拝堂において礼拝します。母の写真も収められています。母の死から24年が過ぎました。そのことをきっかけにして献身へと導かれ、母教会である西川口教会の牧師として奉仕させていただいています。
 人は必ず死にます。一緒に暮らす家族がいたとして、人は一人で死にます。母の突然の死によって、私は、この避けようもない人間の現実を突きつけられました。それは、自分がどこに立っているか、自分が死んだらどうなるのか、という問いを突きつけられたことでもありました。
 そこで改めて、教会の信仰の中にその答えを見いだしました。母の死の後、私にとって大きな慰めとなりました聖書の御言葉の一つが、コリントの信徒への手紙二第4章14節です。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」。使徒信条で告白している「身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず」を希望に満ちあふれた約束として、改めて受け取ることができました。死に対する命の勝利があると教会は信じています。
 その根拠はどこにあるのでしょうか。キリストは十字架において罪人として、私たち人間の罪を負って神の裁きを受けてくださいました。死んで葬られたキリストは、父なる神によって死者の中から復活されました。このキリストの十字架と復活に私たちの罪と死の解決があります。キリストを信じ、洗礼を受けた者は、体ごと復活させられ、聖徒たちと主の御前に共に立たせていただけます。母は洗礼を受けていました。洗礼を受けているという恵みをも新たにされたことでした。(No.850)

2020年 10月 25日

バベルの塔の物語

 先週10月20日、西川口教会を会場に、埼玉県南牧師会が開催されました。参加者は8人でした。開会の祈りの後、互いにコロナ禍の体験の分かち合いとなりました。ある先生は「バベルの塔の出来事に通じると思っている」とおっしゃって、それが心に留まり、思い巡らしていました。
 バベルの塔の物語は、創世記第11章1節から9節までの、短い、しかし含蓄に富む物語です。
〝世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。…
 彼らは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
 主は…この町を見て、言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。〟(創世記11・1~9)
 神に取って代わろうとする人間の傲慢に対して、神は言葉を乱し、人を全地に散らされるという裁きを与えられました。創世記はその後で、アブラハムの物語を語り始めます。その物語の冒頭で、アブラハムによって諸国民は祝福に入るという素晴らしい約束が与えられました(創世記12・3)。神は、世界を裁いたままで放っておかれるお方ではありません。この約束は新約聖書へと続きます。神はキリストによって私たちをご自分と和解させ、私たちが互いに愛し合い、祝福の中に生きるようにしてくださいました。教会はいつも、どんなときも、この祝福を告げ知らせます。(No.849)

2020年 10月 18日

説教セミナー@ZOOMのために祈りを

 2020年9月29日付で、説教塾生へ学びの呼びかけが、加藤常昭先生からありました。
 “説教塾の皆様に!
 嘗て経験したことのない社会状況に置かれ、それでも教会に生き続け、一人ひとりの信徒のためにも労苦しておられることでしょう。説教塾の学びも、新しい状況に対応しながら継続することができ、感謝しております。
 しかし、毎年何回か開催してきた黙想の家での説教セミナーを開催することができなかったことは残念なことでした。ただ、このところ繰り返して行っているズームを用いて行っている学びの形を用いて、新しいセミナーをすることができないか、ということになり、実施することにしました。以下のようにします。・・・
 セミナーに参加する方はあらかじめ登録してください。その都度提示される課題に応え、提出物をメイリングリストに投稿してください。・・・第1の黙想から始めて説教作成に至る過程を学びます。・・・ただしズームを用いてする学びには、どなたでも参加、傍聴できます。・・・
 高齢になった私〔91歳〕は、いつのセミナーでも、これが最後のセミナーになるかもしれないと覚悟しております。しかし、200名を超える〔説教塾〕メンバーのうち、実際の学びでお会いできるのは、とても僅かです。まだお会いしてない方が何人もおられます。実際にともに学べないことをとても悲しく思っております。今回の学びは、どこからでも、どなたでも参加できます。初めての方もぜひご参加ください。お待ちしています”(〔 〕は金田が補足)。
 加藤先生の呼びかけに応えて、数名の聴講者も含めて全国各地また海外から約70人の参加者が与えられました。驚きです。既に事前の課題の提出が始まっています。説教塾メイリングリストがとても賑やかになりました。加藤常昭先生は、参加者すべての提出課題に目を通し、オンラインで講義をなさいます。どうぞお祈りください。(No.848)

2020年 10月 11日

神の恵みの善い管理者として

 毎年参加している日光オリーブの里アシュラム(アシュラムセンター主催)、第8回となる今年のアシュラムは、コロナのために開催されるかどうか危ぶまれましたが、コロナ対策を講じて行うと、9月に案内が届きました。私が今回参加したのは、主イエスが山に退いて祈られたように、今年はコロナ対応に追われるような日々を過ごしていますが、ひと時持ち場を離れて神の言葉にどっぷり浸る時間を過ごしたいと願ってのことでした。
 講師はアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵先生、参加者は17人。アシュラムセンタースタッフは滋賀県近江八幡市から、他の参加者は静岡、神奈川、東京、埼玉、栃木からで、教団教派も様々でした。キリストが出会わせてくださったと信じるお互いです。
 今回の主題聖句は、ペトロの手紙一第4章10節「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。「神のさまざまな恵みの善い管理者」とはどのような人かと問われました。説き明かしでは、
・この世とは反対で、すべては神の摂理にあると信じ、ひたすら愛し、仕えていく人
・神の国ではどうなのか、と考えて生きる人
・神の恵みを数えて生きる人
・M・ヴォーリスの言葉「神の番頭」
・「善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねる」人(ペトロ一4・19)。善い行いをすること自体が大切。それを続けること。結果は神のもの。
と語られました。
 アシュラムセンターの活動も、コロナのために、中止や延期を余儀なくされ、聖書教室の講義はZOOM(オンライン会議システム)で行っているそうです。オンラインは環境が整えば場所の制約はないので、今まで参加できなかった人や、遠方にいる人同士が参加できるなど、新たな展開もあったとのことです。(No.847)

2020年 10月 4日

世界宣教の日を覚えて

 毎年10月第1日曜は、日本基督教団の行事暦で「世界聖餐日・世界宣教の日」です。このことを心に留めていたとき、ハッと目覚めさせられる言葉に出会いました。
 “「わたしたちの教会は、まるで蛸壺状態です」。 ある教会の信徒の方が、ご自分たちの属する教会を客観視して、こうおっしゃいました。いわく、自分たちの教会さえ、そこそこ、うまくいっていれば、それで満足してしまっている。… しかし、それでいいのか? という自問だったのです。…隣の教会がどんな困難を抱えているか、なんて全く無関心。あるいは、日本全体の教会がどういう状況にあるか、世界の教会がどういう動きをしているか、なんて全く関係ない。「私たちの教会が安泰なら、それで結構。だって、私たちの教会ですもの。…」…これが教会員の大方の感覚。しかし、これではまるで、蛸壺にどっぷりつかって、居心地の良さに大海へ出ようとしない「蛸のようだ」、というのです。…真剣にご自分の属する教会の現実を分析しておられる貴重な信徒の一言でした。
 これは他人事ではないのです。日本の教会は、そもそも、海を越えてやってきた宣教師たちが運んできてくれた「福音」によって建てられました。そして、教会はその福音の「器」でもあります。
 …島国日本の風土の中になかった「キリストの福音」が、海を越えてやって来てくれたおかげで、日本にもキリスト教が伝わり、教会が建ちました。神さまに用いられて「福音」を伝える人がいて、伝わってきたのです。そしてその宣教師たちを送り出したのも、「教会」です。
 …教会が「蛸壺状態」だったら、「福音」は世界に伝わらなかったし、日本にも伝わらなかったのは、火を見るより明らかなことです。そういう恩恵に与っているのに、それを忘れて、蛸壺に収まっていることに満足しているのは、日本流にいえば、「恩知らず」ということになりましょうか…”(埼玉地区ホームページ「2020年9月の御言葉」「神の救いは全世界へ」より引用)(No.846)

2020年 9月 27日

「withコロナ時代のがん哲学カフェ」

 9月21日(月・敬老の日)、日本基督教団ひばりが丘教会(西東京市)にて、「21世紀のエステル会」3周年記念シンポジウムが開催されました。主題は「withコロナ時代のがん哲学カフェ」でした。「21世紀のエステル会」は、各地に広がるがん哲学外来メディカルカフェ同士が交流し、それぞれの体験や悩みを共有したり学び合うことを目的に年1回のシンポジウムを中心に活動しています。構成メンバーは、樋野興夫先生を顧問として、西川口教会の川口がん哲学カフェいずみ代表・金田佐久子と、教団白鷺教会の白鷺メディカルカフェの代表・太田和歌子さんと、ひばりが丘教会のメディカルカフェひばりが丘の代表・田鎖夕衣子さんです。シンポジウムの第1回は白鷺教会で、第2回はひばりが丘教会で開催し、50名程度の参加者が与えられ、好評でした。
 第3回となる今年度は、コロナ禍の中で各地のがん哲学外来メディカルカフェがどのように活動していたかを分かち合い、意見交換を行うことにより、今後も収束が見込めない中でいかにメディカルカフェを運営していくのか、カフェ開催が困難な中で何が求められるか、各カフェの実際の対応を伺いつつ、今後のあり方についても考える機会にしたいと企画されました。
 コロナのため、最初から定員15人に限定してお知らせしました。今まで参加したことのある方や、関心のある方から「オンライン開催はないのですか」との要望があり、太田さんと田鎖さんが奮闘して、対面と、ZOOMというソフトを使ってのオンラインでの開催にこぎつけてくれました。当日は、ひばりが丘教会に数名が集まり、オンラインの方が数名でしたので、お互いに顔が見えて、ほぼ全員がコメントを分かち合うことができました。コロナ禍の中、どのようにカフェを行っていくか、試行錯誤しながら、できることを精一杯されていることを伺いました。ささやかな働きですが、カフェを主催している人たちが顔を合わせる機会を提供でき、神に感謝いたします。
(No.845)

