トップページへ戻る週報短文へ戻る

週報短文

バックナンバー 2021年

2021年12月26日

「わたしは『セロ弾きのゴーシュ』」

 2019年12月4日にアフガニスタンで銃撃され亡くなった医師・中村哲さんがNHK「ラジオ深夜便」で語った言葉がまとめられ、刊行されました。タイトルは「わたしは『セロ弾きのゴーシュ』 中村哲が本当に伝えたかったこと」。
 中村先生は、1984年に日本の医療NGOより派遣される形でパキスタンにあるミッション病院へ赴任しました。当初のNGOの契約期間の終了後ミッション病院も出て、現地のパキスタンやアフガニスタンの人々と共に新しい医療活動を立ち上げました。2000年からは大旱魃(かんばつ)に遭遇し、医療では多くの人の命を救えないことを痛感して、1600本の井戸を掘り、25キロ以上に及ぶ用水路を拓きました。アフガニスタン空爆などもありましたが、人々の命をつなぐ働きを、亡くなられるその時まで続けられました。
 「このような活動の原動力は何ですか。なぜ医師が井戸を掘って、用水路を拓くのですか」と多くの人が中村先生に問いかけました。ラジオ番組でも同様に質問をされたとき、中村先生は次のように応えておられます。目の前の人を大切にされた生き方に感銘を受けました。
もうどうにもできないことであれば仕方がないけれども、自分が出ていけば何とかなるんじゃなかろうかという状況の時に、そこで引き下がるかどうかの問題で。引き下がれなかったもんですから、続いてきたというのが実態で、別にわたしに立派な思想があったわけじゃないんですね。「セロ弾きのゴーシュ」というのがありますね、宮沢賢治の童話で。お前はセロが下手だから練習しろと言われたゴーシュという人が、一生懸命練習していると、狸(たぬき)が来たり、野ねずみが来たりして、「子どもを治してくれ」だの、いろいろ雑用を作るわけですね。しかし、「まあ、この大事なときに」と思うけれど、「ちょっとしてやらんと悪いかな」ということで。そして上手になっていくわけですね。そして楽長にほめられたという話がありますが、それに近いでしょうね。”(No.860)

2021年12月19日

「もうすぐクリスマスだよ」と伝えたい

 朝日新聞社が運営する言論サイト「論座」に、2021年12月10日に掲載された「クリスマスプレゼントの本当の意味~貧困の連鎖を断ち切り社会的相続の連鎖を」を読みました。筆者はNPO法人抱樸(ほうぼく)理事長で、日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会の奥田知志牧師です。奥田牧師はNHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で2度取り上げられたので、ホームレスや困窮者支援等の活動をしていることをご存知の方もおられると思います。
 この秋、NPO法人抱樸は「抱樸子ども支援事業―食の貧困を断ち切るために子どもたちに〝自炊力〟を―電気鍋と食材提供で食事を作る力、生き抜く力を」というクラウドファンディングを実施しました。その主旨に共鳴しました。
 「…私たち抱樸が支援している子どもたちは一日3食を十分に食べられていない世帯がほとんどです。親が料理をしない環境で暮らす子どもたちは、家で食事を作る文化や調理器具がなく、食糧を届けても根本的な状況改善が難しい背景があります。それは、親自身も子ども時代に教えられていないからであり、『育てられていない』経験が連鎖してしまう現実があるのです。抱樸は、子どもたち自身で調理の方法を覚え、次の世代にも連鎖しやすい〝食の貧困〟を断ち切る取り組みを皆さんと共にスタートさせます。」
 奥田牧師はこう書いておられます。
“…愛して欲しかった人に虐待され、誰も信じることが出来ないまま大人になった彼らは、「誕生日とクリスマス、正月が一番嫌い」という。世間が暖かい空気にあふれるその日が、彼らにとって最も淋しい日だったのだ。
クリスマスなんて知らないで育った、あるいは、自分とは関係のない世界の出来事だと思い込んできた。そんな子たちに、「もうすぐクリスマスだよ」と伝えたい。今年のクリスマスは手作りの鍋で、出来れば愛する人と過ごしてほしい。…
 すべての人に! メリークリスマス!”(No.
859)

2021年12月12日

キーワードは「協働」

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」ですが、来週はクリスマス礼拝で、週報短文もクリスマスに関することを書くため、日本伝道推進の祈り課題は本日書きます。月刊「信徒の友」には、全国17教区が取り組んでいる伝道の働きが毎月2教区ずつ(東京教区は支区ごと)紹介されてきました。今回で2巡目が終わります。
 東中国教区〔岡山県・鳥取県〕
“日本基督教団の中にあって、沖縄教区に次いで小さな教区が東中国教区です。岡山と鳥取に46教会1伝道所(伝道所は活動休止中)が存在しています。
 東中国教区には小規模教会が多く、46教会中14教会が兼務・代務であり、その割合は他教区と比べてもかなり高いと思われます。1つの教会が1人の教師を支えることが経済的に困難になりつつある状況の中、教会が憂いなく宣教の業に仕えることができるように、と近年集中して議論がなされてきました。
 数年にわたって宣教会議で積み重ねられたきた検討と懇談のキーワードは「協働」です。教会自身が1教会1牧師の堅持にこだわらずに柔軟に状況を受け入れる中、これまで以上に協働して兼務・代務の教師をサポートする道を模索しました。その議論をふまえて、教区は「教会強化特別資金運用規程」の改定に取り組み、教区総会に上程しています。・・・
 この改定により、教区内のすべての教会また宣教従事者〔教師および信徒伝道者〕が喜びと希望をもって宣教に励むことができるようにと願っています。
兼務・代務教会を多く抱えている当教区、また、兼務・代務教会と教師のためにお祈りいただければ幸いです。”
 祈りの課題
・兼務・代務教会とその教師の働きの為に 
・隣の教会のことを覚え、共に支え合う教区であるように。
(No.858)

2021年12月 5日

神は真実な方―O姉を偲ぶ

 O姉が、11月29日にすい臓がんのために召されました。76歳でした。
 今年の西川口だより7月号に「人生の危機は神の時」と題して、2020年11月にすい臓がんの告知を受けて治療を始めたこと、治療と体調のこと、そしてこの試練を信仰をもってどのように受け止めたかを書いておられます。
 “…2カ所の専門病院の医師より、余命6~8ヶ月と告知されている。私は人生最大の危機に陥っているのだ。
 「こう言って、ヒゼキヤは涙を流して大いに泣いた」(列王記下20・3)。人生の危機は神の時である。人間の力で解決できない危機は神に出会う時であると、お導きをいただいた。祈りの結果が私の願うようにではなくても、それは神の領域。「ハイ」とお従いすること。どのような祈りでも、それらの一つ一つを主イエス・キリストの十字架の足元にお委ねすることで、憐れみ深い愛の神は、最善を成して祝福してくださる。…”
 O姉は数か月間の祈りの果てに、このお証を書く決断をし、この西川口だより7月号が発行された後は、晴れ晴れとしておりました。この月報を、友人・知人に郵送したり手渡したり、病院の主治医やスタッフの方々にも手渡して、信仰の証をされたと伺い、驚きました。
 がん治療は9月末で中止せざるを得ないほど体が弱くなりました。10月半ばからの在宅医療の間は、たくさんの訪問者やお電話の交流ができ、慰めに満ちた日々でした。11月は教会の姉妹とお嬢様のご協力でオンラインで礼拝に与り、大変喜んでおりました。自宅で過ごせたのは、お子様方のサポートで実現したことです。O姉は、体力の限界まで生きようと励み、最期は最愛のお子様方の腕の中で息を引き取られました。
 告別式には、ご親族と西川口教会の大勢の兄弟姉妹の他に、母教会のN教会のI師、第2の母教会のA教会のT牧師と信徒の方々が参列してくださいました。(No.857)

2021年11月28日

主を喜び祝うこと

 今日からアドベント(待降節)に入りました。教会の暦では新年となります。アドベントは、主イエス・キリストの御降誕に備えるとともに、再び来られる再臨のキリストを待ち望む期間です。
「『マラナ・タ』(主よ、来てください)」(コリント一16・22)。
「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」(ヨハネ黙示郎22・20)。
 初代教会は、再臨のキリストを待ち望む群れでした。信徒の家に集まって、礼拝を献げ、神の言葉を聞き、互いに愛し合って生きていました。自前の会堂など持つことなど考えられませんでした。ローマ帝国においてキリスト教が認められるまでの数百年、そのようにして教会は歩んできたのです。
 今年も、コロナ禍の中でのクリスマスを迎えようとしています。西川口教会は、今年は、主日礼拝と夕拝、水曜と木曜の祈祷会を休まず続けることができました。会堂に集まって集会ができる恵みを感じてきました。
 主日礼拝・夕拝では、ガラテヤの信徒への手紙の御言葉に聞き続けています。ただキリストを信じる信仰によって救われる恵みを新たにされています。ガラテヤの信徒への手紙の説教は、来年になっても、読み終わるまで続けます。
 祈祷会では出エジプト記をコツコツと学び続けて、終わりが見えてきました。エジプトからの脱出、奴隷からの解放という神の力強い救いの出来事と、自由にされた民の生きる道である律法を学んできました。出エジプト記を通して、礼拝する民とするために、神は救ってくださったということを知らされました。
 2022年の御言葉を祈り求めて、ようやく決まりました。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8・10)。信仰生活の原動力は、主を喜び祝うこと。この原点に立ちます。(No.856)

2021年11月21日

「信頼」と「祈り支え合う」思い

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区ずつ紹介します。
四国教区〔香川県・徳島県、愛媛県・高知県〕
“…冊子「祈ろう四国教区の教会」を全教会員に配付し、週に2教会を祈っています。…三間(みま)伝道所(愛媛県宇和島市)は…現住陪餐会員は8人、礼拝出席4人、CS出席は1人です。…祈りの課題として、礼拝から離れている信徒一人一人が…礼拝へと呼び戻されるように…を挙げています…。宍喰(ししくい)教会(徳島県海陽町)は…2021年海南伝道所と合併し新しい歩みを始めました。現住陪餐会員12人、礼拝出席8人です。祈りの課題として、新しい教会の働きが祝されること、受洗者が与えられること…”
祈りの課題 
・少子高齢化や人口減少が急激に進む四国で伝道に取り組む各教会・伝道所、また、関係学校・施設のために。
・教区教会互助制度を中心とした教会支援の働きの充実のために。
・三間伝道所、宍喰教会のために。
九州教区〔福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県〕

 “九州教区は、7県10地区に127教会・伝道所が点在する広域教区です。最北の北九州門司から…奄美諸島の徳之島伝道所まで…約800km。…広域な教区が大事にしてきたのは、その地域に一つしかない小さな教会の働きを支えること。その具体的な取り組みが互助です。…今年度約4年ぶりに徳之島伝道所に教師が着任。互助が用いられてのことです。…2016年の熊本・大分地震、以後毎年のように起こる自然災害。この経験一つ一つを通して「信頼」と「祈り支え合う」思いを確かにしてきました。…”
祈りの課題 
・教区・地区の連帯が強められ、宣教の働きを共に担えるように。
・教区互助献金に全教会が参与し、謝儀保障が満たされるように。
・約30ある無牧教会・伝道所の歩みが支えられるように。(No.855)

