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週報短文

バックナンバー 2015年


2015年 12月 27日

礼拝から礼拝へ 祈りから祈りへ

 2015年、戦後70年の区切りの年が終わろうとしています。先週12月24日のキャンドルサービスの招きの言葉は、イザヤ書第9章5節からでした。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。・・・権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。」。平和の君である救い主イエス・キリストはお生まれになりました。この世界に、わたしたちと共にいるために、来てくださいました。ここにわたしたちの希望があります。忍耐強く、キリストの平和が実現するようにと祈り続けてまいりましょう。時が良くても悪くても福音を宣べ伝えましょう。新しい年も主の日の礼拝から礼拝へ、祈りから祈りへ(祈祷会を大切に)の日々を過ごしてまいりましょう。
 先週の祈祷会で祈りを学びました。大切なことなので、皆様にもお伝えしたいと思います。
 わたしたちの祈りには個人の密室の祈りと教会における公同の祈りとがあります。この二つの祈りは車の両輪のようなもので、一つ欠くと祈りは前進しません。絶えざる密室の祈りが公同の祈りを生命あるものにし、公同の祈りによる交わりが真実な密室の祈りを生むのです。
 その人の生涯にとって、最も大事なことは、祈りの道を教えてあげることではないでしょうか。教える最大の方法は自分がそれに生きることです。そこにある平安、そこで得る自由、そしてそれによって与えられる希望、こうした祈りの生活にわたしたちが生かされるとき、周りの人たちにもそれを伝えて行くことができるのです。
 祈り求めても与えられないときがあります。その時には、動機を吟味すべきです(ヤコブ4・3)。そして、願いが聴き届けられないところに御心があることがあります(マルコ14・36)。長い時間を経て、神が祈りに応えてくださることがあります。その人が神の業を理解しきれていないため、祈りの応えに気づかないこともあります。
(No.598)

2015年 12月 20日

「きよしこの夜」

 クリスマス礼拝の日を迎えました。アドベントからクリスマスの讃美歌は歌いつくせないほどあります。その中で一番愛されている讃美歌は「きよしこの夜」ではないでしょうか。この秋、大塚野百合著「『きよしこの夜』ものがたり」を読み、その由来を知りました。原文は6節までありその訳が紹介されていました。神の救いの深さ、平和を告げる内容で、とても素晴らしいので紹介します。クリスマスの主をほめたたえます!

一、静かな夜! 聖い夜! 
  すべての者が眠りにおち、目覚めているのは、ただ信頼しあう聖なる二人と 
  巻き毛の気高い幼子のみ。
  眠れ、天国の安らかさに包まれて。 
  眠れ、天国の安らかさに包まれて。
二、静かな夜! 聖い夜! 
  神のみ子よ。何と愛らしく笑いたもうか、気高いその口で。
  その笑みは私たちに救いの時を告げしらせる。
  キリストよ、あなたの誕生によって。
  キリストよ、あなたの誕生によって!
三、静かな夜! 聖い夜! 
  世界に救いをもたらした夜。 
  黄金に輝く天から、神は最高の恵みを見せたもうた、
  人間の姿になられたイエスを。
  人間の姿になられたイエスを!
四、静かな夜! 聖い夜! 
  今日全能の神は 慈父の愛を注ぎ、
  イエスは世界のすべての民を、
  兄弟として優しく抱きしめてくださる。
  兄弟として優しく抱きしめてくださる。
五、静かな夜! 聖い夜! 
  神は長きにわたって私たちを心にかけ、
  その怒りから私たちをときはなち、
  はるか昔の先祖の時代に 
  世界のすべての民を保護すると約束された。
  世界のすべての民を保護すると約束された!
六、静かな夜! 聖い夜! 
  羊飼いらは最初にみ告げをうけた! 
  天使のハレルヤという賛歌によって。
  その調べは遠くに、近くに響きわたった。
  救い主イエスはここにおられる、
  救い主イエスはここにおられる!

(No.597)

2015年 12月 13日

予期せぬ喜びに気づく

 今日アドべント第3主日です。次の主日はクリスマス礼拝です。子供の頃は、わくわくして、教会のアドベントクランツのろうそくが増えるのをうれしく数えていた記憶があります。大人となりいろいろなことに追われている自分自身をを恥ずかしく思いながら、それでもなお主を待ち望み、クリスマスを迎えたいと願っています。クリスマス礼拝を前に参考にした黙想を紹介します。
 “私たちは、予期しない喜び、あるいは予期しない悲しみのどちらに気づいているでしょうか。
新聞は、交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。テレビは、憎しみと暴力、そして破壊のイメージで私たちの頭をいっぱいにします。そして私たちは、人と出会うとこう言います。「このことを聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ」・・・
 信仰を持つ者が受ける大きなチャレンジは、予期せぬ喜びに気づくことです。あるとき、友人と夕食のテーブルを囲みながら、その国の不況について話し合っていたときのことです。経済がますます悪化していくだろうという悪い材料を並べ上げていました。すると突然、友人の四歳になる男の子がドアを開けて父親のところに走ってきました。そして、こう言いました。「パパ見て! 見て! 庭で子猫を見つけたよ。ほら、かわいいでしょう」・・・そのとき、すべてが一瞬のうちに変わってしまいました。・・・微笑み、やさしい触れあい、そして多くの思いやりのある言葉が、その場に生まれました。・・・私たちは思わぬ喜びに気づいているでしょうか。それとも「そうなれたら何と素晴らしいことか。でも現実はそんなに甘くはない」と言い続けるのでしょうか。神は、この荒々しい世界のただ中で小さな子供になってくださいました。その小さな子供が、本当の現実を私たちに明らかにしてくれると考えたことがありますか?”(ヘンリ・ナーウェン著「いま、ここに生きる―生活の中の霊性」より)
(No.596)

2015年 12月 6日

世の光こそ教会の本質

 今年の9月の祈祷会・昼間祈祷会では、榎本保郎先生の著書「教会づくり入門」より、11月末で本編分の全12章を学ぶことができました。今、西川口教会の中長期的な課題として祈りながら進めていますのは、「子供も一緒の礼拝」、「宣教の器としての会堂建築」です。忍耐強く取り組んでいる日々が続いています。そのようなときに、この「教会づくり入門」に出会い、その言葉に、「なるほど、本当にそうだ」と思わされることしばしばです。最近、心動かされたのは第11章「世の光こそ教会の本質」からの文章で、ここに紹介したいと思います。
 “…個々の教会においても、今日多かれ少なかれかつて味わったこともなかったような悩みのなかにあります。…多くの教会では交わりが失われていっているそうです。…ほんとうにこうしたことは悲しいことです。でも、これを教会の破壊のように思うことは正しいことなのでしょうか。むしろ、ここに教会づくりがなされているのではないでしょうか。…「主にゆだねる」とか「主に信頼する」ということはけっして、ただばく然とゆだねたり信頼したりすることではありません。主のお約束を信じて、それに応えて生きていくことです。そのとき、人知をはるかに超えた主の平安がわたしたちにのぞんで来るのです。…
 世がその暗黒の度を深めていくとき、教会は世に埋没していてはなりません。世の光こそ教会の本質です。…世の問題をまともに受けとめ、主の大能の力をもって暗さと戦って行くものでなくてはなりません。…しかし、問題が具体的になればなるほどそれに対する態度や意見が異なってくるのは当然です。…お互いに主にあって尊び合いつつ、意見をかわし、激しくぶつかり合っていくところに教会の苦悩があり、そこに現代における教会づくりがあるのだと思います。…わたしたちも意見を異にするもの、立場を異にする者のために、もっと悩むべきではないでしょうか。この愛こそすべてを全うするものだと思います。”
(No.595)

2015年 11月 29日

神のために力を合わせて

 川口市、蕨市、戸田市にある諸教会の協力によって、今年も今週の12月1日(火)夜7時から、埼玉県南「クリスマスの夕べ」(クリスマスコンサート)が開催される運びとなりました。
 川口リリア音楽ホールで「クリスマスの夕べ」が開催されるようになったのが2000年の12月からでした。その数年前に超教派の地域の牧師会(当時・県南四市牧師会)が立ち上げられました。わたしが西川口教会の伝道師として迎えられたのは2000年4月でしたから、牧師会の初めの頃についてはあまりよく知らないのですが、この地域のためにクリスマスの伝道を協力して一緒にやりたいということで始まったと記憶しています。リリア音楽ホールでの開催を第1回として数えたら、今年は第16回になります。このようにして、「クリスマスの夕べ」が続けられたことは、とても大きな神の恵みだと思っています。
 牧師会の名称は、鳩ヶ谷市が川口市と合併したこともあって数年前に「埼玉県南牧師会」となりました。以前は「クリスマスの夕べ実行委員会」を別に組織していたのですが、先生方の転出や、いろいろな事情もあり、現在はこの牧師会が「クリスマスの夕べ実行委員会」として一年かけて準備にあたっています。まだまだ試行錯誤のところがありますが、特別ゲスト以外の、説教者や聖歌隊奉仕者は地域の教会から立てられて、それを大事にしています。埼玉県南の諸教会と教会に連なる方々が自分の教会の集会と思って、用いてくださるようにと祈ります。そして、地域の人々に、もっと届くようにと願っています。
 リリアは川口駅から直結して交通の便が良いので、県南ばかりではなく、沿線の教会のためにも用いられたらと願い、教団の諸教会にチラシを送り、埼玉地区月報にも案内を載せてもらいました。自分の教会が栄えることではなく、キリストの救いに与る人が起こされるために、神のために力を合わせて仕えます。
(No.594)

2015年 11月 22日

全体懇談会への招き

 皆様への呼びかけが遅くなってしまいましたが、来週の午後は、教会全体懇談会を開催します。内容は「会堂建築について」です。
 懇談会の進め方として、①「工事見積・所見報告」の報告、②会堂建築検討委員によるコメント発表と協議、③参加者からの意見交換・質疑応答、となります。ぜひ参加ください。
 ①については、先週木曜日に、会堂建築のコンサルタントをお願いしているHN兄(一級建築士。川口中央福音自由教会員)より、専門家としてのコメントをいただきました。この説明会には会堂建築検討委員以外の出席者は少なかったし、このことは教会員に報告する必要があると考えたからです。②については、検討を進めている2つの候補地についてのメリット、デメリットを示して、互いに協議します。③については、①、②をうけて、参加者からの意見を伺う時間となります。皆様の声をあげてくださるようお願いします。
 「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1・22~23)
 教会はキリストの体です。地上にある小さな群れである西川口教会もキリストの体なのです。キリストの体を構成する一人ひとりは、頭であるキリストを源としている無くてはならない部分なのです。ですから、「わたし」であり、「あなた」である一人ひとりの思い、発言は大切に受けとめ、応答していかなくてはなりません。あの人の言葉は聞かれ、この人の言葉は退けることがあってはなりません。地道なことですが、そこにキリストの体である教会が建て上げられていくことと信じます。
 主日礼拝は伝道の最前線です。福音を聞いて信仰が生まれます。宣教の器としてのふさわしい会堂を待ち望んでいます。
(No.593)