2020年 9月 20日

コロナ禍の体験を分かち合う

 報告が遅くなりましたが、9月7日の午後、日本基督教団埼玉地区一区教師会が、半年ぶりに、東京聖書学校吉川教会で開催されました。コロナのため定員15人とのことで、お知らせが届きましたが、当日は11人の出席者でした。
 開会礼拝では、東京聖書学校吉川教会の原田のぞみ牧師が御言葉を取り次いでくださいました。原田のぞみ先生は当教会出身の献身者です。懐かしくうれしい思いで説教を聞きました。
 開会礼拝の後は、「コロナ禍の体験を分かち合う」というテーマで、参加した教師たちが順番に報告や課題、感じていることなどを分かち合いました。緊急事態宣言が出されたとき、参加された先生方の教会では、西川口教会と同じように、礼拝堂に集まることを止めて家庭礼拝となりました。また教師は礼拝堂で礼拝を献げておられたことも同様でした。どのように信徒に説教を届けるかについても同様で、インターネットによる動画配信や、音声提供に取り組んだ教会もありました。インターネットを使えない人への配慮として、週報や説教原稿を届ける、あるいは郵送などされたとのことでした。先生方からの報告を聞きながら、自分だけではなく各教会も悩みながらも何とかして御言葉を宣べ伝えていることを知り、とても励まされました。新しく就任された先生方のご苦労も伺いました。信徒の方々をまだよく知らないなかで礼拝に集まれず、地区の教師会も開かれなかったから、孤独であったと思います。この教師会をとても喜んでおられたのが印象的でした。顔と顔を合わせることはやはり大切です。
 西川口教会は6月から礼拝を再開できましたが、まだ礼拝を再開していない教会もあり、再開したけれども、近所にクラスターが発生してお休みにしている教会もあり、先生方と教会の苦労が続いています。東京聖書学校吉川教会の原田彰久先生からは、インターネットを利用した動画配信のために、必要な器材等の情報や注意点など伺うことができ有益でした。(No.
844)

2020年 9月 13日

「生涯、わたしは主を呼ぼう」

 本日は、敬老祝福礼拝の予定でしたが、コロナのために見合わせました。西川口教会では、敬老祝福として毎年9月に70歳以上の教会員・関係の方々に主の祝福をお祈りしています。今年は、詩編116篇1~2節の御言葉を贈ります。
「わたしは主を愛する。
 主は嘆き祈る声を聞き 
 わたしに耳を傾けてくださる。
 生涯、わたしは主を呼ぼう」。
 数年前に祈祷会で詩編をコツコツと学びました。詩編116篇は私の心惹かれる詩編の一つです。「わたしは主を愛する」との愛の告白で始まるユニークな詩編です。また、15節にはこうあります。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」。旧約では、死は神との交わりが断たれることと理解されていますが、ここでは、死の見方も変化しています。主なる神の目にはその人の死は重んじられるのです。
 それでも、死は苦しいものであり、悲しいものであることに変わりありません。
 同時に、生きることもまた苦しく、悲しいものです。高齢の父と暮らし介護する者として、年を取るとはまことに容易ではないと折々に実感しています。体は思うように動かないし、意志をはっきりと伝えることは難しくなってきました。今年はコロナのために、父は、子や孫たちに会うこともままならなくなってしまいました。
 この詩編作者は苦しみも悲しみも知っています。詩編作者は、死の床にあっても、嘆きの中にあっても、なお神を呼ぶことができ、神がその声を聞いてくださる祝福を歌っているのです。
 詩編116篇を学んだとき、このような言葉に出会いました。“どんなに暗いさびしい森の中に迷い込んでも、さがしに来てくれる親がある限り子供は恐れることはない。「お父さん」と呼べばよいのである。”(榎本保郎著「旧約聖書一日一章」詩編116篇より)。どんなに年を重ねても、神の子です。「アッバ、父よ」と主を呼びます。(No.843)

2020年 9月 6日

感謝ということ

 テサロニケの信徒への手紙一第5章16節から18節の「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」は、教会に生きる多くの人が知っている聖書の言葉です。
 この「感謝」について考えさせられる新聞記事を読みましたので、紹介させていただきます。
 “…会社を立ち上げて間もなく、二十歳を過ぎたころ。…ある日の休日。ヘルパーと映画に出かけた。すると…窓口で観賞を拒否された。私はSNSでその窓口の対応に苦言を呈した。…その投稿を見た、うちで名刺を作ってくれているあるお客さんは私にこう言った。「もし、その窓口の人がなにか対応できなかった事情があったとしたら、君はどうする?」 「もし、障害者を応援しようと思っていた人が、君の投稿を見て、批判されるのが怖くなり、障害者と関わるのをやめようと思ったら、君はどうする?」この言葉にハッとした。私は正直、この言葉を聞くまでは自分のことしか考えていなかった。彼の言う通り、人を批判すれば相手だって決して気分はよくないだろうし、もし相手にも何か事情があったとしたら、それは権利を盾に相手を傷つける行為となる。…
その日から、自分自身のルールを変えた。どんなに理不尽なことや差別をされても、私はお陰様と感謝の気持ちを持つことにした。すると、私の周りにたくさんの仲間ができるようになったし、そうなると今度は、普段親切にしてくれる周りの人間をより大切にしたいと思うようになった。人は、人を批判することで一時的にすっきりするかもしれないが、本当の心の豊かさは得られないと知った。…世の中から差別がなくなることはないだろうが、そうした行動をすることで、きっと少しずつ差別が減っていく気がする。もちろん、時として差別と戦うことも必要かもしれない。ただ、そうしたことにエネルギーを使うことよりも、私に対していつも親切にしてくれる周りの人たちを大切にすることに心をくだきたい。”(8月13日付朝日新聞「寝たきり社長の突破力」より)(No.842)

2020年 8月 30日

聖霊はどういうお方か

 原則として月に1回、日本基督教団信仰告白に基づいて説教を続けてきました。今は日本基督教団信仰告白の後半部分である使徒信条に入っています。本日は「我は聖霊を信ず」です。
 先日神の御許に召された、敬愛する村瀬俊夫先生による「三位一体の神を信ず 講解説教による使徒信条入門」という書物があります。第8章「我は聖霊を信ず」で、村瀬先生が、日本の教会に問題提起しつつ説教しておられます。
 “…さて「我は聖霊を信ず」と告白するとき、その「聖霊」はどういうお方なのですか。…このことはよく分かっていなければならないのに、それがはっきりしていないことが、キリスト教会における大きな問題ではないかと思います。…
 私たちが信じる神様を本当に知り、また主イエス・キリストを本当に知ることができるのは、聖霊の助けと導きによるのです。聖霊のことがあいまいだと、実は、神様のこともキリストのこともあいまいになってしまいます。…
 イエス様は「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」と教えておられます(ヨハネ4・24)。そのように、そもそも父なる神ご自身が「霊」を本質とするお方であり、イエス様についても「主は霊(御霊)です」と言われているのです(Ⅱコリント3・17)。
 聖霊は…父なる神、主イエス・キリストと共に…礼拝されるべきお方であることを、私たちは肝に銘じておかなければなりません。
 聖霊は父なる神から遣わされます。そのためにイエス様が、「わたしは父にお願いします」と、お願いしてくださったのです。それに答えて御父が「助け主」である「真理の御霊」を遣わしてくださいました(ヨハネ14・17)。…
 聖霊によらなければ、いくらキリストのことを頭で知っていても、《本当にキリストが私たちと共におられる》という生きた知識は得られません。…”〔文中の聖句は新改訳聖書〕(No.841)

2020年 8月 23日

村瀬俊夫先生を偲びつつ ヘブライ人への手紙について

 敬愛する村瀬俊夫先生が8月18日に神のみもとに召されたと知人より連絡を受けました。村瀬先生は、私が西川口教会の主任担任教師となった2004年度から4年続けて、西川口教会アシュラムでご指導くださいました。村瀬先生の発行されていた「西東京だより」には、聖句黙想、聖書研究、平和への篤い祈りと実践の報告から成り、大変読み応えがあり、神学的に健全で、社会や政治への態度にも大いに学ばされ、豊かに養われました。最終ページの近況はいつも「イエスは主です! 友です」で始まり、主への愛に溢れていた村瀬先生の笑顔を懐かしく思い起こします。
 村瀬先生が書かれた説教集「とこしえに祭司であるキリスト へブル人への手紙講解」に大いに助けられて、現在説教準備をしています。この説教集からも、主に愛されていることを心から喜んでいる村瀬先生を感じさせられています。
 この本の巻末に「へブル書の神学―大祭司キリスト論」があります。少し紹介いたします。
“…私の見るところ、イエス・キリストが《まことの人》であることを、新約聖書中で一番明白に述べているのが、冒頭に「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」〔新改訳2017〕と告白しているへブル書であると思う。…このように「神の本質の完全な現れ」である御子イエス・キリストの完全な人間性を同時に強調してやまないのは、イエスが私たち人間のために祭司の務めを担われるため、人間の側に軸足を置き、すべての人を代表して神の御前に立つことが不可欠の要件であったからだ。要するに、《人》でなければ祭司にはなれない。しかも、永遠の贖いを成し遂げて永遠の大祭司となる者は、罪を犯す可能性のある人は駄目で、試みにあっても罪を犯すことのない《人であるとともに神であるお方》でなければならない。そういうお方として、主イエスは「あわれみ深い、忠実な大祭司」となり…著者は…《大祭司キリスト論》を展開するのである…”
(No.840)