2021年11月14日

説教塾をお支えください

 全国説教塾から教会へのポスターが届きました。既に掲示させていただいています。毎年秋に、お祈りと500円献金の呼びかけをしています。
 
昨年度も、説教塾の活動を多くの方々にお支えいただき、心から感謝しています。・・・
 一緒に集まっての学びが難しい状況ですが、代わりにオンラインの学び会が盛んになり、地域を越えた学びが続けられています。加藤常昭先生による説教セミナー「かたつむりセミナー」には、70名の参加者が9ヶ月間の学びをしました。今年の秋からは、加藤先生による説教セミナーの他、R・ボーレン「説教学」の読書会、加藤先生の著書の読書会、塾生の指導による説教作成入門セミナー、また月に一度自由に加藤先生と語り合う「つねチャンネル」など、新しい企画が始まります。
 日本の伝道のために、地道な活動を続けている説教塾のために、今年も、祈りと共に、献金をもってお支えいただければ感謝です。”
 説教塾のルーツは、ハイデルベルク大学が大学創立600年の歴史を祝った1986年、同神学部が世界14か国から30名の説教学者を招いて行われた記念シンポジウムの最後に、各国で説教の研修・研究を強化しようと申し合わせがあり、それに応えて同シンポジウムに出席した加藤常昭先生が声をかけ、翌1987年、わずかひと握りの説教者たちが集まって始まった、毎月1度の勉強会にあります。開塾以来30年を経過しました。今では、北海道から沖縄まで地域での集いが生まれ、泊まりがけのセミナーその他の説教塾の学びに参加する説教者たちの数はほぼ200名を超え、その所属する教派は20を超えています。説教塾設立の趣旨に賛同し、説教の学びを深めたいと願う牧師・信徒の方々ならどなたでも、年会費を納めれば塾生になれます。充実した学びができます(説教塾ホームページより)。
 これだけの仲間が、説教のため、教会のため、日本の伝道のため、たゆまず研鑽を積んでいる説教塾です。どうぞ祈り、応援してください。(No.854)

2021年11月7日

死に備える

 最近刊行されたヘンリ・ナウエン著「死を友として生きる 『最大の贈り物』&『鏡の向こう』」(教団出版局)を読み始めました。ヘンリ・ナウエン(1932~1996)は「現代人の孤独や苦しみに届く言葉を語った、20世紀を代表するキリスト教会の霊的指導者。カトリック司祭」と紹介されています。この本には、ナウエンが交通事故や重い感染症で死の淵を通らされた経験によって、死について、神について新しく知らされたことが書かれています。召天者合同記念礼拝にあたり、皆様にも一部紹介いたします。
 “・・・死ぬのは確かなことです。私の将来に関するほかのすべてのことは、不確実です。しかし私はなお、死が人生において最も不確実な出来事であるかのように、生きています。・・・私たちは死ぬ準備ができているでしょうか。
 もしも死が終わりであり、無であり、時計が止まる時だと信じているなら、準備するものは何もありません。なすべき唯一のことは可能な限り長く生きることです。しかし私は、死が終わりだとは思っていません。
 ・・・死に直面して私が経験したことのすべては、死が第二の誕生のようなものであり、命の新しい道へと私を導いてくれるものだということです。私は、自分の最初の誕生については、何も言うべきことがありません。しかし第二の誕生については、言うべきことがたくさんあり、それに備えることもできるのです。
 私がこのことをとても率直に、自由に語れるのは、信じているからです。私は、自分の命が―その期間が長くても短くても―神からの贈り物であると信じています。私は、命を与えてくださった神が、永遠の愛で私を愛してくださっていると信じます。私は、この永遠の愛が死よりも強いと信じていますし、人生で起こるすべてのことが、私に機会を与えてくれていると信じています。それは、私の死を二度目の誕生とするための機会なのです。”(No.853)

2021年10月31日

第9回日光オリーブの里アシュラム

 コロナ禍でどうなるかと案じておりましたが、緊急事態宣言が解除されて、予定通り10月28日~29日、第9回日光オリーブの里アシュラムが開催され、教職研修として参加しました。主催は滋賀県近江八幡市にあるアシュラムセンター、講師はアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵(えのもと・めぐみ)先生、主題聖句は「互いに愛と善行に励むように心がけなさい」(ヘブライ10・24)。参加者は15人でした。
 振り返ってみると、2014年の第2回オリーブの里アシュラムから続けて参加できました。この出会いをきっかけに、2015年の第40回西川口教会アシュラムに榎本先生を講師にお迎えできました。昨年同様に、今年もオリーブの里アシュラムが開催され、再会を喜び、新たな出会いも与えられましたのは、神の恵みと信じます。
 開会礼拝では、主題聖句の「互いに」の説き明かしに目が開かれました。アシュラムセンター発行「アシュラム」(本年10月号)の巻頭言にも榎本先生が書いておられます。引用します。
 “…それは「わたしとあなた」という狭い関係性の中の「互いに」ではなく、もっと広く、大きな意味での「互いに」なのである。それは愛し合う二人が「互いに」見つめ合うなどという甘いものではないのだ。だから、イエスは、わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたもわたしを愛しなさいなどとは決して言わない。そうではなく、その愛を受けた者が、その愛をまた他の者に渡していく、それこそが、「ある者がある者(たち)」に、「他の者が他の者に」愛を分かち合う「互いに愛し合う」真の姿なのではないだろうか。…
 友よ、主が私たちを愛してくださったように、私たちもまた、その愛を次の誰かに渡そうよ。そしてそれが次から次へと渡されていく時、この世界はきっと、愛に満ちた神の王国になるに違いない。”
 日常から離れて、神の言葉に聴き入り、浸り切るアシュラムの時を与えられ、感謝です。(No.852)

2021年10月24日

「すべてには時がある」

 昨年の10月から6回にわたって放送されたNHKEテレこころの時代「それでも生きる 旧約聖書『コヘレトの言葉』」(講師は東京神学大学教授の小友聡先生)の再放送が、今月から始まりました。さらにうれしい驚きは「すべてには時がある 旧約聖書『コヘレトの言葉』をめぐる対話」が出版されたことです。番組では、批評家でカトリックの信仰者である若松英輔氏も出演され、日本基督教団中村町教会牧師でもある小友先生との対話がまことに素晴らしく、毎回感銘を受けていました。その番組対談に加筆が施されたものです。早速入手して、読み始めたところです。再放送や書籍の出版は、多くの人に届くことが見込まれるので実現するわけですから、聖書の言葉がこのようにして一般のメディアを通して届けられることを歓迎します。けれども、その背後には、生きることの困難、苦しさがあるから、この「コヘレトの言葉」が求められているとも言えます。
 この本の序文(「はじめに」)を小友先生がお書きになっておられます。
“…生きづらい閉塞した時代に「生きよ」と語りかける「コヘレトの言葉」が、コロナ禍で窒息しそうな状況の中、不思議な励ましの杖となりました。このことがなければ、ひょっとして旧約聖書の単なる解説程度の番組で終わっていたかも知れませんし、このような書籍化の企画もなかったかもしれません。…
 放送が終了して間もなく、視聴者から思いがけない電話がありました。「先生、生きよっていうけど、生きられないよ。毎日、学校でいじめられて地獄だよ。それでも、私に生きよっていうの」。若い女の子の声でした。咄嗟(とっさ)に言葉が出ませんでした。「それでも生きるんです。いつか必ず、あのとき生きる道を選んでよかったと思える日が来ます。その日のために生きてください」。無我夢中で答え、通話が切れました。筆者の言葉がきちんと伝わったかどうかはわかりません。伝わっていてほしいと思います。…”(No.851)

2021年10月17日

地道な働きを続けて

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区ずつ紹介します。
神奈川教区〔神奈川県〕
“神奈川教区には100を超える教会・伝道所があり…教区の宣教と共に、各教会・伝道所の働きを豊かに支え合うことを目指しています。…特に2つの伝道所を紹介します。ご加祷ください。
愛川伝道所は1968年に設立され、現在の星野正興牧師は…敷地内に畑を造り…礼拝に出席した方々は毎週、収穫されたおいしい野菜を持ち帰ることが楽しみの一つとなり、皆さんも積極的に畑づくりに取り組んでいます。…
茅ヶ崎堤伝道所は1999年の設立で…「あらゆる人を受け入れる」「地域に仕える」を大切にした地道な働きを続けてこられました。それは次第に実を結びつつあります。…”
祈りの課題 ・愛川伝道所、茅ヶ崎堤伝道所の歩みのため。
・神奈川教区の教会・伝道所の宣教と関係機関の働きの上に。
西中国教区〔広島県・山口県・島根県〕
“西中国教区には宣教基本方針という短い文章があります。
一、主イエス・キリストの恵みによって救われたわたしたちは、神を賛美し、この福音を宣べ伝えつつ、その招きに応えて生きる。二、わたしたちは、様々な重荷を負う人々との出会いを通して、つくり変えられ、世の諸々の力の支配から解放されてその人々と共に生きる。三、わたしたちは、主イエス・キリストの恵みに押し出され、悪の諸力に抗し、平和と自由と正義の実現を期して共に闘いながら生きる。…そしてそれ〔方針〕を生きて示していくことが当教区の伝道です。…”
祈りの課題 ・平和と自由と正義が実現し御国が到来するように。
・一人が大切にされる世界となるように。
・教会が重荷を負う人の休める場となるように。(No.850)

2021年10月10日

神学校日・伝道献身者奨励日にあたり

 10月第2主日は、日本基督教団行事暦で、「神学校日・伝道献身者奨励日」です。
 日本基督教団には、教団立東京神学大学(東京都三鷹市)と、教団認可神学校があります。教団認可神学校は、関西学院大学神学部(兵庫県西宮市)、同志社大学神学部(京都市)、東京聖書学校(埼玉県吉川市)、日本聖書神学校(東京都新宿区)、農村伝道神学校(東京都町田市)の5校です。日本基督教団は、これらの神学校に、伝道者(教師)の養成を委ねています。神学校が担っている伝道者養成の尊い働きを覚えて、主の祝福を祈ります。
 西川口教会と関係が深いのは東京聖書学校です。初代牧師の横山義孝師・静子師は、西川口教会を辞され、東京聖書学校の舎監として長くご奉仕されました。3代目牧師の島隆三師は、西川口教会を牧会されている時に東京聖書学校の校長に就任され、仙台青葉荘教会に移られてからも、長くご奉仕され、現在も神学教師として教鞭をとっておられます。また、現在の東京聖書学校の舎監は、当教会出身の原田のぞみ師が、お連れ合いの彰久師と共に奉仕され、東京聖書学校吉川教会主任担任教師を兼務しておられます。お働きに主の祝福をお祈りいたします。
 西川口教会は、御言葉の御用に仕える伝道献身者を送り出してきました。五味明子師(東京シオン教会代務)、横山基生師(志木教会・日本基督教団ホーリネスの群委員長)、小林悦治師(厚別キリスト教会)、松元潤師(若葉キリスト教会・北海道聖書学院長)、山田称子師(小見川教会)、原田のぞみ師(前述)、横山ゆずり師(半田教会)、押川沢江師(馬込教会)、永本慶子師、町田さとみ師(初雁教会)、と金田です。献身者のうち8人の先生が東京聖書学校で学ばれました。
 さらに歴代教職の三枝道也師・育代師、島隆三師・静江師、担任教師だった川﨑理子師(名古屋西教会)神学生のとき教会員として奉仕された繪鳩彰師(隠退)、柏明史師(茅ヶ崎恵泉教会)には月報を送り、お祈りをいただいています。(No.
849)

2021年10月 3日

教団世界宣教委員会より

 毎年8月頃、日本基督教団世界宣教委員会から小冊子「共に仕えるために」と10月第1主日の「世界宣教の日献金」お願いのポスターが届きます。そのお便りから一部を紹介いたします。
 “・・・教団派遣宣教師たちの働きは、様々あります。海外で言語や文化の違いから孤独や困難を感じることも少なくない日本語を話す海外生活者たちに母国語で御言葉を届ける者、貧困等を抱える現地の人々の中に入って仕えつつ、活き活きと福音を宣べ伝える者、日本と派遣された国との橋渡しになろうと志す者、現地の日系コミュニティに仕えつつ、その人々と共に地域の人々に、また助けを必要としている人々に手を差し伸べようとする者など、多様な働きがあります。世界宣教の日献金はそのような派遣宣教師たちの医療費補助・語学研修費補助等にも用いられます。更に現在は国境を越えて往来するときにコロナの陰性証明を求められることも多くなり、宣教師たちの負担も増えているため、コロナ禍の一時帰国や派遣時の支援にも用いられます。
また、「世界宣教の日献金」は、日本基督教団関係学校で学ぶキリスト者留学生奨学金のためにも用いられています。…
世界宣教委員会のFacebookにも、各国に派遣された宣教師たちから、それぞれの国のコロナ対策や教会の様子に関するご報告を掲載しています・・・今のコロナ禍、ともすると人と人が分断されがちのこの状況下で、だからこそ、世界の諸教会が主にあってひとつとされていることを覚えたいと思います。
 「あなたがたにまで伝えられたこの福音は、世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(コロサイ1・6)。宣教師たちの活動報告を掲載した「共に仕えるために」もぜひご参照ください。世界に広がる主の御身体に思いを馳せ、ぜひ祈りの内にお覚えいただき、献金をお捧げください。”(No.848)

