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週報短文

バックナンバー 2009年8月分


2009年 8月 30日

献金について

 本日の教会全体懇談会では財務もテーマとなっています。教会の働きの財源は、教会員と牧師が献げる献金です(集会献金もありますが)。特に、収入の柱になるのは月定献金です。教会活動が停滞することがないように、力を尽くして献金し、教会活動を支えます。
@献身のしるし
 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12・1)
 キリストによって罪を購われ、神のものとされたキリスト者です。この神の憐れみに応答し、献身のしるしとして献金します。神と教会と自分に対して責任を果たしていく信仰によるのです。
A神が喜んで受けてくださるもの
 そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(フィリピ4・18)
 フィリピ教会からの献金を神に感謝する使徒パウロの言葉です。旧約聖書の礼拝では、香をたく祭壇がありました。また動物の犠牲なくして礼拝できませんでした。新約時代の教会では、献金は、神の前に届いている香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえに等しいのです。
B献金の目安と祝福
 十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。…(マラキ 3・10)
 旧約聖書を根拠に「収入の『十分の一』を目安に献金するように」と指導してきました。これは目安です。わたしたち自身も、持ち物も、一切は、神からの賜物です。神からお預りした物の一部を献げるばかりなのです。
 「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(コリント二9・7) (No.276)


2009年 8月 23日

礼拝について

 来週の教会全体懇談会に先立って、聖書の御言葉を通して、礼拝について再確認したいと思います。礼拝は、神の業であると同時に人の業です。神の業とは、信仰によってのみ理解し、認められる事柄であり、神の働きです。何よりもここをしっかりとわきまえたいと願います(来週は財務もテーマですが、献金に関しても、礼拝ぬきに考えることはできません)。その上で人の業、わたしたちが担う部分も正しく整えられると信じます。
 @礼拝は神が担われる
  お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。(イザヤ書1・14)
 ここから、神ご自身が礼拝を担ってくださることが分かります。ついでながら、旧約の時代から預言者による礼拝批判がありました。それは神の正義・真理に根ざしていました。わたしたちの批判も、聖書に学び成熟したものとなりますように。
 A神が人を礼拝者とする
  まして、永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか。(ヘブライ9・14)
 B神の霊によって礼拝する
  わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。(フィリピ 3・3)
 C神が礼拝する者を求めておられる
  しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。  (ヨハネ4・23)
 D礼拝者は献身者
  自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12・1)
(No.275)


2009年 8月 16日

CCCで学んで(5)

 先月12日の週報短文の続きです。
 ジョハリの窓(図)を手がかりに対人関係における自己を理解していく手法を知り、興味を持ちました。どのように自己を理解し、成長へつなげていくのか。そのために一つは、領域Uから領域Tへ、隠している自分を開示していく必要があります。図を見ればそのとおりなのですが、実際どうすればいいのかわかりませんでした。もう一つは、領域V(自分では気づいていないが他者が気づいている自分)について教えてもらうことでした(フィードバック)。こちらの方がわたしには始めやすかったです。ただ、心地よい言葉であれば受け入れやすいですが、そうでないときに耳を傾けられるかどうかです。
 ですからフィードバックに適した伝え方を学びました。一つは、具体的に、客観的に、行動について述べることです。(悪い例・「あなたは人の言うことをきかない、いい加減な人ですね」。 良い例・「わたしが話しかけたときに、あなたは他の人のほうを見てしまいますね」)。もう一つは、「わたしメッセージ」という呼び方をしますが、自分が感じたこととして言うことです。(「わたしは〜のように感じました」)。これを学んだとき感動しました。先の悪い例のように考えやすい自分がいたからです。相手を裁いているのです。けれども、行動について述べるなら、相手を裁きません。また、「わたしが〜と感じた」というのは本当ですから安心して言えますし、押し付けがましい響きがありません。この伝え方を知ったことで、わたしは(大げさに言えば)自由と解放を味わいました。(No.274)

2009年 8月 9日

平和学習会にあたって

 本日、8月9日は、64年前に長崎に原子爆弾が投下された日です。6日は広島への原爆投下の日、そして15日は、日本が戦争に負け、太平洋戦争が終わった終戦の日です。そこに至るまでにも筆舌に尽くしがたい悲惨な戦争の出来事がありましたが、1945年8月の戦争終結で新たな時を迎えました。それから8月は、この国で、そしてこの国に生きる教会で、特に戦争と平和をめぐって考えるときを過ごしてきました。
 西川口教会では、ほぼ毎年平和学習会を開催して、学び合う時を持っています。わたしは西川口教会の教会員となってから、だいたい平和学習会に参加していると思います。平和学習会は、中学や高校の歴史の授業では学ばなかった切り口での学びができる、貴重な学習会だと思います。その後も自分自身にとって、歴史、平和について関心を持ち続ける、その助けとなっています。
 今日の午後の平和学習会では、講師に日高有為さんをお迎えして、講演を聞きます。第一部「加害としての戦争責任」、第二部「憲法9条と日本を含む世界の平和」です。共に何ができるか問い合えたらと願っています。
 最近の報道では、戦後生まれの人が日本の人口の8割となったと伝えていました。先の戦争を直接知っている人々はだんだん減ってきています。戦後60年以上を経ていますが、長い時間が過ぎたからこそ、「死ぬ前に、今語っておかねばならない」と、戦争の記憶・体験を語り始めた人があります。また戦争時の資料や証言が発見され、新たな事実として紹介されることがあります。そういう報道に触れますと、わたしは主イエスの言葉を思い起こします。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。」(マルコ4・22)
 何が起こったのか、事実に向き合い、正しく認識したい。今、何が起こっているのかを知り、それが何をもたらすのかを知りたい。命と環境が持続できる世界を守りたいと願っています。
(No.273)


2009年 8月 2日

教会は祈りの家

 このたび、今年3月の西川口教会アシュラムのまとめを「西川口だより特別号」として皆様にお届けできることを神に感謝いたします。
 アシュラムは祈りによって祈りを学ぶ集いです。祈りは祈ることによって身につくのです。そのようにして、教会の祈りが自分の生活を支えているものであるか分かってきました。そのことが語られている文章に出会い、大いに共感しました。わたしにとっての西川口教会について語られたように思えたからです。ここに一部紹介します。
 “教会というのは神のみ言(ことば)をこの世に宣べ伝える最前線の基地、あるいは最前線の陣営であります。…すべての教会はそういう使命を持っております。…第二に、…教会というところは、この世の戦いを営む私どもと、神との最も深い交わりの場所、すなわち礼拝と聖礼典が執行される場所であります。…けれどもこの二つのほかに、もう一つ大切な使命が教会にあると思います。それは、教会というところは、最も深い意味において祈りの家であるということであります。この教会が私の祈りの家であったということ、祈りの中に私を覚え、祈りの中に私を守り、私を導き、神の前に私に使命感を与えてくださった、という場所でした。…私は実にこの教会に列なるということにおいて救われてまいりました。神様が私の中にお始めになったわざを、神様によって完成していただく以外にもうどこにもいくところがない。その時に、始めて私が神様の前に捧げられるのだということが、ますます強く深く分かってきているのであります。…私どもの祈りがこの教会において結ばれ、日常の生活のほんとうの基礎になっているのだと思います。…それが私にとっても一番ありがたいこと、また嬉しいことであります。…それは、わたし自身の意志ではなくて、神様ご自身による生活として守られてきたのだということを、言葉では表せない深い魂の感動として覚えているわけであります。” (森 有正著「土の器に」 説教『神の知恵と知識との富』より)(No.272)


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