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週報短文

バックナンバー 2008年1月分


2008年 1月 27日

埼玉地区講壇交換礼拝

 本日は、埼玉地区交換講壇礼拝を実施でき、川口教会との交わりを喜ぶものです。
 日本キリスト教団埼玉地区では、毎年成人の日を「地区デー」として定め、地区の諸教会の一致と連帯を特に覚える時としています。この日には毎年地区新年合同礼拝を実施し、また地区デーに近い日曜日に、地区内各教会の講壇交換礼拝を実施してきました。わたしが主任になってからは、浦和東教会、上尾合同教会、安行教会、そして今回は川口教会と、講壇交換礼拝を実施してきました。地区総会の資料を見ても、講壇交換礼拝は地区諸教会においておおむね好評です。西川口教会も喜んで実施しています。この取り組みは地区の交わりに寄与しているといえます。
 さて、講壇交換礼拝とか、応援伝道とか、他の教会の礼拝に出席する時には、いつも思い起こす御言葉があります。使徒パウロの言葉です。まだ見ぬローマの教会への言葉です。
 「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊≠フ賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(ローマ1・11〜12)。
 使徒パウロはローマにいる教会の信徒たちと顔と顔を合わせて、交わりを持ちたいと切願していました。パウロはこのようにして手紙を書き送っておりますが、彼自身はローマを訪れることを希望していたのです。
 わたしたちも、普段から川口教会がその地で宣教に励んでおられると知っています。けれども、今回の講壇交換礼拝により、本間一秀先生や役員の方がおいでくださり、説教を聴き、交わりを持つことで、より深く川口教会を知り、宣教に励んでいる川口教会の兄弟姉妹を思い、祈り合うことができます。そして、同じように、川口教会の兄弟姉妹が西川口教会を覚えて祈ってくださいます。このような交わりが実現する講壇交換礼拝は、得がたい機会だと思っています。(No.193)


2008年 1月 20日

休ませてあげよう

 先週は、月曜の地区新年合同礼拝、火曜の家庭集会には出席したのですが、水曜の昼から風邪がぶり返し起きていられないほどになり、水曜の祈祷会、木曜の昼間祈祷会を、体調不良の理由では初めてお休みしました。ご心配とご迷惑をおかけしました。体が動けなかったので、2日間休まざるを得ませんでした。体が思うようにならないという状況は数年間久しくなかったので、不調もつらかったですし、集会を休むのに心痛みました。すべてのことは神様にあって益になりますから、このこともそうであると信じ、自分を責めることはいたしません。体調管理に今後気をつけるばかりです。一方で、主任牧師が欠席でも集会が支えられたことに安心しました。なお、水曜と木曜の祈祷会の出席者が増し加えられるようにと祈り願っていますが。
 ところで何年か前から、自分が「つらいなあ」と思わず感じたときに、一息おいて「○○さんもこんなふうにつらいのかなあ」と思えるようになり、そう思えたとき自分がつらさに耐えることが不思議とできるようになりました。元気で働いている時には、なかなか気づかないことですが、弱くされて気づくことがあります。弱くされているときでも、兄弟姉妹を覚えることができるのは、神の恵みです。それはわたしたちの主イエス・キリストが誰よりも弱くなり、傷ついて、苦しまれたことに根ざしているからです。どんな苦しみもキリストが知らぬ苦しみはない、そのことを教会が知っているからです。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)と主がおっしゃいました。教会には、疲れた者、弱くされた者、重荷を負う人が招かれています。主からの安らぎを得るために。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(同29〜30) (No.192)


2008年 1月 13日

若者はどのようにして

 明日は成人の日。成人の日に近い日曜日には、礼拝の中で成人祝福式をいたします。この年も成人祝福式をもてますことを感謝します。これからも毎年お祝いができますように。
 成人祝福式にあたって、若い世代への御言葉を探します。昨年紹介したのは、次のみ言葉です。
 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。(コヘレトの言葉12・1)
 本日朗読しようと思っております、詩編119編の言葉もよく用いられます。
 どのようにして、若者は
 歩む道を清めるべきでしょうか。
 あなたの御言葉どおりに道を保つことです。(詩編119・9)

 それから若い信仰者がよく引用する聖句があります。
 あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。(テモテへの手紙一 4・12)
 ところで、わたしは、自分より年上の方々に認められたいという思いでよく引用しました。でもそれは過ちでした。御言葉は人に聞かせるためでなく、自分が聞いて従うためにあることがわかったからです。教会においてはなお若く、未熟だと自覚しているわたしですから、自分で自分を軽んじないように、そして信仰者の模範となるようにと、この御言葉に耳を傾けています。
 キリストにある若い方々に御言葉を贈ります。
 若者たちよ、
 わたしがあなたがたに書いているのは、
 あなたがたが強く、
 神の言葉があなたがたの内にいつもあり、
 あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。(ヨハネの手紙一 2・14)
(No.191)


2008年 1月 6日

新しい年を迎えて

  新しい 年を迎えて 新しい 歌をうたおう。
  なきものを あるがごとくに 呼びたもう 神をたたえて  新しい 歌をうたおう。(讃美歌21‐368、1節)
 主の年2008年を迎えました。
 礼拝の讃美歌の選曲は説教者の特権であり、ふさわしいものを選ぶ責任があります。教会暦・行事暦・説教に合わせて選びます。
 わたしは、年の初めには讃美歌368を選びます。この讃美歌の歌詞の「なきものを あるがごとくに 呼びたもう 神をたたえて」というところが好きなのです。本当にそうだな、と共感して歌えるのです。
 この歌詞の元になっている聖句は次の使徒パウロの言葉と思います。
 ・・・死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。(ローマ4・17)
 わたしたちの神は、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる御方です。今ここにわたしが生きていること、そして今ここに西川口教会という神の教会が建てられていること、それは神に呼びかけられたからに他なりません。
 新年とは新しい年が来たというより、主なる神が新しい年をわたしたちに与えてくださったのだ、と信仰によって言うことができます。今年も、主にあって、主の前に、主と共に、教会の使命を果たしましょう。使命のためにこそ、教会は生かされているからです。教会の使命とは、礼拝・交わり・教育・奉仕・伝道です。
 それに加えて、目前になっている西川口教会の大きな課題は春日部墓苑改築です。見積もりと設計図を待っている段階です。届き次第募金を始められるように役員会で協議しています。心を合わせ一つ思いになって、共に歩みましょう。(No.190)