2015年 11月 15日

無垢なヨブ

 先週8日と、本日15日の礼拝において、成長祝福式(七五三)をすることができ、とてもうれしく思います。主イエスのお言葉が思い起こされます。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ18・3)
 さて11月1日の週報短文で日光オリーブの里アシュラムの報告を書きましたが、ヨブ記における新たな気づきがあったので、もう一言。榎本恵先生の説教から、ヨブ記1章、2章のキーワードは「無垢」と語られ、ハッとしました。そして、その意味を黙想し続けています。
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(ヨブ1・8)
「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」(ヨブ2・3)。
 神の許しのなかでヨブはサタンの激しい試みに遭います。理由もなく財産も家族も失い、全身を皮膚病で覆われたヨブに、彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(ヨブ2・9)と言いました。彼の妻にとって夫であるヨブが無垢であることは、愚かなこと、苦々しいことでした。
 「無垢」とは、主イエスが語られた「子供のようにならなければ」との御言葉と響き合うと、説教で語られました。理由もなく苦難が襲っても、どこまでも神を畏れて生きたヨブ。そのヨブを黙想していて、主イエスのお姿と重なってきました。地上の誰よりも無垢であられた神の御子主イエス。正しく罪のないお方が、わたしたちの救いのために苦難をその身に引き受けてくださいました。「子供のように」とは十字架の主イエスに至ることだと、大きな気づきでした。
(No.592)

2015年 11月 8日

何よりもまず求めるべきものは

 「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6・33)
 2015年も2か月を切り、この年も終わりに向かっています。クリスマスを迎える準備が始まりました。いつものように来るべき年の西川口教会の御言葉を選びました。冒頭のとおりです。礼拝堂の掛け軸や、週報・月報には、前半部のみ掲載することにします。これは、今年7月に開催された記念すべき第40回西川口教会アシュラムにおいて与えられた御言葉の一つです。主イエスが弟子たちに語られた山上の説教の言葉です。
 その前の御言葉も合わせて読みたいと思います。
 「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6・31~32)
 天の父はわたしたちに必要なものをご存じでいてくださいます。主イエスはこうも言っておられます。
 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(マタイ6・8)。
 主イエスは思い悩みに目を奪われているわたしたちの向きを変え、何よりもまず求めるべきは神と国と神の義だと語られます。そのとき、すべての必要なものは与えられる、と言われます。
 神の国と神の義を求めるとは、いったいどういうことでしょうか。わたしたちはこの主イエスの約束を信じ続けることができるでしょうか。わたしたちはこの御言葉に生きる時、どういう姿を見せるのでしょうか。
 来年は、マタイによる福音書に耳を傾けてまいりたいと願っています。特に山上の説教、主イエスの弟子の生き方を生きることができるように、聖霊の助けを祈り求めます。
(No.591)

2015年 11月 1日

「神から幸福をいただいたのだから」

  先月末は年に一度の休暇をいただき、その中で研修としてアシュラムセンター主催の第3回「日光オリーブの里アシュラム」に参加しました。今年7月に西川口教会で奉仕してくださった主幹牧師の榎本恵先生がご指導くださり、聖書箇所は旧約聖書のヨブ記1章と2章、主題は「神から幸福をいただいたのだから」でした。会場は、緑豊かな日光オリーブの里でした。静かで、アシュラムにふさわしい会場でした。
 ヨブ記の冒頭の第1章で、主なる神の前にサタンが来て神と取引をします。サタンの仕業のためヨブは一夜にしてすべての財産と子供たちを失いました。しかしヨブは決して神を呪うことはせず、かえってこのように告白するのです。
 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(21節)
 ヨブ記の2章で、サタンはヨブの体を打ちます。ひどい皮膚病に冒されたヨブですが、妻の「神を呪って、死ぬ方がましでしょう」という言葉(9節)に対しても、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(10節)と答え、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」(10節)のでした。
 オリエンテーションメッセージで榎本先生は、アシュラム運動の創始者スタンレー・ジョーンズ先生の言葉を紹介されました。ジョーンズ先生はアシュラムに参加しようとする人々に「あなたは自分が変わりたいと願いますか。それがアシュラムへの参加の唯一の資格です」と語られた、と。榎本先生は「わたしは変わりたい。ヨブのようにどんな困難を前にしても、動じることなく、神の御名をほめたたえるものになりたい」と語り、心を注いでお祈りされました。「恵みをいただきたい」と願って参加したわたしでしたが、それは自分が変えられることなのだと示されました。
(No.590)

(2015年10月25日の短文はお休みです)


2015年 10月 18日

クリスチャン新聞の記事から

 今年は、日本で第1回アシュラムが開催されて60周年にあたります。「日本クリスチャン・アシュラム連盟」と「宗教法人アシュラムセンター」が、それぞれ60周年記念のアシュラム集会を開催し、このため、日本にクリスチャンアシュラムを紹介されたスタンレー・ジョーンズ宣教師の孫娘にあたるアン氏が9月に来日しました。このアン氏が祖父について語られた講演が10月18日発行のクリスチャン新聞に掲載され、興味深い内容でしたので、一部ご紹介したいと思います。
 “ジョーンズがインドに到着し〔1907年、23歳〕…電車の中で…向かいの席には、高学歴で英語を話すイスラム教徒の男性が座った…。祖父は熱心に、伝道する気満々で、山上の垂訓を彼に呼んで聞かせたのです。…ところがその男性は、『私たちの聖典にも同じことが書いてありますよ』とさらりと言ってのけたのです。この時が、祖父が『すべての宗教は同じである。その道が異なるだけなのだ』というキリスト教以外の世界で広く言われている考え方に遭遇した最初の時でした。…祖父は、宣教師としての仕事を始めた初期段階で、このようにクリスチャンでない人たちと議論や討論をして彼らが間違っていてキリスト教が正しいのだということを証明しようとすべきなのか、それとも伝道にはそれとは違う方法を用いるべきかという問題について真っ向から向き合ったのです。結局祖父は対決でなく、その他の方法を選ぶように導かれました。…〔彼は〕まず、人々の文化をよく学び、直接その人の生き方や考えに耳を傾けました。インドの人々について、またその文化についても時間をかけて勉強しました。『キリスト教は、今よりももっとキリスト教的になり、同時にインド的にならなければインドの人たちの魂を得ることはできない』と言っています。…彼らが語る言葉に耳を傾けた上で、自分には「キリストがある」と示して見せたのである。”
 伝道のあり方を考えさせられます。
(No.589)

2015年 10月 11日

牧師は信徒のために 信徒は牧師のために

 9月から祈祷会・昼間祈祷会で榎本保郎著「教会づくり入門」を楽しく、意義深く学んでいます。さて本日は、日本基督教団行事暦による「神学校日・伝道献身者奨励日」(毎年10月第2主日)です。伝道献身者の大半は各地域教会の牧師となります。「説教によって教会は立ちもし倒れもする」と言われるほど、牧師の重要な働きは説教です。このことを覚えつつ、先日学びました「教会づくり入門」第4章「説教の秘密は何か」より紹介いたします。まず説教のために背後のとりなしの祈りの必要性が述べられ、こう続きます。
“フォーサイスが「祈りの原理よりも実践により多く労苦した者でなければ、祈りについて書く資格はない」といっておりますが(『祈りの精神』)、確かに祈りは実践であり、わたしたちはお互いこの実践に弱いのではないかと思います。そこで時間をかけて静かに聖書を読み、祈りの生活をするというのがわたしの祈りの集い運動の主旨であります。そこでわたしたちはこの集いにおいて、牧師は信徒のために、信徒は牧師のためにきちょうめんに祈るということをお互いに決心することにいたしております。そしてこのごく普通の事がらが実際に行われていくとき、そこに大きな変化が起きてきたことが毎年知らされます。牧師に対して冷酷なまでに心を閉ざしていた信徒が、あなたはいったいどれだけ牧師のために祈っているかと問われ、自分がただ牧師に求めるばかりで何一つ祈っていなかったことを知らされ、密室で牧師のためにひそかな祈りを積んでいくうちに、以前には見ることもできなかった牧師の苦しみを示され、自分の心が開かれて今までかつてなかった交わりが生まれてきたというようなことが報告されるとき、まったく感謝であります。・・・”
 わたしたちもまた、「お互いのために祈る」というこの「ごく普通の事がら」を「実際に行って」いくとき、心が開かれた交わりに共に生かされることでしょう。まず自分からです。
(No.588)

2015年 10月 4日

キリストへの畏れ

 今日の礼拝の聖書であるエフェソの信徒への手紙第5章21節「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」は、2002年の教会の聖句でした。覚えておられたでしょうか。年頭には教会聖句をふまえて月報の巻頭言が書かれます。2002年1月号(403号)の「西川口だより」に、島隆三先生がこう書いておられます。
 途中から引用します。
“キリストへの畏れ
 キリスト教信仰に狎れ狎れしさは禁物である。神が私たちを深く愛しておられることは間違いないが、神は私たちとは異なる聖なるお方である。私たちは、キリストの十字架の贖いと聖霊のとりなしによって「アッバ、父よ」と祈り得るのであって、このことを忘れて神を友達のように考えるべきではない。
 よく訓練され、整えられた礼拝に出席すると、ピーンとした心地よい緊張感がみなぎっている。礼拝が神との交わりであれば、当然そのような緊張感があるはずである。賛美も、祈りも、また、聖書朗読も真剣であり、神に捧げるにふさわしいものである。説教もむろんそうである。ユーモアも何もない堅苦しい説教という意味ではなく、時には和やかな笑いも必要だろう。しかし、誰かが言ったように、説教は御前講義ならぬ、御前説教であることを忘れてはならぬ。中田重治の説教は、時に会衆を抱腹絶倒させたが、罪を責める時には震えるほどの怖さを感じたと聞く。それは人間の話術を超えた上よりの権威ではなかったろうか。説教ばかりでなく、中央福音伝道館の戸を開く前には、黙祷して心の帯を締めなおさなければ入れなかったと、渡辺善太は記している。聖なる畏れが伝道館にみなぎっていたというのである。それは、何よりも「神がそこにいます」という実感と事実から来ていたであろう。これこそ教会の本来の姿であり、これが失われて、教会が単なる人間の集団になり下がるならば、「塩味を失った塩」である。”(No.587)


2015年 9月 27日

TM姉召される

 TM姉が、9月23日に83年の地上の生涯を終え、神のみもとに召されました。
 先月の8月29日の朝、TM姉の義理のお兄様からお電話がありました。Tさんが入院中で相当お具合が悪く、万一の時には助けてほしい、とのことでした。お嬢様の連絡先を伺い、その日の午後足立区の病院へお見舞いに行きました。Tさんは意識がはっきりしており、お嬢様方の執り成しで、わたしが西川口教会の牧師だとわかってくださいました。お祈りをした後は、「アーメン」と唱和し、「ありがとうございます」とおっしゃってくださいました。Tさんにお会いしたのはその時が初めてだと思います。
 残念ながら主日礼拝においでいただくことはかないませんでしたが、これまでに小さな交流はあったのです。2010年1月から、Tさんには毎月初めに月報と第1主日の週報とお手紙をお送りしていました。2010年は教会創立60年の記念の年で、初代牧師の横山義孝先生・静子先生をお迎えすることになっていたので、教会生活の回復を祈り願いながら、お便りを送っていました。また、ご主人のTM兄を毎年11月第1主日の召天者合同記念礼拝で記念しておりましたので、この記念礼拝のお知らせもお送りしており、必ずお返事をいただいておりました。
 生前、教会での葬儀を希望されていたことを伺い、ご家族もその意思を尊重してくださいました。お使いになっていた聖書をお借りしました。その聖書に教会の週報に載せている「主の祈り」がきれいにを切り取られ、栞のようにして挟んでありました。聖書には赤線が引かれて、NHKの聖書の番組(こころの時代)のメモも挟んでありました。特に、使徒パウロの手紙の「信仰による義」に関わる御言葉に線が多く引かれていました。そのことに心動かされ、葬儀の讃美歌に474番(「わが身の望みは」)を選びました。4節「主の義をまといて み前にわれ立たん」の信仰に、TM姉が生かされたと信じます。(No.586)

