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週報短文

バックナンバー 2004年7月分




2004年7月25日

祈っていきましょう

 
18日は、祝福に満ちた就任式で、主に心から賛美と感謝をささげます。既に新体制で四月からスタートしていましたが、神と教会との前で約束することによって、主の召しを新たにしました。司式の飯塚先生の説教では、共同体を一つにする大牧者イエス・キリストを仰がされました。また、お祝いの言葉では、交わりの大切さ、教師就任が教会にとってチャレンジだということが心にとどまりました。就任式後のディボーションでは、私が主任牧師であるがゆえに起こる出来事をまずは引き受けよう、主が共に軛(くびき)を負ってくださるのだからと、祈りの中で導かれました。すべて、聖霊の働きがなければなしえません。主の御業をひたすら祈り願うことです。
 21日の水曜日には、ディボーションスクール2期が無事終わり、受講生の皆様に修了証書をお渡ししました。一人一人のホッとした顔が印象的でした。今回もお世話役として助けてくださった方々に、この場を借りて深く感謝いたします。さて、毎回思うことなのですが、祈りの生活を身につけるのは、大変なことだと感じます。今までの生活を変えて、聖書を開いて祈る時間を持つことは容易ではありません。「朝早く起きられない」「洗濯をやっておきたい」「仕事を始めなくては」などなど、自分または家庭の優先順位が首をもたげてきます。かつての私もそうでした。しかし今は、祈らないがゆえに生じる困難のほうが大きくなりました。御言葉の約束を握った時、主の平安が支えることを体験し、御言葉に聴き従ったとき主は働いてくださいました。何とまあ鈍い者を主は忍耐されたことか! ですから、確信して「大丈夫です。遅すぎることはありません。主は待っていてくださいます」と皆さんを励ますのです。
 マタイ6・6に示される、私と神との祈りのとき(ディボーション)、マタイ18・19に示される共同体の祈りのとき(礼拝、祈祷会、その他の交わり)に身を置いて祈っていきましょう。祈りは祈りによって学ぶほかありません。


2004年7月18日

教師就任式にあたって

 
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。(マルコ12・11)

 島隆三先生に転任の打診があったのが、昨年のホーリネスの群れ首都圏夏期聖会でした。
 それから、約一年後の今日、西川口教会は、新たに教師を招聘し、二人の担任教師の就任式を執り行おうとしています。誰も予測していなかった出来事、主なる神のご介入としか言えないような牧師の交代という出来事が起こりました。この牧師交代のどこに主の御心があるのでしょう。天が地を高く超えているように、主の思いはわたしたちの思いをはるかに高く超えています(イザヤ55・9)。性急にならず、じっくりと、主の御業を待ち望みたく願います。
 島先生方の転任にあたって、「わたしはどうするか」と問われました。わたしは、西川口教会に留まらせていただきたい、と願い出ました。それは、求めもせず、望みもしかったにもかかわらず、今に至るまで導かれている、「キリストの弟子を養育する教会形成、その基本としてのディボーションの学び」に着手したばかりであり、教会の隅々にまで行き渡らせるように、仕えていきたいからです。主の御業を待ち望むというのは、何もしないでただ待っているのではなく、御言葉を通して主に聴き従い、導きを見分けていく日々の営みの中にあります。「神抜きで人間は何もできないし、神はわたしたち抜きでそれを行われない。わたしたちは神の働いてくださるのを待っているが、神はわたしたちを通して働こうと待っておられる」(リック・ウォレン「健康な教会への鍵」より)
 「幸いな人」の聖書日課は、最近は使徒言行録からで、教会の働きとチームワークということを思わされます。4月から永本先生、柏さんというパートナーを与えられ、心から神に感謝しています。主は生きておられ、時に適って必要を満たしてくださいます。
 ただ、主に栄光がありますように。