2021年 9月 26日

ピンチこそチャンス

 9月21日に埼玉県南牧師会が開催されました。奨励の後は、参加した牧師たちが短くそれぞれの近況を分かち合いました。
 コロナのために、全面的に自粛して家庭礼拝を献げている教会もあり、対面の礼拝とオンラインとを併用している教会もありました。説教動画を公開しており、それを視聴して礼拝に来た人がおり、伝道になっているという教会もありました。「ピンチこそチャンス」。教会はなかなか変われないけれども、コロナのため、必要に迫られて思い切って、変えることができたとの声もありました。
 牧師会の後半は、「クリスマスの夕べ」について協議しました。毎年12月上旬に、県南牧師会が準備をして、県南の諸教会の協力のもと、クリスマスコンサートを約20年、開催してきました。しかし昨年はコロナのため初めて中止となりました。今年は「できることをしましょう」と、開催に向けて準備を進めています。
 日時は12月14日(火)午後7時から8時30分まで。会場は、リリア音楽ホールです。今年は、集まっての練習は困難なため、連合聖歌隊の奉仕はありません。その分、音楽ゲストとメッセージの時間が長くなります。
 川口総合文化センター・リリアからは、緊急事態宣言措置期間中の貸出については、定員の50パーセントとの利用者とするように告知されています。感染の状況によっては、そうなるかもしれません。また、座席で歌ってはいけないということです。「それなら、手話賛美をしましょう」というアイデアがでました。コロナ禍で迎える「クリスマスの夕べ」です。新しい企画として、説教者にアーサー・ホーランド先生をお迎えすることになりました。音楽ゲストは、アーサー・ホーランド先生のご長女で、ゴスペルシンガーの堀井ローレンさんです。主の良き導きがありますようにと祈ります。
 「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1・4~5)。(No.847)

2021年 9月 19日

ひとつとなる、つながる、祈り合う

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京教区は2支区)ずつ紹介します。
大阪教区〔大阪府・奈良県・和歌山県〕
“大阪教区には11の地区があります。今回、覚えてお祈りいただきたいのは、奈良地区です。
…奈良地区は古くから「奈良県伝道会」を組織し、伝道・宣教活動に取り組んできました。奈良は古都のイメージどおり、伝道の困難な地です。しかしこの地にあるからこそ、旧教派、規模の違いといった垣根を超え、連帯してひとつとなり、伝道・宣教を推進していこうと奈良県伝道会が作られました。
…年に5回開かれる委員会では、各教会・伝道所の状況を分かち合うほか、信徒修養会、各部の活動について協議します。…”
祈りの課題
・ひとつとなる、つながる、そして祈り合う「奈良県伝道会」となるために。
・奈良地区12教会・伝道所の伝道・宣教推進のために。 
兵庫教区〔兵庫県〕
“…県の中でも歴史的な背景に違いがあり、地域性も教会観も個性的で多様です。その多様性を生かせるよう祈っています。2018年5月、兵庫教区は北海教区と宣教協約を結びました。また2004年には、日本基督教団が宣教協約を結んでいる台湾基督長老教会の高雄中会と宣教協約を結びました。以来、喜び、楽しみを分かち合い、災害発生時などは痛み、悲しみを共にしてきました。…今年度書面開催した教区総会にて、検討を重ねてきた互助のひとつ「謝儀保障制度の運用方法の指針の改訂」について、新たな歩みを始めることになりました。…”
祈りの課題
・教区に連なるすべての教会・伝道所と、そこに連なる信徒・教師が共に宣教を担えるように。
・教区内外の連帯の未来のために。(No.846)

2021年 9月 12日

御心に留めていただいて

 本日は敬老祝福礼拝としてささげます。西川口教会では、主に9月第2日曜日に敬老祝福式を行って、礼拝後にお祝いの愛餐会を過ごしてきました。コロナ禍のため、例年通りにはいきませんが、礼拝・夕拝の牧師(司式者)の祈りにおいて、御言葉を朗読し、祝福を祈ります。
 今回の敬老祝福のために与えられた御言葉は、詩編第103篇14節以下です。

主はわたしたちを
  どのように造るべきか知っておられた。
わたしたちが塵にすぎないことを
  御心に留めておられる。
人の生涯は草のよう。
野の花のように咲く。
風がその上に吹けば、消えうせ
生えていた所を知る者もなくなる。
主の慈しみは世々とこしえに
  主を畏れる人の上にあり
恵みの御業は子らの子らに
主の契約を守る人
命令を心に留めて行う人に及ぶ。(詩編103・14~18)

 「わたしたちは塵にすぎない」、また「人の生涯は草のよう」とあります。25年前の母の突然の死を思い出すと、まことにこの御言葉の通り、人は弱くはかないものです。そうでありながらも、父との暮らしでは、死にそうなことがあっても、不思議と生かされる時もあります。どちらにしても、いのちは神の御手にあります。
 キリストの教会に生きる私たちは、神の御子が人間と同じ者になられたと信じています(フィリピ2・7より)。つまり私たちと同じ、塵にすぎない存在となられたのです。キリストはご自身を十字架にささげて死なれ、葬られ、復活し、救いとなってくださいました。キリストを信じる者には、体の復活と永遠の命が約束されています。この救いの恵みに感謝して、残りの生涯を、主を畏れ、主の御心を心に留めて生きてまいりましょう。(No.845)

2021年 9月 5日

米粒を眺めながら

 先月の週報短文にコンポストを購入して、朝に夕に土を混ぜていることを書きました。きっかけは、漬物床の米粒を捨てることに心が痛んだことでした。賞味期限が切れたら食べ物を捨てることもあるようですが、食べ物を捨てることなど、滅多にしなかった家に育ちました。母は幼い頃は戦争の時代で、疎開の体験もあったので、母が食べ物を粗末にすることはありませんでした。育ち盛りの三人の子どもたちを食べさせるのに一所懸命でした。小学生の頃、夏休みや冬休みに、母方の祖母のところで過ごしたことがありますが、祖母がお釜に残った米粒を糊代わりにしていたのを見て、驚いたことを覚えています。
 秋が来て、新米ももうすぐ出回るでしょう。先日「日本は、やっぱりお米がおいしいから。お米はずっと主食なんだよね」などと談笑しました。実家は経済的余裕がなかったので、新米を楽しんだ記憶はありません。今は、食べたいものが買えることは、神様のお恵みです。
 お米が手元に届くまでにどれだけのプロセスがあるだろうかと、ふと思いました。ちょうど米作り体験の新聞記事があって、なるほどと思いました。米は数か月も水につけること。水と土の養分を吸い上げ、陽を浴びて、ようやく育つこと。米をご飯にするにも、研いで、炊いて、蒸して、手間がかかる、のんきな食べ物である、とありました。お米が育つまでに多くの手間がかかって、さらに、収穫され、脱穀され、精米され、包装され、取引され、運ばれていきます。どんなに多くの人の手を経て、手元に来たのかと思いました。
 お米ばかりではありません。衣食住ほか、あらゆるものが多くの人の手を経て手元にあります。自分でできることなどほとんどありません。使徒の言葉を思い起しました。
 「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(コリント一4・7)。(No.844)

2021年 8月29日

「種を蒔く人になりなさい」

 8月23日の午後1時から約2時間、第67回こころの友伝道全国大会が、「種を蒔く人になりなさい」をテーマに、コロナウイルス感染防止のため、ユーチューブ配信で行われました。講師は樋野興夫先生(新渡戸稲造記念センター長、順天堂大学名誉教授、一般社団法人がん哲学外来理事長)。樋野先生より表題の講演を伺い、質疑応答の時間がありました。講演に先立っての開会礼拝では金田が、講演後の閉会礼拝(献身の時)ではこころの友伝道全国連合会会長で、新宿西教会牧師の深谷春男先生が説教してくださいました。これらはすべて事前に新宿西教会で収録し、編集して、配信しました。
 樋野先生には昨年、特別講師をお願いしておりましたが、コロナのため大会は中止。その後、今年は鹿児島で樋野先生をお迎えしての大会の準備を進めていましたが、コロナの感染拡大が止まず、今年の4月に鹿児島での大会の開催は見合わせ、5月にオンラインの大会開催が決定されました。オンライン配信のためには、事務局の献身的な奉仕がありました。インターネットを使わない参加者のためには、教会をサテライト会場にして視聴する協力も、いくつもの教会からいただくことができました(西川口教会も)。オンライン配信だからこそ、全国各地からたくさんの参加者が与えられました。双方向の交流はかないませんでしたが、今できることをいたしました。足りなかったところは、次につなげていきたいと思います。
 樋野興夫先生のがん哲学外来の講演は、一度聞いただけでは分かりません。私もそうでした。何度も繰り返し聞いて、3年ほど経って分かってきました。皆様には、少しでも心に留まった言葉があるなら、それがきっと蒔かれた種だと思います。“「がん哲学外来」は、生きることの根源的な意味を考えようとする患者と、がん細胞の発生と成長に哲学的な意味を見出そうとする「陣営の外」に出る病理学者の出会いの場でもある。” がん哲学外来に触れていただけたことが感謝です。(No.843)

2021年 8月22日

「世間」とは「社会」とは「個人」とは

 CCC(キリスト教カウンセリングセンター)で共に学んだ仲間からの紹介で「同調圧力 日本社会はなぜ息苦しいのか」を読みました。本の帯には「日本社会のカラクリ=世間のルールを解き明かし、息苦しさから解放されるためのヒント」とありました。
 この本には、日本には「世間」はあるが「社会」はなく、「個人」(インディビジュアル)はいない、とありました。この本は息苦しさを感じている人々へのメッセージですが、キリスト教について触れられている箇所がいくつかあり、立ち止まり、考えさせられました。
 “…一年に一回、ヨーロッパ中の成人男女は教会で告解しなければいけないということが義務づけられたわけです。自分の罪を打ち明けることになるのです…告解は誰に向けてしているのかというと、それは神様に言っているわけです。…個人が内面と向き合うことで、個人の倫理、あり方を模索するようになる。そうした行為を通じて、一二世紀ぐらいから徐々にインディビジュアルができ上がっていった…このインディビジュアルが明治期、日本にも入ってきたのですが、今に至ってもおそらく日本には存在しない。個人という言葉はあっても、本来の意味での個人ではない…”
 “…キリスト教では、言葉というのは基本的に神様との関係から生まれる。自分が言ったことに対して責任をとるか、とらないかというのは、神様に対して罪になるか、ならないかという問題で判断するわけです。ところが日本の場合、どことの関係で判断するかというと「世間」の空気です。空気が変われば、自分が変わってもいいわけですよ。自分が変えたわけじゃないから、自分は責任をとらなくてもいいと思っているわけです。…キリスト教というのは吐かれた言葉、自分の行動に対してちゃんと責任を持たなければいけないという基本的な考え方があるんですね。…”
 日本の教会はどうか。「社会」となっているのか。「個人」はいるのか、問われました。(No.842)