2015年 9月 20日

福音的キリスト教と社会的責任

 今年は数年ぶりに、9月11日(金)に開催された東京聖書学校公開講座に参加できました。「福音的キリスト教と社会的責任」と題して、東京基督教大学の山口陽一先生の講演を伺いました。
 初めに、“「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』”(マタイ22・37~30)を引用し、隣人愛に生きることは社会的責任を果たしていくこと、社会的責任をどう考えるのか、身近な福祉的な働きについては、おそらく反対する人はほとんどいない、本日は、国(政府)に対する抗議や抵抗について(多様な意見があることを承知で)、この部分について話したいと、語られました。
 最近、SEALDsの若者たちが注目されていますが、キリスト者学生も多く参加しているとのことです。9月1日に、参議院議員会館で行われた祈りの集会で証しした女子学生のDVDを見ました。自分の頭で考え、行動し、発言し、キリスト者としてどのように生きるべきか、真摯に自らに問い、語る姿に感銘を受けました。
 次いで“ 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」”(マルコ12・17)より、主イエスはカイザル(皇帝)のものはカイザルに、とおっしゃられたが、カイザルが神のものを(礼拝)を奪うことをお許しにはならなかったこと。十戒の第1戒、“あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない”(出エジプト第20・3)。「わたしをおいてほかに」とは「わたしの顔の前に」という意味がある。偶像礼拝とは、まことの神である主を駆逐して他のものを神とすることではなく、主の前に、あるいは主と並べて他のものを神とすることである、と説かれました。
 ここには書ききれませんが、今、この国の在り方、わたしたちの生き方を、神の言葉によって照らし出していただいた、貴重な講演でした。(No.585)


2015年 9月 13日

米国伝道記より

 今年は、榎本恵先生をとおして、お父様の榎本保郎先生の著書からの恵みをいただきました。特別礼拝の参加者は「活ける神 米国・台湾伝道記」の贈呈がありました。榎本保郎先生が旅をされたのが一九七四年ですから現在とは異なる面もありますが、とても興味深いものでした。
 本日は敬老祝福礼拝で、敬老祝福式と愛餐会をしますが、この本に「敬老会はやめた方が良い」という題でこのような文章がありました。
 “米国の日系人教会を訪ね、その日語部の礼拝に出席した感じたことは高令者が多いということである。一世の人たちのほとんどは移民として米国に移り住んだ人たちであり・・・〝ジャップ″とののしられ、きびしい状況の中で黙々と働きつづけ、第二次大戦という不幸にもめげず、今日を築いた人たちである。・・・大部分は七十才以上で、わたしは旅行中九十才以上も幾人もの人にお会いしたが彼らはカクシャクとして毎週の礼拝に集い声高らかに神の御名をさんびしていた。ハワイのマキキ教会で礼拝を守った時、今日は聖歌隊の奉仕があると聞かされ、別にそれ程意にとめていなかった私は、いよいよ礼拝が始まった時、ガウンをつけたおばあちゃん達がしずしずと入堂して来られ、思わず驚きの声が出そうになった。あとで聞くところによると平均年令が七十五才とのことであった。・・・
 日本では七十五才というと・・・敬老会などに招かれて無理矢理に年寄りにさせられてしまう。・・・米国に来て・・・敬老会などはやめた方が良いのではないかと思った。アブラハムは九十九才の時、主から「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」と言われたと記されている。・・・又神は年老いたヨシュアに向かって「あなたは年が進んで老いたが、取るべき地は、なお多く残っている」と彼が隠退することをおゆるしにならなかった。日本の老人はこの点大いに米国における日系一世の人たちを見習うべきではなかろうか。敢えて提言する次第である。”(No.584)


2015年 9月 6日

祈祷会への招き

 今年度は特別集会を7月に行い、神は榎本恵先生を遣わしてくださいました。その折り、アシュラムセンターからの図書販売に協力しました。皆様も大いにご協力くださいましたが、わたしも、恵先生のお父様・榎本保郎先生の著書を買い求め少しずつ読んできました。その中で「教会づくり入門」(教文館)は、教会の皆様と共に読んだらよいのではないかと思いました。そこで詩編の学びを一休みして、今週の祈祷会からこの本を通してわたしたちの教会生活・信仰生活を見つめ直したいと考えています。ぜひご参加ください。
 この本のあとがきにこうあります。
“この書物は一九七〇年四月から翌七一年三月までの一年間『信徒の友』誌に連載しました「教会づくり入門」と、数年前、今治教会の週報にそれぞれ一〇回連載しました「礼拝の心得」「祈禱生活」を収録したものであります。
 最近教会の本質が厳しく問われ、特に自己目的的な在り方、ひいては体制癒着に堕する教会の現状についてきびしく問題が提起されてきました。教会は「戦争責任告白」や「反万博」に端を発した運動を謙虚に受けとめ、そこで問いたもう主に向かってみずからを再検討し、み旨の示すところに向かって大胆に行動していかねばならぬと思います。一時の混乱のゆえに見るべきものを見ず、なすべき事をなさざりせば、神は必ずその怠慢をせめたもうであろうと思います。・・・
 今日、キリストのからだなる教会のえだとして召されたわたしたちは、日々その託された使命に生きてゆくべきであります。主が枕する所だになかったと言われるのに、教会が豪華な会堂の建築などに腐心していてはなりません。わたしたちは世に遣わされるために召されたのです。・・・主は、今日わたしたちに、飼うものなき羊のような現実に〝仕えてゆく″ことを求めておられます。・・・わたしたちはもう一度「教会づくり」について真剣に聖書に問い、大胆に生きてゆくべきではないでしょうか。”(No.583)


2015年 8月 30日

第62回こころの友伝道全国大会

 8月24日から26日まで、こころの友伝道全国連合会主催「第62回こころの友伝道全国大会in伊豆天城」に出かけてまいりました。主題は「喜びの福音を伝えよう」、副題は「伝道と教会形成」、特別講師は近藤勝彦先生(前東京神学大学学長)でした。会場は、「天城山荘」でした。参加者は部分参加も含めて33教会から73人でした。北は仙台、南は鹿児島から参加者がありました。全国各地から同じ志を持って集められた者たちの集会でした。初参加の方がおられたことも、全国大会でしかお会いできない方々との再会も、うれしいことでした。
 こころの友伝道全国大会は、隔年で関東支部が開催を担当しています。今回は担当の年で、数年ぶりに天城山荘での開催となりました。わたしは今、こころの友伝道全国連合会の事務局長の奉仕をしており、事務局の奉仕者と共に準備をしてきました。皆様の祈りと奉仕に支えられて、恵みに満ちた3日間を過ごすことができました。
 何といっても、近藤勝彦先生の2回の特別講演は、教会の信仰の筋道に立った、まことに情熱を込めて語られた素晴らしいものでした。特別講演Ⅰは「私たちが伝えるべき福音は何か」。特別講演Ⅱは「伝道と教会形成」でした。講演の要旨は、こころの友伝道紙に掲載されますので、その折にはまたよく読んでいただきたいと思います。レジメから特別講演の一部を紹介します。
 “伝道は、一人の人がキリスト者になることを目指します。キリストの名による洗礼を通して、キリストの名が刻まれ、キリストに所属する人、キリスト者になります。・・・(ロマ6・4)。洗礼によってキリストの十字架の贖いにあずかります。主イエスは御自分の苦難の死を「洗礼」と呼び、十字架におかかりになりました。私たちは洗礼によって、主イエスの苦難の十字架にあずかります。伝道は主イエスの十字架の恵みにあずかる洗礼へと導くことです。”(No.582)


2015年 8月 23日

平和を求める祈り

 日本基督教団では、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案の採決直前に鑑み、7月の常議委員会で、左記「戦後70年にあたって平和を求める祈り」に関する件を可決しました。関東教区ではこれを受けて、教区内教会・伝道所にいち早く届けられました。祈りを合わせてゆけますように。
“戦後70年にあたって平和を求める祈り
 私たちは今、世界の主なる神に祈ります。
 私たちは戦後70年にあたって、アジア・太平洋戦争時、日本の戦争遂行に協力し、多くのアジア諸国の民に多大な苦しみを与えたことを悔い改め、二度と同じ過ちを犯すことがないために、真に平和を造り出すことができる知恵と力を与えてくださるように、今この時、神の憐れみと導きを祈り願います。
 今、日本は、多くの憲法学者が憲法違反と指摘しており、多くの国民が懸念しているにもかかわらず、集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、そのための安全保障法案を国会で議決しようとしています。私たちはそのことを憂い、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ書2章4節)平和の実現を願い、為政者が謙遜になり、国民の思いに心を寄せ、秩序をもって政治を司ることができるように切に祈ります。
 また、国政に責任を負う者の中に、多くの重荷を負わせられている沖縄の人々のうめきや痛みをかえりみず、言論を封じようとする発言があることに心が痛むと共に、為政者のおごりを感じます。異なる意見に耳をかさず、懲らしめなければならないとうそぶいている権力の担い手たちが、異なる意見を真摯に聞く心を与えられるよう祈ります。為政者が、権力を担うことは民意の委託であることを覚え、民に聴き、民の痛みを知り、民を尊び、民に仕える心が与えられるよう祈ります。
 私たちは、私たち自身が経済性を優先させる罪に陥り、自分だけが良ければ良いとする思いをもって政治や人権に対して無理解・無関心となっていたことを悔い改めます。わたしたちに他者の痛みや嘆きを自らのものとして受けとめる心を与えてください。
 平和の君イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン”(No.581)


2015年 8月 16日

キリストの平和

 昨日8月15日は、日本の敗戦から70年となる記念の日でした。毎年夏に、特にこの頃になりますと、新聞やテレビなどで戦争や平和の特集記事や番組が組まれます。今年は70年という節目のときであり、この国の現在の状況に対して、非常に危惧するところもありますので、本日の平和学習会を通して、真摯に学び、目を覚まして生きられるようにと祈り願っています。
 教会の信仰に生きるわたしたちは、平和は自然に発生するものではなくて、神が実現してくださるものであることを信じています。それは、主イエス・キリストによって実現した平和です。主日礼拝で開かれているエフェソの信徒への手紙第2章には、このように語られています。
 “実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。(エフェソ2・14~18)”
 キリストの十字架は、この聖書の言葉のとおり、敵意という隔ての壁が取り壊され、敵意が滅ぼされたという出来事でありました。その平和の福音をわたしたちは教会を通して聞きました。だからこそ、わたしたちは「天の父なる神よ」と父なる神を呼び、神に近づくことができるようにされているのです。世界はまだこの平和を知りません。しかし、この世界のためにもキリストの平和は差し出されていることを教会は知っています。キリストの平和を生き、この世にあって証し、希望をもって執り成していくわたしたち(教会)です。(No.580)


