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週報短文


バックナンバー 2002年5月分


 

2002年5月26日
ツーテナーズ

 
 ツーテナーズをお迎えして賛美礼拝とチャペルコンサートを開けることを心から感謝する。ツーテナーズは文字通り二人のテナーであるが、二人のテナーのデュオ コンサートは珍しいと思う。しかもその二人の組み合わせが面白い。一方は高名なパバロッティーコンクールに優勝する程のクラシックの実力者であり、他方は現代的な歌をうたう若者である。ジャンルが違う二人がどんな風にプログラムを組み立てるのか興味津々というところだ。
 もう一言つけ加えれば、お二人は父親と息子ほどの年齢の隔たりがある。どうしてお二人がペアを組むようになったのか聞きたい。
 ここからは私の勝手な想像である。主を賛美して教会に仕え、伝道に役立ちたいと考えたのは、まずバリー・クラフト氏であろう。もちろん氏お一人でも持ち前の美声で十分人々を惹きつけることができる。しかし、クラシックやオペラが好きな人ばかりではない。現代的な歌も聴きたいという人もいる。彼らも教会に招きたい。そこで、あえて現代風な若者とペアを組もうと決意されたのではないか。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というのが使徒パウロの覚悟であったが、それはまたクラフト氏の決意でもあると思う。
 そして実際に若者と組んでみると意外におもしろい味が出る。これはイケルと確信したのではなかろうか。しかも、これは聖書的でもある。例のパウロ先生は、初めはバルナバというベテランと組んで伝道旅行に出たが、やがて彼と別れて、シラスやテモテ、テトスといった若手伝道者とチームを組むようになった。それは摂理的な導きでもあったが、自分がこの世を去る日は遠くないと考えた時、この尊い福音をどうしても次世代に確実にバトンタッチしていかねばならないと思ったろう。まだまだと思った若者も、例えばコリントではパウロの出来なかったことをテトスが立派にやってくれた。「ひとりよりもふたりがよい」と実感したに相違ない。


 

2002年5月19日
宝を見つける


 東京聖書学校で先輩M師に久し振りにお会いした。師は山陰の教会でながらく牧会され、九州の教会に移り4年ほど過ごし、この程隠退された。奥様の体調が十分でないからとのことである。師は地方の教会や東京の教会もいくつか見て回って、日本の教会はこれでよいのかと疑問を感ぜざるを得ないと言われる。小さくまとまって勢いがない。じたばたしても仕方がないという諦めも感じられる、と。
 教区総会議案報告書の議長報告を見ると、関東教区一四七の教会、伝道所の礼拝出席者は全体で4,564人、平均31人である(全国平均は34人という)。礼拝出席が30人以下の教会が2/3ほどあるようだ。地方では新しい人はほとんど来ない。しかも高齢化が進んでいる。パウロは「この宝を土の器に持っている」と、自らの弱さを「土の器」と表現した。私たちは土の器で一向に構わないが、「この宝」と言えるものを持たなければお話にならない。イエス・キリストの福音はまさに宝である。
 「天の国は次にようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(マタイ13章)
持ち物をすっかり売り払っても手に入れなければ止まない宝がイエス・キリストの福音である。「見つけた人は」とあるから、気づかなければ宝の持ち腐れであるが、だれも気づかないわけがない。気づいたら、きっと誰かにそれを言わないではおれないだろう。
 ガンの特効薬を見つけた人は、きっと誰かに教えないではおれないだろう。私は子供のときに珍しい野イチゴを見つけて、親友にその場所を隠しておくことができなかった。
 伝道というのは鳴り物入りで大騒ぎをしなくても、本物を見つけた人が教会にいるかいないかで決まると思う。今、私たちに問われているのはそのことではなかろうか。「私も見つけました」という一人の人が求められる。


