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週報短文

バックナンバー 2002年9月分


2002年9月29日

足を踏まれて

 先週の短文に、横田めぐみさんは中学のクラスメートの姪であることが分かったと記した。以後、ニュースを見ても、横田さんのご両親が出てくると身近かに感じる。
先週は拉致された方のご家族と小泉首相との会見がようやく実現したが、これらのニュースに複雑な思いを禁じ得なかった。
 拉致されてから四半世紀もの間、肉親はどんなに苦しまれたろうか。国は何もしてくれなかったと訴えたい気持も当然だ。しかし、「北朝鮮けしからん」という非難一色のマスコミも異常ではなかろうか。
 私は、日本が謝罪しないので、戦後一人で韓国に誤りに行った尾山令仁師や、今もソウルで日本人教会の牧師として、韓国の人々に謝罪を続けている吉田耕三師のことを思い起こしている。「あれは戦争だったんだから」という言い訳は成り立つだろうか。数年前に訪ねたソウル近郊の独立記念館を思い起こすだけでも、日本が朝鮮や中国の人々にしたことをいくらか想像することが出来る。
 子供の頃、いきさつはわからないが、我が家の納屋に数人の朝鮮人が住んでいた。彼らも強制連行されて日本で終戦を迎えた人々だろう。あのおじさんたちに可愛がられた懐かしい記憶がある。
良く言われるように、人の足を踏んでもその痛みは分からないが、自分の足を踏まれた時はいやというほど分かる。拉致という非人道的な仕打ちに怒りが込み上げてくる今こそ、日本が朝鮮半島の人々に、いかに非人道的なことをしたかを幾分でも思い起こすべき時ではないか。
 もう一度、ワイツゼッカー大統領の「荒野の四〇年」を取り出してみた。「罪の有無、老若いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。」 

2002年9月22日

「祈って下さい」

 札幌から電話があった。中学時代のクラスメートで、それこそ50年も前に彼女と共にクラス代表をやった記憶がある。突然の電話に驚いたが、用件は今世間で騒がれている北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)への拉致問題である。拉致された一人で死亡したと報道された横田めぐみさんは、私たちのクラスメートだった人の姪に当たると言う。驚いた。そのクラスメートは今もよく覚えている。しっかりした女生徒で、高校の教頭先生の娘であった。なるほど姓は一致している。めぐみさんはお兄さんの娘とのこと。
 「めぐみさんのお母さんはクリスチャンのようだから、あなたも祈ってあげて欲しい」という。テレビの報道を見て、涙が流れて流れて仕方がなかったが、自分は何もできない。しかし、あなたは牧師なのだから、彼らのために祈ることが出来るでしょう、という。彼女のやさしさに心打たれた。
 東京の教会にいたとき、一人の兄弟が天に召された。その最後の病床にお兄さんがつきっきりだったが、私に言われた一言を今も忘れない。
「医者は医療と言う手段を持ち、あなたは牧師として彼のために祈ることが出来る。しかし、私は苦しむ彼のためになにもしてあげることができない」と嘆息された。私は、まだ若く、大先輩に向かって何も言えなかったが、「お兄さんの思いはきっと天に通じていますよ」と言いたかった。
 広島に原爆が投下されて多くの人が死んだ。まさに地獄のようなありさまだった。しかし、ただ何万の人が死んだという数ではなく、そこにも死に行く妹を必死で見守る健気な兄がいたことを知っている。昨年のアメリカのテロでも、誰かを助けるために懸命に努力して死んでいった人たちがいる。神様は大雑把に世界を眺めておられるのではなく、一人一人を見守っておられると信じている。


2002年9月15日

聞かせて下さい

 先日、富山県の地方都市で伝道している牧師の話を聞きました。富山県は浄土真宗の本場ですが、その土地ならではの伝道の難しさがあるのは当然でしょう。富山の田舎では、純然たる浄土真宗の葬儀が行われるそうです。それは普通の仏式の葬儀と違って、お焼香もなく、棺は祭壇の横の方に置かれ、故人を拝むような誤解を会葬者に与えないように注意し、私たちの言葉で言えば「礼拝に徹する」というやり方だそうです。
 これは本来のキリスト教式の葬儀に似ていると思いました。今日のキリスト教の葬儀では、普通、棺を祭壇の中央に置きますが、本当は違うと思います。私は、かつて先輩牧師の葬儀に参列しましたが、棺は正面に向かって会衆と共に置かれました。これは召された先輩の強い希望でありましたが、自分も最後に会衆と共に礼拝したいということです。 
 葬儀の説教も故人をほめるような言葉は本来のものではありません。礼拝ですから、あくまでも神が礼拝され、褒め称えられるべきです。私も本来のあり方からずれないように注意してきました。しかし、故人をほめるのではなく、故人を救い、尊く用いてくださった神を褒め称えるために、故人のことを語るのは間違いではないと思います。 
 献花も故人に献げるのではなく、故人を偲びつつ自らもその終わりを思って、自らの献身の印として献げるのはどうでしょうか。
 私たちは仏式のやりかたを真似るのではありませんが、初めに述べた浄土真宗の葬儀には大いに学ぶべきものがあると思います。
 また、日本人の考え方とかけ離れた葬儀は考え物です。私たちの考えにしっくり来るような葬儀が望ましいと思います。そのために、皆さんのお考えや希望も是非お聞かせください。キリスト教の葬儀や結婚式が、私たちの身近に感じられるようになることがキリスト教の土着化のために大事でしょう。