2020年 8月 16日

「平和への道をわきまえていたなら・・・」

 今はコロナのため、教会ばかりでなく、埼玉地区や関東教区の夏の諸集会も中止や延期となっていますが、東京説教塾の例会は、時間を短くして、オンライン会議システムで続けられています。オンラインのメリットは、遠くにいる人も参加できることです。6月は関西説教塾と合同で開催されました。このとき加藤常昭編「ドイツ告白教会の説教」(教文館)に収められたヘルムート・ゴルヴィツァーの説教を学びました。ナチスに抵抗したため、共に働いていたベルリン・ダーレム教会の主任牧師マルティン・ニーメラーが逮捕され(1937年)、その後ゴルヴィツァー自身も兵役に召集される直前になされた説教でした。深い黙想に心を動かされました。聖書はルカによる福音書第19章41節から44節まで、ろばに乗ったイエスを喜んで迎えたエルサレムの都のために主イエスは涙を流して、このように言われました。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら…」(42節)。
 “…私どもの人生に謎があるとすれば、まさにこの謎以外にありません。神が愛しておられる人間と世界が、ただ苦しみを味わうだけではなくて、このように罪の中に落ち込んでしまうことを神がお許しになってくださるという謎であります。…これは本当に恐ろしい悲しみであります。…
 イエスはすべてをおしまいにすることができるはずでありました。しかし、何の支えになるものも提供なさろうとはなさいませんでした。…そしてすべてをなるがままに貫かれました。それが神のお決めになったことだったからであります。キリストがこのように泣いておられるということの中に、聖書が持つ秘密のすべてがあります。人類が救われるという究めがたい秘密がここに含まれているのであります。人類は罪に陥る前に救われるということがありませんでした。人類の罪が全く明らかになり、全く出口のない状態になったところで、最後までその罪が貫かれたところで救われるのであります。…”(No.839)

2020年 8月 9日

原爆投下から75年

 8月6日の夜にNHK総合テレビで放映された「証言と映像でつづる原爆投下・全記録」を見ました。番組では、今年発見されたアメリカの原爆の開発計画に携わった陸軍准将ファレル氏の手記、当時の日本の指導者へのインタビューなどと共に、NHKアーカイブスからの映像も加えられて、原爆を落とした側、落とされた側からの証言と映像により、原爆投下の全体像に迫る番組でした。いろいろ感じ、考えさせられる番組でした。
 この番組に、神への祈りをささげる光景が出てきました。一つは、広島への原爆投下直前の夜、兵士への説明の最後に従軍牧師が祈りを捧げた映像でした。「万軍の主よ、今宵飛び立つ者たちに慈悲深い愛と思いやりをお与えください。死の谷を歩む彼らに対し、常に主がそばにいることをお知らせください」。 そして原爆を載せた「エノラ・ゲイ」は広島へ向かって行ったのです。
 番組では、広島に原爆を落とされても迅速に降伏に向けた動きを見せない日本に対し、2発目の原爆投下の計画は避けられないことだった、と語られていました。
 もう一つの祈りの光景は、長崎で被爆者の治療を続けていた医学生の濱清氏の証言です。
 「長崎の爆心は浦上の天主堂のすぐ近くなので、私が入った救護所でのほとんどの被爆者がクリスチャンだったのです。その方々が、起き上がれない人もみんな助け合って起きて、夕方になるとお祈りをされるのです。それを見た時に初めは本当に腹が立ちました。これほど酷いことを信者たちに与えることを許した神様が、どうしてお祈りの対象になるのかと思ったんです。しかし後で考えてみると、あの人たちの祈りは、原子爆弾を作り落とした人も含めて人間が犯した罪に対する謝罪の祈りだったんじゃないか。全てを失った人間の最後の最高の尊厳を見たのではないかと思うようになりました」。
 原爆を落とした側の祈り、落とされた側の祈り・・・。これにも考えさせられました。(No.
838)

2020年 8月 2日

自分のために説教する説教者

 インターネットで、ある動画説教を視聴しました。初めに説教者が「自分のために、自分に語るつもりで説教します」と語り出された姿が印象的でした。
 キリスト品川教会を会場にした東京説教塾の例会に出席するようになって、十数年経ちます。通い始めた時、加藤常昭先生は説教者についての考察を試みておられました。その考察が「説教者を問う」(キリスト新聞社 説教塾ブックレット1)という本にまとめられました。説教者としての自分が問われましたので、私はこの本を熟読しました。その第5章には「自分のために説教する説教者」という文章があります。こう語られています。
 “……説教再生の道がここにあるのではないかとさえ思っております。説教の場合「あなた自身のために説教せよ!」(Preach it for you!)ということは、絶対に許されないことなのでしょうか。…自己陶酔の危険は常にあります。
 しかし、それにもかかわらず、われわれもまた、まず何よりも自分自身に説教をすることが求められているのではないか。自分が語る言葉によってそこで救われ、慰められる出来事が起こり、聴き手はそれに立ち会うということが起こるのではないか。そのように思います。…神学生は…聖書を今日の聴き手にわかりやすく説明し、身近なものにしてあげるために努力します。…しかし…根本的に重要なことが欠落したままであるように思われます。それは、聖書の言葉と自分とがひとつになっていないということでもあります。…言ってみれば、説教者根性のようなものから外へ出ないといけないのです。…そして、「自分のために説教をする」ことに集中するのです。それは情熱的なことです。福音、喜びを語る者が、まずその喜びの言葉を自分が浴びるように聴くのです。自分で自分に聴かせるのです。…聖書の言葉を外からの言葉として聴きつつ、それとひとつになり、自分がそれに生かされきるとき、言葉と存在の一体化が起こるのであろうと思います。…”(No.837)

2020年 7月 26日

弱いときにこそ強いから

 毎朝、日本キリスト教団出版局の月刊誌「信徒の友」の「日毎の糧」という聖書日課に従って聖書を読み、祈っています。「日毎の糧」の欄の左端には、一日に一教会ずつ、全国の日本基督教団の教会が紹介されていて、近況や祈りの課題が書かれています。7月は愛媛県の諸教会が紹介されていました。直近の2日間は次の通りでした。
“・7月24日…A教会(創立1897年、現住陪餐1人、礼拝出席4人、予算100万円。〔主任担任教師はおられず代務者〕)。現住陪餐会員は1名ですが、近隣協会に支えられて寂しさなどは感じません。感謝いたします。専任教師が与えられる、ふさわしい時がもたらされますように。
・7月25日…B教会(創立1949年、現住陪餐8人、礼拝出席7人、聖研祈祷会出席4人、予算200万円。〔主任担任教師と担任教師〕)。賛美、喜び、祈り、感謝、解放のある教会になる。新たな希望を見つけて歩んでいけるように。祈ることによって、祈りを知る者になりたい。”
 地方の教会の現状を知らされるひと時です。望みをもって使命に生きている教会の姿に励まされます。
 今月に入って、夕拝を再開できました。夕拝は、コロナ感染のため4月からお休みしましたが、その前から朝の礼拝に比べれば、まことに少人数の集会です。夕拝をささげるとき「小規模教会の礼拝はこのような感じかな」と思うこともあります。そして、この新型コロナ感染は、全国各地の教会にも試練となりました。自分の教会ばかりでなく、同じキリストの体である他の地域教会のためにも、主の助けを祈りましょう。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。・・・それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」。(コリント二12・9~10)(No.836)

2020年 7月 19日

モーセの召命と派遣命令から

 祈祷会・昼間祈祷会で旧約聖書の出エジプト記の学びを始めて、先週は第3章に入りました。とても楽しい学びです。
 不思議な導きで、エジプト王ファラオの娘の養子として育ったモーセですが、イスラエルの民の一員という自覚も持っていました。大人になったモーセはイスラエル人同士の争いを仲介しようとしましたが、同胞から拒絶されました。エジプト人を殺したこともファラオに知られ、罰を逃れるために、遠くミディアンの荒れ野に逃れます。彼はそこで出会った家族と暮らし、羊飼いとして生きていました。モーセがいつものように羊の群れを移動させていたら、燃え尽きない柴があったので好奇心をそそられ、道をそれて柴に近づきました。そのとき突然、神はモーセに語りかけられました。神はモーセに、イスラエルの民の苦しみをご覧になったこと、民を救い出し、導き出すというご計画を告げられました。そして言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3・10)。モーセは答えます。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。モーセの反応は、私たちはよく理解できます。神は言われます。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」(12節)。
 この神の言葉は、私たちにも語られているのです。ある先生が(牧師就任式の祝辞であったと思いますが)この聖書の言葉を引用して挨拶されたことが忘れられません。「『わたしは必ずあなたと共にいる』。この神の約束の言葉だけを握っていけばいい。それがあなたへのしるし。これ以上の約束はありませんよ」と。今より若く、未熟で、「能力もない、知識も乏しい」と思っていたので(今も十分ではありませんが)、まことに肝心なことは神への信頼であると、心に刻んだのでした。(No.835)

2020年 7月 12日

「不安な時代をどう生きるか」

 キリスト新聞2020年7月1日号に、上智大学同窓会企画のイベントで、多数の著書で知られる片柳弘史神父(イエズス会司祭)と晴佐久昌英神父(東京教区司祭)の両氏が、「不安な時代をどう生きるか」と題してオンラインで対談した記事が載っていました。一部引用して紹介します。
 “(片柳神父) ・・・いま方々で「テレワーク」への移行が話題になっていますが、究極のテレワークは祈りだということです。お祈りをすることによって、外に出なくても相手のために何かしてあげることができるわけです。そして、私たちがささげる祈りというのは誰かに向けてささげられた愛なわけですから、その愛を神様がしっかりと受け止めて、神様の愛と一つになった私たちの愛がこの世界を包んでゆく。そして、どんどん世界を変えてゆくという、ダイナミックな変化が起こっていくときなのかなと私は思っています。・・・そして祈る中で、身近なところに困っている人がいる、あの人がこんなことを言って嘆いていたとか、そんなことを思い出したら、じゃあ、あの人にあれをしてあげよう、これをしてあげよう、というようなことがどんどん見つかって、そういうことの積み重ねの中で、これまでとは違った形での「新しい宣教様式」が少しずつ築き上げられていくのではないかと思っています。・・・
 (晴佐久神父) ・・・お互いに「この人と出会えてよかった」とか、「この人と苦しみを共有したい」とか、「本当に辛いときは、必ず助け合おう」と言える、そういう共同体が絶対に必要だとみんな分かっているはず。・・そこにあなたがいるだけで嬉しいと言い合えるような温かいコミュニティを持っている人が、コロナの時代にはとっても強いんです。・・・今この対談を見ている人で、現実に辛い思いをしていたり、苦しい思いをしている人たちもたくさんおられるでしょうが、とても良いことがいま始まろうとしている、そういう希望だけは持ち続けてください。・・・心に火を灯していただきたいなと思います。”(No834).


