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週報短文

バックナンバー 2008年 11月分


2008年 11月 30日

説教塾20周年記念全国シンポジウム

 先週の月曜から水曜まで、表題のシンポジウムに参加しました。主題は「伝道し、教会をつくる説教」。日本キリスト改革派神港教会で、開会礼拝と、加藤常昭先生による基調講演(公開講演会としてもたれた)が行われました。その後六甲山YMCAに移動し、発題講演、パネル討論、分団討議、全体討議が行われ、寒い山の上でしたが、熱い議論が交わされました。朝の礼拝、食事の交わりなども楽しいものでした。シンポジウムの参加者は85人(20教派を越える)とのことでした。置かれたところで励んでいる説教者たちが、全国各地からこのシンポジウムのために集まり、真剣に加わっている姿に大いに励まされました。
 説教塾20周年を記念しての集いでしたので、説教塾の原点、今までの歩み、将来に向って、という内容となりました。
説教塾の発足は1987年で、その年のペンテコステの日に説教塾開設にむけての案内がなされました。その一部を資料から引用します。
“趣旨  この度、以下のことを確認しつつ、説教塾を開設する。
1.今日の日本の福音主義教会の宣教の状況と使命を考え、説教者のための説教学習の運動を積極的に推進することが急務であると考える。
2.継続的な共同学習・修練を堅実にしていくために、伝道的な塾の名称を用い、説教者の生涯にわたる学習の場を造る。
3.参加者は、所属教会・教派を問わないが、福音主義的な神学を共通項とすることを求める。”
 この説教塾運動を始める契機となったのは、1986年秋にドイツのハイデルベルク大学で行われ、加藤先生が招かれて参加した、説教学の国際シンポジウムです。これを機会に説教の共同研究を継続的に行うことが協議されたのですが、自分なりに課題を負いたいと願い、説教塾の運動を始めたとのことです。その流れの中にわたしも加えられたことに神の導きを感じています。(No.237)
 

2008年 11月 23日

来年の教会の御言葉

 今日は収穫感謝日でファミリー礼拝をささげます。日曜日の朝、いつもは子供礼拝、賛美礼拝、一般礼拝とありますが、年に2回、これらの礼拝に集う人々が一つになって主を礼拝する貴重なファミリー礼拝のひとときです。
 さて、来週からは待降節(アドベント)に入ります。またこの時期は、わたしにとって来年の聖書をどうするか思い巡らすときでもあります。時に迷い、時に戸惑い、立ち止まらされます。「神さま、これでいいのでしょうか」と問いながら、御言葉に聴き、教会員のお一人お一人を、教会に近づけられているお一人お一人を想います。
 祈りの果てに、やっと思いが定まりました。来年からは「ローマの信徒への手紙」を学びます。使徒パウロの手紙の一つです。この手紙から、教会に委ねられているキリストの福音とは何か、問いながら、その本質に迫り、わたしたちが恵みによって変えられていくことを望んでいます。
合わせて、来年の教会の御言葉を決めました。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10・17)
 先日「対話としての説教」という講演を聴きました。心に留まったことがありました。講師が創世記3章に書かれているアダムとエバの背きについて言及しました。アダムとエバは、蛇の誘惑に負けて、主なる神から「食べるな」と言われた木の実を食べました。その後神に呼ばれても、彼らは神の前に出ることができず隠れました。講師は言いました。「彼らは罪を犯したけれど、彼らの耳は神の声に対して閉ざされることはなかった。彼らは神の声を聞いた。神は、神の声が聞ける耳を罪人に残された。そこに望みがある」。そんなふうに今まで思ったことがなかったので、ハッとさせられました。そしてわたしも希望を持ちました。
 わたしたちは福音を聞いて信じました。そして、大胆に福音を宣べ伝えることができるのです。どうぞ、説教のためにお祈りください。(No.236)
 