2015年 8月 9日

「主にある交わりを深めよう」

 8月3日から2泊3日、第42回埼玉地区教会全体修養会に参加しました。主題は「主にある交わりを深めよう」、副題は「教会における様々な関係から」でした。講師は、聖学院大学大学院人間福祉学科教授・こども心理学科長であり、元淀川キリスト教病院伝道部長・チャプレンの窪寺俊之(くぼでら・としゆき)先生。主題聖句は、ヨハネによる福音書第8章12節「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。会場はおなじみの軽井沢南ヶ丘倶楽部。西川口教会からは4人参加しました。全体では72人(地区21教会)、そのうち子供は8人でした。
 講演Ⅰは、初めに「クリスチャンとは何ですか。他の人とどこが違うのですか」と問いかけがありました。「すべての人は尊厳において同じ。身体を持ち、精神を働かせ、社会的生活を営むものである。クリスチャンは自分を誇るものは一つもない」。その上でクリスチャンとは何か。主イエスがマタイを選び、迫害者パウロ(サウロ)を選んだ出来事から、主イエス・キリストに個人的に出会う経験を持っている者。その経験をだれも否定することはできないこと。わたしたちが罪人であるにもかかわらず、神が愛してくださった、その信仰の原点に帰ることができるのです、と語られました。
 講演Ⅱでの冒頭では、日本の教会が置かれている現状の分析の紹介があり、なるほどと思いました。文化は、以前は高齢者から下の世代へ降ろされ継承されていたが、今の文化の発信者は若い世代であり、上の世代へ届けられている。文化も価値観も多様となっている。宗教への警戒心もある。そういう時代の中で、窪寺先生から、ホスピスのチャプレンの体験を通して、スピリチュアルケア(相手が主体、相手に選択権がある、わたしたちは相手に仕える、信頼関係を作る)について語られました。クリスチャン(キリスト者)として主との交わりに生き、神の選びに応えて、仕えて生きる、その使命を再確認させていただきました。(No.579)

2015年 8月 2日

主は平和を宣言される

 8月第1主日は「平和聖日」(日本基督教団行事暦)。敗戦から70年となるこの年、ますます平和への祈りを合わせ、置かれたところで平和を実現する者とされますように。西川口教会では、毎年「平和学習会」を企画して、学び続けています。今年は8月16日の礼拝後に、遠藤富寿先生の講演「憲法9条は世界の宝」を伺います。いのちが問題になっている我が国の状況に対して、聖書が語る平和をどう実現するのか、目を覚まして祈ることが求められていると思います。
 旧約聖書・詩編にはこのような祈りがあります。
“わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。”(詩編85・9~14)
 ある先生とお話をして、この詩編のことを教えていただきました。「まことは地から萌えいで」とは、わたしたち人間の側のなすことで、神に応えて、真実に、誠実に生きていくということ。神は天から正義を注いでくださり、天からの恵みと信じる者の働きとが出会い、そこに平和が生まれる、と。人間の力だけでは平和は実現しません。神の正義が天から注がれなければ。同時に、すべての良きものの源は神ですが、神は人を通して働かれます。戦争は愚かな振る舞いであり、罪です。神は、わたしたちが愚かな振る舞いに戻らないように、と望んでおられます。(No.578)


2015年 7月 26日

必要なことはただ一つ

 本日は、祈り待ち望んでいた特別礼拝です。榎本恵先生を、神が遣わしてくださいました。今日の礼拝の聖書のテキストは、ルカによる福音書第10章38節から42節です。聖書の言葉を紹介します。〝主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10・41~42)″ 主イエスが語られた「ただ一つのこと」を、何としても、説教を通して受け取りたいと祈ります。
 少し前に、偶然、マザー・テレサのカレンダーを目にする機会があり、そこに書かれていたマザーの言葉が心に留まりました。
  〝落胆は傲慢のしるし。
   あなたはまだ、自分の力に頼っているのです。″
 がっかりすることが多いので、この言葉が見過ごせなかったのでしょう。自分の力に頼っているからかもしれない、と別の見方を示されました。
 今月13日は、日本基督教団埼玉地区の教師1泊研修会に一日目のみだけ参加しました。講師は青山学院女子短期大学名誉教授の森泉弘次先生でした。森泉先生の講演題は、「ザビエルの日本宣教から今日本人牧師、伝道者、および信徒が世界を癒すメッセージとしての福音をより有効に伝えるうえで学ぶべきものは何か」でした。講演題に「有効に」とあります。森泉先生が、精神医学者ジャック・ラカンの言葉を紹介しながら、「あなたたちは今何をしているのか? あなたたちのしていることは有効なのか? 目的を果たしているのか?」と問うことが大切だ、とおっしゃったのが印象に残りました。
 実りのない、空回りで終わる人生を送りたいと誰も思わないでしょう。しかし思い悩み、心を乱すことが多々あります。自覚せず自分の力に頼っているので、落胆も多くあります。まことに、なくてはならないことを知り、そこに生きることができますように、神の言葉を待ち望みます。(No.577)


2015年 7月 19日

「ちいろば牧師 アシュラムを語る」

 いよいよ第40回西川口教会アシュラムが今週の土曜日に開催されます。アシュラムセンター(滋賀県近江八幡市)の主幹牧師の榎本恵先生を迎えます。聖書では「40」という数字は意味深いものです。イスラエルの荒れ野の旅は40年、主イエスが荒れ野で試みをお受けになったのも40日間でした。主なる神は、世の荒れ野を行くわたしたちと共にいてくださいます。共にいます神の声に聴いて、信仰の旅をしていくために、アシュラムが備えられていると信じています。榎本先生が福音を大胆に語れるように祈りましょう。
 このような記念の教会アシュラムを開催できること、榎本先生をお迎えできることが、すでに大きな神の恵みですが、さらにお恵みをいただきました。西川口教会アシュラム参加者には本の贈呈をしていただけるそうです。榎本先生のお父様で、「ちいろば牧師」として有名な榎本保郎(えのもと・やすろう)先生のご本で、『ちいろば牧師 アシュラムを語る 一九七六年第一回年頭アシュラム記録』です。この本のまえがきに後宮俊夫先生が、榎本保郎先生のアシュラムに込められた思い、願い、取組みについて書いておられます。榎本保郎先生が、世光教会牧師であったとき、スタンレー・ジョーンズ先生が日本に紹介したクリスチャンアシュラムを、教会に取り入れました。その「祈りの集い」の案内の文章が紹介されています。
 “祈りの枯渇。伝道の停滞も、教会の無力さも此の一事にあるのではないでしょうか。私共の教会は活けるキリストの体として、キリストの生命が脈打っているのでしょうか。社会の混乱、世界の暗黒を思う時、地の塩、世の光として選ばれた教会の使命の重大さを痛感致します。今日の私達にとって祈りこそが最も欠けたものであり、且つ又必要なものではないでしょうか。・・・”
 50数年前に書かれたものですが、今日の日本のキリストの教会も伝道の停滞、教会の無力さにあえいでいます。祈りが必要です。(No.576)


2015年 7月 12日

「来て、見てください」

 7月25日の第40回西川口教会アシュラムが迫ってきました。アシュラムセンターの主幹牧師の榎本恵先生を迎えます。またとない講師です。課題が尽きないわたしたちの歩みですから、祈りによって乗り越えるしかありません。その祈りを初心に帰って身に付けたいと願っています。どうぞ、アシュラムに参加してください。来て、見てください。榎本恵先生の著書『私は耕す人になりたい キリストへの道 アシュラムへの道』より、アシュラムの紹介と招きを分かち合います。
 “さて、アシュラムのもう一つの大きな特徴、それはみ言葉への聴従である。「聖書に聴くこと」それは聖書を読むことでも、聖書を研究することでもない。・・・聖書に聴くとは神のみ言葉が直接私に迫ってくる。自分の都合や人の評価など全く関係なくただただ自らを突き動かし、揺さぶり、迫ってくる神の声を聞くという体験なのである。・・・
 聖書のみ言葉は、自分に都合よく解釈したり、自分の好き勝手に読むのではない。しかし、それでもなお、私たちに迫り、私たちの頭にこびりつき離れない、神のみ言葉がある。そして、それは私たちの理性や常識を軽々と飛び越える神の力にあふれているのである。自分の人生を、自分の生き様を決定づけるみ言葉の迫り、アシュラムはそのみ言葉に聴く集会なのである。・・・
 どれだけ言葉を尽くし、このアシュラムを説明したところで、やはり自らが体験することなしにはそれを理解することもまた批判することもできないだろう。あのイエスに出会ったフィリポは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と訝しげに語るナタナエルに「来て、見なさい」(ヨハネ1・46)と言った。どうか、一度この「聖書に聴き、祈り、従う」ことを旨としたアシュラムに参加してほしい。そして、「美しい静かな革命」と称されるこのアシュラムをあなた自身が一度体験してくださることを願っている。
 主はあなたを待っておられます。”(No.575)


2015年 7月 5日

死者の復活を信じる

 皆様の祈りに支えられて、無事に研修(説教塾セミナー)から戻りました。今回の聖書はコリントの信徒への手紙一第15章50節から58節でした。死者の復活が語られています。ご指導くださった加藤常昭先生が、昨年夏、妻である加藤さゆり先生の死に当たり、深く慰められたという親友のメラー先生からのメールを紹介されました。そして参加者に、「心身を備えた人間の死を超える救いとは何か、死者の復活とは何か、妻の介護の日々の中で問い続けた」と語られました。そのメラー先生からのメールを紹介します。
 “愛する加藤さん、悲しい知らせです。あなたは書いてこられました。妻が土曜日、午前10時、眠りに就いたと。長い舌癌、そしてリンパ腺癌の病苦は終わりました。神が眠らせてくださいました。神がお定めになったとき、再びみ手に取られ、こう呼びかけてくださるためです。「起きなさい、さゆり、甦りの朝だよ!」と。
 だがしかし、あなたには無限につらいことですね。もはや、さゆりが、あの静かな仕方で、あなたの傍らにいないことは。もはや、あなたと共に祈ってくれないことは。あなたを独りぼっちでこの世に遺していってしまったことは。長く共に生きました。一緒にいてしあわせでした。喪失の悲しみは肉体に食い込み、何よりも、こころに食い込みます。
 あなたに神の慰めがくだってきてくださいますように。あなたの血を流すような苦しみを癒してくださるために来てくださいますように。多くの、本当に多くの、仲間のキリスト者が、木曜日にはあなたを囲むでしょう。その先頭にお子さんたちが、お孫さんたちがいますね。キリストの甦りのメッセージがあなたを捉え、この厳しいときに、励ましてくださいますように。
 あなたのことを思っています。あなたと一緒に祈っています。こころから挨拶を送ります。…”
 喪失の悲しみに寄り添い、体のよみがえりの希望を語る慰めの言葉です。(No.574)


