週報短文
バックナンバー 2009年3月分
2009年 3月 29日
涙と希望の預言者エレミヤ
木曜午前の昼間の祈祷会では、旧約聖書のエレミヤ書を学び始めています。預言書は一人で読み解くには重厚な書物であるし、歴史の理解も必要なので、祈祷会で丁寧に継続して学べるのは、非常にありがたいことです。毎回、永本牧師の説き明かしを楽しみにしています。エレミヤ書を終えるまでには、まだまだかかるでしょう(全部で52章。現在9章に入ったところ)。「学び終わるまで皆さん、生き延びていましょう!」と互いに笑い合い、励まし合いました。現代に問いかける力ある預言の言葉であることを知らされています。預言者が告発する人間の姿は、今も昔も変わらないことを痛感させられています。
彼らは舌を弓のように引き絞り
真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。
彼らは悪から悪へと進み
わたしを知ろうとしない、と主は言われる。(エレミヤ9・2)
ここでは、舌、つまり言葉が毒矢のように放たれると語られています。今は、言葉も凶器や暴力となりうると認められる時代になりました。それは主を知らないからだ、と語られます。神に背く民のために、真実を語るべく召され、神と民の間で涙する預言者エレミヤです。これから必ず起こる裁き(捕囚)を見据えているからです。
わたしの頭が大水の源となり
わたしの目が涙の源となればよいのに。
そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう
娘なるわが民の倒れた者のために。(エレミヤ8・23)
主イエスはエレミヤ(の再来)だと、言われていたのです(マタイ16・14より)。
エレミヤ書を学び、エレミヤの涙と嘆きを学ぶことは、主を知ることです。わたしたちの背きが、主を悲しませ、泣かせている。主は真実なお方だからです。その御言葉に触れられていくとき人は変えられていきます。それほどまでに、自分のことを顧みて泣いてくれた人がいる。そう気づいたときに、不思議に希望が与えられるのです。(No.254)
2009年 3月 22日
ヤコブの手紙を終えて
水曜夜の祈祷会では、先週で「ヤコブの手紙」の学びを終えました。多くの慰めと励ましを御言葉から与えられました。
新約聖書の文書は、福音書も、パウロ書簡はじめもろもろの書簡も、ヨハネ黙示録も、迫害と苦難に耐えている教会に語られたものであるといってよいと思います。教会に問題のないときはなく、内にも外にも困難が満ちていました。
ヤコブの手紙の著者も、宛先の教会も、今となっては不明ですが、こうして文書が書き写され、聖書正典に加えられ、今に生きるわたしたちに神の言葉として語られることを、感謝を持って受けとめました。
水曜日に与えられた聖書箇所から、特に力づけられた御言葉は次の言葉です。
あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。(ヤコブ 5・13a)
生きることは喜びであると同時に、苦しみに遭わずにはおれないこと。祈祷会で読んだ時に、「そうそう、だからいつも祈りに事欠きません!」と互いに笑い合いました。苦しんでいる人は、祈ることができる。これは御言葉の確かな約束です。
わたしは一年の初めに「今年はこれで行こう!」という御言葉を選び取ることにしていますが、イザヤ書のその御言葉に響きあう思いがしました。
わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。(イザヤ66・2b)
苦しみは苦しみです。苦しみそのものを恵みとしては受け取れないのですが、神が苦しむ人を顧みてくださるというのであれば、耐えられる思いがします。そこで望みを持ち、自分を見失わないで生きられます。
今、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリストを、特に深く思い巡らすレント(受難節)の時を過ごしています。ただ一人罪のない方が、祈りつつ、苦しまなければならなかった救いの業を思い巡らしていきます。(No.253)
2009年 3月 15日
主よ、誘惑からお守りください
今月7日・8日の第33回西川口教会アシュラムは昨年にまさる参加者が与えられ、恵まれた集いとなりました。1日の週報短文で紹介した「アシュラムの心構え」によれば、「恵まれた、恵まれた」と言うのでなく、黙ってアシュラムの恵みの証を行動で表すように、とのことですが、今回だけご容赦願います。
先週の火曜日の夜、島先生より、ご葬儀のため到着が当初の予定より遅れるとの連絡を受けました。急遽、開始時間を遅らせ、一つ一つのプログラムを短めにして、永本牧師にオリエンテーションを担当していただくことで、調整できました。参加者の皆様のご協力を感謝しています。島先生がハードスケジュールの中で、御用を全うされたのは、神の力強いお助けと信じます。「一度に二つのことはできないから、一つのことに集中します」と、「テサロニケの信徒への手紙一」を説き明かしてくださった姿が印象に残りました。
