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週報短文

バックナンバー 2007年11月分


2007年 11月 25日

アドベントを前に

 先週は、来年の御言葉を決めたと書きました。もう一度紹介します。「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24・32)。
 今年の御言葉は礼拝堂正面の掛け軸に掲げられています。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(ルカ12・32)この一年、賛美・一般礼拝では、ルカによる福音書を少しずつ学んできました。この御言葉は、再来週の礼拝の聖書箇所にあります。何度「恐れるな」と心に言い聞かせてきたか、と振り返ります。12月でようやくたどり着きますが、新たな思いで味わいたいと願っています。
 ところで、アドベント(待降節)はクリスマスを待ち望む期間であると同時に、やがて必ず来られる再臨の主を待ち望む期間です。もちろんいつでも待っているのですが、アドベントは特に思いを深める時なのです。今読んでいるルカ福音書の箇所は終末の教えに満ちています。終わりから今を生きる、その生き方に招いています。
 そういうわけで、来週からアドベントに入りますが、引き続きルカによる福音書を順に学んでいきます。アドベントの4週は別の聖書箇所に学ぶ時もありましたが、今年はそのようにさせていただきます。
 アドベントの一般礼拝では、青年会の特別賛美から始まって、交励会、マリア会と、毎週特別賛美をささげます。心から主をほめたたえましょう。新しい歌で主を賛美しましょう。
 今年も16日はゴスペル夕拝があります。ゴスペルクワイヤJOIN(ジョイン)を迎えます。23日の主日礼拝はすべてクリスマス礼拝です。次週の定例役員会で承認を得る予定ですが、この日の一般礼拝では洗礼式が予定されています。一般礼拝後は愛餐会・祝会となります。翌日24日は、キッズクラスを中心に子どもクリスマス会、ヤングを中心に中高生クリスマス会、夜はキャンドルサービスでクリスマスイブを過ごしましょう。(No.184)


2007年 11月 18日

御言葉に心燃やされ

 2008年の御言葉はルカによる福音書24章32節より、「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」とさせていただきます。もう1年ルカによる福音書から御言葉を聴き続けましょう。人間の言葉ではなく、神の御言葉に心燃やされ、礼拝に、交わりに、学びに、奉仕に、伝道に、赴きましょう。
 何よりも説教のために引き続きお祈りをお願いします。説教によって、教会は立ちもするし、倒れもするからです。説教者が講壇において御言葉に心燃やされていないで、会衆が心燃やされるはずがありません。ひたすら聖霊の助けを求めます。とりなしの祈りをお願いします。そこにまことの礼拝をささげる心も整えられます。子供礼拝、夕拝も教会の大切な主日礼拝です。祈祷会のたびに祈っております。けれども来られない方もあります。各自の祈りでとりなしをお願いします。主日礼拝は教会生活の中心であり命です。主日礼拝を軸にすべての教会活動が進められます。わたしたちは主日礼拝で祝福され、世に遣わされるのです。
 月報には書ききれなかったのですが、こころの友伝道全国大会特別講演から、もう一言、十字架を巡る言葉を分かち合います。
 “・・・復活の喜びがあるから「自分の十字架を負いなさい」と言われた方についていくことができます。十字架というのは、こちらを立てればあちらが立たない、あちらを立てればこちらが立たない、両方立てれば我が身が立たない、ということです。「やっていられない。そんなことまで言われなければならないの」ということがあります。しかし、そこから逃げてはいけない。我が身が立たないところに立って、主の声が聞こえてくる。少女パレアナ(エレナ・ポーター)に出てくるのですが「聖書に喜びの句がなかったなら、1分だって牧師なんかやっていられない」。・・・”
 御言葉に心を燃やされるとき、生けるキリストと御出会いするとき、自分の十字架を負う力を与えられます。主を待ち望みます。(No.183)


2007年 11月 11日

あきらめないで

 11月3日に結婚式がありましたが、先週、自分が語った言葉に鮮やかに助けられまして、皆さんにも分かち合いたいと思いました。以下の文章は結婚式での説教の一部ですが、これは結婚講座で共に学んだテキスト「ふたりで読む教会の結婚式」(吉村和雄著)から引用したものです。
 “・・・クリスチャンは十字架を見上げるたびに二つのことを思い起こします。一つは、キリストが血を流すほどにわたしたちを愛してくださったこと。もう一つは、自分たちは自分を心から愛してくれる人を傷つけずにはおかない人間であること。ですから、十字架とは一緒に生きる苦労を示している といっていい。その十字架の前に、お互いが一緒に生きる生活を始める。これが教会の結婚式です。・・・
聖書にこういう話があります。“そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18・21、22)”・・・
 自分はそんなに人を赦せるだろうかと誰でも思います。でも、自分が赦してもらう立場になったら、どうでしょうか。「やり直します」ということを七の七十倍も言い続ける、というのも、大変なことではないでしょうか。たいていは途中であきらめます。どうせやり直したって、同じことの繰り返しだ、と思って、自分に見切りをつける、あるいは、こんな自分だからしょうがない、と居直ってしまいます。でも、「やり直します」という人は、自分に見切りをつけず、居直りもしない人です。そういう人をキリストは見捨ててはいけませんと言われるのです。なぜなら、神様はそういう人を決してお見捨てならないからです。
 十字架はわたしたちに語ってくれています。「あきらめてはいけません。もう一度やり直してごらんなさい」。・・・”
 そうです。大丈夫です。やり直します。(No.182)


2007年 11月 4日

福音の再発見

 11月を迎えました。今年は事前にお伝えできませんでしたが、10月31日はプロテスタント教会にとって忘れてはならない、宗教改革記念日です。
 1511年、修道士マルチン・ルター(1483‐1546)は、ヴィッテンベルク修道院に移ります。ルターはここで、福音を再発見します。それは「義人は信仰によって生きる」というテーマでした。それまでルターは、行為の完全な達成が神の御旨にかなう人間のわざと信じていました。けれども、「神の義は福音の中に現れる」こと、「義人は信仰によって生きる」こと、この二つが結び合わされた時、ルターは変えられました。人はその行為を問われる時、神の前に立つことはできませんが、神はキリストを信じるすべての人に罪の赦しを与える憐れみ深い方であって、「人間のわざ」は救いの条件とはならず、信仰だけが人を義とすることを、ルターは知りました。
 ルターが福音を再発見し、その視点からキリスト教を問い直していたころ、当時のローマ・カトリック教会は「免罪符」を発行、販売していたのでした。自分の過失に対する罰を金銭によりかたをつけようとする、この免罪符の発行を見過ごすことができなかったルターは、1517年10月31日正午、ヴィッテンベルク城教会の扉に95か条の提題を打ちつけました。
 これがきっかけとなり、教会改革の新しい時代が開かれていきます。
 10年後の2017年は、ルターの宗教改革500年を記念する年で、ドイツの教会では既に記念事業への取り組みが始まっているそうです。プロテスタント教会が以後500年間、何をしてきたのかを問われることになるでしょう。
 使徒パウロの言葉を聞きます。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。」(コリント一15・2)。アーメン。(参考 「教会生活の四季」(辻 宣道著))(No.181)


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