週報短文
バックナンバー 2002年6月分
2002年6月30日
皆さんに祈られ13日間のトルコ、ギリシャの旅を終えて帰りました。西川口教会から参加が許された6名の者たちの証しは、去る23日の礼拝で語られた通りです。充実した2週間でしたが、いろいろ思いがけないハプニングもありました。なかでも、一番参加者の皆さんに心配をかけ祈られたのは私だったと思います。恵みの旅
シリアのアンテオキアで足を痛めたO姉のために皆で祈り、一足先にご夫妻を日本に送り返して、続いて自分がこのような怪我をして皆さんに迷惑をかけるとは思ってもいませんでした。子供の頃にはスキーで捻挫をしたり、やんちゃをして足をやけどしたりしたことはありますが、それ以外ほとんど怪我らしいことをした記憶がありません。それが、よりにもよって外国であんな怪我をするとは全く意外でした。そこに、わたしの慢心と油断がありました。
ちょうど16日の主日の夕方、サルデスの遺跡を見ていたときでした。気がついたら遺跡の溝に落ちていました。皆さんの介抱を受けてクシャダスのホテルに辿りつきましたが、幸いホテルにドクターがおり、全身あちこちを診て傷の手当てをしていただきました。翌日まで痛みとショックがありましたが、翌日の午前に不思議に痛みが去り平安になり、顔のしびれだけが残りました。何とか皆さんについて旅行を全うして、土曜の夜に帰宅し、主日礼拝の講壇に立つことが許されたのは本当に感謝であり、主の聖名を崇めました。
月曜(6/24)にS病院で精密検査を受けましたが、頭の内出血はなく、こめかみ付近の骨が一箇所折れていることがわかりました。しかし、自覚症状が比較的軽いので、医者はしばらく様子をみようということで、薬をもらって帰りました。まだ時差ぼけもあって、少々ボンヤリしているところがありますが、この程度で済んだ事は主の憐れみであり、皆様の祈りの賜物でした。このことは「西川口だより」巻頭言に書かせていただきました。お祈りを心より感謝します。
2002年6月9日
ファミリーとは言うまでもなく家族である。しかし、家族とは一体なんであろうか。ファミリー礼拝
改めて説明するまでもなく、子どもたちも良く分かっている。お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、そして自分たち。毎日、一緒に生活している。
それは昔から変わらない、と言いたいが、実は変わっている。今は核家族化で、おじいちゃん、おばあちゃんが一緒にいる家庭は少ない。
時にはお父さんも単身赴任でいない。いても、一緒に食事をすることはほとんどない。
子どもたちも忙しい。塾に通ったり、部活があったり、家に帰ればやりたいことは山ほどあって、親と話してる暇はない。食事の時間も5分かそこらで、それもテレビを観ながらである。
だから「家族のだんらん」という言葉も、今はほとんど死語になってしまった。
しかし、それが果たして本当に家族と言えるだろうか。
「家族とは一週間に少なくとも一時間は共に語り合う者たちのことである。」
と定義した人があるが、この定義に当てはまらない家族は日本では山ほどある。そういう家族は、実は家族というのは名ばかりである。
「家庭崩壊」が今日の大きな社会問題になっているが、家庭崩壊の前に、じつは家族崩壊がある。家族崩壊の段階で、なんとかしなければ、本当に家庭崩壊に至るだろう。
私たちが一番心をゆるして語り合うことができるのが家族である。わがままも出るが、家族だからこそである。一緒に泣いてくれるのも家族であり、うれしことは我がことのように喜んでくれるのも家族である。
教会は実は神の家族なのだ。その家族を一つに結ぶものは、主イエスの十字架の血潮である。しかし、いわゆる血のつながり以上の強固なつながりが、神の家族にはある。私の家族は西川口だけでなく、日本全国、香港、アメリカにもいる。やがて天でみな一つの家族になる。
2002年6月2日
5月25日、深谷西島教会の献堂式が行われた。どんな新会堂ができたのか楽しみに伺ったが、見違えるような立派な会堂が完成して、主の御名を賛美した。聖霊の風が
「だれもこんな会堂ができるとは思わなかったでしょう」と、司式の石橋議長が言われたが、まさに神が祈りに答えて奇蹟を行われた。
数年前、地区の伝道委員であったとき、深谷西島教会の問題で、当時代務者であった金町教会の高橋牧師や西島教会の姉妹達と御教会に集まったことがあった。庭の木が生い茂り、古い牧師館は傾きかけて、礼拝を継続することも極めて困難な状況であった。最悪の場合には、教会の解散も考えねばならなかった。しかしその後、活水の群の支援もあって、現在の竹内牧師が深谷に来られ、教会の再建に乗り出されて、状況は変わってきた。まず、先代の牧師の名義で借りていた境内地を買い取るという大事業、さらに牧師館の新築の話が具体化する中で、牧師館だけではなく、会堂も一気に新しくしようという機運が急速に高まり、常識的に言えば無謀とも思われる会堂建設に踏み切った。第一次、第二次の全国募金、さらに教区内緊急募金と続いたが、これだけの献金がこの小さな教会の会堂建設に献げられたことは驚きであり、極めて稀なことではなかろうか。神様が、竹内牧師をはじめ、皆さんの祈りに答えて諸教会を動かしてくださったという他はないであろう。
献堂式も感謝会もそれらの話題に終始して、土曜日であったのに三時間半にも及ぶ感激の一時であった。竹内牧師は、深谷市全域に一人でトラクトを配布したという話もあった。折々に送っていただく週報でも、懸命に伝道に励んでいる姿が伺われる。私たちの教会でも、最近にない献金を献げることが役員会で決まったのは聖霊に動かされた結果であろう。
余談だが、この献堂式で札幌の母教会のCSの友人に半世紀振りに会うことが出来た。やあやあと昨日会ったように楽しく語り合った。