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週報短文

バックナンバー 2009年4月分


2009年 4月 26日

説教塾で学んで(1)

 先週の週報短文に引続き、教職の研修報告として、説教塾での学び、出会い、交わりから得たものを分かち合いたいと思います。
 昨年秋の特別礼拝の講師として説教塾主宰の加藤常昭先生をお迎えして、豊かな説教に養われました。加藤先生を御招きできたのも、説教塾における出会いと交わりの一つの実りと感じました。
 ところで今月、キリスト新聞社から刊行されました加藤常昭先生の伝道説教集「救いはここに―説教によるキリストへの手引き」の中に、西川口教会における特別礼拝の説教が掲載され、思いがけないことで驚き、また喜んでいます。
 昨年末「西川口だより特別号」として、教会(広報部担当)で、特別礼拝の説教と質疑応答を文章化して、冊子を作り配布しました。その説教データをインターネット経由で説教塾生のメーリングリストに送りましたが、この説教データが塾生のためばかりではく、伝道説教集刊行のためにお役に立てて感謝です。
 説教集に収められた特別礼拝の説教でも触れられていますが、人はどのようにして神に出会い、神を拝むことができるのか。使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙一14章24、25節が引用されます。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」この聖書の言葉は、説教塾で常に語られる言葉の一つです。預言とは今日で言う説教と理解してよい。礼拝において説教が語られているところで、人は罪を知り、悔い改めに導かれ、「神はあなたがたの中に、教会員の中におられる」と言い表すのです。説教を通して神が働いてくださる。それを信じる。そして、その神の救いの業にふさわしく仕える説教を目指して、説教塾を通して研鑽を積んでいます。(No.258)


2009年 4月 19日

キリスト教カウンセリングセンター(CCC)で学んで(1)

 今月の定例役員会において、3月末の教会全体懇談会での意見を受けて、できるところから応答していこうということを確認しました。今週そのための話し合いを予定しています。何もかも一度にはできませんけれども、「どんな大きな変化も小さな変化から」といいます。取り組み始めるところに希望を持っています。
 加えて教職の研修報告もすることとなりました。どのように報告するのがふさわしいか模索しながら、今回は週報短文の場をお借りして、キリスト教カウンセリングセンターでの学びから得たものを分かち合わせていただきます。
 この学びを始めたきっかけは、西川口教会の中に、CCCで学んだ人が多く与えられていて、他者への関わりにおいて心に留めるべきことを教えていただいていたことからでした。西川口教会の担任教師となって、牧会のため、また教会に相談に来る人のためにとCCCで学び、現在に至っています。CCC学習所の本科が3年間、本科を終えた者が進める研修科が1年間、研修科を終えた者が進める認定カウンセラーになるための学びが2年間、その後認定カウンセラー受験資格を満たすまでにわたしには3年間が必要でした。
 学び始めてすぐに気づかされたことは、自分のことを理解しなければならないということでした。始めの頃の講義で聞いた、「過去と他人は変えられない。変えられるのは『今・ここ』にある自分だけ。自分が変われば相手も変わるかもしれない」という言葉が基本姿勢として心に刻まれました。事柄や問題よりも、気持ちや感情、生き方や人間関係に焦点を合わせていくことを求められました。これらのことを意識して他者に関わっていなかったので、ある程度意識できるまでに何年もかかり、自分が気づき変わるために、他の人の助けが必要でした。そのようにして自分自身の理解、自分の心の整理が始まりました。(No.257)

2009年 4月 12日

主は生きておられる

 川口あたりでは、もう桜が散り始めており、葉も少し芽が出ています。今年は開花からずいぶん長持ちしました。4月3日には火曜会のお花見会がありました。そのときはまだ五分か六分咲きくらいでしたが、青い空に桜の花が良く映えて、かつ暖かく過ごしやすい春の一日で、楽しい時を過ごせて神に感謝。準備の御労苦と、参加者のお一人お一人に感謝です。
 さて、こんなに美しい桜の花が咲いているのを見ながら、「まだ春は来ていない。桜は咲いていない。きっとまた寒くなる。まだ雪が降らないと誰が言えるか」と言い張る人がいたら、その人は本当に奇妙な人です。
 わたしたちが、もし、復活の出来事とその意味を聞いていながら、それを本当にそのとおりだと受けとめて、承認しようとしないならば、この奇妙な人と同じことになります・・・という黙想を先週読み、本当にそうだと思いました。だからこそ、決して、失望のままに終わることなく、神にある希望に生きることができる。それがキリスト者の恵みです。
 宗教改革者となったマルティン・ルターの、こんなエピソードが語り伝えられています。
 ある日、さまざまな悩みを抱えて苦悩し、沈み込んでいたルターの前に、妻カタリナが喪服姿で現れたというのです。ルターは、「誰がなくなったのか?」とききました。妻は「神です」と答えました。ルターが、「そんな馬鹿なことがあるか」と妻を叱りましたら、カタリナは夫に「神が生きているなら、そんな沈んだ顔をすることはないでしょう」と言いました。ルターはカタリナに諭されて、「そうだ、神は生きておられる」と立ち帰ったとのことです。
 わたしたちは弱さをもつ生身の人間ですから、失敗もしますし、迷いも生じます。しかし、わたしたちキリスト者は、死から命へ、キリストと共に移されました。「主イエスは生きておられる」との信仰を、希望をもって告白できるのです。(No.256)


2009年 4月 5日

目覚めていたのは

 2009年度が始まりました。
 今年は本日が棕梠の主日で、今日から土曜日まで受難週です。主イエスの苦難と死を心に深く思い起こします。今週の祈祷会ではパン裂きで聖餐を祝います。一つの杯と一つのパンを用いて行います。普段祈祷会に来られない方も、都合がつくようでしたらぜひ出席して、共に主の恵みにあずかりましょう。そして、来週はイースター礼拝。主の復活を記念しお祝いいたします。
 前回の短文で、昼間祈祷会で学んでいるエレミヤ書について触れましたが、先週の箇所からも豊かな養いを受けました。今、主日礼拝で学んでいるローマの信徒への手紙の御言葉も響き合う思いがしました。
 主はこう言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい/目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。(エレミヤ 9・22〜23)
 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。(ローマ3・27)

 さらに、目覚めて主を知ることとは、どういうことなのかと思わされ、ゲツセマネでの主イエスの祈り、その後の十字架への道行きを思いました。弟子たちはゲツセマネで主イエスに「目を覚まして祈っていなさい」と言われたのに、眠っていました。十二弟子の一人イスカリオテのユダの手引きによって、主イエスはユダヤ教当局に逮捕され、弟子たちに見捨てられました。最高法院では不当な裁判を受け侮辱されました。ローマ総督ピラトの元では、扇動された群衆が「十字架につけろ」と叫び、暴動を恐れたピラトは死刑判決を許してしまいます。主は兵士たちに侮辱され、十字架刑へと引き渡されます。実にこれだけの大勢の人が苦しみを受けていた主の前にいましたが、主の他には誰一人、目覚めた人はいませんでした。(No.255)


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