2021年 8月15日

伝道の灯をともし続けられるように

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京教区は2支区)ずつ紹介します。
東海教区〔長野県・山梨県・静岡県〕
“…東海教区は伝道五カ年計画として、日本基督教団信仰告白の「教会」についての告白を道しるべとして歩んできました。2020年度は「主の再び来たり給ふを待ち望む教会」を主題に、教区主催の伝道協議会と信徒修養会を行いました。…
 また、「主の祈り」を日に3度、それも食前の祈りで祈ることを機会のあるごとに…提唱してきました。…「十二使徒の教訓」に記されていることを参考にしています。…
 今年度の東海教区は、終末論的視点に立ち、「終わりに向かって歩む教会」を主題として歩みを整えています。…”
祈りの課題 ・会堂、牧師館建築を行っている教会のため。飯田入舟教会、伊那坂下教会、諏訪教会、富士教会、静岡教会。 
中部教区〔富山、石川、福井、愛知東、愛知西、岐阜、三重の6県7地区、103の教会・伝道所〕
“…JR中央線坂下駅近くの坂下教会。その西方12キロ、小高い丘の上に立つ田瀬教会。そこから北へ9キロ、風光明媚な付知峡(つけちきょう)の町にある付知教会。これが東濃3教会です。各教会に教師が遣わされた時期もありましたが、経済事情などにより、1人の教師が3教会を兼務する体制が求められるようになりました。
 若林牧師は…午前と午後に2教会の礼拝で奉仕し、残る1教会は地区・教区の教師を招いて礼拝しています。また、月に1度は3教会合同礼拝を行っています。…(3教会が)伝道の灯をともし続けられるよう、ご支援をお願いいたします。”
祈りの課題 ・岐阜地区と東濃3教会のために。
岐阜地区8教会 現住陪餐177名。うち東濃3教会 現住陪餐29名。(21年3月末現在)(No.841)

2021年 8月 8日

できるところから

 「八月や六日九日十五日」(はちがつやむいかここのかじゅうごにち)という俳句があります。どこで知ったか覚えていませんが、「六日」は、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下、「九日」は、同年8月9日の長崎市への原子爆弾投下、「十五日」は、同年8月15日の終戦の日の3つの出来事を日付で伝えています。若い世代の中には、この日に何があったかを知らない人も多くなっているそうです。語り継いでいかなければと思います。戦後76年。先日、「黒い雨」裁判での訴えが認められたとの報道を聞き、長い間苦しんで、補償を待っていた人たちの苦闘を知りました。
 わたしが小学生だった1970年代、通っていた公立の小学校で、平和教育の一環として映画版「はだしのゲン」が上映されました。細かいストーリーよりも原爆の恐ろしさが、子供心にも刻まれたことを覚えています。残念ながら広島にも長崎にも訪れたことはありませんが、いつか必ず行きたいと思います。
 今はコロナのために教会の平和学習会も企画できませんが、ずっと西川口教会で信仰生活を送っていた者として、平和学習会でいろいろなことを教えられました。このように平和を祈り、時代の課題に関心を持ち、自分の頭で考えて、できるところから実践していく地道な取り組みが大切だと思います。
 小さな実践を紹介します。数年前に電力自由化となり、電力会社を選べるようになりました。ある記事を読んで触発され、再生可能エネルギーを電源とする電力に切り替えました。二酸化炭素(CO2)を排出しない電源(水力、地熱、バイオマスなど)による電力です。「核」技術は、人間の手に余り、命を脅かすものです。ですから原子力発電に頼らない電力供給をという取り組みを応援したいのです。電気料金はほとんど変わりません。
 神が造られた善き世界を、人間が痛めつけています。いのちと環境が大切にされ、平和が来ますようにと祈ります。(No.840)

2021年 8月 1日

土を混ぜながら

 2ヶ月ほど前に、室内に置くことのできるコンポスト(生ごみを微生物や菌の働きで発酵・分解して堆肥化する容器)を買いました。大きさは一斗缶くらいです。きっかけは、米こうじを使って漬物を作るようになったことです。野菜やお魚・お肉を漬物床から取り出したとき、付いていたこうじの米粒を洗い流します。その結果、お米の粒を捨てることになり良心が痛みました。燃やすごみが増えてしまいました。水分の多い生ごみは、焼却炉の燃焼効率を下げてしまうのです。「何とかせねば」と思い、ネットで調べ、長続きできそうな、お手頃なコンポストを見つけました。
 朝には付属品の小さなスコップでコンポストの土をかき混ぜ、晩にはその日の生ごみを入れて、土に埋めます。土の中の微生物たちに「分解してくれてありがとう」と感謝して土をかき混ぜていると、気持ちが和みます。もともと、私は、ほとんど食べ残しは出しませんから、生ごみは野菜や果物の皮とか、魚の骨などでした。それらもコンポストに入れますから、燃やすごみを減らせて、良かったと思います。土は肥料になります。
 キリスト教ラジオ番組の中で、カトリックの講師の先生がこんな話をしておられました。学生の頃、カトリック教会のミサに通い始めて、聖書を読み始めた。創世記に、人間が土から造られたと書いてある。「こんなことを本当に信じているのか」と、神父様に質問したら、「あなたは野菜を食べているじゃないですか。野菜は土からできているじゃないですか。だから、人間が土から造られたって不思議ではないでしょう」と。楽しく聴きました。
 「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3・19)。土から取られた塵にすぎない人間。それを見失った人間の驕りが、コロナ禍とそれに伴う問題も含めて、現代世界の諸問題の根源ではないかと、コンポストの土を混ぜながら、感じています。(No.839)

2021年 7月25日

ホーリネスの群夏期聖会を視聴して

 先週7月22日の午後、日本基督教団ホーリネスの群の首都圏夏期聖会が開催されました。題は「最後に神の愛が勝つ~ゼカリヤ書に学ぶ~」、講師は、藤本満先生(イムマヌエル総合伝道団高津キリスト教会牧師)でした。コロナウイルス感染防止のため、東京聖書学校からのYouTube配信され、当教会の1階集会室のモニターを使って、数人の兄姉と視聴しました。
 今回は、オンライン配信について書きたいと思います。現在は、教会堂はインターネットが使える環境ではありません。それで、一時的な仕方でオンライン配信を視聴できるようにしました。スマートフォンの設定で「インターネット共用」の「ほかの人の接続を許可」を有効にします。ノートパソコンをWI―FIが利用できる設定にします。次いで、ノートパソコンと集会室のモニターをHDMIケーブルでつなげば、パソコン画面がモニター画面にも映り、音声もモニターから出力され、YouTubeの動画が視聴できるようになりました。スマートフォンとノートパソコンは自分のものを使いました。インターネットの通信データ量をたくさん使いますが(これは教会で費用を負担)、教会堂にネット環境がなくても、少しの時間であれば、このように視聴ができます。
何よりも、オンライン配信のための細やかな準備に感心しました。講師の藤本先生は、4回の説教を事前に録画されており、その説教にはすべて字幕がつけられ、大事なポイントは大きく表示されていました。お声は聞きやすく、情熱をもって福音を語ってくださいました。東京聖書学校からのライブ配信では、カメラの映像だけでなく、聖書の朗読では該当箇所のスライド、賛美の時は歌詞のスライドを出してくださいました。また献金奉仕者も、奏楽者も写されて、視聴している人への気配りを感じました。
 コロナ禍が終わっても、オンライン配信は続けられることでしょう。福音を届けるために、できることをしたいと思います。(No.838)

2021年 7月18日

召された神の器として

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京教区は2支区)ずつ紹介します。
 東京教区千葉支区〔千葉県の60余の教会・伝道所。千葉内房・東総・北総、東葛の4つの分区あり〕〝…2019年には2つの大型台風によって、複数の教会と関係団体が被災しました。全国の教会からの祈り、また具体的な応援をいただき大いに励まされました。
千葉県には、東京に近接する都市部と郊外があり、人口、経済などの格差が大きく、教会もそのような地域性に左右されます。
…いずれも召された神の器としてそこに存在していることを覚え、この地での宣教のわざに祈りをあつくしています。〟
祈りの課題 ・無牧、無信徒の教会のため。 
・協議会や修養会が思うようにできずにいる支区全体の交わりのため。
・2019年の台風15号、19号によって被災した教会のため(君津伝道所、銚子教会、かにた婦人の村)。
 西東京教区〝2019年に教区設立20年を迎えた西東京教区は、さかのぼること約10年前、2つの開拓伝道を開始しました。1つは、立川からしだね伝道所です。教区設立の動機として掲げた「教会を生み出せる教区」のビジョンの実質化でした。…もう1つは八王子ベテル伝道所です。…これからの教区の伝道の働きを祈りに覚え、お支えください。〟
祈りの課題 ・感染症の厳しい状況下での教会・伝道所ならびに関係団体・関係学校の宣教のために。
・立川からしだね伝道所のために。
・八王子ベテル伝道所のために。
・青少年への伝道や育成のために。
・SCF(学生キリスト教友愛会)との共働のために。(No.837)

2021年 7月11日

祈る教会に

 本日の礼拝と夕拝に、島隆三先生に説教をしていただけることを、主に感謝いたします。島先生を通して語られる神の言葉に共に生かされ、西川口教会が心新たに祈る教会とされますように。
 島隆三先生が2004年春に仙台青葉荘教会へ転任される前の、西川口だより2004年1月号に「祈りの教会として」と巻頭言を書いてくださいました。一部紹介します。
“私は札幌の教会で信仰を育てられました・・・
 一昨年、郷里に戻った時に祈祷会に出席しましたが、八十代、九十代の先輩たちがずらりと並び静かに祈る姿に感動したのを忘れ得ません。この祈りの空気は一朝一夕で生れるものではないとしみじみ思いました。・・・教会は弾圧迫害の嵐の中でかえって成長前進したように、人間の常識では計れないところがあります。
 第二の母教会となった仙台の教会・・・もまさに祈りの教会でした。・・・教会は違うタイプの牧師を迎えることで、信仰的に成長することがよくあります。これまた人間的に軽々しく判断することは慎むべきことであります。・・・
 札幌の教会も仙台の教会も、反省すべきことはたくさんあるでしょう。しかし、「祈る教会」には不思議に弱さや欠けを補って余りある宣教の実りが与えられることを今日まで何度も見てきました。
 問題は私たちの教会です。創立以来、半世紀余りを経たとはいえ、先の二つの教会から見ると、まだまだ若い教会という印象を拭えません。しかし、若いということはなお成長する可能性に富んでいるということです。今後は若い教師を支えて、皆が一丸となって羽ばたくこと、特に「祈りの教会」として成長して欲しいと切に願います。祈りの欠けを他の何かで補うことはできないでしょう。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ・・目標を目指してひたすら走ること」(フィリピ3・13)を切に祈りつつ。”(No.836)

2021年 7月 4日

賢く食べて元気に生きる

 先週の週報短文に続いてラジオの話です。聴き逃し配信から「健康長寿の“賢食”術」という番組を楽しく聴きました。お話は家森幸夫先生。亡くなった母が晩年、自宅でカスピ海ヨーグルトを作っていたことがあり、第2回放送の「コーカサスのヨーグルトパワー」というタイトルに惹かれて番組を聴き始めました。家森先生は「賢い食べ方」を科学的に検証するため、40年近くかけて世界61地域(長寿村と短命の地域に暮らす人)を巡って健診して、食生活と健康の関係を分析されました。健診そのものを全く知らない地域の人々に命がけで健診をお願いしたり、何のつてもなかったのに思いがけない出会いに導かれて健診が可能になったりと、多くのエピソードもユーモラスに語られています。一方、移住者が増え長寿地域の食生活が崩壊し、不健康になってしまったという残念なエピソードもありました。病気を防いで元気に暮らすという家森先生の情熱が伝わってきます。長年にわたる健診結果の分析から「食を上手にとれば、健康寿命は自分で伸ばせる」という結論が得られました。いのちのもとである食を賢く食べれば、体調は変えられ、健康に生きられると、科学的に実証されたのでした。
 私は教会の働きに支障が出ないように、体調管理には常に気を付けていますので、この結論はたへん有益で、食生活を見直し始めました。
 食べ物が体を作り、食事を上手にとれば健康に生きられるのですから、人の魂は、御言葉の糧を上手にいただいて健やかにされると思います。なぜなら、食べ物から体が作られるように、聞いた言葉が私たちの心と魂を作るはずだからです。人は聞いた言葉に従うのです。魂の健康も、生まれつきとか運命とかで決まるのではなく、変えることができるはずです。それは、外からの言葉、神のいのちの言葉をいただくことです。主イエスは言われます。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4・4)。(No.835)

