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週報短文

バックナンバー 2009年10月分


2009年 10月 25日

この時のためにこそ

 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。(エステル記4・14)
 「信徒の友」・「日毎の糧」の先週の聖書日課は、旧約聖書のエステル記が定められており、じっくりと味わいました。バビロン捕囚から数十年後ペルシャの政策により、ユダヤ人はパレスチナへ帰ることが許されました。一方ペルシャで生き続けた捕囚の民がいました。エステル記の物語はその時代のペルシャの都が舞台となっています。
 細かい内容は省きますが、ペルシャ王の側近のハマンの悪だくみによって、国内全州のユダヤ人皆殺しの命令が出されました。ユダヤ人モルデカイは王妃となった養女エステルに、自分の民族のため、つまりユダヤ人のために、王に寛大な処置を嘆願するように頼みました。
 冒頭の御言葉は、モルデカイがエステルに迫った言葉です。彼は、神がご自分の民の解放と救済を実現する方だと固く信頼していました。たとえ、エステルが口を閉ざしたとしても、神には救うことがおできになると信じていました。
 聖書の言葉に耳を傾けながら、信仰とはどこまでも神に信頼することと改めて知らされました。神は御心をご存知であるし、人の目には困難でも、危機に直面しても、神の救いの御業を人間が妨げることは決してないのです。
 そして他方、聖書はどこまでも神の前に人を立たせます。自分自身が置かれたところも、神のご意志があると信じていくのです。そして与えられたものを生かして用いるのです。モルデカイは自分と自分の民族の危機に直面して、エステルが王妃とされたのは、この時のためではなかったかと語ります。エステルは養父の申し出を受けて、祈り備えて、王に嘆願します。そしてそこから民族の救いの道が開かれていきます。今も昔も、神は信仰者を用いて御業を進めてゆかれます。(No.284)


2009年 10月 18日

キリスト教教育週間

 本日はファミリー礼拝にようこそおいでくださいました。ファミリー礼拝のような子供と大人の合同礼拝を毎週している教会も増えてきましたが、西川口教会のように時々合同で礼拝をささげる場合は、礼拝を実施する日にちの設定に、合同礼拝の意義を深められるようにすることが多いと思います。今年はキリスト教教育週間を覚えて、本日実施することになりました。
 キリスト教教育週間は1951年に、日本キリスト教協議会(NCC)に加盟するプロテスタントの教団・教会、団体が、キリスト教教育の働きを大切にしていこうと設定しました。毎年10月第3日曜から第4日曜です。日本基督教団も加盟教団です。具体的な取り組みは、毎年NCC教育部から呼びかけがなされます。キッズクラスでは、NCCから学習教材を借りていろいろな国々の子供たちの様子を知ったり、子供の困難な状況を少しでもよくする活動や子供の権利を守る働きのために献金をささげたりしてきました。
 今年のメッセージから紹介します。
“日本では、子どもをとりまくいじめ・虐待・貧困などの困難、世界では、やむことのない戦争や紛争の犠牲になり続ける弱い立場の人たち。聖書の語るメッセージ―平和・希望・愛―はどこに生きているかを子どもたちに問われた時、私たちはどう答えていけばよいのでしょうか。…平和を祈るとは、全ての困難が一度に奇跡のように片付く状況を求めることではないのかもしれません。今、自分がおかれている困難の中で、キリスト者として平和を作り出し、希望を見出し、互いに愛し合うことができますようにと祈ること。
 心強いことに、そこには必ず共に歩んでくださる神様の姿があるのです。今年の教育週間のテーマは「さあ、手をつないで」です。さあ、手をつないで、自分たちの立つこの場所から、祈りつつ進みはじめましょう。
主よ、わたしたちの中にあって進んでください(出エジプト34・9)」。”(No.283)


2009年 10月 11日

赦しとはプロセス

 今秋号「牧会ジャーナル」、赦しとはプロセスであると書かれている論文があり、興味を持ちました(福本有師)。信仰生活の中で、人間関係に葛藤を感じている人は少なくないと思います。新鮮な切り口で「赦し」に光を当てています。内容は英語の本からの要約でしたが、少し引用します。
 “「赦し」それは傷ついたあなたが敬虔な言葉を語って加害者を楽にしてあげるという結末的イベントではない。不正行為を無かったことにする、ということではない。過去にあなたが被った不正を記憶から失くす、ということでもない。・・・ 
 赦しとは、負った負債の重荷を軽くし、心から追い払い、自らその傷を吸収し、我が身に引受けること。赦しとはプロセスであり、一時の出来事ではない。そのプロセスをじっくり通過していかなければならない。・・・”
 次いで赦しのプロセスを示します。自分が被った不正の内容を明らかにし、相手からの不正によって自分に対する負債が生じたことを認めること。その負債を神に持っていくこと。そのときには、神が不正を必ず正される方であると信じるかどうか、神に委ねるかどうか、自らの信仰が問われます。委ねたならば相手の不正によって起こった損害を自ら引き受け、赦したという事実を日々負いつつ生きていくこと。これが、赦しの姿であると語られています。
 葛藤に悩む人々に寄り添うように多くの助言がありました。それも紹介いたします。加害者を赦したということが必ずしも、再び自然に相手を信用するようになり、好意を持つことを意味しないということ。赦すことと信用することは別である。「赦しはあなたがすることだが、信頼は彼らが取り戻すものである」。心には痛みがまだ残っているけれども、他の人たちに払うのと同様の敬意を持って相手に接していく。すべてのプロセスが完了するまでには何ヶ月、何年を要するかもしれないが、それでいい。他人の進み具合と自分を比べない。自分をいたずらに責める必要はない。(No.282)


2009年 10月 4日

聖餐(主の晩餐)

 10月の第一主日は、教団の行事暦で世界聖餐日・世界宣教の日と定められ、西川口教会でもこの日を覚えるようになりました。
 聖餐は「主の晩餐」とも呼ばれます。主イエスご自身が定められたことによるからです。この主の言葉は、コリントの信徒への手紙一第11章23節以下に記されています。現在は、聖餐のやり方は多様になりました。しかしこの主の制定の御言葉は、どの教団、教派に属する教会でも、聖餐の度に読まれます。重んじられる文章です。
“わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。・・・”
 聖餐は記念の食事です。過去の出来事としてなつかしく思い出すことではなく、「思い起こす」という意味です。主イエスが主の晩餐を定められた後に起こった、十字架の死の出来事と、それに続く復活の出来事を思い起こします。新しい契約に生かされている祝福を思い起こします。
 主イエスが主の晩餐を定められたのは過越の食事の席でした。過越の食事に供された小羊の血を見て、ユダヤの人々は神とその民に交わされた救いの契約を思い起こしてきました。主イエスの十字架と復活の出来事の後には、過越の祭りの小羊の血に代わって、主イエスの血がすべての人々のために流された新しい救いの契約の血となりました。それは神の祝福の契約です。主イエス・キリストを信じて、キリストに結ばれて、わたしたちは祝福された存在と変えられました。
(No.281)


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