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週報短文

バックナンバー 2008年7月分


2008年 7月 27日

神の前に泣きなさい

 5月の埼玉地区IT祭りで、キリスト教ラジオ放送局日本FEBC代表の吉崎恵子さんによる講演がありました。そのときFEBCニュースレターの5月号をたくさんいただき、後日祈祷会や家庭集会で配りました。ある方よりニュースレターの記事が心に響いたとの感想をいただいたので、どなたかの励ましになればと思い、分かち合います。その記事は「神父さま、こんなこと聞いてもいいですか?」という番組からのもので、リスナーからの質問に、百瀬文晃氏(カトリック・イエズス会司祭)が答えるのです。
 質問は「うつ病になり、仕事も出来なくなりました。毎週欠かさず教会に行って、毎日欠かさずお祈りもしているのに、なぜこんなことばかり起こるのでしょう。・・・これは何かの罰ですか?」というもの。百瀬氏は答えます。
 “最初に、病気と宗教とを切り離して考えることが必要だと思います。病気が罪の結果だとか罰だという考え方を捨てなければいけません。・・・
 トマス・アクゥイナスという学者がこんなことを言っています。信仰の危機の時には、「よく食べなさい」「よく眠りなさい」「お風呂に入りなさい」「友を訪ねなさい」と。そして最後の五番目に大切なこととして、「神の前に泣きなさい」と言うんです。偉そうな祈りをしなくていいんです。自分の惨めさをさらけ出して泣くだけ泣くんです。悲しい事、苦しい事、全部打ち明けて泣きなさいと言っています。
 うつというのは自分ではどうしようもないものです。だから、そこで無理に「神様にお願いする!」なんてしないで、自分が出来ることを出来る限りやること。それから、「泣きなさい」と。「治してください」の前に「泣きなさい」なんです。自分を責めないでいいから、まず休むこと。軽い運動でもして、お風呂にでも入ってくつろぐこと。自分の弱さや欠点、そんなことを全部忘れて、ありのままをまず受け入れることが大切じゃないかと思います。・・・”(No.219)

2008年 7月 20日

原点を思い起こし

  先日他の教会の方から、「持ち物を整理していたら就任式の式次第が出てきましたよ」とお声をかけていただき、四年前の暑かった日を思い起こしました。その日は、近隣や遠くの方々も暑い中お祝いに駆けつけてくださったのでした。
 人は、歩みの中で原点となる出来事をそれぞれ持っています。わたしにとって四年前の教師就任式は一つの原点です。
 「あなたは今この教会の牧師としての任務につこうとしています。あなたはこの教会に招聘されたことを神のみ旨であると信じ、主の栄光のためにその身をこの職にささげる覚悟がありますか。あなたは、主の賜う恵みによって、御言葉の奉仕者としてふさわしい言行をなし、この教会の牧師の務めを、忠実に果たすことを約束しますか。」と問われました。「神と教会との前で謹んで約束いたします。」と答えました。
 教会員もまた誓約をなしました。招聘した教師は教会の牧師として主から遣わされたのであるから、教師を受け入れること。牧師の説く真理に、謙遜と善意とをもって聞き従うこと。牧師は人を救いに導く務めをゆだねられた者であるから、このために牧師をはげまし、また支持すること。教会の中で紛争を起こしたり、党派を結んだり、分離をはかったりするようなことなく、どんなことでも愛と和ぎとをもって行い、ことごとに相慰め、勧まし、支えて、牧師にその職を全うさせること。これらのことを、神の恵みによって、誠実にそれを守ることを約束しました。主は恵みによって西川口教会を守り続けてくださいました。
 教会はキリストの体であり、一人一人はその部分です(コリント一12・27)。キリストは教会の頭(かしら)です。教会は、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」(使徒20・28)です。神は御子によってどれほど教会を愛しておられるでしょうか。この世で小さな群れであっても、そこに神の愛のまなざしが注がれています。教会を信じ、愛します。(No.218)

2008年 7月 13日

礼拝と聖礼典

 「教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」(日本基督教団信仰告白より)
 先週の短文でも引用しましたが、再度ここに信仰告白の教会の項の一部を書いておきます。ここに、教会の働き・使命が簡潔に述べられています。
 教会は、公の礼拝を守ります。ここでいう「公の」とは、プライベートではなく、秘密でもなく、誰が参加してもよい、誰に聞かれてもよいということです。(たとえば、ミッションスクールの朝の礼拝などは、「公の」礼拝ではないです。誰でも参加できる集会ではないからです)
礼拝において教会は福音を宣べ伝え、礼拝から遣わされてわたしたちは福音を宣べ伝えます。正しく福音を宣教しているかどうか。それは、礼拝の説教において、そして聖書に親しみ祈ることによって養われ、判断していくことができます。
 教会は、聖礼典を執り行います。プロテスタント教会には二つの聖礼典があります。信仰告白にあるとおり、バプテスマ(洗礼)と主の晩餐(聖餐)です。聖礼典は「見える神の言葉」と言われます。目には見えない神の恵みの御業・真理・希望があることを、目に見せて示すのです。そこでわたしたちは生ける主と出会います。わたしたちはそこにおいて、主の確かさによって自分が生かされていることを体験できます。
 洗礼において、見ることのできる水をかけられることによって、古い自分がキリストと共に死んで罪を洗い清められたこと、キリスト共に復活の命に生かされたことを認め、信じます。
 聖餐において、見ることのできるパンとぶどう酒を受け取り飲み食いすることによって、わたしのためにキリストが命を捨て、血を流されたことを認め、キリストの命に生かされ、共に生きる教会の交わりに置かれていることを信じて味わいます。主イエスが再びおいでになるときまで、聖餐を祝いつつ、教会は歩みます。(No.217)


2008年 7月 6日

再臨の信仰

 先月の23日月曜日から四日間、名古屋説教者トレーニングセミナーに参加しました。名古屋周辺ほか、関東、近畿から参加した牧師、教務教師(ミッションスクールの先生)、説教者として準備中の長老(信徒役員の方)さんたちと出会いました。講師は説教塾主宰の加藤常昭先生です。毎回のことですが、セミナーでは説教作成の手順・技術もさることながら、参加者自身の信仰理解・教会理解が問われるのです。
 先週の賛美・一般礼拝では、今回の研修のために与えられた聖書箇所(ローマ13・11〜14)で説教しました。礼拝のときにも話しましたが、テーマは終末・再臨でした。参加者が与えられた聖書が語る再臨、その希望・慰めをきちんと受けとめて、説教の言葉を生み出すことが課題です。
 再臨を語ることは難しい、とセミナーで言われました。なぜなら、再臨はまだ誰も経験したことがなく、将来に備えられている約束だからです。聖書を読んでも、天体そのものが揺り動かされるとか、期間を縮めるなどと、人間の理解を超えるような、到底思い及ばないような出来事が起こると記されています。再臨は、信仰のない人から見れば、愚かで無意味なことなのです。
 しかし、教会は主イエスによって与えられた約束を信じて、信仰を告白し、主の再臨をひたすら待ち望んでいるのです。主は終わりの日に再び来られ、すべてを正しく裁き、決着をつけてくださいます。終わりの日には、キリストに結ばれているわたしたちはもう罪を犯すこともなく、愛する主と顔と顔を合わせて生きることができるのです。その日に望みをおいているからこそ、今このときを主と共に生きることができるのです。
 「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集ひなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝へ、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」(日本基督教団信仰告白より)(No.216)