2021年 6月27日

利他を選んで行動すると幸せに

 今年になってから、ラジオを聴くようになりました。リアルタイムよりも、もっぱらインターネットの聴き逃し配信で聴いています。
 先日、「幸せを科学で考えてみる」というお話を聴きました。私は理学部出身で、理屈っぽい人間で、科学重視の傾向があります。「幸せを科学で考えるとは、どういうことか」と興味を持って聞きました。幸福度合いの国連の調査ワールドハピネスレポートというテストで「最悪の人生を0点、最高の人生を10点とすると、あなたの人生は何点ですか?」という質問の結果、日本人の平均は6・5点。フィンランドは平均は8点を越えているそうです。ゲストの先生が、幸福研究から幸せに関する項目を抽出して、それを基にして日本での1500人のアンケート調査を行い、その結果をコンピューターで解析し、幸せの4つの因子が整理された、と語られました。
 ①やってみよう因子…夢や目標、やりがいを持ち、それらを実現しようと成長していくことが幸せをもたらします。自分が好きなこと、心がワクワクするようなことをやるのが理想的です。
 ②ありがとう因子…人を喜ばせること、愛情に満ちた関係、親切な行為などが幸せを呼びます。多様なつながりや、他人のために貢献したい気持ちが強い人ほど幸せを味わえます。
 ③なんとかなる因子…自己肯定感が高く、いつも楽しく笑顔でいられることはやはり幸せです。
 ④ありのままに因子…他人と比較せずに自分らしくやっていける人は、そうでない人よりも幸せです。(「読むらじる」ウエブサイトより)
 こうして結果を聞くと、聖書から示されている生き方と重なることだ、と思いましたが、科学的手法によっても同様に導かれたことに感心しました。ゲストの先生が「健康に気を付けると健康になっていくように、幸福に気を付けると幸福になります。利己的に生きると幸福にならないので、利他的な方を選ぶようになりました」とコメントされたのが印象的でした。(No.834)


2021年 6月20日

互いに支え合う

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京教区は2支区)ずつ紹介します。
 東京教区南支区〔品川区・目黒区・大田区・港区(一部)・世田谷区(一部)〕
 “…コロナ禍は、互いの困難を覚え、連帯しながら支え合っていく必要性を再認識させる機会となりました。…
 祈りに覚えていただきたい教会の一つは目黒原町教会です。…昨年12月に会堂を新築しました。しかし現在の状況にあって、高齢教会員たちは礼拝出席が難しく、財政に困難を覚えています。その中で礼拝の動画配信をするために、〔南支区の〕教会互助制度を利用してインターネット環境を整えました。もう一つは蒲田新生教会です。現在は会堂での6、7名とリモートでの7、8名の参加により礼拝を守っています。…財政厳しい中ではありますが、〔会堂と牧師館の〕工事を終え、教会が整えられたことに感謝しています。…。”
祈りの課題
・目黒原町教会、蒲田新生教会のため。 
・東京教区南支区28教会・伝道所が互いの困難を覚え、支え合っていけるように。
 東京教区北支区〔新宿区、文京区、豊島区、板橋区、練馬区、北区、中野区(一部)47教会、3伝道所〕
 “…諸教会、また個人が献金をささげて、支区内の財政困難な教会・伝道所を支援するという「北支区伝道協力規則」を…運営してきました。献金の名称は「ワンドロップ献金」です。各々がささげる一滴一滴が集まって、大きな流れとなるようにとの願いが込められています。…一人ひとり顔の見える交わりの中で互いに支え合う支区形成を願っています。”
祈りの課題
・一人ひとり顔の見える関係を築き、諸教会が互いを具体的に覚え合うことができるように。 
・支区の互助の態勢が一層充実し、諸教会の伝道・宣教の働きがよき実を結ぶように。 (No.883)

2021年 6月13日

「かたつむりセミナー」

 2020年10月18日付の週報短文で「説教セミナー@ZOOMのために祈りを」と題して、お祈りをお願いしました。説教塾のこのセミナーは昨年10月末から始まりましたが、オンラインの学びは休憩を入れて3時間が限度ですので、月2回の学びとなり、現在進行中です。ゆっくりなので、昨年末に「かたつむりセミナー」というあだ名がつきました。ドイツに留学された先生から「かたつむりは、主の復活のシンボル」と教えられて、素敵なあだ名だと思いました。オンラインの利点として、全国各地また海外からも参加でき、聴講者もおり、約70人が学んでいます。加藤常昭先生は、今年4月に92歳のお誕生日を迎えられ、体調に気をつけながら、全精力を注いで、きめ細やかにご指導されています。人数が多いので、参加者は月曜組と火曜組と2つのグループに分かれています。ですから加藤先生は。毎週どちらかのグループのご指導をしておられるのです。さらに塾生の先生方のご奉仕で、毎回、録音と録画がなされ、説教塾のメーリングリストでアドレスが告知されますので、欠席者は、それを視聴して学びについていき、セミナー参加者でなくても視聴ができます。これもオンラインならではの利点です。他に、資料を整理して配付されたり、発表を担当されたりと、学びのサポートの連携はとても素晴らしいことだと感心しています。
 セミナーの聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙第13章8~14節です。かたつむりセミナーでは、様々な訳の聖書を読み、ギリシア語原典を読み、釈義をし、いくつかの注解書を丁寧に読みました。今週は説教黙想を読みます。そしていよいよ説教作成と提出の時となりました。その後、説教批評がなされ、セミナーが終わります。
 そういうわけで、今度の日曜日の礼拝では、かたつむりセミナーで学んできた聖書箇所から説教します。もう少しセミナーのために、そして説教塾のため祝福をお祈りしてください。それは日本の教会のため、伝道のためとなります。(No.882)

2021年 6月 6日

この国で主に従うとは

 教団出版局から今年2月に刊行された「信仰生活ガイド 信じる生き方」を読みました。第3章「隣人と生きる」に、埼玉地区委員長の小林眞先生が「他宗教社会での信仰生活を考える」という文章を寄せておられ、たいへん教えられましたので、一部ご紹介いたします。
 “…クリスチャン人口一パーセント未満の日本においては…信仰に対する無理解と無関心が一般的です。…他宗教とどのように付き合うべきか、絶えず悩まされることになるのです。…こうした、信徒の…特に諸宗教や地域の宗教施設に関わる悩みに対して、私は次のように答えてきました。
 「まず、基本的なことは十戒にあるとおり、聖書の神さまは唯一の神さまで、これ以外に神さまはいません。キリスト教は、たくさんの神々がおられてその中からお一人の神を信じる『拝一神教』ではなく、ただお一人の神さまがおられることを信じる『唯一神教』です。これをまず肝に銘じてください。それが心から理解でき、納得できれば他の宗教への対応も自然と決まってきます」と。
 まず、以上の基本をわきまえた上で具体的な指導をします。その場合大切なことは、諸宗教や宗教的な儀礼に対しては敬意を持つということです。そのことが抜けていると排他的な態度となり、結果としてクリスチャンが孤立してしまいます。もちろん、そうかといって無節操な迎合をすると、神様を悲しませることになります。…
 重要なことは、これらを画一的に考えるのではなく、今、信徒一人ひとりに与えられている〈信仰のはかり〉に従って判断するということです。人の目を気にせずに神さまの前だけで生きうるのか、それともある程度の妥協はやむを得ないと思うのか。その姿勢そのものが変化・成長するのであり、またそうでなければならないはずです。
 今は神社に寄付しているが、信仰の成長とともに考えを変えて決断し、何年もたって断ることができるようになるかもしれません。私はこの、「考える」ということが大切だと思っています。…”(No.881)

2021年 5月30日

十戒を学びます

 原則月1回の説教を約4年かかって、先月、教団信仰告白(後半は使徒信条)を終えました。本日から原則月1回、引き続き教会の信仰の基本を学ぶため、「十戒」から説教をいたします。
 ちなみに「主の祈り」「十戒」「使徒信条」は、「三要文」(さんようもん)と呼ばれていて、昔からキリストの教会が、この三つの言葉を覚え、身に付け、体得することによって、信仰とは何か、救いとは何か、信仰者としての生活とは何かを理解し、心得てきました。
 使徒信条は、聖書の言葉ではなく教会が生み出した信仰告白の文章です。洗礼における信仰の告白を明確な言葉で言い表すために、このような信仰告白の文書が必要とされたようです。
 主の祈りは、西川口教会では、主日礼拝の度に祈っています。主イエスが弟子たちにどのように祈るべきかを教えてくださった祈りです(マタイ6・9以下)。最後の部分(「国と力と栄とは…」)は、後代の教会によってつけられた頌栄です。
 十戒(出エジプト記20章参照)は、人間の罪を明らかにすると同時に、信じて救われた者がどのように生きるべきかを教えてくれています。西川口教会では十戒を主日礼拝で唱えていませんが、主日礼拝で唱える教会はいくつもあります。かつて用いていた讃美歌1954年版の交読文には十戒もありましたので、西川口教会でも礼拝で時々交読したはずです。十戒は、讃美歌21の93―3にあります。
 祈祷会・昼間祈祷会では、出エジプト記を昨年6月から学び始めて、ちょうど先週、第20章17節、十戒の第10戒を学び終えたところです。十戒は、神を愛することと隣人を愛することを語り、神が願っておられる世界を示しており、それこそ神と民が交わす契約の内容であると知りました。祈祷会の出席者からは、本当にこの十戒の通り生きていけたら、世界は平和になる、という感想があり、本当にそうだと思いました。まず教会からです。(No.880)

2021年 5月23日

聖なる霊の働き

 本日は、聖霊降臨日(ペンテコステ)です。使徒言行録第2章に記されている聖霊降臨の出来事を記念します。「信徒の友」2021年5月号の特集記事より、吉田隆先生の「聖なる霊の働き」から引用して、聖霊のお働きを紹介します。
 “…さて、聖書を読んでも、聖霊については今ひとつよくわからないという方が多いのではないでしょうか。それもそのはずです。聖霊はまさに聖なる〝霊〟ですから、わからないのも無理はありません。主イエスが言われたとおり、風が思いのままに吹くように、霊も思いのままに働かれるからです(ヨハネ3・8)。…
 最初に心に留めたいことは、聖霊は、御父や御子と同じ神であられることです。聖書にはっきり教えられ、また私たちも普通に礼拝で唱えている“父と子と聖霊”という言い方がそれを表しています。
 これは、復活した主が弟子たちに語られた「父と子と聖霊の名によって」洗礼を授けるようにとの命令(マタイ28・19)や、パウロがコリント教会への手紙の最後に記した祝福の言葉「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」(Ⅱコリント13・13)に基づいています。
 これを、後の教会は“三位一体(さんみいったい)”と呼ぶのですが、大切なことは、聖霊は御父と御子と一体ですから一体的に働かれるという点です。聖書で教えられる御父や御子キリストの働きと無関係に、あるいは矛盾して働かれることはありません。矛盾していれば、聖霊なる神の働きと言えないでしょう。…
 聖霊は、御父と御子と一体の神ですから、永遠におられるお方です。
 ですから、旧約・新約時代に神の民に働かれた聖霊が、今も私たちのために働いておられるということです。…
 聖霊に生きるとは…私たちが御言葉に親しみ、信仰を持って祈り、隣人をも自分をも活かす道を歩むことです。…”(No.879)