2020年 7月 5日

Y兄召される

 Y兄が、7月1日朝、肺炎のため息を引き取りました。オーストラリア在住のK姉より、お父様の逝去の知らせを聞きました。諸事情により7月3日の午後、斎場で、火葬前の祈りをささげました。K姉ご一家は、新型ウイルス感染拡大のため、帰国できません。最後のお別れができなかったのは悲しく寂しいことだと思いますが、ご親族のお助けで、インターネット通信を利用して、お顔を拝見し、お声をかけ、祈りの時を共にされていました。
 葬儀の準備のため、Y兄が洗礼を受けるにあたって書かれた証を読み返しました。一部をご紹介します。
 “私が教会の礼拝に出席するようになったのは、私の娘の影響があります。・・・私の娘が小学校の頃から毎日曜日に教会に通っているのを見て、「何のためだろう!」と理解に苦しみましたが、娘は母親の反対を押し切って「受洗」しました。・・・
 数年前に・・・私は会社をリタイアしたばかりで・・・落ち込んだ辛い毎日を過ごしておりました。そのとき娘より「教会へ通ったり、ボランティアの仕事をしたら!」と言われ、それから教会に通うようになりました。最初は礼拝に通うのも戸惑っておりましたが、回数を重ねるごとに、だんだん雰囲気にも慣れ、多くの人たちとも話し合い、良い交流を得ることができました。また毎週の礼拝での説教を聞き、自分なりに解釈し主の偉大さを理解しかかってきました。日曜の礼拝の時間は、一週間のうちで私がいちばん心が落ち着く時です。・・・”(「西川口だより」2006年5月号より)
 Y兄の愛唱讃美歌は讃美歌21・403番「聞けよ、愛と真理の」でした。K姉の大好きな讃美歌だそうです。この2節の歌詞は「仰げ、あがないの主を、世のため苦しみ 永遠(とこしえ)のいのち 与えたイエスを」。葬儀の時は、ヨハネ福音書第3章16節・17節を朗読し、この歌詞を紹介しながら、「Yさんは神に愛され、キリストに救われました」と説教しました。(No.833)

2020年 6月 28日

「しかし、勇気を出しなさい」

 先週6月23日は、3ヶ月ぶりに、埼玉県南牧師会が開催されました。会場は、川口神召キリスト教会(安田眞牧師)の、川口市西立野に2018年9月に献堂された「西立野グレースチャペル」でした。この新しい会堂はログハウスです。木のぬくもりに包まれる素敵な会堂です。9人が集いました。
 県南牧師会では、会場を提供してくださる教会の牧師が奨励をしてくださり、その後で共に祈ります。今回は安田眞先生から歴代誌下第15章より、御言葉の説き明かしをいただきました。
 「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった。しかし彼らは、苦悩の中でイスラエルの神、主に立ち帰り、主を求めたので、主は彼らに御自分を示してくださった。・・・しかし、あなたたちは勇気を出しなさい。落胆してはならない。あなたたちの行いには、必ず報いがある。」(歴代誌下15・3~4、7)
 コロナ禍の苦難を通らされています。信仰の再興のとき、再建のとき、労すべきは祭司であり、教師であること。主を大胆に、かつへりくだって慕い求めること。コリントの信徒への手紙一第15章58節「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」の通りである、と語られました。
 出席された先生方から、近況を伺いました。新型ウイルス感染防止のため、西川口教会と同様に、礼拝堂の礼拝をお休みした教会がほとんどでしたが、短縮した礼拝を続けた教会もありました。御言葉を届けるために、インターネットで礼拝や説教の動画の配信をされたり、説教の動画に英語のテロップをつけたという先生もおられ、そのご労苦に頭が下がりました。困難な中にも、御言葉を届けるために、惜しまず仕えておられる先生方に、とても励まされました。感謝です。(No.832)

2020年 6月 21日

出エジプト記を読もう

 先週6月17日と18日の祈祷会から、出エジプト記を学び始めました。出エジプト記について少し紹介します。
 “特徴…出エジプト記という書名はギリシア語の「エクソドス」という語(「出て行くこと」「出発」)に由来する。七十人訳ギリシア語聖書〔ギリシア語に訳された旧約聖書〕はこのエクソドスという語によって、神がモーセを選び、エジプトで奴隷状態にあったヘブライ人を導き出したことを強調している。…冒頭で創世記46章8節とほぼ同じ文章を繰り返すことによって、創世記に始まった神の民の物語が続いていることが強調されている。
なぜ書かれたのか?…出エジプト記は古代イスラエル史上の二つの重要な出来事を描いている。一つはエジプトからの脱出であり、もう一つはシナイ山での律法の授与である。
 エジプトからの脱出の物語はモーセ誕生の物語から始まる。モーセはエジプトの王女の養子として育ち、その後、神の命によりエジプトの地からヘブライ人を解放する指導者となる。神はイスラエルの民を解放するために、エジプトの地で次々と災いを起こした。そしてついには葦の海を渡らせるという奇跡によって、イスラエルの民をエジプトから脱出させたのである。後の世代はこの出来事を偉大なる神の救いの業として語り継ぐことになる。
 もう一つの重要な出来事であるシナイ山での律法の授与では、モーセを通して民に十戒と律法が与えられた。十戒と律法は神の民が礼拝し、共に生きるための指針であり、そこには聖なる幕屋の建設、祭具や祭司の服の作り方なども含まれていた。シナイ山における神との契約の締結は、神がアブラハムと最初に結んだ契約に基づくものであった。民がイスラエルの神にのみ忠実で、神の命令に従うことによって、約束された神の祝福は確かなものになる。”(「聖書スタディ版」より)
 主が何を語ってくださるか期待しています。(No.831)

2020年 6月 14日

礼拝を再開して

 先週6月7日は、元通りではありませんが、主日礼拝を再開できました。神の恵みに深く感謝しました。讃美歌21・162番「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1より)を心から賛美いたしました。埼玉地区内教会のホームページをいくつか見てみましたが、西川口教会と同様7日に、また本日から礼拝の再開がなされているようです。
 日本基督教団から5月29日付で「新型コロナ新型コロナウイルス感染拡大に伴う『緊急事態宣言』の解除にあたって(第四信)」が発信されました。一部引用します。
 “・・・今後、それぞれの教会・伝道所のご判断で、徐々に、あるいは段階的に、通常の活動の回復をはかっていかれることと思いますが、なお、以下の諸点についてご配慮ください。
1. 第一信にてお伝えしましたように、三密(密閉 密集 密接)を避ける方法で、礼拝やその他の集会を行ってください。また、換気と消毒にはくれぐれも留意をお願いいたします。
2.主日礼拝や大きな集会は、時間差で、数回に分散して行うことも一つの方法です。
3. これまでのデータから分かりますように、高齢の方、基礎疾患のある方は、感染によって重症化する確率が高いことが分かっています。体調の変化などがみられた場合は、礼拝などに出席はされず、自宅で過ごされることをお勧めください。
4. 今回の感染拡大によって、教会の内外で、傷つき、痛みを負った大勢の方々がおられます。その方々へ愛の配慮をいたしましょう。
聖霊降臨は、愚かな一致を図ろうとした人間の罪によって散らされた“民”が、聖霊によって再びまことの一致に導かれた出来事です。イエス・キリストの霊によって、一人ひとりが豊かに結ばれています。主が与えられている恵みと賜物に感謝して、なお、一層、諸各教会・伝道所と関係団体・学校とが、そして、一人ひとりが、なすべき務めに仕えて、連帯して行きましょう。”
(No.830)

2020年 6月 7日

共に集う恵み・神からの問い

 月刊誌「信徒の友」6月号に、代田教会の平野克己先生が「時のはざまに響く声」と題して、今この時代を生きる教会へ、特にこのコロナ禍の事態の中にある教会へのメッセージをお書きくださいました。一部引用して紹介します。
 “・・・週日はほとんど部屋に閉じこもる慣れない生活に、体も心もまだ追いつきません。けれども、無性に読み返したくなった本がありました。・・・ボンヘッファー『共に生きる生活』です。
 この本は次の文章から始まります。
 「キリスト者にとって、彼が〔ほかの〕キリスト者との交わりの中で生きることを許されているということは、決して自明的なことではない」
 そして少し飛んで、ハッとさせられる文章が出てきます。
 「〈キリスト者の兄弟の交わりは、日ごとに奪い去られるかも知れない神の国の恵みの賜物であり、ほんのしばらくの間与えられて、やがて深い孤独によって引き裂かれてしまうかも知れないものである〉ということがとかく忘れられがちである。だから、・・・〈われわれが今日なお、キリスト者の兄弟との交わりの中で生きることを許されているのは、恵みであり、恵み以外の何ものでもない〉ことを知りなさい」。
 教会の礼拝に加わるのも離れるのも自分の自由だと勘違いしていた若い日、わたしにはこの文章の意味がよくわかりませんでした。しかし今だからこそ、よくわかります。・・・
 神は、どうしてこのような状況を放置しておられるのでしょう。わかりません。・・・いったい神は何をお考えなのか。歴史の中で、幾度も繰り返されてきた問いです。・・・けれどもこのように問うことならできるかもしれません。いったい神は、この時代に、あなたにそしてわたしに、何をしようとしておられるのでしょうか。そのように問うとき、今度はわたしたちが答えなければならなくなります。きっと答えが求められているのは、わたしたちの方なのです。・・・”
(No.829)