2015年 6月 28日

絶対的なみこころと一般的なみこころ

 最近読みました丸屋真也先生の著書「神との関係、人との関係」(いのちのことば社)から、神の御心(みこころ)について、分かりやすく整理して書かれていて、なるほどとうなずきました。一部紹介したいと思います。
 “・・・例えば、神は救い主であり、罪を悔い改めてイエス・キリストを信じるならば、すべての罪を赦し、義としてくださるとは絶対的なみこころです。・・・これらはどのような状況でも、またどのようなときでも神のみこころです。しかし、みこころは、必ずしも絶対的にこれだというものだけではありません。人間は・・・神のみこころの範囲の中で、自分の判断や考えで選択し、行動することが許されています。つまり、みこころには「一般的なみこころ」もあるのです。・・・
 会堂建設についてのみこころを求めても、教会員の中で賛成と反対に分かれることがあります。いくら祈っても、互いに自分たちの方がみこころだと確信するなら、教会は分裂する危機に直面するのではないでしょうか。ここで、みこころには一般的なみこころがあることを前提に話し合うならば、最悪の事態は免れられることは間違いありません。ちなみに、ここでの絶対的みこころは、キリストを頭として教会員一人ひとりがしっかりと組み合わされ、結び合わされて成長して、愛のうちに建てられることではないでしょうか。・・・
 神のみこころには二つの示し方があることを理解したうえで、神のみこころを具体的にわきまえ知ることができるようになるのが重要です。・・・
 (あるクリスチャンは)特定のみことばを用いて自分の進むべき道や行動をみこころであると証明しようとしますが…みこころだと確信している状況と現実との間にギャップが生じ、それがしばらく続くと、みこころだという確信が揺らいでしまいます。これはみことばを自分のために用いているからです。一節の御言葉も聖書全体の文脈から解釈し、理解することが必要です。・・・”(No.573)


2015年 6月 21日

父の日に寄せて

 今、主日礼拝で少しずつ読み進めているエフェソの信徒への手紙第6章には、親子の関わりについての教えがあります。
 “子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。”(エフェソ6・1~4)
 子供たちへの言葉は、十戒(じっかい)の第5の戒めからの引用です。
 “あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。”(出エジプト20・12)
 わたしは中学3年生のクリスマスに洗礼を受けましたが、キリスト者になってからも、この十戒の第5の戒めには程遠い生き方をしていました。父と母を重んじて生きるよりも、軽んじて生きて、それを当然とするような傲慢な人間でした。今振り返ってみますと、結局のところ、親に甘えていて、愛を求めていたのでした。母を神のみもとに送り、また年老いた父と暮らす日々が続く中で、ようやくこの戒めのこころに気づき始めたところです。父と母を大切にすることが、自分を大切にすることにつながり、隣人を大切にすることにつながるのです。
 父親たちは、「主がしつけ諭されるように」子を育てるよう命じられています。父とされている人は、自分自身が主からしつけ諭されていなければ、子に対して同じように接することはできません。どこで、主にしつけ諭していただくのでしょう。神の言葉を聞いて従うところにおいてではないでしょうか。神の言葉にわたしたちに対する主なる神のご意志があるからです。親も子も共に神の前に立ち、神の言葉を聞く礼拝をささげるところに、親子の関わりが健やかにされる道があるのではないでしょうか。(No.572)


2015年 6月 14日

いくつかお知らせ

 週報には書ききれないので、皆様にお知らせしておきたいことをここに書いておきます。
 先月の半ばから、子供説教を毎週行うことにしました。礼拝教育部の部会で検討し、定例役員会に提案して協議を経て決定しました。小学生以下の子供がいないときは、子供に語るような語り口ではないので、ご理解ください。もう一つ関連ですが、子供説教の後に、子供さんびかを賛美することにしました。これは今月の役員会で決定しました。説教の応答としての賛美です。来週21日の一般礼拝から始めます。当面は、讃美歌21にある子供さんびかから選曲します。週報の礼拝順序「子供説教」がはいり、もう一行「賛美」・「讃美歌番号」(子供さんびかを選曲)・「会衆一同」、が入ります。子供ケアの奉仕を多くの教会員が担ってくださり感謝しています。これからも創意工夫して、子供も大人も一緒の礼拝をささげる体制が整えられるように祈っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。キリストの言葉を聞く礼拝に、子供を含めて、神をまだ信じていない人々を招くことです。礼拝は伝道です。
 もう一つは、祈りの栞についてです。「2.病床の兄姉のために」を「2.特に弱くされた人たちのために」に変更しました。祈りの栞は、前任者島隆三・静江牧師の時代から始まったものです。ある方からこの「2」のリストについての質問がありました。それで、理解を共有するために、内容について伝える必要を感じて、ここに書きます。島師の時から祈っている人もおります。本人または家族から祈りの申し出を受けて載せています。牧師から「祈りの栞に載せて、皆に祈ってもらってはどうか」と話すこともあります。そのようにして双方の了解の中で掲載しています。名前の削除を求められなければ祈り続けていきます。礼拝に出席できている人には時々お声をかけ、意向を確認しています。共に祈ってまいりましょう。(No.571)

2015年 6月 7日

ちいさな子どもたちと礼拝

 5月30日(土)、上尾合同教会にて、「子どもと礼拝の会」主催の表題のセミナーに参加しました。「子どもと礼拝」は、今から約30年前に、アメリカのウエスタン神学大学教授ソーニャ・スチュワート氏と、礼拝学の権威であるジェローム・ベリーマン氏が始められたプログラムです。「子どもと礼拝」は、子どもたちのもつあらゆる感性や動作スキルを用いて、子どもたちが全人格で神と出会うという礼拝経験を目指しています。モンテッソーリの幼児教育法を教会教育へ展開したもので、今日、アメリカの改革派教会や長老教会を中心に、多くの教会教育の中で取り入れられています。日本では2004年9月に第1回目の「子どもと礼拝」セミナーが東京神学大学で行われ、以後横浜山手にある「子どもと礼拝センター」を中心にセミナーが行われています。
 「子どもと礼拝の会」の世話人には、上尾合同教会の秋山徹牧師、安行教会の田中かおる牧師がおられて、この活動を埼玉地区の教会にも紹介し、推進しておられます。
 数年前に刊行された解説書「ちいさな子どもたちと礼拝」(一麦出版社)を、読み返しました。大切だと思いますのはこの取組みにおける子どもの理解と礼拝の理解です。本から一部紹介します。
 “神が直接向き合う対象としての子どもたち 
 「子どもと礼拝」は、すでに神とのかかわりの中におかれている子どもたちを前提としたプログラムです。神は大人を媒介としてではなく、子どもたちにも直接働きかけ、愛する対象として、その存在を祝福されます。そのいのちは限りなく尊く、子どもたちの神との出会い、すなわち子どもたちの霊的体験は、彼らの人格の形成にあらゆる形で影響を及ぼします。神は子どもたちにも直接に語りかけられるのです。大人は、すでに子どもたちの中に働いておられる神を彼らがより深く経験するようにと、空間や教具や言葉をとおしてその出会いを援助していきます。・・・”(No.570)

2015年 5月 31日

第65回関東教区総会

 5月26日・27日(水)、大宮ソニックシティ小ホールにて、第65回関東教区総会が開催されました。
 今回の関東教区総会は礼拝から始まりました。今までは、礼拝の前に組織会と議事をしていましたが、何よりも礼拝から教区総会を始めると決断したからです。礼拝後に、組織会、そして議事となりました。第1日目午前の議事の最後に、埼玉地区の久喜復活伝道所(主任者 山野裕子牧師)の開設が喜びをもって承認されました。
 教区執行部の選挙がありました。選挙の結果、秋山徹牧師(上尾合同教会)が教区総会議長に、熊江秀一牧師(新津教会)が教区総会副議長に、栗原清牧師(武蔵豊岡教会)が教区書記に選ばれました(すべて再選)。宣教部委員長には飯塚拓也牧師(竜ヶ崎教会)が再選され、新しい常置委員が選出されました。
 初日の議事の後「東日本大震災」復興支援の報告がありました。関東教区の被災教会の献堂の報告や、再建への取り組みについて、プロジェクターで写真を映しながら報告がなされました。短い時間でしたが、日本在住の韓国や朝鮮の人々への「ヘイトスピーチ」のDVDが上映され、テレビなどでは知らされない、聞くに堪えない言葉の暴力の現実を知らされました。日本基督教団が宣教協約を結んでいる在日大韓基督教会の方々もこの重い課題に向き合っています。さらに、教区伝道を共に考える懇談会が開催され、昨秋の第39回教団総会で決議された伝道資金規則の制定を受けて教区での取り組みについて説明がありました。
 この伝道資金の関連で、総会では特に時間をとって協議がなされました。教団総会で決議された伝道資金規則を受けて、2015年度の関東教区予算が策定され、これが教区執行部から提案されましたが、その部分の削除を求める修正案が提出されていました。賛成、反対意見が交わされて、採決となり、修正案は否決され、教区執行部が提案した2015年度予算案が承認されました。
(No.569)

2015年 5月 24日

聖霊は主の日に降り

 本日は聖霊降臨日。ペンテコステ礼拝です。今日賛美する讃美歌の歌詞を書き出してみました。「この日ひかりは やみに照りぬ、この日わが主は よみがえりぬ、この日聖霊は 世にくだりぬ。 よろこびみつる このあしたよ。」(「讃美歌21」204番の2節)。
 1行目「この日ひかりは やみに照りぬ」は創世記第1章の天地創造の出来事です。“神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。・・・夕べがあり、朝があった。第一の日である。”(創世記1・3~5)
 2行目「この日わが主は よみがえりぬ」は、主イエス・キリストの復活の出来事です。“さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った・・・”(マタイ28・1)。すべての福音書に「週の初めの日」(第1の日)に主の復活の出来事が起こったことが記されています。
 3行目「この日聖霊は 世にくだりぬ」は、聖霊降臨の出来事です。“五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ・・・”(使徒2・1~4)。聖霊降臨は、主イエスの復活の日から50日目、週の初めの日の出来事でした。
 この歌詞の1行目から3行目の「この日」とは、「主の日」です。キリストの教会においては、週の初めの日(第一の日)を「主の日」と呼び、この日に神を礼拝するようになりました(ヨハネの黙示録第1章10節に「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていた・・・」とあり、「主の日」の呼び名が記されています)。
 聖霊はこの日(主の日)世に降り、主の弟子たちを「イエスは主である」との福音宣教に遣わし、今も働いておられます。(ちなみに、4行目の「あした」は「朝」のことです。念のため) 
(No.568)