2021年 5月16日

それぞれの働きを覚えて

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京教区は2支区)ずつ紹介します。
 東京教区東支区 “…50教会・伝道所を擁する東京教区東支区の特色は、都心の大規模教会と、いわゆる下町にある小規模教会からなることです。…特に祈りに覚えていただきたいのは、伊豆諸島の5教会・伝道所(大島元村、波浮、新島、三宅島、八丈島)の働きです。三宅島伝道所は…長年の祈りであった定住者に岡田真希牧師を招聘し、…主日ごとの礼拝がささげられるようになりました。…八丈島教会は無牧師が続く中…荻野英夫牧師を招聘することができました。…島嶼部の全ての教会に牧師が与えられたことに感謝しています。…コロナ禍にある山谷地区の3つの伝道所それぞれの働きを覚えていただきたいと思います。”
祈りの課題 ・東京教区東支区50教会・伝道所の働きを覚えて。
      ・伊豆諸島の教会・伝道所の働き、ことに三宅島伝道所支援のために。
      ・山谷地区の伝道所の働きを覚えて
 東京教区西南支区 “渋谷区、港区、世田谷区にある43の教会が…主により頼みつつ歩んでいます。その内の礼拝出席者が20名に満たない2つの教会を…紹介します。お祈りください。
 使徒教会 …礼拝出席者の大多数が後期高齢者なので、安全確保を最優先しています。…緊急事態宣言発出に伴い3月現在再び(礼拝を)中止しています。…全員に礼拝メッセージを郵送し…ました。牧師が定期的に信徒一人ひとりと電話で連絡を取り、牧会が深まったことに感謝しています。
 祖師谷教会 賀川豊彦が創立した武蔵野農民福音学校の跡地に建てられた保育園から始まった教会です。この地をささげた…家族の信仰を記念して…ステンドグラスには「次郎桜」があしらわれています。…平均礼拝出席16名の小さな群れは礼拝を守っています。”(No.878)

2021年 5月 9日

母の日に寄せてー第5の戒め

 現在、祈祷会の出エジプト記の学びは第20章までいき、十戒を一つずつ学んでいます。本日は母の日です。第5の戒め「あなたの父母を敬え」(出エジプト20・12)の学びで心に残ったことを紹介します。引用は、以前にも紹介した左近淑先生の著書「神の民の信仰・旧約篇」からです。
 “・・・旧約聖書では祖先崇拝を禁じているのです。・・・そうすると、生きた父と母を敬うことになる。それは何だろうか。・・イサクはよぼよぼになってしまってよく見えないものですから、エサウとヤコブがやってきて、ヤコブがごまかしているその姿を見分けることもできないで祝福を与えてしまう〔創世記27章参照〕。ヤコブだって、最後の所ではやっと助けを借りて祝福をするというふうな始末です〔創世記48章参照〕。ですけれど、祝福するというのは、人間の持っている生命力です。生命力を次の世代に伝えるギリギリの儀式なのです。・・・
 だから、白髪の者が通るときにはお前たちは立ちなさい〔レビ記19・32参照〕、というのが旧約聖書で、父母を敬えということです。老人を・・・もう仕事ができなくなったから世話をしろ、などということは全然旧約聖書の考えとは合わないのです。よぼよぼであろうと、何ができなかろうと、・・・父母というのは、自分たちが最も敬うべきものである。・・・「敬う」という語を調べますと、旧約聖書では、まず神様を敬う、王様を敬う、祭司を敬う、預言者を敬うということ、それだけしかない。それに類するように「父と母を敬え」ということをおそらく使っている。それ以外には使い方がないのですから。だから、父と母というのは、ルターは地上における神の代表者だ、大使だ、と言ったのです・・・そういうふうに考えれば、敬うということはわかる。力がなくなって何もできなくなっている。老衰している父と母、そんなことは関係ない。父であり母であれば、最後まで敬う。生命力の伝達者、それが老人です。・・・父と母は神を示すのだ、と。・・・”(No.877)

2021年 5月 2日

ガラテヤの信徒への手紙を読もう

 本日から、「ガラテヤの信徒への手紙」(以下、便宜上「ガラテヤ書」と書きます)の説教を始めます。ガラテヤ書について、日本聖書協会「スタディバイブル」の解説から紹介いたします。
 ガラテヤ書は使徒パウロによって書かれました。ガラテヤは、現在のトルコに相当する地域です。紀元前25年にローマ皇帝アウグストゥスがガラテヤと名付け、パウロの時代にはローマ人が支配していました。この手紙をいつどこでパウロが書いたのかは明らかではなく、諸説あります。
 ガラテヤ書は短い挨拶で始まり(1章1~4節)、祝福と共に終わります(6章18節)。ガラテヤの教会の信徒を悩ましている偽教師たちの教えに対してパウロの主張を明らかにし、パウロの使徒職(使徒としての権威)とキリストについてのパウロの教えを弁明しています。
 パウロがガラテヤの教会の信徒に理解してほしかったのは、パウロがイエス・キリストの真の使徒であり、パウロがイエスについて彼らに伝えた福音が唯一の真実のものであることでした。手紙が書かれたとは、それ以前にパウロがガラテヤに行き、宣教したということです。以前の訪問で、パウロは、イエス・キリストの福音である神の教えをガラテヤの信徒に告げ知らせました(1章7~8節)。しかし、神の子となるためには、律法に従わなければならないとガラテヤの諸教会に教える人がいるのを知ったパウロは、怒りを表しています。偽教師たちは、イエスの兄弟であるヤコブなどエルサレムの教会の指導者が守っている規則に従うべきだと主張しました。それに対して、パウロはガラテヤの教会の信徒に、エルサレム教会の使徒たちが、パウロを使徒として認めていることを語りました。(1章18~19節)。更に、律法やユダヤ人の伝統に従わなくても、異邦人(非ユダヤ人)は、神の新しい民に加えられることについて、エルサレム教会の使徒たちが同意していることを説明しています。
 主に期待して、ガラテヤ書を読みましょう!(No.876)

2021年 4月 25日

信仰の基本・神を知る言葉

 2017年5月から原則として月に1度、日本基督教団信仰告白に沿って、説教してきました。教団信仰告白の後半部分は使徒信条となっていますので、最近は「使徒信条による説教」を続けてきました。今日の説教「永遠の命を信じます」で一区切りとなります。丸4年かかりました。
 「キリスト者」とは、自分はキリストの救いを信じ、キリストが示してくださった神を信じているつもりの人ではなくて、洗礼を受けて、教会に入会している人のことです。キリスト者とは、キリスト教会の会員のことです。
 洗礼を受けていない人は、この信仰告白に「アーメン」(「本当にそうです」という意味)」と言って心から同意すれば、洗礼を受けることができます。他教会員の人たちがこの信仰告白に「アーメン」と言えれば、西川口教会の一員になれるのです(もちろん教会の手続きが必要です)。
 洗礼を受けて間もない人も、洗礼を受けて長い年月を経た人たちも、神の前で同じ地平に立ち、共に同じ信仰の言葉を告白をするのです。その信仰の言葉は、神を知る言葉でもあり、福音の言葉でもあります。
 「使徒信条」と共に、「十戒」、「主の祈り」は、キリストの教会においてとても大切な役割を果たしてきました。これらの言葉を学ぶことによって、キリスト者は、このように信じ(使徒信条)、このように生き(十戒)、このように祈る(主の祈り)ということを体得してきました。
 しかし、西川口教会においてこれらを「体得しました」と言えるかと問われると、心もとない思いがします。牧師が指導したかと問われたならば、まだまだこれからです、と言わざるを得ません。
 教団信仰告白の説教を始めた動機の一つは、主日礼拝の出席で精一杯の人たちも少なくない現状で、礼拝以外の時間をとって学ぶことの困難さを感じていたからです。ですから、引き続き、信仰の基本である「十戒」「主の祈り」を、原則として月1度、主日礼拝で説教する予定です。(No.875)

2021年 4月 18日

祈りの支援を

 毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京教区は2支区)ずつ紹介します。
東北教区(宮城県・山形県・福島県)
 “東北教区には、現在83の教会、伝道所があります。教区は7地区に分けられ、そのひとつが宮城県と福島県にまたがる相双・宮城南地区です。…この地域に東京電力福島第一原子力発電所はあり…相双に立てられている浪江伝道所と小高伝道所は、原発から半径20キロ圏内にあるため、原発事故直後に国から帰還困難区域に指定され…立ち入り禁止となり、主日礼拝をはじめとした諸活動は全くできなくなりました。小高伝道所では…事故から約8年の後…毎月1度、第4週の主日礼拝を午後3時から守っています。…浪江伝道所については礼拝の再開めどが立っていません。…みなさまの祈りの支援をお願いします。”
 祈りの課題 ・「ともに生かされる教区」の主題を掲げた10年最後の1年となる、2021年の教区の歩みのため。
       ・福島第1原発から20キロ圏内に立つ浪江伝道所と小高伝道所のために。
 関東教区(茨城県・栃木県・群馬県・新潟県・埼玉県)
 “関東教区は…141の教会・伝道所からなります。…佐渡教会は毎夏、各地の教会や教会関係団体のキャンプを多数迎えています。この教会にある老朽化した研修ハウスの補強を願っています。栃木県の益子教会は…昨年4月より牧師夫妻が定住し、毎週礼拝が守られるようになりました。会堂は借地に立っており、この土地の取得を祈り求めています。…年末から年始にかけての豪雪により、新潟地区の複数の教会に被害があり…ました。…現在教区の20弱の教会に専任の牧師がおらず、兼務・代務体制になっています。…”
祈りの課題 ・佐渡教会、益子教会のために。
      ・新潟地区の豪雪被害のために。(No.874)

2021年 4月 11日

礼拝に関する変更について

 コロナ禍はまだ続くと思われます。この状況の中で、伝道をどのように続けるのか、また広げられるのか、可能性を尋ね求めています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ10・17)のですから、キリストの言葉を聞いていただく機会をどう増やせるか、です。
 そこで小さなことですが、4月の定例役員会で提案し、5月から第1主日も夕拝を行うことにしました。つまり毎週夕拝があります。「夕拝」ですが、午後3時からなのは変わりありません。三密を避けて分散して礼拝できることと、朝の礼拝に来られなかった方のため夕拝が用いられることを願っています。第1主日は午後に役員会がありますが、長時間の会議を今はしておりませんので、支障はありません。牧師としては共に礼拝できることを祈っています。今日の礼拝は一度限り、二度とこない礼拝です。次は一緒に礼拝できるかどうかだれも分かりません。
 もう一つは、主日礼拝の「司会」を「司式」と改めます。「礼拝式を司る」という役目だからです。以前から呼び方を改めたいと願っていました。葬儀や結婚式では「司会」ではなく「司式」ですのに、主日礼拝では「司会」となっていました。
 それから、礼拝順序の一部変更です。聖書朗読の直後に説教することにいたします。聖書テキストと説教とが一つになって、神の言葉が語られ聞かれるようになると思います。実際には、礼拝順序の聖書の朗読と使徒信条を入れ替えることになります。
 年度の変わり目で良い機会と考え、役員会に提案して、変更について了解を得ましたので、4月18日の主日礼拝から変更いたします。
 コロナ禍の中でも、礼拝堂の礼拝が続けられて感謝です。先週のイースター礼拝では、久しぶりに聖餐にも与れて、本当にうれしいことでした。毎月の聖餐執行はまだ見合わせです。5月23日のペンテコステ礼拝には聖餐を行う予定です。
(No.873)

2021年 4月 4日

キリストの与える平和

 昨年春の緊急事態宣言が発令され、礼拝堂の礼拝を休んでいたとき、感染症に対する恐怖や、行動を自粛せざるを得ない息苦しさを感じました。その一方で、囚われの身でありながら、明るくしたたかに福音に生きる使徒の言葉はどこから来るのだろうと思い巡らしていました。
 さて説教塾の仲間のN先生は、毎月週報を送ってくださいます。一所懸命に伝道牧会していることが伝わってきます。最近の週報に改革者マルティン・ルターの言葉が紹介され、そこに使徒パウロの得ていた平安が語られていました。引用させていただきます。
 “・・・たとえば、貧乏である場合、貧乏だからはげしい苦労をすると考え、もし貧乏がなくなれば、平和と富の中に生活できるのだがと、なんとかして貧乏からのがれる方法について思いめぐらします。また、きとくの状態におちいった場合、死からのがれることをさえできれば、いのちと平和をもつことができると考えます。しかし、これはキリストの与える平和ではありません。むしろ、主は、悪が人の上にのせられ、ずっと圧迫し悩ませ続くるままにして、取り去られません。しかし、主は他のはかりごとを持っておられます。すなわち、その人自身を変えるのであって、人から悪を引き離すのではなく、悪から人を引き離すのです。
 このように、あなたがたは苦しみの中におかれていますが、主はその中であなたがたの方向を変え、勇気を与えて、ばら園の中にすわっているかのごとく思わせます。このようにして、死の最中にもいのちがあり、逆境の最中にも平和と喜びがあります。パウロがピリピ人への手紙(4・7)で言っているように、人知ではとうてい測り知ることのできない平安です。”(ルター「日々のことば」(鍋谷暁爾訳)『十字架の中に平和がある』より)
 本日は復活日。死に勝利された主イエスは、ご自分の命と平和と喜びで私たちを満たして変えてくださいます。ハレルヤ。(No.872)