2020年 5月 31日

賜物としての聖霊

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)。
 復活した主イエス・キリストは、弟子たちにエルサレムにとどまるようお命じになりました。
 「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1・4~5)。
 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1・8)
 この約束を語り、主イエスは天に上げられました。弟子たちは主の言葉を信じ、祈りつつ聖霊を待ち望んでいました。
 使徒言行録第2章を読むと、主イエスが約束されたとおり聖霊が弟子たちに降り、「イエスがキリストである」と力強く説教したペトロの姿を見ることができます。教会の時代が始まったのです。この聖霊のお働きは今も続き、キリストの教会を宣教へと押し出してくださっています。
 このペトロの説教を聞いて心を打たれ、「わたしたちはどうしたらいいのですか」と問う人々に、ペトロはこう答えました。
 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(使徒2・38~39)。
 聖霊は神からの賜物であって、人の手でどうにかできるようなものではありません。特別な人だけが聖霊を受けるのではありません。神は人を分け隔てなさいません。聖霊は、子供にも大人にも、遠くにいる人―エルサレムから見れば、はるか地の果て、極東の日本に生きる私たち―にも、信じるすべての人に与えられる神の賜物です。
(No.828)

2020年 5月 24日

コヘレトの言葉を読もう(2)

 既に3月15日の週報短文に旧約聖書の「コヘレトの言葉」を学び始めたことを書きました。2か月ほど経ち、先週第9章を楽しく学び、全部で12章までですから残り少なくなってきました。
 第9章11~12節にはこうありました。
 「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに 必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも 聡明だからといって富を得るのでも 知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ。 魚が運悪く網にかかったり 鳥が罠にかかったりするように 人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」(傍線は筆者)。
 この学びで用いている小友聡先生の著書「コヘレトの言葉を読もう 『生きよ』と呼びかける書」では、この箇所がこう説き明かされていました。
 “…コヘレトは世界の不確かさ、先行き不透明さを語ります。世界記録を保持するアスリートがオリンピックでは必ずしも優勝できないように、思わぬ出来事が生じます。それが私たちの世界です。人間も突然不運に見舞われます。
 この段落は「コヘレトの言葉」の中で、3章1~17節の「時の詩文」と対応します。「神はすべてを時宜にかなうように造り」「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」というコヘレトの認識は、「時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ」という言葉とつながっています。神は「時」を創造されました。それはカイロス〔時計で計ることができない質的な時間〕です。けれども、人間はそのカイロスをつかむことができません。後になって初めてそれに気づかされます。大切なのは、不確かな世界でどう生きるかなのです。”
 コロナショックの日々ですが、2千年以上前に、聖書は「世界は先行き不透明なのだ」と語っていたのでした。神が時を支配してくださっている。そこに希望を置きます。(No.827)

2020年 5月 17日

主の昇天

 2017年度から、主日礼拝において月に一度「日本基督教団信仰告白」をもとに、説教を続けてきました。日本基督教団信仰告白は、前半と後半とに分けられます。信仰告白の後半は、「我らはかく信じ、代々の聖徒と共に、使徒信条を告白す」と述べられて「使徒信条」が続く部分です。
 ところで現在、コロナウイルス感染拡大防止のため、やむを得ず礼拝堂に集まる礼拝をお休みして、それぞれ家庭(自宅)礼拝をささげています。週報に掲載した家庭礼拝順序には、教会の信仰の告白として使徒信条を入れています。家庭礼拝においても「教会の信仰に立つ」ということが大切です。個人的な礼拝ではないということです。
 「日本基督教団信仰告白」に基づく説教は使徒信条に入って、2020年1月19日の主日礼拝で「死にて葬られ」を取り上げました。
 今年のレント(受難節)では、「十字架上の七つの言葉」を一つずつ取り上げて説教しました。
 そして復活日(イースター)を迎えました。ですので「三日目に死人のうちよりよみがへり」は、イースターの説教で取り上げたこととして、今度の5月24日の説教では、使徒信条の「天に昇り」を取り上げます。
 ルカによる福音書の最後には、復活された主イエスが弟子たちを祝福したのち、天に上げられた出来事が記されています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24・50~51)。
 ルカ福音書を書いたルカは、使徒言行録も書きました。使徒言行録第1章にも昇天の出来事が記されています。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)。
 今年の昇天日は5月21日です。私たちの救い主イエス・キリストは祝福の神、私たちをを祝福してやまない神です。主イエスの祝福の手は、今も、私たちのために上げられています。(No.826)

2020年 5月 10日

「病気は人生の夏休み」

 週報短文のタイトルは、がん哲学外来を提唱しておられる樋野興夫先生の「言葉の処方箋」の一つです。
 3月から新型コロナウイルスの感染の影響を受け、西川口教会も通常の教会活動の変更を余儀なくされました。感染が日々拡大する状況の中で、予定していた集会の中止の決断やお知らせが相次いでいます。長い目で見れば、新型ウイルス感染はいつかは収束を迎えるのですが、それはいつのなのか、誰もわかりません。
 西川口教会の集会室を会場にお借りして、川口がん哲学カフェいずみを続け、樋野興夫先生の「言葉の処方箋」を味わい、カフェに参加されたがん患者さんの心の声に耳を傾けてきました。特に、進行がんの患者さんが、今受けている治療の結果がどうなるか分からないとか、数か月先の予定を立てることもできないとか、先の見えない中で、ご家族のことやお仕事のことに対する心配も抱えつつ、今を大切に、一所懸命に生きる方たちとの出会いに、何度も心を動かされました。
 新型ウイルス感染拡大の状況がどうなるか分からず、教会活動をどうするか考えている中で、心身共に大きなストレスを受けた感じです。そう感じながらも、心の隅で、「がん哲学カフェで出会った方々と、今、私も、ほんの少し似たような体験をしているのかな」と思っていました。
 「病気は人生の夏休み」。そのこころは、そう考えてみて、これまでやれなかったことに、時間を使ってみてはどうでしょうか、ということ。
 今まで忙しく働いてきたのに、病気になったためにポッカリと時間が空いてしまい、他の人は懸命に働いているのに、自分は毎日時間をもて余している。何をしていいか分からない・・・と思っている人に、差し出された「言葉の処方箋」です。
 今この時は、一人ひとりも、社会全体においても、思いがけない「夏休み」が来たのかもしれません。本当に大切なこと、なくてならないことを知るための時間かもしれません。(No.825)

2020年 5月 3日

神の言葉を届けるために

 先月は、新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、通常の教会活動を自粛せざるを得なくなりました。4月5日の定例役員会で、新型ウイルスの感染拡大防止のため、4月12日から礼拝堂の礼拝を休むことを決めました。4月19日の役員会では、緊急事態宣言と埼玉県より外出自粛要請が出されている間の教会活動を次の通りといたしました。
① 主日は、各自が家庭礼拝を続け、夕拝、その他の集会をお休みする。
② 平日は、祈祷会・昼間祈祷会以外の集会をお休みする。
 牧師としては、教会の兄姉に家庭礼拝をお願いするにあたり何も示さないわけにはいきません。近隣教会の牧師から、また説教塾のメーリングリストから、礼拝堂の礼拝を休むにあたり、さまざまな対応の情報をいただくことができました。それらを参考にして、週報に家庭礼拝のための短い礼拝順序を掲載しました。、また、礼拝献金を聖別するようお勧めしました。
 牧師は、日曜の午前10時30分から役員(有志。2人程度)と、礼拝堂で礼拝し、家庭(自宅)で礼拝をささげる人と心を合わせています。この時の礼拝は家庭礼拝と同じ順序で、約30分の短い礼拝です。この礼拝の音声を録音して、西川口教会のホームページから、礼拝音声を聴けるようにしました。また、説教要旨もこの音声を聴きながら書き起こして、教会のホームページに載せています。日曜の夜に更新の作業をしています。礼拝音声を聴けるようにするために、3日間ほど集中して試行錯誤しましたが、何とかできるようになり、神様に感謝しています。パソコンまたはスマートフォンから聴けますので、礼拝の助けにしていただければ幸いです(スマートフォンの方は通信料の設定にご留意ください)。インターネットが利用できない人もいますので、説教要旨は祈りの栞・週報短文の裏に印刷しました。緊急事態宣言が延長とのこと。今しばらく忍耐が必要です。(No.824)

2020年 4月 26日

ヘブライ人への手紙を読もう

 主の年2020年は、西川口教会創立70周年の記念の年で、ヘブライ人への手紙第3章6節を教会の御言葉として掲げて歩み出しました。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」。
 主日礼拝では、マタイによる福音書の説教を終えて、本日(4月26日)からヘブライ人への手紙の説教を始めます。礼拝堂での礼拝ができないのは本当に残念ですが、新型コロナウイルスの感染のリスクがある以上、止むを得ません。今できることを模索して御言葉を届けていきます。主イエスが語られたとおり、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4・4)からです。
 今、外出自粛要請が出され、もしかしたら、聖書を開く時間が与えられた人もあるかもしれません。ヘブライ人への手紙の通読をされてみてもいいかもしれません。
 主日礼拝の聖書テキストはどこが選ばれるかといえば、四つの福音書あるいは、パウロ書簡(ローマ、コリント、ガラテヤなど)が圧倒的に多いという現実があります。特にヘブライ人への手紙は、旧約聖書の引用も非常に多いので、難しく思われて、後回しにされやすいようです。しかし、ヘブライ人への手紙がはっきりと主張していることは、キリストが永遠の大祭司でいらっしゃるという真理です。ヘブライ人への手紙は言葉を尽くして、この真理をしっかりと説き明かしてくれています。ヘブライ人への手紙から、私たちのために主イエス・キリストがとりなしていてくださる恵みを発見していきたいと思います。この新型コロナウイルス感染拡大の状況の中で、思い起こされた御言葉は次の言葉です。「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」(ヘブライ12・28)。アーメン。(No.823)