永本先生のオリエンテーションにおいて、「アシュラムは終わってから始まるのだ」と語られました。自分の心に言い聞かせています。
アシュラムに参加できなかった方にも紹介しておきたいのですが、グループに分かれて分かち合いをする「ファミリー」の時間の最後には、次のアシュラムまでの一年間、共に祈り合う約束をするのです。そのため、聖書にはさめるしおりを渡します。片面には、曜日ごとに名前が書けるようになっています。そこにメンバーの名前を書きます。もう片面にはこう書いてあります。
「第33回 西川口教会アシュラム 2009年 3月7日〜8日
「信仰は、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ 10章 17節)
私は 時 分〜 時 分まで密室を守ります。主よ、すべての誘惑から私をお守りください。」
すでに祈り始めました。どうか主がわたしたちを守り、祈り続けさせてくださいますように。(No.252)
2009年 3月 8日
祈りの教会として
第33回西川口教会アシュラムに、島隆三先生(仙台青葉荘教会、当教会前任者)を講師としてお迎えでき感謝です。西川口教会を辞任する前に、島先生は月報「西川口だより」で祈りの教会として成長するようお勧めくださいました。2004年1月1日発行の巻頭言から一部引用します。
“私は札幌の教会で信仰を育てられましたが、1961年2月に恩師、伊藤馨牧師が突然天に召されました。…すぐ奥様の須磨先生が後を継いで牧師になられました。九十歳を過ぎるまで、お独りで教会と講壇を守り抜かれたのです。…当然、役員の方々が責任を持って牧師を支え、教会員の一人ひとりも祈りをもって牧師、役員を支えたに違いありません。一昨年、郷里に戻った時に祈祷会に出席しましたが、八十代、九十代の先輩たちがずらりと並び静かに祈る姿に感動したのを忘れ得ません。この祈りの空気は一朝一夕で生れるものではないとしみじみ思いました。…
第二の母教会となった仙台の教会の場合は、私が仙台に行ったその春から、中島代作牧師のご子息である豊師が東京聖書学校を卒業して伝道師となって着任しました。…この教会もまさに祈りの教会でした。…立派な会堂を献堂し、仙台市の中心において市の代表的教会の一つとして今日まで歩んで来ました。…教会の歩みをすべて肯定することはできません。…しかし、「祈る教会」には不思議に弱さや欠けを補って余りある宣教の実りが与えられることを今日まで何度も見てきました。
さて、問題は私たちの教会です。…先の二つの教会から見ると、まだまだ若い教会という印象を拭えません。しかし、若いということはなお成長する可能性に富んでいるという事です。今後は若い教師を支えて、皆が一丸となって羽ばたくこと、特に「祈りの教会」として成長して欲しいと切に願います。祈りの欠けを他の何かで補うことはできないでしょう。…”
教会アシュラムが開かれたことに主の憐れみを覚えます。ただその愛に応えていくばかりです。(No.251)
2009年 3月 1日
アシュラムの心構え
いよいよ今週の土曜日から教会アシュラムが始まります。もう一息祈りを合わせて当日を迎えましょう。アシュラムに参加されない方もありますので、「アシュラムの十の心構え」とコメントの一部のみですが、紹介します。アシュラム集会ばかりでなく、教会生活においても有益な心構えです。
1.だれも教師になってはいけない。
教師だという考えを持って来ている人は、それを捨てていただきたい。いくら知っていても辛抱していただきたい。神様に言ってもらう方が、あなたがたが言うよりも上手に言ってくださいます。どんなことも人間から教えられないで、神さまから教えられる生活を経験していただきたい。
2.自分の教派や自分の信仰の主張をしない
御言葉を通し、あなたに与えられた恵みだけを語る。「私はこういう御言葉を聞きました」と、謙遜に語るだけにしてください。
3.議論をしない。
たとえ間違ったようなことを言っている人があっても、それは主にゆだねてください。神さまが必ず最善に導いてくださいます。
4.静粛にする。
5.勝手な行動をしない。
6.自主的であること
7.個人の問題は絶対に口外しない
8.祈りとみ言葉にできるだけ多くの時間を費やす。
9.全期間参加する
10.帰ったならば、話さないで証をしていただきたい。
祈り 天の神様、いよいよアシュラムが始まり、みんなひとつ心になって出発しようとしています。私共の心を謙遜にし、素直にし、本当に主を愛することにおいて一つ思いとなって、互いになくてはならないところのものをいただくことができますように、顧みを豊かにおあたえください。イエス様のみ名によって感謝してお祈りします。(榎本保郎師) アーメン。(No.250)