2021年 3月 28日

「それでも生きる」

 以前にも週報短文に書いたNHKこころの時代「それでも生きる 旧約聖書コヘレトの言葉」(講師は牧師・東京神学大学教授の小友聡先生)最終回を視聴しました。この番組で批評家・随筆家の若松英輔氏と小友先生との対話で、お互いの持っているものが引き出され、とても良かったです。
 小友先生はコヘレトの言葉の終わりの御言葉を紹介されました。「朝に種を蒔き 夕べに手を休めるな。うまくいくのはあれなのか、これなのか あるいは、そのいずれもなのか あなたは知らないからである」(コヘレト11・6協会共同訳)。コヘレトの言葉のキーワード、ヘブライ語の「ヘベル」は、協会共同訳では「空(くう)」と訳されました。小友先生は「ヘベル」を「束の間」と訳したいと語られました。人生はヘベル、束の間。だからこそ、朝にも夕にも種を蒔いて生きるのだ、と言われました。「この番組は早朝5時からなんですね。もし夜眠れない人がこの番組を観ていたなら、コヘレトのメッセージをぜひ受け取ってほしい、『それでも生きる』。生きていれば可能性がありますから」と、説教のように語られました。
 若松氏は小友先生の言葉に応えて、自分の深いところから触れたという詩編の言葉を紹介されました。「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126・5協会共同訳)。10年前に伴侶を亡くし、とても厳しい人生の時期に出会った言葉、、本当に悲しい時人は涙が出ない、ある時、自分から涙が出てくる経験をしたとき、涙が出るということは、何かとても大きな力が宿ったことだと、この言葉から教えてもらった、涙を流した者は種を蒔くことができるのだ、と語られ、感銘を受けました。
 本日から受難週。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5・7)。主イエスの涙の執り成しに私たちは支えられています。
(No.871)

2021年 3月 21日

共に祈るために

 “毎月第3主日は日本基督教団の定めた「日本伝道推進を祈る日」です。全国17教区が取り組んでいる伝道の働きを2教区(東京は支区)ずつ紹介します。全国の教区・教会・伝道所を覚えて祈りを合わせましょう。”と、2巡目の告知が「信徒の友」2021年3月号に掲載されました。北海教区と奥羽教区それぞれの教区総会議長より、教区の紹介と祈りの課題が示されました。
 北海教区(北海道)
“11月21日(土)「オンライン宣教協議会」を行いました。・・・「コロナの中で何に困ったか、何が必要であったか、今後何を求めるか」を語り合う場としたのです。30教会60名以上がオンライン上に集い、語り合いました。
 いずれの教会も礼拝出席がままならない中、大きな教会ほど教会会計が逼迫し、支えが必要であるという事実を知りました。会えないからこそ情報共有が不可欠であること、必要なことを覚え合い・語り合い・祈り合うという真実を感じ取ることができた大切な会でした。・・・”
 祈りの課題 ・60教会・伝道所ならびに関係学校・関係団体・関係施設の宣教のために。
・どんな形でもつながることを、その方法を、希望の与えられることを。
 奥羽教区(青森県・岩手県・秋田県)
“奥羽教区は設立以来一貫して「一つなる教会」を唱えながら「教区の教会性」を実現しようとしてきました。・・・すべての教区構成員が見過ごしにされることのないよう、教区がいつも気を配って果たしている役割は小さくないと思います。
 そのために問安を従来から重視してきました。・・・”
祈りの課題 ・57教会・伝道所ならびに関係学校・関係団体・関係施設の宣教のために。
・2019年度に教団を離脱した木造教会(現・木造キリスト教会)のために。
・連帯・互助のための教区の働きが伝道につながるように。(No.
870)

2021年 3月 14日

東日本大震災から10年

 先週の木曜日の3月11日は、東日本大震災から10年の日でした。各地で追悼式が営まれ、祈りの手を合わせる人々の姿が報道されました。
 西川口教会では、まことに小さな業ですが、毎週、祈りの栞に掲載して、執り成しの祈りをささげ続けてきました。これからも祈り続けます。
 日本基督教団では奥羽・東北・関東・東京教区で、被災した多くの教会・関連施設・関連団体がありました。教会員や関係者の命が失われた教会もいくつもありました。日本基督教団としては、会堂再建と支援活動のための10億円募金を始めて、西川口教会も力いっぱいお献げしました。
 2013年8月25日に、大船渡教会牧師の村谷正人先生を特別礼拝と平和学習会の講師としてお迎えし、貴重なお話を伺いました。礼拝後の「平和の挨拶」は、村谷先生が礼拝で実際に紹介してくださって、取り入れたものです。
 翌年10月19日、村谷先生のご紹介で、大船渡市在住の医師で、ケセン語訳聖書で知られている山浦玄嗣先生(カトリック大船渡教会員)をお招きして、特別礼拝と講演会を開催し、尊いお話を伺うことができました。
 東日本大震災以降、さまざまな災害が各地で起こり、それに伴う支援献金に応えてきました。2015年の豪雨、2016年の熊本大分地震、2018年の大阪北部地震、西日本豪雨、北海道胆振東部地震、、2019年の台風19号豪雨。2020年の7月豪雨。
 そして人災と言える東京電力福島第一原子力発電所の事故の被害は、今だ深刻なままで、廃炉がいつ終わるのかも分かりません。数万の人々が、今なお避難生活を続けています。
 「見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない」(コヘレトの言葉4・1)。この御言葉を思い起しました。この涙を見つめるコヘレト自身、無力さを感じてうめいていたのではないかと思います。この涙をついに神がぬぐってくださるときを(黙示録21・4)、待ち望みます。(No.
869)

2021年 3月 7日

人々を神に戻すための孤独

 教会は、再びコロナ禍のレント(受難節)を過ごしています。コロナ感染の防止のために、人と距離を取ったり、会うのを断念したり、家族に囲まれて楽しく食事をする機会も失われました。本当に寂しく残念なことです。特に、幼い子供や若い世代で、大きなストレスを感じる人々が多くおり、若年層の自殺者が増えたことに心を痛めています。経済的困難を抱える人もたくさんいます。かろうじて病まないでいても、「心が晴れない」と感じている人はもっとたくさんいることでしょう。人間は独りでは生きられず、つながっています。コロナの災いは全世界を覆いました。自分だけ「ハッピイ」というわけにはいきません。
 ただ、聖書の考え方からすると、私たちは苦しみで連帯している、と言えるのではないでしょうか。孤独の意味をもう一度尋ね求めて、雨宮慧著「旧約聖書のこころ」を開き、「独りで座っていました―孤独の意味」を読みました。
 聖書の民はずっと深く集団と関わりながら生きているので、孤独になるのは容易ではありません。しかしひとたび孤独になるなら、それはただちに嘆きと苦しみと命の危険を意味するものでした。このような孤独に預言者エレミヤも追い込まれました。エレミヤは、神の言葉を仲間に語り聞かせますが、人々の反応は期待と正反対で、エレミヤを馬鹿にして聞こうとしません。なぜ神の言葉を語る者が苦しむのか、神に抗議しました。「わたしは笑い戯れる者と共に座って楽しむことなく 御手に捕らえられ、独りで座っていました。あなたはわたしを憤りで満たされました」(エレミヤ15・17)。神の応えはこうでした。「もし、あなたが軽率に言葉を吐かず 熟慮して語るなら わたしはあなたを、わたしの口とする。あなたが彼らの所に帰るのではない。彼らこそあなたのもとに帰るのだ」(同15・19)。「預言者の孤独は、預言者以上に神から離れた民を神に戻す孤独である」とありました。十字架の主イエスが耐えた孤独も、このような孤独なのでした。(No.868)

2021年 2月28日

レントからイースターへ

 先週2月21日に、礼拝教育部から皆様に「イースターを前に」と題して、イースター礼拝のお知らせと勧めの言葉のプリントが配付されました。
 “・・・2月17日からレント(受難節)に入りました。主イエスを賛美するため、聖書に親しんでいただけたらと思います。
主イエスは「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16・18)と言われました。主イエスが歩まれる道は十字架への道です。
 緊急事態宣言下の今、福音書を読んで主イエスのお語りになったこと、歩まれた道を振り返ればと思います。
 そしてご一緒にイースター礼拝をささげましょう。・・・”
 この礼拝教育部の勧めの言葉に従い、3月から4月の主日礼拝ではルカによる福音書から、主イエスの十字架へ歩まれた道をご一緒にたどっていきたいと思います。今年は4月4日がイースター礼拝です。この日と、4月11日・18日にも主の復活の記事を読みます。
 関連で、3月は使徒信条による説教をお休みし、4月25日に、使徒信条による説教をします。「永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず」を取り上げます。これで、日本基督教団信仰告白に基づいて原則月1回続けてきた説教(後半が使徒信条)が、一区切りとなります。
 礼拝教育部のプリントには、豆知識「レント(四旬節)」も書いてありました。
“イースターの準備にあてられた。灰の水曜日から始まる40日間である。・・・40日は、モーセがシナイ山で過ごした期間、イエスの荒野での断食期間、イースターの受洗志願者の準備の期間、とも考えられる。「レント」は「日が長くなる」の意味のアングロ・サクソン語に由来する。”
 レントは「四旬節」とも呼ばれ、こちらは文字通り「40日」です。日曜日はカウントしません。主イエスを見つめながら過ごしたいと思います。
(No.867)

2021年 2月21日

神の統治か、人の支配か

 先週2月17日が灰の水曜日で、レント(受難節)に入りました。教団の聖書日課「日毎の糧」では2月からサムエル記上になりました。興味深く読み、考えさせられ、思いめぐらしています。
 サムエル記上における大きな出来事は、イスラエルの歴史の中で初めて王政が始まり、王国が成立することです。イスラエルの人々は、敵の脅威から自分たちを守るため、他の周辺諸国同様に、王が必要だと、預言者サムエルに要求しました。これに対して、主なる神はサムエルに「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」(サムエル上8・7)と言われ、「王はあなたたちの息子も娘も徴用し、畑や収穫物を没収し、ついにあなたたちは王の奴隷となる」と警告されました(サムエル上8・11~17より)。そのようにしてイスラエルの初代の王として立てられたのは、ベニヤミン族出身のサウルでした。
 「神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った」(サムエル上10・26)。とありますが、この「勇士たち」とは職業軍人のことです。これは日本の戦国時代のようなもので、最初は農地を守ってもらうために荒くれ男(武士)に金を出して雇う、ところが雇っている間に、軍備に優れている方が逆に強くなって、農民から食糧を収めさせるとか、税金のようなものを取り立てていくようになる。農民からすれば守ってくれるのだから仕方ない。イスラエルも同様でした。サウル王は、戦うだけが仕事である職業軍人というものを作らざるを得なくなったのです。サウルはいつでも次の戦争の用意をしなければならないし、よく戦った兵士には報奨を与えて「次も頼むよ」と言わなければならない。そこで、ただ神の支配だけを本当に信じていればよい、というサムエルとの悲劇的な対立を迎えてしまうのです(サムエル上15章のアマレクとの戦い)。サウルは悪い人で、ダビデは良い人という単純なことではないのです。
(参考 左近淑著「神の民の信仰 旧約篇」)(No.866)