2020年 4月 19日

日本基督教団からの勧告

 日本基督教団より、4月10日付で、「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第三信)が発信されました。以下、一部引用します。
 “…わたしたちプロテスタント教会は、御子キリストを十字架に架けられるほどに愛してくださった神の愛に応えるために、いかなるときにあっても、一人ひとりが、礼拝をささげることによって信仰を守って来ました。礼拝に『信仰の命』があります。
 しかしながら、今や、その礼拝が、新型コロナウイルス感染のリスクによって脅かされています。神の愛に応える尊い行為そのものが〝ウイルスの感染〟に繋がる危険が生じています。この危険を避けるために、これまでのように礼拝堂など一つの箇所に集ってささげることが、果たして相応しいのか問われる事態となっています。
 命の主である神のみこころに従い、今わたしたちは、この恐ろしいウイルスを感染させないためのあらゆる手段をとり、教会・伝道所が、新型コロナウイルスの感染源とならないようにしなければなりません。症状はなくとも、既に一人ひとりが感染源であるかもしれないのです。
 よって、以下のことを、勧告します。
1. 新型コロナウイルスの感染拡大を防止するために、「緊急事態宣言」が適用された地域にある教会・伝道所では、極力、教会に集わない方法で礼拝をささげることを講じてください。とくに、高齢の方、基礎疾患のある方は、自宅で礼拝をささげるようにしてください。 
2. 自宅で礼拝をささげることも、他者にウイルスを感染させないという意味で「神の愛の業」です。・・・
今、教会に求められていることは、新型コロナウイルスという世と人々を引き裂く“悪しき力”に打ち震えている人々のために真摯に祈る群れとなることです。・・・今このときも、ウイルスの感染による病に罹り苦しむ人々のために、治療と防止にあたっている尊い働き人のために祈ります。”(No.822)


2020年 4月 12日

主は生きておられる

 本日は主イエス・キリストのお甦りを記念するイースター(復活日)。主は甦られました。主は生きておられ、復活のいのちの祝福を注いでくださっています。わたしたちは祝福されています。この主の祝福は、何があっても揺るぎません。
今年は、西川口教会の創立70周年の記念の年として歩み始めていました。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の状況を受け、3月15日の特別礼拝とチェロコンサートは延期となりました。4月5日の役員会では、4月12日と19日の礼拝と夕拝とその他の集会の中止を決定しました。苦渋の決断でした。イースター礼拝を共にささげられないとは、まったく考えられないことが現実となりました。「この試練は何のためですか」と主に祈っています。
 先週の受難週の祈祷会では、主イエス・キリストの十字架上の七つの言葉を改めて心に留めました。そして昨年秋に来日されたローマ教皇フランシスコが長崎でされた説教を紹介しました。
 “「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23・42、43)”
 説教は、主イエスの傍らで、十字架にかけられた犯罪人が言い表したこの信仰の告白に集中するものでした。他の人々は主イエスを嘲っていましたが、この悔い改めた犯罪人だけが主イエスに寄り添い、信仰を表明しました。主イエスはこの人を救われました。この出来事は私たちにとって希望となります。いつでも、どこにおいても、主の救いは差し出されると信じることができます。
 死に勝ち、復活されたキリストは、今も生きておられます。キリストは聖霊を注ぎ、私たちの間で働かれ、いのちの充満へと導いておられます。キリストは、私たちに生きる者であってほしいと願っておられます。まことに、キリストは私たちの、すべての人にとっての希望です。(No.821)

2020年 4月 5日

今こそ祈りのとき

 本日は棕梠の主日。今日から受難週に入ります。キリストの十字架への歩みを思い起こしながら、祈りの時を過ごします。
 新型コロナウイルス感染拡大が止まず、世界中を覆う災いとなっている状況です。日本基督教団も加盟している日本キリスト教協議会(NCC)のホームページに、関連団体のWCC(世界教会会議)および各地域エキュメニカル組織による共同声明「今こそ、キリスト教の牧会的、預言者的、実践的な使命を果たそう」が掲載されていました。
 “・・・わたしたちは、いかなる所においても、人々がこの状況に対して真摯に向き合い、どのような形であれ、いのちを守るために協働することを最優先するよう求めます。そして今こそ、神が愛をもってお創りになったいのちを守るために、わたしたちが、言葉と分かち合いと行動によって、また、為しえないことにおいてさえも、互いに心からつながり合うべき時です。・・・
 いのちの神に対するわたしたちの信仰は、このウィルスを伝染させないためのあらゆる手段をとることによっていのちを守るよう、わたしたちを駆り立てています。安全かつ実際的な方法でいのちを守り、苦痛を和らげ、そして教会や公共サービスの場が決してウィルス感染の中心地になることがないよう十分に注意しながら、神の無条件の愛を具現化してゆこうではありませんか。・・・
 レントにおけるわたしたちの巡礼の旅は、苦労と困難と誘惑の荒れ野を通って、死から復活へ、神と共にある新しいいのちへと至ります。この荒れ野は、新型コロナウィルスによって一層わたしたちに対して厳しく、恐ろしいものとなりました。しかしわたしたちは、心を合わせて連帯し、嘆く者と共に嘆き、不安を抱えた人々と平安を分かち合い、信仰における連帯を通して希望を取り戻すよう招かれています。・・・
 神の愛はあらゆるものを包んでいます。いのちの神は、苦難の中にあってもなお、わたしたちと共にいます。”アーメン。(No.820)

2020年 3月 29日

「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第二信)

 3月27日付で、日本基督教団より「新型コロナウイルス感染症に伴う注意喚起について」(第二信)が届きました。一部引用します。
 “新型コロナウイルスによる感染の拡大は収まる様子がありません。・・・
 そこで改めて、教団としての方針をお伝えしたいと思います。
1. 教会活動の基本は、毎主日の礼拝です。しかし専門家によれば、礼拝は「感染リスクの高い環境」であることを認識する必要があることに変わりはありません。そこで、礼拝をささげる場合は、礼拝時間の短縮や換気の徹底など、可能な限り感染のリスクを減らす対策を必ず取るようにしてください。
2. 教会が礼拝をささげない(中止する)ということはありません。礼拝は集会でもイベントでもないからです。たとえ礼拝堂に集うことがなくとも、「教会は礼拝をささげる」ということを大切にしてください。
3.現実的には、各教会・伝道所の判断が優先されますが、いうまでもなく、「祈り」をもって慎重にご判断ください。
4.感染リスクが高くなるのは「換気の悪い密室空間」「多くの人が密集した場所」「近距離(手を伸ばしたら届く距離)での会話や発声」です。これらの条件が重なる場合は、礼拝堂での礼拝を中止することも検討してください。・・・
 日本基督教団は「日本基督教団信仰告白」を告白し、「教憲教規」を守ること以外は、各人と各個教会・伝道所による〝自由な証し〟を大切にしてきました。その信仰を、このたびの感染対策にも生かしたいと思います。一人ひとりが、諸教会・伝道所が、諸教区(支区 地区 分区)が、神に向かって真摯に祈り、最も良い答えを見出させていただき、この“試練の時”をご一緒に乗り越えたいと願います。・・・”(No.819)

2020年 3月 23日

新型ウイルス感染拡大と教会の現場

 新型コロナウイルス感染拡大に歯止めがかからない事態に、様々な領域で、大きな影響が出ています。3月初めの学校の休校には驚かされました。日本全国に感染が広がり、川口市や私の住む戸田市からも感染者がありました。最近では、ヨーロッパでの急激な感染の拡大にも驚いています。
 2月末に、日本基督教団総会議長名で、「新型コロナウイルスの感染症に伴う注意喚起」の文書が届きました。訂正版も発信されました。礼拝が感染リスクの高い環境となり得るので、感染リスクを減らすようにとの要請です。改めてお読みくださいますように、お願いいたします。
 先週の火曜日は、久しぶりに埼玉県南牧師会が開催されました。昨年のリリア音楽ホールでのクリスマスの夕べの評価と展望を語り合い、近況を分かち合いました。最後の方では、新型コロナウイルスの感染拡大に対する、教会の現場はどうなのかということも話されました。礼拝以外の集会を取りやめている教会、讃美歌を歌わないで礼拝を短くしている教会、礼拝を自粛する人や、家族から礼拝を休むように言われている信徒もいる、インターネットなどで礼拝を配信している、外国人の信徒が多い教会は来られない人が増えた、子供たちの活動を休んでいる教会など、苦慮している状況が伝わりました。日本基督教団では対応は各教会に任されていますが、他の教団や教会によっては一律に、礼拝はお休みというところもあります。
 教会活動の基本は主日礼拝にあります。感染の状況も、地域で異なりますし、教会の規模なども各教会で異なりますから、各教会がそれぞれに、どう礼拝をささげるかを検討していくほかないでしょう。これは長期戦になりそうです。こういう時だからこそ、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(エフェソ6・18)。(No.818)