2008年 11月 16日

今年のアドベント

 街にはイルミネーションやクリスマス風の飾りつけが始まり、秋から冬へと移り変わっていく季節となりました。
 今年は11月30日よりアドベント(待降節)が始まります。アドベントは12月24日までで、翌日の降誕日(25日)から降誕節が始まります。アドベントは、主の降誕を待ち望む期節であり、同時に、やがて必ず来られる再臨の主を待ち望む期間です。
 主がお出でになられる。それは、神の憐れみの現れのときであると同時に、生ける神の前にわたしたちが立たされるという厳しさを伴うものです。ですから、わたしたちは喜びつつも、畏れつつ、アドベントを過ごします。アドベントの主日ごとに紫色のろうそくを立てていきますが、紫の色は、アドベントの典礼色で、悔い改めを象徴しているのです。そのようにして備えつつ主を待つのです。主を待ちつつ生きる人々の群れが教会です。
 今年も、アドベントの一般礼拝では、各グループからの特別賛美の奉献をお願いすることになりました。30日は青年会担当です。12月7日は交励会担当、14日はマリア会担当です。21日のクリスマス礼拝と24日のキャンドルサービスには、有志の聖歌隊による賛美となります。
 12月2日夜、川口リリア音楽ホールで開催される「県南四市クリスマスの夕べ」には家族・友人と一緒に参加して楽しんでください。14日の夕拝はゴスペル夕拝です。どうぞ参加ください。21日の主日礼拝はすべてクリスマス礼拝です。一般礼拝後は愛餐会・祝会となります。23日は子どもクリスマス会、中高生クリスマス会、24日夜はキャンドルサービスです。賛美に満ちたアドベントを過ごしましょう。
 忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。(ローマ15・5〜6)(No.235)
 

2008年 11月 9日

夫と妻、キリストと教会

 今年も11月3日に結婚式の司式をさせていただき、光栄に思いました。皆様のお祈りにより、恵みと祝福に満ちた結婚式でした。
 そして今日は賛美・一般礼拝の聖書箇所がエフェソの信徒への手紙5章に当たりました。夫と妻に対する教えが―それはキリストと教会との関わりでもありますが―示されている箇所です。それぞれの説教の準備をしていて、神の前に生きるとはどういうことかを考えさせられました。
 結婚式では、「一生かかって夫婦になってください」とお勧めしました。この言葉はすいぶん前に西川口教会で結婚式を挙げられた方が紹介してくださったもので、心に残っていたのです。
 このたび結婚されたお二人と共に、夏から5回結婚講座(準備の時)をもちました。その最初に、「何のために結婚するか」を学びました。好きだから結婚するのでしょうか。子供がほしいから結婚するのでしょうか。もしも、嫌いになったらどうするのでしょう。子供が与えられないと分かったらどうするのでしょう。他にも思いがけないこと、予期せぬことが二人に訪れます。何のために結婚するのでしょう。御言葉は語ります。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」。(創世記2・24)一つとなるために、共にいるために、一緒に生きるために結婚するというのです。結婚講座ではそのことを確認して先に進みました。こうして共に学び、共に備えて結婚式に臨めることは幸いでした。
 さて、エフェソ5章を読みますと、夫と妻の関係は、キリストと教会の関係と重なるようです。夫と妻についてかと思ったら、キリストと教会について述べている、とあり、ややこしいところです。結局このことを分けて言えないのだと思います。キリストは教会を愛し、一つとなるためにご自身をささげてくださいました。それは、花嫁を迎える花婿と同じです。キリストはご自分の前に、輝く教会を立たせてくださるのです。(No.234)
 

2008年 11月 2日

宗教改革者ルターの説教より

 10月31日は宗教改革記念日、そして、本日は聖徒の日です。宗教改革のきっかけとなったのはご存知マルティン・ルターです。彼の死の準備の説教が紹介されていましたので、引用しました。
 “宗教改革者ルターは、死の準備の説教のなかで、「死を誰もが死ぬ死として受け止めてはいけない。信仰者は探し求めてでも死と出合わなければならない」と言います。誰にとっても死がやってくるのだから、仕方ないことだ、だから死がやってくるのを待つ、ということではない、それは違うというのです。キリストを信じる者は、探し求めてでも死を発見しなければならないのです。死と向き合うのです。ルターがキリストは死の死となりたもうたと言うように、その死は、すでにキリストが死んでくださった死にほかなりません。そこに、生きることの本来の意味があると、ルターは言っているのです。
 この彼の主張は詩編九十編の講解の中によく表れています。そこには「律法の声は、生のなかに死の声を聞く。しかし福音の声は死のなかに生の声を聴く」とあります。信仰を持たずに生きているなら、やがてやってくる死を待ちながら人生を送ることでしょう。しかし信仰をもつ者は、そうではないのです。信仰者は、「死は罪の支払う報酬である」ことをよく知っています。しかし、その死をキリストが死んでくださったので、死の向こう側に、キリストにある命があることもよく知っています。死はかならずやってくる以上、死を先立てて、キリストにある命に生きようというのです。
 こうしてルターは、生を死ぬのではく、死を生きることを教えました。死を前にして、今をどのように生きるかということでもあります。死は避けるためにあるのではなく、「死によってもたらされる最大のことは、我々の意志がそれを受け入れること」(「ガラテヤ書大講解」)にあることを知るためであります。” (賀来周一著「気持ち整理&生き方発見」197ページより)(No.233)
 

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