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週報短文

バックナンバー 2006年 12月分


2006年 12月 31日

「神様の愛の深さに」

 クリスマス諸集会がそれぞれに祝され守られ、ホッとしていた折に、O姉の逝去の知らせを受けました。
 先週19日の午後にO姉をお見舞いしました。耳元で讃美歌をハミングし、別れ際にお声をかけたら反応して、「クリスマスおめでとう! また来年会いましょう」とお別れしたばかり。もともと小柄な方でしたが、本当に体が小さくなられて、Oさんが地上で与えられている時間はそう長くないだろうと思っておりましたが、まさか年内に召されるとは、予期せぬことでした。
 月報「西川口だより」のバックナンバーからO姉の文章を見つけました。
 “・・・この度、西川口教会員として受け入れて頂きました事を心より感謝致しております。「人は、大なり、小なり、試練にあった時は、どうして自分ばかりこんな目に合うのだろうと思い、苦しみますが、でもすべての出来事には意味があります」とよく云われますが、私も年を重ねる毎に知らされる言葉です。神様の愛の深さに感謝しつつ、よろしくお願い致します。(「転入会に際して」  1998年5月号)”
 “・・・最初の日の二回目の集会の時に原登先生が書かれた横断幕の御言葉を全員で数回読み上げました。「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことに感謝せよ」(テサロニケ一5・16〜18)。二回、三回と大きな声で読んでいくうちに、この御言葉を通して神様の愛の深さに、喜びと感謝に溢れ、このときほど感動したことはありませんでした。そして来てよかったと思いました。(「夏期聖会に出席して」1999年9月号)”
 「神様の愛の深さに」、感謝と賛美がどちらにも書かれているのに気づきました。人の弱さも欠けも受け入れ、支えてくださる神の愛の深さに感謝し、生かされたOさん。主の愛の御手の中で天国に移されました。
 「Oさん、再会は来年ではなく、天国になりましたね。またお目にかかるときを楽しみにしています。」


2006年 12月 24日

クリスマスもろもろ

 クリスマスおめでとうございます!
 今日は、クリスマスを巡ってのQ&Aを紹介します。
 ―なぜ「クリスマス」と言う言葉が使われるのですか。
 クリスマスとは、もともとアングロ・サクソン語の「Cristes」(キリスト)と「Maesse」(ミサ=典礼・礼拝)の二つの言葉を合わせたものです。現代英語では、「Christ」と「Mass」となり、それを合わせると「Christmas」(クリスマス)となります。このクリスマスという言い方は、紀元12世紀ごろには既に使われていたようです。
 ―Xmasとも書いてありますが、なぜ「X」を使うのですか。
 ギリシャ語では、キリストの頭文字はXになります。その頭文字を取って、XmasとかXマスと書いているのです。この表記は紀元12世紀頃からすでに使われていたようですから、かなり長い歴史があるのです。
 ―教会は最初からクリスマスを祝っていたのですか。
 教会がいつ頃からクリスマスを祝っていたのか、はっきりとわかりませんが、記録に残っているのでは、4世紀ごろからのようです。
 ―イエス様は本当に12月25日にお生まれになったのですか。
 キリスト教が広まり始めた3世紀のおわりから4世紀はじめにかけて、ローマ帝国内にあった宗教では、冬至にあたる12月25日を「不滅の太陽の誕生日」と呼んでお祭りが行われました。キリスト教もイエス・キリストを「義の太陽」(マラキ3・20)とみなし、12月25日をキリストの誕生日として祝ったことが、12月25日節といわれています。325年に開かれたニケア公会議(教会会議)において、この日がイエスの誕生日と決定されたのです。
(参考「クリスマスの本」(AVACO))


2006年 12月 17日

人を導く三つの姿

 “ある方が、「子供を導くには三つの姿が必要だ」と言われました。「真正面」と「横顔」と「後ろ姿」です。
 「真正面の姿で子供を導く」というのは、親として教師として、言うべきことをはっきり言う、叱るべきことを叱る。教師の場合には、教えるべき教科をしっかりと子供に伝えることができる、ということも入ってきます。
 「横顔で子供を導く」というのは、いわゆる真正面の顔ではない、親なり、教師なりの私生活の場、教師なら職員室に戻って同僚と話している時のような姿が、真正面で見せている姿とあまり異なっていないことです。
 「後ろ姿で人を導く」とは、一番難しいかもしれません。なぜなら、子供たちがいつ見ているかわからないからです。後ろ姿が表しているのは、親なり教師が抱いている心の祈り、願いです。子供を育てるに当たって、自分の見栄のためでもない、エゴのためでもない、子供の真の幸せを願っている心がにじみ出る後ろ姿。これを見せることは、三つの姿の中で一番難しい姿、と同時に一番大切な姿といってもよいかと思います(渡辺和子氏(カトリック修道女、元ノートルダム清心女子大学長)講話集より)。”
 わたしたちは他の人に、良くも悪くも三つの姿を見られているということです。特に家族や身近に接する人たちに、自分の横顔や後ろ姿が、真正面とは異なっているのであれば、真正面から言う言葉も力を失います。あるいは、真正面から言う機会も乏しくなっているかもしれません。
 いつでも見られて良い姿をして、聞かれて良い言葉を発している、と言い切れる人はいません。人間は弱いものです。ですから神の力と助けが必要です。この御方は、わたしたちの弱さを理解し、喜んで助けてくださいます。ですから、弱さを自覚しつつ、自分との戦いを避けることなく、祈りながら、しなやかに変えられていきたい。(「ホザナ園だより」巻頭言より転載)