2015年 5月 17日

墓前礼拝にあたり

 新緑のまぶしい頃となり、夏のような日もありました。今年も墓前礼拝の日を迎えました。今日の墓前礼拝では、昨年召された兄姉とご家族の納骨が礼拝の中で行われます。本日の墓前礼拝に連なるご遺族の方々に、そして、さまざまなご事情のためこの礼拝を思いながらもお出でになれないご遺族の方々に、主の慰めを祈ります。
 早いもので、2008年9月に教会墓地の改築を終え、現在の墓地が完成して感謝の墓前礼拝をささげてから約7年になります。わたしたちに願いを起こさせ、実現させてくださった神をたたえます。西川口教会墓地(春日部墓苑)は、これからも主にあって用いられることでしょう。
 西川口教会の墓地には、「よみがえりの希望」と墓碑銘が刻まれています。わたしたち教会はこの希望に立って、神を礼拝し続けて参りました。年に一度の墓前礼拝においても同様です。
 本日の墓前礼拝の聖書は、ローマの信徒への手紙の御言葉から選びました。
 ローマ14・7~9 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。
 キリストの教会の信仰を受け継いで、わたしたちも聖書の御言葉を土台として生きるべく苦闘しています。何があっても、だれが何と言おうとも、教会はこの聖書の言葉のとおり、神と人との前で「わたしたちは主のものです」と信仰の告白に立ち続けます。主イエス・キリストが死んで、そして復活させられ、今も生きておられるからです。このキリストの十字架の死と、罪と死からの勝利である復活を、聖霊により信じさせていただいたからです。キリストがわたしたちの主となってくださったからです。ハレルヤ。 
(No.567)

2015年 5月 10日

母の日を思いつつ

 先週5月3日、思いがけず七里教会牧師の太田光夫先生の急逝の知らせが入り、5月5日の葬送式に参列しました。太田先生は2014年4月に七里教会に就任され、1年たち「さあ、これから」と思える時でした。葬儀では、司式者やご遺族や七里教会の方々から「『なぜ』と、どうしても問うてしまう」とのお言葉があり、当然だと思いました。ただ主の慰めと導きを祈るばかりです。
 太田先生のご葬儀に深く心を動かされました。わたしの母も突然死んでしまったからです。持病がありましたが、全く思いがけないことでした。19年前の5月3日でした。神には深いご計画があることを信じています。やがてそのことを通してわたしは献身に導かれたのでした。
 今月の西川口だより巻頭言に「母なる教会に生きる」と書きました。これは、最近読んだ本から引用しました。改革者カルヴァンの言葉です。
 “カルヴァンは『キリスト教綱要』の中で、母なる教会という概念を紹介しています。・・・カルヴァンの次のような言葉に私は衝撃を受けました。「信仰がなくなったから教会を離れたのではない。教会を離れたから信仰を失ったのだ」。この違いがわかるでしょうか。ここでカルヴァンは非常に大事なことを教えています。
 逆の面からいいますと、信仰が弱くなってしまった、あるいは神の愛があまり感じられなくなったからといって、それは教会を離れる理由にはならないということです。むしろ教会に来ることによって、信仰は養われ、励まされていくということです。・・・”(丸屋真也著『神との関係、人との関係』より)
 今日は母の日。しかし人は母親だけでなく、まことに多くの人の助けや支えによって生かされています。さらに、教会に生きるキリスト者は、教会で語られる御言葉を通して、教会に生きる人びとを通して、神の愛を受け、養われ、育まれていきます。命の源である神をほめたたえ、生かされている感謝をささげます。ハレルヤ。
(No.566)

2015年 5月 3日

第43回関東こころの友伝道講習会

 2015年4月29日、第43回「関東こころの友伝道講習会」が開催され、西川口教会からは12人が参加しました。会場は日本基督教団横浜岡村教会(安藤脩牧師)でした。
 講師は、山北宣久(やまきた・のぶひさ)先生(前日本基督教団総会議長、現在日本基督教団伝道推進室メッセンジャー)を迎えて、「御言を宣べ伝えなさい」(Ⅱテモテ4・2)」の主題のもと、2回の講演を伺いました。山北先生は巧みに言葉遊びを連発して(これは聞いた人ではないとわかりません。お伝えできず残念!)、会衆を大いに笑わせ、リラックスさせ、この時代の問題を読み解き、そこに切り込んでいく福音の力、伝道の姿勢を語ってくださいました。
 講演から受けたことを紹介します。
 講演Ⅰ「閉塞感を打破するもの」より。1980年代からネガティブな流行語が増えてきた。「正しく悩めないという不幸」、言い換えると「責任転嫁と自己憐憫」、それは「自分が不幸に見え、周囲の人の痛みに鈍感」であること。そのような人が増えている。生涯、エゴイズム(自己中心)、シニシズム(冷笑主義、良きものを感謝して用いない)はつきまとうけれども、神との垂直な関係が整えられ、人との水平な関係も整えられていく。独り子を与えてくださるほどの神の愛で愛されているのだ。狭くなりがちな心、閉ざしがちな魂を御言葉が広く開放する。神に愛されている人格(あなたにしかないもの)を取り戻すのである。
 講演Ⅱ「伝道不振を打破するもの」より。教会は伝道することによって存在する。「伝道とは教会がキリストの福音をもって人々と接し、その福音によって人々が悔い改めキリストを救い主として受け入れバプテスマに(洗礼)に導くわざ」(「信徒必携)より」わたしたちは遣わされるために集められている(礼拝から伝道へ)。人の心の虚しさ、孤独、タブーとしての死を抱えている人々、愛に飢えている人々に、わたしたちは、確信をもって、生き生きと、愛をもって福音を語るのである。
(No.565)

2015年 4月 26日

西川口だより特別号発行

 昨年の2014年は、西川口教会が1964年現在地に移転して、50年となる記念の年でした。そこで「西川口伝道50年記念」特別集会として、ケセン語訳聖書で有名な山浦玄嗣先生(カトリック大船渡教会員)を迎えて、昨年10月19日に特別礼拝の説教と、午後の講演をしていただきました。
 これら集会の録音から文章起こしをするご奉仕を、今回もIM姉が引き受けてくださいました。有難く感謝です。子供説教、説教、講演、質疑応答とたくさんありました。起こしていただいた文章を修正する時間がなかなか取れずに、4月に入ってしまいましたが、やっと形にして教会員の皆様のお手元に届けることができました。これも感謝です。
 西川口教会のこの時のために神が遣わしてくださった山浦先生です。ですから山浦先生が語ってくださった言葉を大切にしたいと思います。あの時聞いて、心に残ったことを今なお思い起こすことができるでしょうが、もしかしたら聞き逃したり、その時にはあまり心に留まらなかったこともあるかもしれません。こうして記録を読んでみると、「ああ、山浦先生はこのような大切なことも語ってくださっていたのだ」という新たな発見があるのではないでしょうか。心に留まったことも、繰り返し読んで確かにされるのではないでしょうか。また、やむをえず集会に出席できなかった方のためにも用いられることと思います。(特別号は残りが30部ほどありますので、希望する方は金田までおっしゃってください。)
 〝ふるさとの仲間にふるさとの言葉でイエスの心を伝えたいと子供のころから思っていました・・・″と語られた山浦先生でした。子供の頃の夢が現実となるまでの長い年月がありました。一生かけて、と言っていいほどにコツコツと取り組まれた山浦先生。その山浦先生との出会い、翻訳された聖書との出会いを主に感謝します。
(No.564)


2015年 4月19日

教会総会のために祈り、出席しよう

 2015年度第1回の教会総会議案書が配布されました。よく読んで来週の教会総会に出席しましょう。教会総会のために祈りましょう。
 教会の大切な会議は、教会総会と役員会です。役員は教会総会で選出されます。日常の教会の運営の主体は役員会です。役員会は、日本基督教団の規則に従って、役員会が処理するべき事項として定められていることを果たしていきます。例えば、聖礼典(洗礼、聖餐)の執行や会員の転入、転出の決定は役員会でなされ、教会総会でなされることはありません。
 教会総会は、現住陪餐会員が総会議員となって、教会全体で意思決定をすべき事柄を審議します。教会の活動方針、予算も、教会総会で決まります。これも同様に、教団が教会総会が処理するべき事項として定めていることを、西川口教会も教会規則を定めてきちんと行っているということです。年度内に定期開催される教会総会は2回ですわたしたちは一緒に集まって教会の会議をします。それはわたしたちを招いて、キリストの体である教会の一部としてくださった神の前に集められての会議です。教会総会は、現住陪餐会員(信仰告白して洗礼を受け、聖餐に与り、主の体である教会の一員となっている人)が、責任をもって出席するものです。
 人の計画で、受洗者を得ることはできません。神が心を動かしてくださって、2014年度も受洗者が与えられたことは大きな喜びです。活動計画は、教会がどのように伝道に励んでいくのかを共有することです。そして、財政もきちんとします。人の思いで、教会の会計をどうすることもできません。神が一人ひとりの心を動かしてくださって、必要な献金がささげられ、与えられました。これからも信仰の決断をもって、教会のわざのために献金をします。
主の御心がなりますように。今年の御言葉が教会総会においても実現しますように。
(No.563)

2015年 4月12日

神と神の言葉とにゆだねつつ

 先週の2015年度最初の主日礼拝はイースターとなり、主イエスのお甦りの恵みを喜び祝いました。合わせて、新年度の役員任職式を行いました。前年度からの会堂建築検討委員会では、宣教の器としての会堂について協議しています。では、器の中身、宣教の主体である教会とは何であるのか、神はわたしたちの教会に何を望んでおられるのか、わたしたちはどのような教会を目指しているのか、問われます。役員任職式の中で朗読した使徒言行録第20章の御言葉は、教会とは何かということを伝えてくれている、とても大切な聖書の言葉です。もう一度味わいたいと思います。
 「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)。「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(32節)
 28節から32節の間には、わたしたちがどんなに過ちを犯しやすい存在であるかが語られています(群れを荒らす者が入ってくること、長老の中からも邪説を唱える者が出て弟子を従わせようとすること)。そのように、過ち多き人間の群れである教会は誰のものなのでしょうか。教会は「神の教会」です。主イエス・キリストが十字架に架かって血を流してくださることによって神のものとされた者たちが、神の恵みにより教会を形作っているのです。それはすべて聖霊のお働きによります。神が教会の世話のため、監督者として長老を任命されました。今の西川口教会においては、役員会が監督者の務めを果たすよう、神に召されてその務めに立たされています。神と神の言葉が教会を造り上げてくださる。そのことを信じ、常に自らを神と神の言葉にゆだねるのです。
(No.563)

2015年 4月 5日

絶望の中にある希望

 3月28日、「教会と地域福祉」フォーラム21第3回シンポジウムに参加しました。精神保健福祉がテーマでした。基調講演は、社会福祉法人浦河べてるの家理事の向谷地生良さんでした。わたしは以前から「浦河べてるの家」に関心がありました。「浦河べてるの家」は、約30年前、病院のソーシャルワーカの向谷地さんと精神障害を体験したメンバーとの交流活動と共同生活から始まった活動です。精神障害を抱えながらも、たくましく、したたかに、笑いに満ちている「浦河べてるの家」の人たちが、実に魅力的だからです。
 向谷地さんは、ご自分が仕事と職場の人間関係に消耗しきったとき、イエスと十二人の弟子たちとの旅の風景が見えてきた、と書いておられます。「『べてるの家』から吹く風」(いのちのことば社)より引用します。
 “イエスが一番祈ってほしいときに、弟子たちはみんな眠りこけ、「俺たちの中でだれが一番えらいんだろう」と名誉や権力に執着した。そして、イエスをあざむき、逃げだした。イエスは孤独のうちに、つばを吐きかけられ、罵声を浴び、十字架を背負いながら、処刑場へと向かって行った。
 イエスは、この弟子たちと行動を共にしたら、とんでもないことになるとわかっていながら、共に旅をしたのである。悲劇的な運命を感じながら、あえて、不完全な弟子たちと旅を続けたイエスに思いを巡らしたとき、私には、「それで順調なんだよ」「それで僕は順調なんだよ」という声が聞こえたような気がした。
 そしてその弟子たちが教会の土台となり、イエスのことばの語りべとして用いられていく。教会の土台とは、まさにその混乱と疑いと、誘惑に駆られた人たちによってつくられたきた。・・・”
 イエスは言われます。「神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。自分を責めたり、他人を責めたりする解決ではなく、復活とは、主のいのちの光の中で出来事を受けとめるように、との神からのチャレンジではないでしょうか。
(No.562)

