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週報短文

バックナンバー 2004年1月分


2004年1月18日

加藤常昭師の説教

 埼玉地区の新年合同礼拝が12日の祭日に開かれ、加藤常昭先生が説教者として招かれた。先生のネームバリュウもあってか、会場の埼玉新生教会は礼拝の始まる15分前にはすでに礼拝堂は満杯で立錐の余地なく、私たちは別室で大型スクリーンを見ながらの礼拝だった。
 礼拝は初めに子供達へのメッセージがあった。「君たちは大人になったら何になるの?」という問いかけから始まって、加藤先生の子供の時の体験から牧師になるまでの話をされた。そして、大人は子供たちに時々この問いかけをしてあげて、子供たちに考えさせることが大事だと話された。陸軍大将や海軍大将になるのが夢だった時代に、教会に通っていた加藤少年は、人を殺す兵隊になってはいけないと思っていた。そしてついに牧師になった。「君たちの中からも、牧師や教会学校の先生になる人が出て欲しい」と先生は熱っぽく語られた。
 大人へのメッセージはフィリピ三章から、「人間再生の道」と題するスケールの大きな説教であったが、その中でも、やはりご自身の牧師への献身について語られ、キリストを知ることがいかに価値あることか、何物にも換えることのできない尊いことかを語られた。
 子供たちに語るのと同じように熱っぽくみ言葉を語る先生の姿に感銘を受け、使徒パウロの伝道の姿を垣間見たように思った。そして、先生のように知識も豊かでしかも雄弁となると、つい自分の賜物に頼る誘惑も大きいだろうと思い、「十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めた」パウロを度々思い起して来たのではあるまいかと想像した。会衆を祝福する時も聖書の言葉をそのまま読まれ、自分の言葉が出過ぎないようにセーブしておられたのではないだろうか。
 新生教会への行き帰り、成人式が行なわれるさいたまアリーナの周辺は新成人でごった返していたが、新年礼拝に出席した新成人は一人もいなかった。若い人には、加藤先生の説教もあまり魅力的とは映らなかったのか?

2004年1月11日

十年前の説教ノート

 必要を感じて古い説教ノートを開いたら、面白いことが書かれていました。十年前の説教ノートですが、93年と94年の2年間、日本教会成長研修所の研修生に選ばれて、何回かのセミナーに参加し、最後のセミナーを終えて教会に戻って来た時の説教です。
「『あなたのビジョンは何か』と問われたら、次のように答えたい。今、世界で大きく成長している教会には、次の三つの特徴が見られるという。
 @信徒の一人一人が主の弟子になる。
 A小グループ活動。
 B礼拝の祭典化。

 この教会成長の三本柱の原則は当分変わらないだろう。私たちも及ばずながらこの目標を持ち、もし、十年後に私がなおこの教会の牧師であれば、それまでにこのビジョンを持って進もうとする若い牧師を後任者に迎えて、私は協力牧師となって背後から全面的に牧師を支えたい。それが私のビジョンである。」
 十年前に私はこういうビジョンを語っていたのです。自分でも忘れていました。
 この@は、ホーリネス信仰の別の表現と言い得るし、Aは、私たちのディボーションスクールや成人科が目指しているもの、Bは、若者への伝道を考えたら避けて通れない問題です。
 この説教をしてから間もなく十年になろうとしていますが、私は協力牧師にならず教会を去ろうとしています。しかし、このビジョンは今も生きているし、これを受け継いでこの教会をリードしようとする若い牧師を迎えようとしているのではないでしょうか。神の導きを思い、感謝せずにはおれません。私は協力牧師にはなれなくとも、許される限り教会のために祈りつづけたいと思います。
 老牧師の言葉を思い出します。「牧師は自分の語った説教に、まず自ら責任を持たねばならない」と。その意味でも、無責任な言葉を語らなかったことを神に感謝します。
 教会の成長は、まず内的な成長です。それが、量的、機能的成長に発展します。「ここに西川口教会あり」という気概を持ちましょう。


2004年1月4日

新年の私の聖句

 大掃除は年末恒例の行事になり、教会も皆さんの御奉仕できれいになった。手が着いていないのは牧師室だけである。
 友人からメールで大掃除にまつわる年末の所感が届いた。捨てた方が良いと思うものを抱え込んでいる自分にひとつのみ言葉が響いてきた。それはヘブライ12・1「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」(新改訳では「まとわりつく罪」)。この「まとわりつく罪」とはなんだろうか。それはなによりも傲慢(高慢、うぬぼれ)だと示された。「自分が用いられるという誇り」で、それがないと劣等感を持つようになる自分の姿。
 これは他人事ではないと思った。私にも、他人からよく思われたいという思いがある。関西人は「ええ格好しい」というが、ほとんど本能的に、または反射的に、そういう態度をとってしまう自分がある。
 そこで私は彼に次のような返事を書いた。「人からよく思われたいというところに嘘が入ってくる。そこで、私は今年のモットーを次の聖句に決めた」、と。

 うそ、偽りをわたしから遠ざけ、
 貧しくもなく、また富みもせず、
 ただなくてならぬ食物で
 わたしを養ってください。
     (箴言30・8、口語訳)
 
 この後の9節は、
「飽き足りて、あなたを知らないと言い、
『主とはだれか』と言うことのないため、
 また貧しくて盗みをし、
 わたしの神の名を
 汚すことのないためです。」


 世界は、飽き足りて(飽食)生きる目的を見失うか、または貧しくて盗みをし、果ては殺し合いをするという両極に分かれてしまった。日本は戦後先進国の仲間入りをして豊かにはなったが、子供たちは生きる目標を見失って悩んでいる。先の箴言の祈りを忘れないで祈ろう。

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