2021年 2月14日

「牧会者のケアを考える」

 教団全国教会婦人会連合婦人教職問題研究会主催第47回「婦人教職の集い」が、2月1日に、オンラインで開催されました。講師は昨年に引き続き阿漕教会牧師の加藤幹夫先生、講演題は「牧会者のケアを考える その2」でした。私は昨年は参加できなかったのですが、前回の講演の報告を読んで、今回ぜひ参加したいと思いました(報告は、全国教会婦人会連合のホームページにあります)。そこには、このようにありました。
 “・・・牧会者とその家族を取り巻く課題は、説教、伝道、教会形成、教会業務、地域、地区・教区・教団との関わり、付属施設、家族関係など、多岐にわたります。・・・その中でも、理想の自分(他者が要求する自分)と現実の自分(自分を取り巻く状況)とのギャップから生まれる要因があります。それは、キリスト者としての理想を知れば知るほど、このギャップに苦しみます。理想の牧師・・・理想の牧師家族・・・。それは、前任者との比較、教会員からのニーズなど、周りが作り上げる理想像であったり、聖書の言葉から作り上げる理想像であったりします。そのニーズに応えられない自分に苦しみ、そのギャップをどう解決するかが問題になります。・・・”
 そして、4つの判断・解決の道が紹介されています。①忍耐する、②相手を変える、③自分を変える、④関係を切る。これは、どれが正しいというのではなく、今の自分にとってどの判断が良いのかを見つめ直しながら、思い巡らすこと(思い煩うことなく)が大切です。
 今年はこの「③自分を変える」に焦点を当てた講演を伺いました。自分を変えるとは、神の恵みから始めること、キリストの恵みに押し出される自分になることです。そのためには、①祈る、②聖書を読む、③霊的な導きを得る(交わり)。改革者ルターの言葉「罪、陰府、死(暗闇)を見つめ続けるな。キリストと、正しい人(神との結びつきが強い人、救いの恵みに満たされた人)を見つめよ」が紹介され、私の心に刻まれました。(No.865)

2021年 2月 7日

誰のために 何のために

 皆様のお祈りに覚えていただいて、1月23日に、川口がん哲学カフェ「いずみ」4周年記念講演会を無事行うことができました。コロナのため、定員を今までの半分にして、講演会と質疑応答だけにしました。冷たい雨の中にもかかわらず、15人の参加者が与えられました。樋野先生の熱心かつユーモアにあふれた講演に学び、質疑応答では、半数以上の方から真摯で温かいコメントを伺うことができました。
 今回の講演会は、思いがけないプレゼントがありました。樋野興夫先生のご紹介で、キリスト教放送局日本CGNTVの取材が入り、ディレクターの方が講演会を約7分の動画にまとめてくださったのです。その動画がたいへんよくできており、いずみの4周年記念の良い記録となりました。インターネットのYouTubeで見ることができます。(川口がん哲学カフェ「いずみ」4周年講演 https://www.youtube.com/watch?v=AhKKQkSQkBA)
 この動画には講演会の報告のほかに、樋野先生や参加者のインタビューもあり、それもとても良いものです。私も世話人代表者としてインタビューを受けました。
 西川口教会の主任牧師となってから、がんになったことがきっかけで、礼拝に来られ、救われ、神のみもとに召された、何人もの信仰の友との出会いがありました。その方々の苦悩は、がんの治療(入院生活、副作用の苦痛)だけでなく、家族との関係、仕事や職場とその人間関係、死と向き合うことなどでした。かける言葉もない無力な自分を知らされました。その後、樋野先生が提唱されているがん哲学外来とカフェを知り、準備期間を経て、教会を会場にお借りして、がん哲学カフェを始めました。すでに神のみもとに召された兄姉との出会いを、カフェをすることで生かしていけることに感謝しています。苦しむ人のため、ほんのひとときでも、寄り添う人となり、その人が重荷をおろせる場となりますように。(No.864)

2021年 1月31日

天からのパン

 祈祷会での出エジプト記を楽しく、興味深く学んでいます。神の民の荒れ野の旅は、私たちの日常の信仰生活を象徴しています。神の導き、民の不平、神の忍耐と慈しみがあります。
 出エジプト記第16章では、民は、食べ物がないためモーセに不平をぶつけます。主はモーセにこう語られました。「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める。わたしは、彼らがわたしの指示どおりにするかどうかを試す」(4節)。そのとおり「朝には宿営の周りに露が降りた。この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた」(13~14節)。これが主の与えられたパンで、「マナ」と命名されます。
 今回の学びで初めて知ったのは、このマナに似た自然現象があることでした。解説にこうありました。“・・・実は、シナイ半島にこれと極めて類似した自然現象が見られる。・・・あぶら虫の一種がギョリュウ科の低木の果実に穴を開け、その樹液を吸って、黄白色の薄片や球状の分泌物を排出するのである。温暖な日中の間にそれは分解してしまうが、冷温のときには凝結する。それは甘味を含む。でんぷん質や糖分が豊富なだけに、その土地に住む人々は今でもそれを集めて一種のパンに焼き上げる。・・・この食物はすぐ腐敗して蟻を引き寄せる。・・・”
 聖書の記述にそっくりで驚きました。
 荒れ野とは、何もないところなのではありません。何よりも「わたしはある」(出エジプト3・14)と言われた神が、神の民と共に旅をしておられます。荒れ野にはマナが備えられています。今の私たちにとって、まず神の言葉です。毎日必要な分を集めに行けば、必ずいただけます。さらに御言葉だけでなく、日々の糧、さまざまな必要においても、神が備えられた賜物をいただいています。日常生活の細部にいたるまで神の配慮があることを忘れないようにしたいと思います。(No.863)

2021年 1月24日

T姉召される

 敬愛するT姉が1月19日、神のみもとに召されました。93歳でした。
 Tさんは若き日に洗礼を受けておられましたが、教会生活を送ることが難しかった時期もあったそうです。1999年8月に西川口教会に転入会されました。礼拝と昼間祈祷会によくお励みになり、交わりを喜んでおられました。10年ほど前に体調を崩されホームに入られました。その後、体調は落ち着かれ、牧師や教会員の訪問を喜んでくださいました。お元気な頃はいつも玄関で車が見えなくなるまで見送ってくださいました。
 西川口だより2005年1月号に「信仰生活をふり返って」と題して、証しを書いておられます。一部引用します。
 “・・・社会福祉学校で学び終え、「本当に困っている人のために奉仕しよう」と、重度障害児のための施設で働き始めました。通いではなく住み込みで他の職員と一緒に暮らしました。
 子どもたちは限りなく素直で、神のような心の持ち主だと思いました。あるときどうしても手がかかる子に「立っていなさい」と注意しました。そして他の子の面倒を見ていて時間が過ぎ「あら、あの子はどうしたかしら」と思っていたら、まだ立っていました。自分の至らなさに居たたまれない思いがしました。他にもこのような体験をし、子どもたちに仕えるには余りに醜い自分であることに気づかされ、自信をなくし、子どもたちに思いを残しながら退職いたしました。・・・
 西川口教会に導かれて満5年になりました。ここで、私の信仰生活に少し目が開かれたような気がいたします。・・・日常生活から心の中まで神様はすっかりお見通しされています。今年こそは、御言葉に支えられ導かれ、より充実した信仰生活が送れますようにと、祈るばかりです。”
 Tさんの愛誦聖句はヨハネによる福音書第14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。(No.
862)

2021年 1月17日

「嵐と波をしずめて」

 本日の一般礼拝で讃美歌21の6番「つくりぬしを賛美します」を歌います。この讃美歌の2節の歌詞は次の通りです。
 「全能の神を 賛美します。嵐と波を しずめて、こころみに 打ち勝つ力 与える恵みに 感謝して。」
 讃美歌の歌詞の下に小さい字で聖書箇所が記されていますが、ご存知でしょうか。歌詞の由来となっている聖書箇所を示すものです。この讃美歌には、詩編のほか、「ルカ8・22~25」とありました。これはこのような出来事です。
 “ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った”(ルカ8・22~25)。
 埼玉県は東京都、神奈川県、千葉県と共に、1月8日から、再び、緊急事態宣言の対象区域となりました。新型コロナウイルス感染者は増加の一途をたどり、医療体制がひっ迫しています。この現状に歯止めをかけ、減少傾向に転じさせることが目的です。今回の緊急事態宣言は、社会経済活動を幅広く止めるのではなく、感染リスクの高い場面に絞って、効果的・重点的な対策を徹底するものです。、具体的には、飲食を伴うものを中心としての対策となっています。
 役員会では、現在の礼拝・祈祷会等の活動を継続することとしました。コロナ禍という嵐の中にありますが、感染防止対策を講じつつ、嵐と波をしずめてくださる主が教会の中に共にいてくださることを信じ、お委ねしていきます。(No.861)

2021年 1月10日

「わたしはあなたをいやす主である」

 先週は、2021年最初の祈祷会でした。出エジプト記は第2部に入り、第15章22節以下から、荒れ野の旅が始まった出来事を読みました。新年の始まりにふさわしい箇所が与えられたと思いました。葦の海を渡るという大いなる救いに与った神の民は、荒れ野に導かれて、約束の地を目指します。教会も、「世」という荒れ野を旅している神の民です。
 “・・・ファラオに仕えることから自由になった結果、イスラエルにとって「どんなことでも許される」世界が出現するのではない。イスラエルは神に仕えるためにこそ、ファラオから自由になったのである。・・・イスラエルに対する神の言葉〔出エジプト15・26「もしあなたが、あなたの神、主の声に必ず聞き従い、彼の目にかなう正しいことを行い、彼の命令に耳を傾け、すべての掟を守るならば、わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない。わたしはあなたをいやす主である」〕は、「勝手気まま」な態度を受け入れるような、いい加減な忠告ではない。・・・神の言葉は常に生命と幸福のためにある。・・・神の戒めに耳を傾けることは、イスラエルが神の言葉に従って歩もうとしていることが神に「わかる」ひとつの手段である・・・”(フレットハイム著「出エジプト記」より)
 シナイ山で初めて神の掟が与えられたのではなく、荒れ野の旅の初めに既に神は、御言葉に聴き従うとき祝福があると語られました。そこから離れると災いを招くと警告されています。しかし主なる神は「わたしはあなたをいやす主である」と宣言しておられます。解説にはこうありました。
 “たとえ民にこのような災害が訪れるとしても、神はいやす者であることを止めない。裁きはあるが、神は幾度もいやしの力を用いて、苦痛に満ちた状況に参入する。・・・世界に対する神の意志は明瞭である。すなわち、神は「お前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒す」主なのだ(詩編103・3)。・・・” (No.860)

2021年 1月 3日

「愛の実践を伴う信仰こそ大切」
(元旦礼拝説教要旨)

 主の年2021年を迎えました。
 今年の西川口教会の御言葉は、ガラテヤの信徒への手紙第5章6節「キリスト・イエスに結ばれていれば・・・愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。信仰と愛は分かちがたく結びついています。
 ガラテヤの信徒への手紙を書いたのは使徒パウロです。パウロは教会に与えられている最高の賜物である愛を語りました。「愛の賛歌」と呼ばれているコリントの信徒への手紙一第13章をご存知の方も多いと思います。大切なのはこの第13章が第12章から続いていることです。第12章には、教会はキリストの体であり、各自はその部分であること、聖霊が各自に賜物を与えてくださっていることが語られています。そしてパウロは、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と命じました(12章31節)。それは、聖霊の賜物であり、だれにでも与えられる愛です。
 コリントの信徒への手紙一第13章に語られる愛は、自分が生きている愛の現実です。非常に具体的です。1節「人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル」。耳元でシンバルが鳴ったらうるさくて仕方ないように、愛がなければ、言葉は騒音になってしまうのです。愛がなければ言葉が届かないのです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」(4~5節)。御言葉によって自己吟味させられます。ねたんでいたら、無礼をしたら、いら立っていたら、愛を失っているのです。「愛は決して滅びない」(8節)。教会に与えられてる愛は、死を超えます。死に打ち勝ちます。それはキリストの十字架と復活の出来事に根差しているからです。教会は決して滅びない愛の交わりに生かされていますから、愛のわざに生きていきます。そこで「聞くことは愛のわざ」月報1月号巻頭言のボンへッファーの言葉を紹介しました。(No.859)

トップページへ戻る週報短文へ戻る