2015年 3月 29日

今日から受難週

 広報部のご奉仕によって、西川口だより4月号が発行され、受け取りました。わたしは、今回の巻頭言で子どもさんびかを引用しました。どうぞ味わってみてください。
 子どもさんびかは歌詞が、単純、素朴な言葉で、まっすぐに福音を伝え、神をほめたたえています。そのまっすぐさに、かえって驚かされることがあります。福音の真理は単純であって、子どもにも届くことを確信しています。もう少し歌う機会を増やしたいと思います。
 今日から受難週です。今日は棕櫚の主日で、主イエスがエルサレムにろばの子に乗って入城した出来事を思い起こします。そして主イエスが弟子たちの足を洗ってくださった木曜日。主イエスが十字架にかけられた金曜日。十字架、葬り、復活の朝へと、救いの出来事を改めて辿ります。
 苦難と十字架を主題にした、こんな讃美歌があります。「子どもさんびか改訂版」84番です。
 「イエスさまのじゅうじかを」
1 イエスさまの 十字架を 見ていると 「いやなことでも やることがあるよ」って 言われている みたいだ
2 イエスさまの 十字架を 見ていると 「どうせやるなら 死ぬまでやれよ」って 言われている みたいだ
 作詞は「蒔田教会教会学校生徒」とあります。子どもたちが作った讃美歌なのです。まことに、分かりやすい言葉です。どのようにしてこんな歌詞が生まれたのでしょうか。子どもたちなりに、十字架の上の主イエスを黙想したのでしょう。主イエスがそこから何を自分たちに語りかけられるか、そのことを思い巡らして、生み出された歌詞なのです。「どうせやるなら 死ぬまでやれよ」には、まあ、何とすごい歌詞だ!と、恐れ入ってしまいました。
 皆さまなら、いかがですか。十字架の上におられる主イエスは、あなたにどんな言葉を語りかけられるのでしょうか。
(No.561)

2015年 3月 22日

新年度へ向けて

 2014年度もまもなく終わり、新年度が始まろうとしています。4月の教会総会へ向けて、2014年度の活動報告と、2015年度の教会活動方針(案)をまとめています。主任牧師として、今考えている活動方針(案)の一部を、ここにも書いておきたいと思います。
〝主題:生きる喜びを見出し、分かち合うキリストの体  教会の頭はキリスト、教会はキリストの体、互いはキリストの体の部分です。一人一人優劣はなく、なくてはならない存在として頭であるキリストに結ばれています。そのことをわきまえ、聖霊による一致を保つように祈り、努めます。
 主日礼拝・・・主日礼拝において、生きる喜び―神に愛されている喜び、赦されている喜び、支えられている喜び―を御言葉からいただきます。喜びを分かち合って、祝福を受けて主に派遣されていきます。こうして生活の全てが礼拝となる信仰生活へと成長しますように、祈りを合わせます。子供も大人も、キリスト者も未信者も、みんなで一緒の礼拝です。一般礼拝の聖書テキストは、エフェソの信徒への手紙を続け、使徒信条も念頭に置いて、御言葉を取り次ぎます。
 教会を建て上げる・・・①小グループの活動を推進。すでに教会で活動をしている小グループの交わりを大切にしたい。アシュラムの祈りを続けていきます。②会堂建築検討において、「教会とは何か、何を目指すのか」を改めて共有する必要に迫られることと思います。教会員の参加を促したい。 ③教会総会で誰もが活発に教会を建て上げるよう意見交換ができるようにしたい。公正かつ説明責任が果たせる決議ができる教会、その過程も丁寧に取り組む教会へ成長したい。
 伝道牧会への取り組み・・・伝道牧会の根源的な目当ては、「その人が神の言葉を聞けるようにすること。その人が罪を犯させないようにすること」です。何よりも教会員は、礼拝を重んじ、説教に養われることが求められます。そこをフォローする伝道牧会への取り組みが求められます。″
(No.560)

2015年 3月 15日

何に根ざしているのか

 昨年2月から祈祷会では詩編の学びを始めました。先週、詩編第37編に入りました。どうぞ、祈祷会にいらしてください。ある方は、「祈祷会に出るために時間を取ります。そうしないと来られません」と言ってくださり、励まされました。
 今は、カトリック神学者の雨宮慧先生が発行された「アルトス」―詩編を深く味わうために―という資料を用いて、その一部を紹介しながら詩編の御言葉を味わっています。その資料には、ヘブライ語からの直訳と、いくつかの日本語訳聖書の比較が載っており、その解説があります。
 詩編36編の学びのとき、資料にこういう言葉がありました(詩編36の「Q&A」より)。
Qさん 2節の邦訳を見ると、新改訳が「罪は悪者の心に語りかける」と訳すのに対して(フランシスコ会訳や口語訳も)、新共同訳は「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる」と訳しています。どちらが正しいのですか。
 Aさん あれ、あれ、忘れてしまいましたか。「どちらが正しいか」と考える前に、「こんなに違う根拠は何か」と問う姿勢が大事でしたね。
 Qさん すみません。そうでした。すぐ忘れてしまいます。こういうときは、直訳を見なければいけませんね。・・・”
 わたしは、このやり取りがとても大切なことを語っているのではないかと思いました。つまり、どちらが正しいかと考える前に、どうしてそのような表れ方になったのか、それは何に根ざすのか、問うてみる姿勢です。それは、人の言葉を聴くときも、同じだと思うのです。どちらが正しいのかと言ってしまえば、自分が基準になってしまいますが、何に根ざしているのかと問うならば、相手の言葉を聞いて、相手の思いを受けとめようとしている姿勢になります。自分の言葉を吟味することにもなるでしょう。
 人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。(マタイ12・34)
(No.559)

2015年 3月 8日

主の御心であれば

 年度の変わり目が3月末ですので、この時期は年度末・新年度に向かっているので、総括したものを提出したりとか、担当が変わるために引継をしたりとか、いろいろあります。教会はこの時期、受難節(レント、灰の水曜日から主日を除く40日間)のただ中なので、黙想を深めて過ごしたいのですが、いろいろある中で祈りの時を確保し、せめてスケジュールに追われることがないように、心がけています。
 聖書にこのような御言葉があります。ヤコブの手紙第4章13節から15節まで。
“よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。”
 聖書は語ります。わたしたちは明日のことも分からない、はかない自分であって、主の許しがあって今日も生かされているということを。
 東日本大震災から4年となろうとする被災地・被災者・被災教会のため、今日の主日礼拝後、祈りの時を持ちます。あの地震の時に、わたしたちは、痛切に、人のはかなさ、今日の命ということを思い知らされました。わたしは今の時を十分に生きなければ、と思いました。
 西川口教会の場合、ヤコブの手紙のように「商売をして金もうけをしよう」ということはないのですが、「あのことやこのことをしたい」という夢や希望を持つことは大いにあります。教会がすることで悪いことはないと思いますし、世に対して奉仕すべきこともたくさん可能性はありますが、神は、西川口教会が何もかもすることは求めておられないと思います。教会にとって最も大切なことをおろそかにすることなく、「主の御心であれば」をはずすことなく、進んでいきましょう。
(No.558)

2015年 3月 1日

西川口教会アシュラムに参加して

 先月、2月21日・22日、第39回西川口教会アシュラムが行われました。そこで三つの小グループに分かれ(「ファミリー」と呼ぶ)、ファミリーのメンバーのために互いに祈る約束をしました。今年もこのようにして、祈りの交わりを更新できたことをうれしく思います。
今回のアシュラムの聖書箇所は、エフェソの信徒への手紙第1章から第4章まででした。静聴(聖書を神の言葉として聴く時間)で、改めてこの聖書に向き合って、まことにキリストにある希望に満ちあふれている手紙だと思いました。
 エフェソの信徒への手紙第6章20節に「わたしはこの福音の使者として鎖につながれています・・・」とあります。昔からパウロの「獄中書簡」の一つに数えられていたエフェソの信徒への手紙です。獄中にあっても、パウロの魂は自由でした。獄から教会に宛てて、希望をもって、主にある慰めと励ましの言葉を一所懸命書いて送ったパウロでした。
 この中で、教会のためにささげられた祈りに心動かされました。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(1・17~19)。自分の祈りと何と違うことでしょう。祈りの貧しさに恥じ入る思いです。ここでパウロは、人間が決して為し得ず、神にしかおできにならないことを祈っています。同時に神が神であるがゆえに必ず成る、との確信に満ちて祈っています。この御言葉のとおりに、わたしも教会のために祈っていく、と決心しました。
(No.557)

2015年 2月 22日

エフェソの信徒への手紙に親しもう

 2月21日・22日と、第39回西川口教会アシュラムが行われています。今回のアシュラムでは、エフェソの信徒への手紙の第1章から第4章まで、御言葉にじっくり耳を傾けて過ごします。エフェソの信徒への手紙の概要をご紹介します。
この手紙の構成は、第1章1節・2節の挨拶と、第6章21節から24節までが終結部となっており、その間は、大きく第一部(第1章~第3章)、第二部(第4章~第6章)に分けられます。
 第1部は、神への賛美(1・3~14)、執り成しの祈り(1・15~23)、死から命へ(2・1~10)、キリストにおける一致(2・11~22)、秘められた計画(3・1~13)、父なる神への祈り(3・14~21)。第2部は、一つの体と部分(4・1~16)、古い人から新しい人へ(4・17~24)、新しい人として生きる(4・25~5・5)、光の子として生きる(5・6~20)、キリストと教会(5・21~33)、家庭訓(6・1~9)、神の武具を身に付けよ(6・10~20)。このような構成となっています。第1部は教理的な事柄(教会の信仰)が述べられ、第2部は実践的な事柄(教会生活、人間関係など)が語られています。目に見えない神の出来事に支えられ、裏打ちされて、「今、ここ」を、隣人と共に生きる信仰の共同体が教会です。
 エフェソの信徒への手紙の基本的な神学は、教会とは何かという教会論に集中しています。キリストを頭(かしら)とする教会論が主張されています(1章10節「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」)。また、教会は宮であり、「使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身(2・20)」と語られています。キリストは教会の頭であり、土台・基礎となっていてくださいます。この霊的現実を生きていくわたしたちとされますように、祈っていきます。
(No.556)