2020年 3月 15日

コヘレトの言葉を読もう

 先週の祈祷会から、旧約聖書「コヘレトの言葉」の学びを始めました。参考図書は、東京神学大学教授の小友聡先生の「コヘレトの言葉を読もう 『生きよ」と呼びかける書」です。小友先生の生き生きとした説き明かしとなっていて、とても楽しみです。ぜひ、ご一緒にコヘレトの言葉を読みましょう。お待ちしています。この本の「序『コヘレトの言葉』について」から一部引用します。
 “・・・私は新しい視点でこの書を説明できると考えています。それは、黙示思想との対論がこの書の中で一貫していると見られるからです。・・・私はダニエル書との比較においてこのことを考えます。・・・
 ダニエル書の成立は紀元前2世紀半ばと考えられていますが、私は「コヘレトの言葉」も同時期に成立したと見ています。現在、このように考えることは通説とは異なりますが、私はこの線で考えるのが妥当ではないかと思います。・・・黙示的生き方は来世に価値を置き、現世は堕落して破局に向かうゆえに、これを試練として耐え、禁欲的に生きるという態度です。
 コヘレトはこれに対して、現世を喜び楽しみ、すべてを神からの賜物と受け入れ、与えられた生を徹底して生きることを説いているのではないでしょうか。歴史に終末などなく、あるのは人間の死という終末。これは伝統的な知恵文学の思想です。その終わりを見つめ、そこから翻(ひるがえ)って今を生きよ、とコヘレトは呼びかけているのではないでしょうか。「空しい」とは人生を儚(はかな)む言いではなく、むしろ人生の短さを単に述べているのだと考えられます。コヘレトは生きることにこだわります。このように「コヘレトの言葉」を読み取ること。これが、本書で試みる新しい読み方です。今、生きている時を全力で生きよ。「コヘレトの言葉」が指し示す生き方は、今日、なお光を放ちます。さあ、新しい視点で「コヘレトの言葉」を読んでいきましょう。”
(No.817)

2020年 3月 8日

3月11日を迎えるにあたって

 2月27日付で、関東教区諸教会に宛てて、関東教区総会議長福島純雄先生と教区の災害対応支援委員会統括の飯塚拓也先生の連名で「2020年3月11日を迎えるにあたって」のメッセージが届きました。一部を紹介します(全文は掲示板に)。
“「主よ、わたしの神よ
  御名のために、わたしに計らい、恵み深く、慈しみによって、わたしを助けてください。」(詩編109編21節)
  「東北教区3.11 わたしたちの祈り 2020」より
 
 主の御名を賛美いたします。
 2020年3月11日(水)は「東日本大震災」発生から9年を迎える日です。
 9年前のこの日、わたしたちは根底からくつがえされるような出来事を経験しました。わたしたちはこのことを忘れることはできませんし、今もなお震災による苦しみや悲しみを携えて生きざるをえない方々がいらっしゃることを覚えたいと思います。
 また、東京電力福島第一原子力発電所の事故は、神さまから託された世界を放射能によって汚しました。そして、原子力に頼る私たちの社会のあり方に、大きな問題があることを教えました。原発周辺の方々は避難を余儀なくされ、今もなお不安の中におかれています。
 私たちは、今もなお痛みと悲しみ、大きな不安の中にある方々を覚えつつ、3月11日を迎えたいと思います。私たちの内で、3月11日の出来事を風化させるることのないよう、むしろ思いを新たに迎える日としましょう。・・・
 2月26日(水)に「灰の水曜日」を迎え、レントへと導かれました。主の受難を思いつつ、主が人の苦難をその身におわれたことに、深く心を動かされたいと思います。そして、私たちも、苦難の中を歩む方々と共に在りたいと願います。”(No.816)

2020年 3月 1日

「神にゆだねて」

 ある先生からのご紹介で、フィリップ・パーハム著「神にゆだねて 回復のためのクリスチャンの瞑想」という祈りの本を知り、入手しました。この本の帯には「米国のアルコール依存症救済の会で採用されている回復までの12ステップから生まれた本! 回復のための祈りと歩み」とありました。この本の巻頭の「はしがき」にはこうありました。
 “「神にゆだねる」はアルコール依存症自助グループのスローガンの「悩まず神にゆだねよう」を簡潔にした表現です。・・・本書は回復中のクリスチャンのために書かれています。・・・キリストにある癒す神の力を信じているなら、そして嗜癖の原因についてのあなたの判断を「神にゆだねる」ことに意味を見い出すでしょう。
 本書は、神について書かれています。「神にゆだねる」とは、緊張からの解放、信頼への明け渡し、病気から安らぎに至る証言をしています。毎日与えられるのはキリストにあるくつろぎと平和です。・・・聖なる生活というのは聖徒であるという意味でなく、平安な状態である存在のことです。奮闘することをやめ、緊張を要する努力をやめ、高い力のイエス・キリストの腕にゆだねるときにそれは得られるのです。
 「神にゆだねる」ことはすべての平安や霊的経験への秘訣です。内と外で神にゆだねること、キリストの人間性を認めること、人間の神聖さを認めることは「神にゆだね、神に任せること」です。・・・神が神であることがわかるとき、私たちは神の癒しの愛を受け入れます。愛が流れるのに任せます。・・・自分の弱さを認め、神の力を受け入れます。・・・
 ゆだねて、コントロールできない私たちの無力さを認め、最初のステップを踏むとき・・・私たちは神の前にあって傷つきやすく、無防備であることを知り、神を受け入れることがいかに素晴らしく、恵まれたことであるかを学びます。・・・”(No.815)

2020年 2月 23日

「ひたすら前に」

 現在、火曜会で、私は「あなたのままで輝いて マザー・テレサが教えてくれたこと」という本から、マザー・テレサの言葉を一つずつ紹介しています。この本では、片柳弘史神父がマザーの言葉を説き明かされています。
 マザーの言葉の一つ、「わたしは、神様の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」という言葉があります。この言葉について、片柳神父が、カトリック教会の「心のともしび」運動の「心の糧」に最近寄せられた文章「ひたすら前に」を読みました。
 “マザー・テレサはよく、「わたしは、神様の手の中の小さな鉛筆に過ぎません」と言っていた。
彼女の人生という一枚の素晴らしい絵は、彼女という鉛筆を使って、神様が描いたものだというのだ。彼女はただ、神のみ旨のままに線を描き続けたに過ぎない。
 そのように生きているとときに、「なぜこんな線を引くのだろう」と思うことがあるかもしれない。だが、神のみ旨のままに描いていれば間違いはない。いつか天国から神様と一緒に完成した絵を見るとき、わたしたちは全ての線が完璧に引かれていることに気づくだろう。
 そんな話をしていたとき、ある子がこんなことを言った。「わたしの絵の先生は、間違った線を引いてもすぐ消すなと言います。描き続けて、絵の一部にしてしまえばいいんだって」。その言葉を聞いてわたしは深く感動した。
 わたしたちはときに、神の思いを離れ、自分勝手に間違った線を引いてしまうことがある。だが、それでも諦めたり、自暴自棄になったりする必要はない。最後まで描き続ければ、神様はその間違った線さえ、美しい絵の一部にしてしまうことができる方なのだ。むしろ、その線が、絵に更なる深みを与えるかもしれない。子どもの言葉を聞いたとき、わたしはそう思ったのだ。・・・
 大切なのは、間違いを犯しても諦めないことだ。神のみ旨のままに、人生の絵を描き続けたい。”(No.814)

2020年 2月 16日

がん哲学カフェから学ぶこと

 教会堂をお借りして川口がん哲学カフェ「いずみ」を続け、先月の1月25日には、開所3周年記念講演会を開催しました。樋野興夫先生には開所記念講演会から4回連続、毎年講師としていらしてくださって、感謝でいっぱいです。
 これに先立ち、昨年12月、日本キリスト教団出版局より「教会でもがん哲学外来カフェを始めよう」(樋野興夫編著)が刊行されました。現在、日本全国に「がん哲学外来カフェ」が200ヶ所ほどあり、教会で開かれているカフェは約50ヶ所で、どんどん増えています。この本には、教会で開かれている各地のカフェの代表の方々の苦労や喜びや驚きなどがつづられています。わたしも書かせていただきました。
 この本の第1部「教会で、がん哲学外来を開くために、大切なこと」にカフェがどのように行われているのか、具体的に紹介されています。
 その中で、わたしが皆様に紹介したいのは、次の二つです。
①がん哲学外来カフェを安心、安全な場にするための約束
・自分の考えや価値観を押し付けません。
・相手の意見や考えを否定しないで聞きます。
・全員が話せるように、一人で長く話しません。
・強引な販売や勧誘はしません。
・カフェの外での交流は各自の自己責任で行います。
②対話のルール
・何を言ってもよい
・聞いたことを批判しない
・発言したいときは手をあげる
・参加者への質問は大歓迎
・沈黙の時は「考える時」
・ただ聞いているだけでもよい
 様々な苦しい思いを抱えている人が来られます。そのような人を受け入れ、寄り添うための心得です。教会でこそ、必要ではないでしょうか。(No.812)

2020年 2月 9日

再び、中村哲医師のこと

 アフガニスタンでNGO「ペシャワール会」の現地代表の中村哲医師が、銃撃によって亡くなられてから2月4日で2ヶ月が経ちました。中村さんの追悼の企画が各地で行われ、追悼記事もしばしば目にします。私は著書「天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い」を読了し感銘を受けました。アフガニスタンの沙漠地帯に、用水路を拓いていく苦闘の記録です。用水路、取水堰、堤防、貯水池等、建設工事の内容は理解しきれませんが、言わんとしていることは伝わります。水路を作っても、水が通らなければ意味がないのです。凄まじい自然の猛威の中で、何度も立ち止まり、研究し、取り組まれる中村さんの姿に頭が下がります。2010年の大洪水を経て、こう記されています。
 “いかに強く作るかよりも、いかに自然と折り合うか・・・自然の理を知るとは、人間の技術の過信を去ることから始まる。主役は人ではなく、大自然である。人はそのおこぼれに与かって慎ましい生を得ているに過ぎない。・・・この事態を前に、初めて骨身に染みて実感したのである。・・・こうして未曽有の大洪水は多くの教訓を残した。・・・どこか人間中心の未練を拭いきれず、河川を眺めてきた。河川の側から人里を見ることが徹底して求められたのだ。・・・自然は制御できない。恩恵は自然と和してこそ褒美として与えられる。うなだれるように、そう思った。・・・”
 「骨身に染みて」、「うなだれ」、振り出しに戻って、中村さんは研究を進め、改良工事を完成させました。2013年の夏。数度にわたって、2010年をさらに上回る洪水が襲ったとき、どの取水口も被害を免れ、「洪水にも渇水にも強い堰」は、多くの人の命を救いました。
 「はじめに」に中村さんはこう記しています。“現地三十年の体験を通して言えることは、私たちが己の分限を知り、誠実である限り、天の恵みと人のまごころは信頼に足るということです。”アーメン。(No.811)