2002年5月12日
在欧日本人宣教会

 
 在欧日本人宣教会の総会が11日午後に市川で開かれた。この宣教会は横山基生・好江ご夫妻のビジョンから始まったもので、全国から超教派で協力者、賛同者が起こされていることは感謝である。初めは「在英」であったが、昨年の総会で「在欧」に改められた。私はホ群の関係と、基生先生の母教会の牧師でもあることから、運営委員長の大役を仰せつかって荷が重いが、あと一年はやむを得ないと思っている。
 皆さんにお祈りして頂いているように、横山師ご夫妻の英国へのビザが降りない。目下2年越しで申請中である。来る6月12日には英国の裁判所から結論が出る予定なので、なお、お祈りを願いたい。
 今年の総会の主たる議題は、横山宣教師に続いて、もう一組の宣教師夫妻をパリに送ることであった。稲垣博史・緋紗子ご夫妻である。稲垣師は3月まで日本福音同盟の総主事として活躍された方で、福音派の諸教会に広く知られている器である。福音同盟を定年退職されるのを機に、若くして海外に召され今まで実現しなかった使命に立とうとしておられる。
 パリの日本語教会は長く無牧で、牧師を求める声は大きかった。このマケドニアの叫びに応えて稲垣先生たちが行くことになったが、使徒パウロ一行がマケドニアだけでなくローマ帝国全体に福音を満たしたように、稲垣先生もヨーロッパ全域に点在する日本人クリスチャンの群を巡回することになるだろう。それが私たちの宣教会の目的でもある。それらの群は殆どが無牧で、ロンドンJCFの盛永先生はお一人であちこちの群を回り、また、ドイツへ行かれた河村先生も、ベルリンを中心に近隣の都市の邦人伝道に努めておられる。
 これら海外で信仰を持って帰国する方々は年間2千名を超えると言われ、日本基督教団の受洗者よりも多いという。日本のリバイバルは、これらの帰国するクリスチャンにかかっているという声さえあるほどである。
 


2002年5月5日
敬虔と経験


 前々号に二つの言葉を紹介した。その一つは「ドイツ経験主義の父、シュペーナーの言葉」と書いたが、それは漢字の変換ミスで「敬虔主義」が正しい。そこで今日は、「経験」と「敬虔」について考えてみよう。
 敬虔主義は実は経験主義に通じる。ドイツ敬虔主義の運動は、一七世紀のドイツのプロテスタント教会(ルター主義)が、ルターの信仰を受け継ぎながらも、そのダイナミックな生命力を失って「死せる正統主義」に陥ったとき、教会の中に活力を取り戻すために起こった改革運動であった。それはドグマ(教義)よりも心の敬虔を重んじ、極めて実践的かつ禁欲的な信仰生活を高調した。その点では、ピューリタンの運動とも多くの共通点を持ち、共に歴史的な必然性をもつ運動であった。
 この敬虔主義運動や、ピューリタンの影響を直接間接に受けて一八世紀の英国に起こったのがウエスレー兄弟を中心とするメソジスト運動で、英国、アメリカに多大な影響を与えた。これらの改革運動が一九世紀のアメリカのリバイバル運動(信仰復興運動)へとつながっていく。このリバイバル運動に押し出されて日本に来た宣教師は少なくない。また、一九世紀後半に日本からアメリカに留学した青年たちが、このリバイバル運動の息吹きに触れて帰国し、日本の教会と救霊のために働いた。日本の福音派の教会や教団で比較的歴史の長いものは、殆どが一九世紀のアメリカのリバイバル運動の影響を受けていると言っても過言ではない。ホーリネス運動ももちろんそうである。
 さて、敬虔主義は経験主義に通じると述べた。敬虔主義は個人の内的な体験や実践的な信仰生活を重視するものだから、客観的な教理や神学よりも、主観的な体験を大事にする。中田重治の高調した「四重の福音」もその典型的な例である。それは庶民をも巻き込んで行く大きな力があったが、反面に、体験主義の狭さとその危険性にも注意を要する。


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