2015年 2月 15日

婦人教職のつどいに参加して

 先週2月9日・10日は、仙台市作並温泉の会場で開催された「第41回婦人教職の集い」に参加しました。今回の講師は、左近豊(さこん・とむ)先生(日本基督教団美竹教会牧師で、聖学院大学・東京神学大学で教えておられます)でした。講演題は「傍らにあっての祈り~旧約聖書に学ぶ祈り」でした。講演の一部を分かち合います。
 「祈りは神との格闘である」(フォーサイス)の言葉を紹介され、聖書に示される祈りが、「粘り強さ」と「しつこさ」をもってなされること、執拗なまでに食らいつくような、食ってかかるような祈りがあること、そういう祈りの心を聖書から示してくださいました。「祈りの格闘を放棄してしまった人たち」についての言葉も印象的でした。創世記4章のカインを例に、理不尽な状況になったとき、顔を伏せたままにして怒りをみなぎらせるか、顔を上げて神と対峙して、祈りの格闘をするか。カインは顔を伏せ、神からの問いに耳を閉ざしてアベルを襲い殺して、その後も神からの問いにまともに答えませんでした。カインの問題は、アベルを殺す前に既に神との関係に破れていたこと、ついに神に立ち帰らなかったことでした。
 次に「混沌の中での祈り」を紹介してくださいました。わたしたちは、神の大いなる救いの物語(創造の初めから、世の終わりのキリストの再臨を待望する物語)の中に生かされている。しかし、日々、わたしたちは混沌の力に脅かされ、危機に翻弄されながら生きている。9・11や3・11のような存在が根底から揺さぶられるような時、時間の枠組みも破綻し、人生が中断し、言葉を発することもできず、ただ生きることができるだけの自分。そのようなところを生きている者たちの祈りがあると語られ、詩編88編の最後は「闇!」で終わること、哀歌の最終行もちぎり取られたかのように終わっていること、そこを生き延びるところに回復が生まれるのだと教えていただきました。祈りの世界の奥の深さに圧倒されました。
(No.555)

2015年 2月 8日

時代をどのように分析・解釈するか

 先週の週報短文に引き続き、1月26日の日本基督教団埼玉地区の合同教師会の報告の続きで、講演の報告です。講演題は「現代の神学的状況」、講師は金城学院大学の深井智朗先生でした。深井先生は、埼玉地区の埼大通り教会出身で、金城学院大学に移られる前は、東京の教会の牧師をしつつ、聖学院大学で働いておられました。深井先生はドイツに留学されたこともあり、ドイツやヨーロッパの教会や社会の状況を、歴史的経過を踏まえながら、述べてくださいました。レジメに沿って、受け取ったことを紹介したいと思います。
 「20世紀前半は、科学、医学の進歩により、人間の問題はそれらが解決し、宗教は社会で力を失うだろうと考えられていた。しかし1970年代のイラン・イスラム革命により、宗教ぬきに社会の問題は解決できない、宗教はますます重要になってきている時代である。しかし、ドイツで言えば、宗教的であるが、教会の礼拝には行かない「教会嫌いのキリスト教」といえる人がたくさんいる。宗教は個人化され、人が宗教を選べる時代となった。宗教の個人化がどこから始まったかといえば、1789年のフランス革命である。これは教会から国家・人民に、政治的・宗教的力を取り戻した出来事であった。革命政府は、教会税を廃止し、戸籍を役所に写し、葬儀社をつくり、通過儀礼を教会で行わなくてもよいようにした。日本はどうか。「教会外のキリスト教」となっている。キリスト教学校には学生がたくさんいる。カルチャーセンターの聖書の教室は定員を超える。宗教書は売れている、クリスマスは定着している。しかし主日礼拝に来る人は増えない。人々が既存の宗教に失望しているからだと考える。意味を喪失した社会となってしまっている。では教会はどうすればよいのか。教会は絶えず教会になることを努力すること。教会がこの世界に伝わる言葉で答えること。この二つが矛盾しない神学的営みが必要であり、説教の課題でもある。・・・」
(No.554)

2015年 2月 2日

埼玉地区合同教師会に参加して

 先週の1月26日、日本基督教団埼玉地区の合同教師会に参加しました。会場は加須市にある愛泉教会でした。愛泉教会は、社会福祉法人「愛の泉」(老人介護施設、児童養護施設ほか)と共に歩んでいる教会です。愛泉教会の森田弘道牧師が開会礼拝で使徒言行録第6章から説教をされました。
 「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。・・・そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。『わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。』一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノ、ほかに・・・を選んで、使徒たちの前に立たせた。」(使徒6・1~6)
開会礼拝説教から分かち合います。
 「初代教会は、人を選び、財を献げて、今日でいうところの社会福祉の問題にあたっていた。それは福音宣教と並行して行われていた。奉仕者は 『霊と知恵に満ちた評判の良い人』であった。『霊に満ちた』とは神と魂の会話をして聖霊の恵みをいただき、常に主と共に生きている人、『知恵』とは、技術を伴う信仰の知識を持っている人、『評判のよい』とは、組織の中で良い仕事ができる組織人であること。愛は想像力であり、洞察力である。その愛をもって人々の問題に入って行くのである。」
 この聖書は、教会役員任職式で朗読されることの多い箇所です。教会は、福音宣教の働きと、愛をもって仕える働きとを果たすために人を選び、財をささげます。来週は、教会の働きに当たる奉仕者・教会役員を選ぶ教会総会があります。神が、教会の会議を通して、人を任命なさいます。祈りをもって教会総会に出席しましょう。
(No.553)

2015年 1月 25日

アモス書に聴く

 雑誌「信徒の友」の「日毎の糧」の聖書日課に従って、毎朝聖書の言葉に耳を傾けています。最近は、旧約聖書の小預言書の一つ「アモス書」が定められ、久しぶりに読みました。それは、2千数百年の時を超えて、現代に生きるわたしに鋭く問いかける言葉として響きました。平日の朝発信している分かち合いメールから紹介します。
 「2015年1月13日(火)
 主はこう言われる。ユダの三つの罪、四つの罪のゆえに わたしは決して赦さない。彼らが主の教えを拒み その掟を守らず 先祖も後を追った偽りの神によって 惑わされたからだ。(アモス 2・4)  
 預言者アモスが告発した罪とは、主の教えを拒み、その掟を守らず、まことの神ではない偶像に走ったことでした。社会的な犯罪ではなく、人間存在に関わることであり、聖書では、それは常に神との関係がどうかということです。罪は神への背きであり、決して取り返しがつかない。だからこそ赦しは恵みとなります。」
「2015年1月19日(月)
 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても 穀物の献げ物をささげても わたしは受け入れず 肥えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。・・・正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ。(アモス5・22~24)
 剣のように鋭い告発です。正義や恵みの業をないがしろにしているならば、肥えた動物の献げ物は受け入れられず、賛美はさわがしい歌だと主なる神は言われる。神が求めておられる正義と恵みの業にどうか生かしてください。」
 アモスも他の預言者と同様に、同胞から反逆者と言われ、預言するな、と迫害されました。しかしアモスの預言は、その言葉に共鳴した信仰者たちによって書き記されました。困難な中にも、神の言葉に真摯に聴いていく信仰者たちを、いつの時代にも神は興し、御業を受け継がせられました。
(No.552)

2015年 1月 18日

キリストの支配が見えるように

 昨年の7月からアブラハムの物語(創世記第11章10節から)を主日礼拝において説教してきました。2014年の御言葉「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ロマ12・1)を、アブラハムの物語を通して黙想し続けました。今日の礼拝で創世記からの説教は終わりになります。来週の礼拝では、ヘブライ人への手紙からアブラハムの信仰を語り、一区切りといたします。
 2月からは、今年与えられた御言葉「愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」(エフェソ4・2~3)を念頭に置きながら、エフェソの信徒への手紙と、わたしたちが毎週告白している使徒信条から、説教したいと考えています。父・子・聖霊の三位一体の神を信じる信仰、その信仰告白をして生きる教会です。
 先週、ある方と使徒信条を学びました。「全能の父なる神の右に座したまえり」のところです。主イエスが神の右におられることを信じます、と信仰告白することは、イエスが支配者であると認めることです。デモクラシーという言葉があります。これはデモス(「民衆」という意味)とクラシー(「支配」という意味)からきていて、民衆が支配力を持つこと、すなわち民主主義です。「クリストクラシー」という言葉があるのをご存じでしょうか。クリスト、つまりキリストが支配される、牧師や役員、あるいは教会の皆が集まって教会の会議を開いて決めます。忘れてはならないのは、わたしたちを支配しておられるのは、主イエス・キリストということです。どんなことがあっても、小さな業においても、ここは主イエス・キリストが支配しているところ、それが見えてくるような教会であるように。説教も、諸集会もそれを目指します。それは神の右に座しておられ、常に執り成してくださるキリストを、いつもわたしたちが心に留める時、初めて実現するものです。
(No.551)

2015年 1月 11日

満ち足りることを知る

 新しい年が始まりました。皆様にはぜひ、礼拝と共に、祈祷会にお励みくださいますよう、お勧めいたします。水曜の夜7時半からの祈祷会、木曜午前10時半からの昼間祈祷会に、いらしてください。お待ちしています。
 昨年5月の日本基督教団関東教区総会で、教勢の低下の厳しさも語られましたが(これは日本基督教団全体の課題)、一方で祈祷会出席者の緩やかな増加傾向との報告もありました。高齢者の祈祷会出席者が増えているそうです。
 これはうれしい報告だと思いました。集会に出席できる時間が与えられた人たちが聖書に養われ、とりなし祈ってくださるとは、教会にとって何と大きな恵みでしょう。互いのために祈り合うことでどれだけ励まされるか、体験した人は知っています。それを知らないとはもったいないです。祈祷会に出席すると得します、ということです。
 聖書がそのように語っているのです。
 信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。(テモテへの手紙一6・6~8)
 しっかりと生きるためには、自分がしっかりするのではなく、まことの神を避けどころとすること、つまり、最も確かなお方のもとで生きるとき、しっかりと生きられるのです。それが実は、この世的な損得を越えた大きな利得の道なのだというのです。なぜなら、わたしたちが神によって満ち足らせていただけることを知るからです。忙しい、あわただしい暮らしの中で、また悲しみや痛みがある中で、ねたみや争いに巻き込まれそうになりながら、神を喜び、神に満ち足らせていただいて生きられるのです。そのようないのちを与えられているのです。神の言葉によって神を思いを知り、神の愛を知り、愛されている自分を知るのです。お待ちしています。
(No.550)

2015年 1月 4日

神から招かれたわたしたち

 先週の元旦礼拝では、久しぶりにお会いできた方や新来者の方も多く与えられました。元旦礼拝では新しい年の教会の御言葉から説教を取り次いでいますが、今回は、与えられた聖書の御言葉の前の部分に重きを置いて語りました。

 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(エフェソ4・1~3、太字が今年の教会の御言葉)

 元旦礼拝の子どもたちのための説教は、ルカによる福音書15章の見失った羊を捜す羊飼いのたとえの御言葉を読みました。

 あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。(ルカ15・4~7)

 神の招きとは、神がふんぞり返って人々が来るのを待っている、というものではありません。見失った一匹を見つけ出すまでどこまでも捜し回って、その一匹を見つけたらしっかりとその腕に抱えて喜びでいっぱいになっている、そしてその喜びに人々を呼び集めて、一緒に喜ぶ。このような喜びが天にも地にもある。主の日の礼拝は天と結ばれている、このような生き生きした躍動的な出来事なのです。神の目に喜びとして映っている自分であり、教会であると信じ受け取るところ、招きに応えて生きようとの信仰が生まれます。
(No.549)

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