2020年 2月 2日

摂理の信仰に生きる

 創世記の学びは先週の祈祷会で第65回となり、そろそろ終わりが見えてきました。先週読みました創世記第45章はヨセフ物語のクライマックスで、懐かしい兄弟を前にして、ついに自分がヨセフであると身を明かすところです。祈祷会の学びでは、松野俊一先生の創世記講解説教を紹介しています。第45章の説教にこうありました。
 “・・・ここに示されているヨセフの信仰は、ひと口で言って「摂理信仰」であると言えます。ヨセフが過去における兄たちの仕打ちを恨んだりしない、その復讐を企んだりしないということの背後には、彼の摂理信仰があったことを思わされます。それは、恨み、つらみのかなたへ、恩讐の彼方へ人の心を飛躍させる信仰の力と言えます。・・・摂理には、神が前もって見ていてくださる、先を見通していてくださるという意味があることになります。・・・
 摂理という言葉には・・・神見たもう、神備えたもう、というこの二つの内容が同時に込められていることを考えさせられます。私たちはその理性をもってしては見極めることのできない、不思議な神の御手によって導かれながら、日々を過ごしていると言えます。・・・”
 摂理の信仰と言えば、ローマの信徒への手紙第8章28節が思い起こされます。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。神は先を見通しておられる、神が備えていてくださる、この神の摂理を信じる信仰です。キリストの教会に生きる私たちにとっては、神の備えとは、イエス・キリストの福音です。
 西川口教会の歩みにおいても、私たちの理性では見極められない神の御手の導きがあることを信じます。日々の歩みも、来週の教会総会・全体懇談会も、新しい年度も、この神の摂理を信じる信仰をもって臨みたいと思います。(No.810)

2020年 1月 26日

献身の喜び・救いの喜び

  本日は、今年度の日本基督教団埼玉地区講壇交換礼拝を三芳教会と実施しました。講壇交換礼拝を行うと、相手教会の牧師とお出会いし、お互いのために祈り合うことができますので、貴重な機会です。このたび、中山弘隆先生のプロフィールを拝見し、私が生まれる前から、教職として仕えてこられたことを知りました。中山先生が、なお現役で主と主の教会に仕えておられるのは、大きな励ましです。主の祝福を見るようです。
 さて、昨年牧師室で書類を整理中、思いがけず自分が洗礼を受けたときの証しが載っている月報を見つけました。何を書いたか記憶にはありませんでした。掲載されていたのは1982年1月10日発行の「西川口だより」第163号でした。
 “私が洗礼を受けようと決心したのは、去年の夏休みに参加したホーリネスの中高生聖会のことでした。・・・神様は、私たちのために、この世にイエス・キリストをつかわして下さり、罪人である私たちにも、恵みといつくしみを与えて下さいます。それを知らない人たちが、世の中にはたくさんいます。その人たちに、神様のことを知ってもらうのが、これからの私のキリスト者としての大切なことだと思います。・・・今、受験をひかえて日曜日など試験に重なってしまうこともあるので、その他の日曜日には必ず休まず礼拝に出席するようにします。信仰問答で・・・父なる神、子なるキリスト、聖霊である、三位一体の神様について、教会について、罪と赦しについて、などなど。今まで知らなかったことがわかって、もっともっと神様について知りたくなっています。・・・長い間教会に通って12年目のイエス様の誕生日に受洗できて、本当にうれしいです。”
 中学3年生の時の受洗の証しは気恥ずかしく感じますが、それでも、救いの喜びが伝わってきました。今日まで主からの喜びに生かされ、感謝でいっぱいです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8・10)。
(No.809)

2020年 1月 19日

鹿児島への旅

 神様に守られ、1月11日から14日までの鹿児島の出張の旅は、予定されていた奉仕を果たして、無事戻ることができました。皆様のお祈りを心から感謝いたします。
 今回鹿児島に参りましたのは、毎年成人の日に開催される「こころの友伝道南九州支部講習会」の講師として招かれたためでした。実は、昨年の講習会にお声をかけていただいたのですが、埼玉地区新年合同礼拝があるため、やむなくお断りをしました。再びお招きをいただき、伝道のためということで、今回は埼玉地区の方はお休みして、鹿児島に伺うことにしました。
 講習会は当日の朝から始めるため、遠方からの講師には早めに来ていただき、前日の主日礼拝説教も合わせて奉仕をする慣例となっているそうで、それもお引き受けしました。1月12日は今回の講習会の会場でもある日本基督教団鹿児島加治屋町教会で主日礼拝をささげました。鹿児島加治屋町教会は、1877年(明治10年)に米国メソジスト教会から派遣された宣教師によって伝道が始まり、翌年に教会が発足しました。1916年(大正5年)に敬愛幼稚園が創設されました。長い歴史を持ち、幼児教育を始め地域に仕えてきた鹿児島加治屋町教会の良き伝統を肌で感じました。教会の皆様は、説教をよく聴いてくださり、礼拝後の挨拶でも素直に応答してくださった方々が多く、とても励まされました。
 13日(月・祝)には、第30回こころの友伝道南九州支部講習会が開催され、鹿児島県内から9教会、47人(子供含む)の出席者があり、その熱意に感動しました。午前と午後と約1時間の講演を2回いたしました。「隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22・39)の御言葉を念頭に、午前は「自分を愛するとはどういうことか」を共に考え、午後は「隣人を愛するとはどういうことか」を共に考え、特に「聞くという奉仕」についてお話させていただきました。(No.808)

2020年 1月 12日

「いい覚悟で生きる」

 いよいよ、川口がん哲学カフェいずみ開所3周年記念講演会が近づいて参りました。1月25日(土)午後1時30分から3時30分までです。会場は、西川口教会の礼拝堂です。講師は今回も樋野興夫先生(新渡戸稲造記念センター長、順天堂大学名誉教授、順天堂大学医学部病理・腫瘍学客員教授、一般社団法人がん哲学外来理事長)です。樋野先生は、2008年に「がん哲学外来」を開設。がんで不安を抱えた患者と医療の間にある「隙間」を埋める活動を続けています。
 この週報短文を書いている時点で、講演会の参加申込は約20人です。まだ席は空いています。ぜひご参加ください。また今回は講演会後、樋野先生との面談を受付けています。1組20分で2組までです。こちらも現時点でまだ申込がありませんので、樋野先生の「がん哲学外来」を希望する方は金田までお電話ください。
 今回の講演会のテーマは「いい覚悟で生きる―がん哲学外来の原点―」です。樋野先生の著書「いい覚悟で生きる」から言葉の処方箋「いい覚悟を持って生きる」をご紹介します。
 “がんや病気と向き合う「ふつうの覚悟」ではなく、自分の役割意識と使命感を持って生きる決意、それが「いい覚悟」です。・・・
「いい覚悟」とは、主人公は病気ではなく、あなた自身が人として成長していくために持つものです。・・・生きている限りは、人は役割と使命感を持っていると私は思います。そこでは、病気だから、がんだから、体が不自由だから、という言い訳は通じません。これまで人生に期待するばかりだったとしたら、これからの自分は人生から何を期待されているのかを、ぜひ謙虚な気持ちになって問うてみてください。
 それで苦しみが消えることはおそらくありません。病気という問題が解決されることもありません。けれども、苦難をとおしてこそ気づく、自分の役割意識と使命感があると思うのです。・・・”
(No.807)

2020年 1月 5日

成人祝福式によせて

 主の年2020年を迎えました。
 本日は、新年最初の主日礼拝です。わたしが来週鹿児島に出張する都合により、本日の主日礼拝で成人祝福式を行うことになりました。3人の成人の方をお迎えできて、大きな喜びです。
 若い世代の人へ、皆さまならどのような言葉を送りますか。教会生活の長い人であれば、若い人へ送る御言葉として、以前使用していた口語訳聖書の伝道の書第12章1節を思い起こすことでしょう。「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。」教会学校暗唱聖句の定番の聖句でした。
 新共同訳聖書では、書名が「コヘレトの言葉」となりました。第12章1節は、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」
 ちなみに、2018年12月に発行された聖書協会共同訳では同じ箇所が、「若き日に、あなたの造り主を心に刻め。」と訳されました。
 この有名な聖句は、このように続きます。
「苦しみの日々が来ないうちに。
 『年を重ねることに喜びはない』と
 言う年齢にならないうちに。」(新共同訳 コヘレト12・1)
“若いうちに創造主を知れば、年を取って幸せになれる、とは書かれていません。「苦しみの日々が来ないうちに・・・」と記され、年を重ねる「闇」の恐怖をあおるような書き方がされています。・・・
 旧約時代の平均寿命は四十歳に満ちませんでした。青春期の若者があとどれくらい生きられるか、時はごく限られているのです。二十歳になった若者の平均余命が六〇年、七〇年という現代とは全く意味が違います。終わりまでの時間はわずかです。その終わりを前にして、今この時を創造主から与えられた掛け替えのない賜物として受け止めなさい。こうした呼びかけが、「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」という言葉に込められているのだと思います。・・・”(小友 聡著「コヘレトの言葉を読もう」より)
(No.806)



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