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週報短文

バックナンバー 2009年11月分


2009年 11月 29日

もっと気軽に伝道しよう

 今週で11月も終わり、今年も12月を残すのみとなりました。ここまで主に守られました。
 そしてクリスマスも近づいてきました。クリスマスは何といっても伝道のチャンスです。
 この秋出版された「三浦綾子 信仰と文学」(愛蔵版・没後10年企画 日本キリスト教団出版局)を読みました。わたしは学生時代から20代後半まで、三浦綾子さんの作品をよく読みました。今回刊行されたこの本は、「信徒の友」と「こころの友」に掲載された中から、未刊行の文章を集めたものです。夫である三浦光世さんの文章もいくつか収められています。三浦綾子さんは「伝道のために小説を書く」と明言しておられた方でした。この本の中でもその信仰の姿勢が伝わってきます。元気をいただいた一つの短い文章を紹介します。「もっと気軽に伝道しよう」(1973年9月号)との提言です。
 “伝道とは何か。道を伝えることである。道とは何か。キリストのことである。伝道は大変だという。確かに大変かもしれない。だが、それほど大変でないような気もする。
 よく自分の信仰が立派になり、人格が立派になってから伝道するという人がいる。自分の信仰や人格が立派になったと自認するようでは、その信仰も人格もいい加減なものだ。
 伝道とは牧師がするのでもなければ、他の立派な信者がするものでもない。福音にあずかり、救いの喜びを得たこの自分自身がするものなのだ。伝道がふるわなければ、誰かの責任であるかのように思うのは大間違いで、各自が自分の責任だと悔い改めればよい。伝道は隣人への最大のプレゼントだ。自分の得た最大のよいものを、他の人に分かつのである。適切な本を贈るのもよし、口で伝えるのもよし、気軽に喜んで伝道することだ。そしてそれが、信者の第一のつとめだと自分の言い聞かせることが伝道を盛んにする第一歩ではないだろうか。”(No.289)


2009年 11月 22日

「向こう岸に渡ろう」

 来週からアドベント(待降節)に入ります。クリスマスに向けて祈り備える期間でもありますが、教会の歴史の中では再びおいでになるキリストを待つ期間、すなわち主の再臨を特に覚えていく期間として過ごしてきました。祈りつつ、クリスマスを、そして新しい年を迎えたいと思います。
 今年、主日の賛美礼拝・一般礼拝ではローマの信徒への手紙を説教において取り上げました。キリストの福音とは何か、救いとは何か、神の恵みによる選びとは何か、教会が何によって立っているのか、わたしたちの信仰は何に根ざすのか、信仰の筋道を一つ一つ丁寧に明らかにしていく、使徒パウロの手紙です。本日は第13章に入りました。この手紙は第16章までですから、終わりも近づいてきました。新しい年に入ってもしばらくローマの信徒への手紙の説教が続きます。
 その後主の日の礼拝で、どの聖書を説き明かしていくべきか、祈りました。祈りの果てに、マルコによる福音書に聴いていこうと決断しました。マルコ福音書は最初に書かれた福音書です。主イエスの教えと行い、お姿が鮮やかに記されています。それらを一つ一つたどりながら、わたしたちも主に招かれ、主に従う弟子として成長したいと願っています。来年の教会の御言葉は、主イエスの弟子たちへのお言葉を選びました。
 イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。(マルコ4・35)
 昔から教会は自分たちを舟にたとえてきました。マルコによる福音書第4章35節以下の記事、またその並行記事に基づいてそのように自分たちを理解してきたのです。主イエスは教会という舟に共に乗り込んでおられます。教会は再臨の主を待ちつつ、聖霊として今、教会に主イエスが臨在し、わたしたちと共にいてくださると信じています。主イエスと弟子たちを乗せた舟が嵐に遭いましたが、主はその中でも眠っておられる方です。嵐も波もその方を乗せた舟をのみこめません。この方と共に旅をする教会です。(No.288)