2006年 12月 10日

「小さな群れよ、恐れるな」

 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカによる福音書12・32)
 この御言葉を西川口教会の2007年の御言葉とさせていただきます。
 2005年と2006年は、「愛を追い求めなさい」(コリント一14・1)をその年の御言葉として、掲げました。来週で終える予定ですが、約1年4ヶ月コリント書に取り組んできました。教会が教会であるために、キリスト者が神の選びにふさわしくあるために、文字通り、キリストの愛、キリストへの愛に駆り立てられて苦闘する使徒パウロの姿が心に焼き付いています。
 来年から、賛美・一般礼拝ではルカによる福音書を開くことにしました。ルカによる福音書に取り組むのは、わたしは初めてです。主日礼拝のテキストとするのも久しぶりではないかと思います。ずいぶん前になりますが、ヤング礼拝(賛美礼拝の前身であった礼拝)で取り上げて、少しずつ読んできたことがあります。
 掲げた聖句は、あるとき、ヤング礼拝の御言葉として島隆三先生が選んでくださいました。当時、ヤング礼拝だけの週報を作っておりましたので、毎週、今年のみ言葉として大事にしていました。
 ここ数年、ホーム入居や、体や心が弱くなり、主日礼拝に来られない方が増え、礼拝出席数が減ってきています。「少なくなってさびしいなあ」との声も聞こえます。ところで、ルカ福音書の背景となる信仰共同体も決して大きい群れではなかったのでしょう。その群れに著者ルカが神の声を聞かせてくれるのです。「小さな群れよ、恐れるな」と。わたしたちの天の父は喜びを持って神の国を与えてくださるのだと。わたしたちの弱さも恐れも主はご存知です。すべてをご承知である主がお語りくださる言葉を、わたしたちは待ち望みたい。神の国の喜びを体験する新年でありますように。

2006年 12月 3日

国際説教シンポジウムに参加して

 教会のお許しをいただいて、11月20日〜23日に開催された、国際説教シンポジウムに参加してきました。これは説教塾主催のイベントでしたが、説教塾の指導者である加藤常昭先生の伝道50周年と喜寿を記念して、2年前から計画され準備が進められてきたものです。北海道から沖縄まで、約20近い教派から、約150名の牧師たちが集まりました。「オイコドメインとしての説教」、すなわち、教会を建て上げる説教とはいかなるものか、を巡って、4日間を過ごしました。
 「国際」との名にふさわしく、ドイツからルター派のメラー先生、オランダから改革派のイミンク先生、アメリカ長老教会のキャンベル先生が、日本の説教者のために労苦を惜しまず、半日の講演と、説教と、各国の教会と説教事情とを分かち合ってくださいました。日本に居ながらにして、教派の伝統の豊かさと多様さにあずかりました。先生方の苦闘を、驚きと共感を持って聴きました。人々の教会離れをとどめることができない、牧師があまりに忙しすぎて、説教塾のような研鑽の場を持とうと試みたが挫折した、移民と移民が持ち込む宗教(イスラム)とどう共に生きていくか、クリスチャンは多くても教会共同体を建て上げる意識が低い、など。また、事前に海外からのゲストの講演への応答者が立てられ、全国各地の牧師たちが真摯に発言する姿にも励まされました。
 最終日は加藤先生の講演があり、その前半では、コリントの信徒への手紙一第14章の黙想が語られました。西川口教会が掲げた年間聖句でもある「愛を追い求めなさい」(1節a)の後、使徒パウロは、「霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」と語ります。愛を追い求めること、それは、何よりも預言のカリスマを熱心に求めることに他ならない。キリストの愛に迫られて全存在をかけて語ったパウロの姿を鮮やかに示されました。そして、説教者加藤常昭先生が、パウロの姿に重なって見えました。

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