2002年9月8日

岡村民子師と正典論

 東京聖書学校の秋の公開講座に、岡村民子師をお迎えした。師は日本の女性神学博士の第一号と聞いている。この度、著作集五巻を出版され、その準備に多忙でお疲れと聞いて心配して祈っていたが、大変お元気で気力溢れる講演をしてくださった。出席者一同大きな励ましとチャレンジを受けた。今年米寿を迎えられた小柄な女性のどこからあのようなパワーが出てくるのか、やはり神の力と言う他はないであろう。
 岡村民子先生は、日本の聖書学の第一人者であった渡辺善太師の弟子で、その正典論を継承し発展させた。渡辺の正典論は日本の内外に有名で、必ずしも賛同者が多いとは言えないだろうが、聖書の解釈に混乱を来した近代、現代のキリスト教界に一石を投じたことは間違いない。私は、仙台の信徒時代に補教師試験の準備中、渡辺の正典論三巻を手にして、よく分からないながらも懸命に読んだ記憶は今も鮮明である。そのころ、渡辺善太はまだ健在で、本や雑誌に高説を説いておられたが、銀座教会の名誉牧師としてその聖書的説教には定評があった。私はただ一度だけ、銀座教会の礼拝で説教を聞いたことがある。歯切れの良い明解な説教であった。
 30年ほど前になるが、渡辺善太を囲んで正典論を討議するセミナーが奥多摩で開かれた。加藤常昭師や小林和夫師らが中心的な世話人だったが、すでに高齢の渡辺師を何かと補佐しておられたがのが岡村民子師であった。その時の鋭い語り口は今も変わらない。円熟味が増したという程度であろうか。
 渡辺の正典論は、バルトの聖書論と共通するところがあり、渡辺をバルト主義者だと評する者があった。渡辺師はそれを嫌って、自分はバルトに学んで正典論を構築したのではないと主張しておられた。猫も杓子も「バルト、バルト」という時代に、日本の教会が産んだ神学ここにありと言いたかったのだろう。


2002年9月1日

秋鹿教会を訪ねる

 
 東京聖書学校のキャラバン伝道で、O神学生他二名の女子神学生と共に、山陰の秋鹿(あいか)教会を訪ねた。秋鹿教会は現在、Y師が主任担任教師を務めている。Y師はTBS一年生の時に当教会の派遣生としてよい奉仕をしてくださった。卒業して松江の秋鹿教会に遣わされ、M師と結婚された。夫君は米子教会の担任教師で、夫婦それぞれに独立して奉仕しておられる。今後はそういうケースが増えるだろうか。
 Y師はまだお若いが、教会の兄姉に敬愛され、子供達に慕われ、また、地域の方々も「わが町の誇りです」と言われるほどに地域に溶け込んでいる様子を見て驚いた。近所の農家の方が教会に野菜を届けてくれたりもするらしい。若い人たちが都会に出て過疎になって行く地域において、ちらしを配布して積極的に伝道し、子供達の先頭に立って走り回っている姿を見て頼もしくも感じ、好感を抱いているのではないか。
 日曜の午後、近くのホールを借りて、チャペルコンサートが開かれた。新しい方も沢山来られて補助椅子を出すほどであった。ここから教会に導かれる人が一人でも起こされるように共に祈った。
 礼拝では神学生が証しをしたが、三者三様で、キリスト教に反発していた人、苦しみのどん底で喘いでいた人、放蕩息子のように遊びに夢中だった人、それぞれのキリストとの出会いを語った。私は放蕩息子の兄のような平凡な生活から牧師に導かれたと証しした。 
 秋鹿教会の他にも、松江教会、米子教会、津山城西教会、用瀬(もちがせ)教会、京都復興教会も訪問して、よき交わりを与えられた。地方の教会の伝道や牧会の一端に触れただけでも神学生には参考になったであろう。O神学生は終始運転の奉仕に当たり、大いに助けられた。道路勘がよいのと、全国の地図が頭に入っているのには敬服した。

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