2004年7月11日

教師研修会報告

 
先週は、埼玉地区教師委員会主催の一泊研修会に、永本慶子先生と共に参加しました。講師は、賀来周一師(キリスト教カウンセリングセンター相談所長)で、特に、講演U「牧師の精神衛生と人格形成について」を興味深く聞きました。
 牧師職には様々な課題があり、そこからストレスを抱えることがある。信徒から無意識の内に期待される全知全能性、長期にわたる援助関係、いつでも対応しなければならない緊張感、多様で無限のニーズ、リーダシップへの期待(「牧師がしてください」など)、達成基準の高度化(まだまだ、もっともっと、と思う)、牧師間競争(教会を比較してしまう)、家族との関係、女性教職固有の課題、夫婦教職の課題(信徒から役割を期待される)などです。自分では、なかなかここまで整理できないものですから、肯きながら伺いました。
 ストレス解消の基本として挙げられたのは、霊的確信(召命の確かさでしょう)、事態変化への内発的動機付け(例えば、説教すれば人が増えるではなく、説教そのものに意義がある)、推移への努力(最善を尽くさないと〜すればよかったと、ストレスが残る)、結果の統合的受容(思うようにならないことであっても受け入れる)、能力の限界を知る(すべて自分でやろうとしない)などです。
 次いで、人格形成と信仰との関わりについて述べられました。信仰には、外発的信仰と内発的信仰という二つの有り様がある(G・ウォルポート)。前者は、自分なりの考えで事を推し量る信仰、自分のための信仰。後者は、神中心の信仰であり、生活実践と信仰告白が調和を保っていること、成熟した人格は内的信仰によって形成される・・。一つひとつの言葉が心に響きました。追い求めている課題だからです。「わたしたちは皆・・・成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4・13)。御言葉に聞き従い、愛の実践への学びに取り組んでいることを、神に感謝しました。
 少し先のことですが、賀来先生は、9月18日の地区CS教師研修会の講師です(会場・埼玉和光)。いつか西川口教会でもお招きしたいです。


2004年7月4日

二つの訃報から

 
 思いがけない逝去の知らせが相次ぎました。
 K子さんの急逝は心痛むことで、ご家族に主の慰めを祈るばかりです。彼女は、小学生・中高生時代にはよく励んでいました。大学生になってから礼拝出席はまばらでしたが、成人祝福式に与り、クリスマスには必ず来てくれました。通夜(先週の火曜)しか参列できませんでしたが、教会の多くの兄姉も集い、彼女が教会の交わりに迎えられていたと感じました。それだけに、どうして福音の恵みに彼女と共に与ることができなかったのか、と残念で悔やまれる思いがします。
 その火曜日の朝に、吉川教会・西海静雄牧師の逝去の知らせを受けました。永本先生に教会を代表して葬儀に出席していただきました。西海先生は、ご家族や医療スタッフに何度も感謝を伝えて平安のうちに召されたそうです。六二歳、伝道者として駆け抜けた生涯でした。
 葬儀の参列者に西海先生の遺稿が配布されました。以下は「人生の模様がえ」というエッセイ(2004年2月25日)の一部です。
「『今わたしは満足しています』。思いがけない妻の言葉に驚いた。とても満足できる状況ではないからである。(略)なぜだろう。変化したことといえば、病気をきっかけに夫婦の会話が内容豊かに交わされ始めたことである。わたしは妻の話をよく聞き、看病に感謝し、仕事の増量を労り、敬愛の念を表した。妻はこれが何よりうれしかったのだ。男の合理性と価値観、多忙と人生観から、わたしはこのような会話をほとんどしなかった。あまり意義があるとも思わなかった。(略)異性の心と価値観を知る、という重い扉が開いたのだ。これでわたしの人生も模様替えとなる。妻もわたしも住み易くなりそうだ。」
 たいへんな闘病生活の中で先生が新しい世界に目が開かれ、夫婦関係とご自分の心の変化を率直に伝えているこの文章に、私は不思議と慰められました。弟子たちをこの上なく愛し抜かれた主イエスの姿(ヨハネ13・1)と重なるのです。


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