2009年 11月 15日

「聞くという奉仕」

 先週の日曜日は特別集会がもたれ、講師の吉岡光人先生を通して、豊かな言葉に養われました。
 午後は「聞くという奉仕―隣人への愛の始まり」と題しての講演がありました。講演の中で、ナチスドイツに抵抗した牧師の一人であったディートリヒ・ボンヘッファーの言葉、「聞くという奉仕」が紹介されました。彼の著書「共に生きる生活」(森野善右衛門訳、新教出版社)に書かれています。手元にこの本がありましたのでここに引用いたします。70年前のボンヘッファーの言葉は、今も教会に生きるわたしたちに鋭く問いかけます。
 “交わりの中で、ひとりがほかの人に対して負っている第一の奉仕は、〈その人の言葉に注意深く耳を傾ける〉ということにおいて成り立つ。神への愛は、わたしたちが神の言葉を聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、わたしたちが兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである。神がわたしたちに、ただその言葉を与えてくださるだけでなく、わたしたちにその耳をも貸してくださるということは、わたしたちに対する神の愛である。だから、もしわたしたちが兄弟の言葉に傾聴することを学ぶなら、わたしたちが兄弟に対してすることは、神のわざである。キリスト者、とりわけ説教者は、他の人たちと一緒にいる時に、常に何かを「提供し」なければならない、そしてそれが彼らの唯一の奉仕である、と考えがちである。かれらは、〈語ることよりも傾聴することの方が、もっと大きな奉仕でありうる〉ということを忘れているのである。
 多くの人たちが、傾聴してくれる耳を求めている。そして彼らは、その耳をキリスト者の間に見出さない。なぜならキリスト者は、聞いてあげなければならないところでも、自分で語ってしまうからである。しかし、もはやその兄弟の言葉に耳を傾けようとしない者は、やがてまた神の言葉にも耳を傾けなくなり、そこで、神の御前においても、いつもただ語るだけの人になってしまうであろう。…”(No.287)


2009年 11月 8日

吉岡先生との出会い

 本日は、特別礼拝と午後の講演会の講師に、吉岡光人先生をお迎えでき、神に感謝いたします。
 吉岡先生の略歴をごらんいただくとお分かりになりますが、先生は牧師職ばかりでなく、キリスト教カウンセリングの分野でも大いに働いておられます。
 わたしが吉岡先生にお目にかかったのは、キリスト教カウンセリングセンター(CCC)においてです。CCCが設立されて比較的早い時期に、S牧師、H姉が受講されて、西川口教会でその学びをよく活かしておられました。成人科やアンデレ会で、カウンセリングについて紹介し、また実践されました。わたし自身も話を聞いていただき、力づけられ、慰められました。それらの体験がきっかけとなり、わたしは2000年4月からCCC学習所での学びを始めました。学習所の第2年目の課程で、講師のお一人が吉岡先生でした。
 さらに、CCC学習所の3年間の課程を修了したあと、CCC認定カウンセラーに必要な学びを続けてきましたが、2005年4月からの1年間も、吉岡先生にご指導いただきました。
 このクラスでは、自分がカウンセラーとして話を聞いたことを、文章に起こし、レポートを提出し、クラスメイトと先生からアドバイスをいただきます。受講生は自分のケースを提出すればいいのですが、講師はすべての受講生のケースに目を通すのですから、たいへんな作業と思います。
 吉岡先生から学んだこととして、特に新鮮に感じ印象に残っていることは、「『カウンセラーとして対応している自分』を外から眺める自分」を持つ大切さと、カウンセラーはクライアントによって成長させてもらえる、ということでした。身につくまでには時間がかかりますが、そういう視点を与えられただけでも、自分の世界が広げられたのです。カウンセラーの成長とは、人間としての成長、キリスト者としての成長と深く連動していると思っています。(No.286)


2009年 11月 1日

聖徒の日にあたり

 教会の暦では11月第1日主日は聖徒の日とされています。この日には、全国の多くの教会で召天者あるいは逝去者記念礼拝が行われます。
 西川口教会も毎年11月の最初の日曜日は召天者合同記念礼拝をささげています。一年に一度、この日には、神に召された方々の写真を礼拝堂の前の方に飾って、故人とその信仰を偲びつつ礼拝します。数年前より召天者・関係者の方々のお名前一覧は、こうして週報にはさむ形に変えました。教会員名簿を整理し、消息をお知らせいただて、名前を加えた方もあります。西川口教会は来年で創立60年となります。60年は短い年月ではありません。その教会の歴史の中で、教会に連なって生きた兄姉がおられて、現在の西川口教会があることを心に刻みます。
 昨年の礼拝から一年の間に、この礼拝堂ではSJ姉、ST姉の葬儀を行いました。教会の最高齢の姉妹方が天に移されました。教会の兄姉の中にもご家族を看取り、葬られた方々があります。愛する者を失った悲しみは時が流れたからといって、癒えるものではありません。主が憐れみ、慰め励ましてくださるようにと祈ります。
 また、今日の礼拝では特に、わたしたちは死に備えて生きることを深く思います。同時に、主がなお生かしてくださるからには、必ず使命があるのですから、御心に従って生きることができますようにとの祈りをささげます。
 少し前に、他の教会の信徒の方お二人とお話しする機会がありました。お二人とも子育ても終わり、お子さん方は皆自立しておられる。子供の頃は親について礼拝に来ていたけれども、今は礼拝に行っていない子がいる。信仰を分かち合いたいけれども、なかなか教会に来てもらえない。お二人とも、自分の葬儀が、我が子に伝道できる最後の機会だと言い、望みをかけておられました。
 生きている間も、死んでなお、主こそまことの神であること、この方のもとに祝福があることをを証できますように。(No.285)