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週報短文

バックナンバー 2009年6月分


2009年 6月 28日

説教塾で学んで(3)

 引き続き、説教塾での学びから得たものを分かち合います。「説教するとはどういうことか」をひたすら問い続けている説教塾です。そこではいろいろな切り口で説教を学び続けています。東京説教塾では、時には、日本の説教者の説教や、海外の説教者の説教を連続して読み続けたこともありました。
 説教とは神の言葉である聖書を取り次ぐことです。説教者は説教作成の過程において、神の言葉を聞くことが何よりも大切なことです。福音が聞こえてくるまで、御言葉から光が射してくるまで、沈黙して御言葉に耳を傾け続けます。
 御言葉が開かれると光が射し出で
 無知な者にも理解を与えます。(詩編 119・130)

 説教黙想の大切なことを繰り返し学ばされています。自分自身を省みても、信仰、知識、経験において、未熟であり貧しい者であることを痛感しています。ですから、ひとりで説教を学ぶのではなく、共に励まし合い、豊かにしてくれる仲間が不可欠で、説教塾でそのような仲間に恵まれているのは感謝なことです。
 そして前述のとおり、いろいろな説教者の説教を学ぶ機会がありましたが、それらの説教を通して、説教者が神の言葉をどのように聞いたのかを知り、豊かにされる経験をしています。すべての説教に背景があります。説教者が生きていた時代、国、文化、出来事、伝統、説教者自身の賜物、生涯、神学などです。ところで、古典というものには、歴史の中で振るわれながらも残ることができた力と価値がありますが、説教塾で紹介された説教も、語られた場所と時代を超えて、力強く福音が告げ知らせられていました。決して古びず、新しい響きを立てていることが感じられるのです。そういう説教に出会えたことを感謝し、自分の説教に生かしたいと願っています。(No.267)


2009年 6月 21日

キリスト教カウンセリングセンター(CCC)で学んで(3)

 今月も、CCCでの学びから得たものを分かち合います。CCCの学びを通して、「今・ここ」にある自分がどのように形成されてきたのか、見つめることになりました。自分自身が学びの素材になると以前書きましたが、それは自分を知り、自分を受容した分だけ、他者を理解し、受容できるようになるからです。学習所では「自己の成長を目指して」とよく言われましたが、よい援助者になるために必要なことでした。
 CCC学習所本科の第1年目の研修を通して、家族、特に親の影響を受けている自分を知りました。そして、親もまたその親からの影響を受けて、それを子に受け継いで、家族関係が世代を超えて継承されていくのです。これらのことを図示する手法(家族図)があり、自分の家族関係と家族の出来事などを書いていきます。そして家族関係を全体的に眺めました。そのときの驚きは忘れられません。今までわたしは、自分の自由な意思で物事を決めてきたと思っていましたが、その意思そのものが家族に影響されて偏ったものであったという事実に気づかされたのです。知識ではなく、体と心に刻まれたといってもよいほどの、目からうろこが落ちるような経験でした。
 もう一つ家族関係を目に見せてくれる手法として、家族造形法を体験しました。方法を紹介します。「家族全体の関係や互いの相互作用を表すために、家族メンバーを彫像のように配置して、姿勢やポーズをとって、立体的に形作って理解を促す作業です。そこに参加した人たちはポーズをとったままで、一分間静止し、その後、一人ひとりが感想を述べます・・・=i「よい相談相手になるために」、キリスト新聞社、133ページより)。クラスメイトの協力でそれぞれが自分の家族を造形してみました。数年前のことですが、その家族造形の研修から、一生懸命生きようとしている家族を発見して、とてもうれしかったことも鮮やかに思い出します。(No.266)


2009年 6月 14日

花の日・子どもの日

 今日は「花の日」です。6月の第2日曜日は日本基督教団の行事暦で、「花の日・子どもの日」となっています。
 もともとは、1868年に「子どもの日」として、アメリカのメソジスト教会で始まったものです。アメリカではこのころに学年が変わるので、教会で子どもたちと大人たちとの交流のときが持たれていたそうです。アメリカでは花の多い季節であったので、花を持ち寄って飾ったりしましたから、「花の日」とも言われています。それが日本の教会にも取り入れられ、定着しました。お花を持って病気の人をお見舞いしたり、社会のために働いている人を訪問したりします。キッズクラスでは、川口警察署と並木交番を訪問することになっています。
 讃美歌21には入っていないのですが、「花の日」ときくと、ある讃美歌を思い出します。
 「ちいさなかごに」
  小さなかごに花を入れ、
  さびしい人にあげたなら、
  部屋にかおり満ちあふれ、
  くらい胸もはれるでしょう。
   愛のわざは小さくても、
   神のみ手がはたらいて
   悩みの多い世の人を
   あかるくきよくするでしょう。(讃美歌第二編 26番)
 水曜日夜の祈祷会でペトロの手紙一を学んでいますが、先週は第3章から、わたしたちが何者であるかを学ぶことができました。「かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(9節)。 教会はどこまでも祝福を祈ります。侮辱されても、無視されても、相手に祝福を告げていきます。祝福を受け継ぐために、わたしたちは神に選ばれているからです。この讃美歌にあるとおり、ただ「神のみ手が働いて」くださるからです。わたしたちの祝福の言葉を、神は決して空しくすることはなさいません。(No.265)

2009年 6月 7日

S・T姉召天

 先週の火曜日に、S・T姉が重体になられたとの連絡を姪ごさんからいただき、病院へ向かいました。T姉はすでに意識がなく、息も荒く、つらい状況でした。思ったより早く到着できましたので、ベッドの傍らに座り、手を握って、耳元で「Tさん、金田です。来ましたよ」とお声をかけ、祈りのときを持ちました。T姉の脈拍があまりに速いので、体がどのくらい持つかどうかと思わされました。
 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。・・・主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23編より)
 「主よ、あなたは、常にTさんと共にいてくださいます。死の陰の谷を行くときも共におられます。Tさんを、永遠に主の家にとどまらせてくださいます。・・・」
 わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し 命を墓から贖い出してくださる。・・・主はわたしたちを/どのように造るべきか知っておられた。わたしたちが塵にすぎないことを/御心に留めておられる。(詩編103編より)
 「主よ、わたしたちの罪を赦してください。主はすべての罪を赦してくださいました。主の御計らいの中にゆだねます」
 自分自身の心と、Tさんの魂と、主なる神に向かって、一時間以上でしたが、ずっと御言葉を語り過ごしました。その後おいでになったKさん(姪御さん)とお話して帰りました。
 2日後にT姉は危篤となり、その知らせを受けて駆けつけたK姉、M姉を待っていたかのようにして息を引き取られました。神のお計らいの中に地上の生涯を全うされました。(No.264)