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週報短文

バックナンバー 2010年2月分


2010年 2月 28日

教会アシュラムとペトロの手紙一

 昨日から、第34回西川口教会アシュラムが始まりました。本日の一般礼拝を充満の時としています。教会アシュラムは祈りによって祈りを学ぶ集いです。長い間教会アシュラムが続けられているのは神の恵みです。このたび20名弱の参加者が与えられました。また参加できなかった方も、覚えて祈ってくださっています。主はご存知です。今回は外部講師を迎えず、教職と礼拝教育部で準備しました。今回のアシュラムでは「ペトロの手紙一」を通読することにしました。
 2010年は既に賛美・一般礼拝でマルコによる福音書から説教を始めています。マルコ福音書の著者マルコは、主イエスの弟子で使徒とされたペトロの通訳であったと言い伝えられています。この年は、マルコが喜んで書き記したマルコ福音書を通して、主イエス・キリストの福音を聞き続けたいと願っています。マルコは使徒ペトロから主イエスの福音を聞きました。
 その使徒ペトロは、ローマ帝国の手によって捕らえられ、牢に入れられました。そのときペトロは手紙を書いたと伝えられています。殉教の死を前にしたペトロが、遺言のように記した手紙がペトロの手紙一だと伝えられています。
 どうしてペトロがローマ帝国の手によって殺されなければならなかったのでしょうか。そのひとつの大きな理由は、皇帝礼拝を拒否したからです。ローマ皇帝は、自分の支配のもとにある人々に自分を神の子として崇拝することを求めました。ローマ皇帝は神の子でないという者は端から捕らえられました。そういう状況の中で崇拝を拒否したペトロでした。そしてペトロと共にある教会も危機にさらされていました。使徒ペトロはどこまでも自分を追い求め、愛をもって赦し、立ち上がらせてくださる主の恵みを知っていた人でした。ペトロは教会を力づけていきました。
 この手紙から、危機の中に置かれている教会に語られている主の慰めと励ましを受け取りたい。(No.302)


2010年 2月 21日

教会総会を終えて

 先週の午後の教会総会には、今までの教会総会より出席者が与えられ、幸いなことでした。議題が多く長時間になりました。皆さんの愛と忍耐と、なによりも主が総会を導き支えてくださったと信じています。出席された兄姉のお疲れが癒されますようにと、その夜祈ったことでした。
 わたしたちには、キリストの体なる教会の使命を果たす務めが委ねられています。またこの国で宗教法人として認められているのですから、責任があります。このたびの教会総会では、教会がどのように運営されているかを、教会規則は成文化され、宗教法人規則の全面的変更を行うことで、共有できるようになりました。これが始めの一歩だと思っています。それをもって互いに協議することができるからです。具体的な課題に更に取り組んでまいりましょう。
 新年度の役員選挙も無事守られ、選出された5人の兄姉が任に就いてくださることになりました。以前も書きましたが、教会員は役員会を支え、役員会は教会に仕える、この信頼関係を持っていきましょうということです。夫婦関係はある面では「戦友」だと思います。夫婦は一つとなって事にあたるわけで、一緒に戦ってくれない人と夫婦であったら、これは大変なことでしょう。教会もキリストの花嫁として迎えられています。キリストがたえず、世を救おうと戦い続けておられます。わたしたちもキリストの戦友とされて戦いに加わるのです。キリストが勝ち取ってくださったからこそ、この世に西川口教会は存在しています。キリストの救いの業を果たすために、わたしたちも主に整えていただきます。
 永本慶子牧師の辞任の決議も、皆様が主の御心と受けとめてなされました。先日の教務会でも話しましたが、ふりかえってみれば早かった6年間と思います。身体的ハンディを持ちながら、主とその教会に仕えてこられ、また、春からはご家族に仕える暮らしを始められます。主なる神の満ち溢れる祝福を切に祈ります。(No.301)


2010年 2月 14日

本当の幸福はどこに

 2月6日土曜日朝日新聞夕刊に作家の加賀乙彦さんの言葉が紹介されていました。加賀さんはカトリックの洗礼を受けておられます。キリシタン大名の高山右近をとりあげた加賀さんの小説は、信仰と国家との関係を深く考えさせられる作品で、たいへん印象に残っています。新聞記事は「本当の幸福はどこに」と題してのインタビューでした。現代社会を見つめ、提言しておられます。
 “…私たちの周りには「勝ち組」「負け組」など、人間をランク分けする言葉があふれています。…自らマイナスのレッテルを張る行為は、他人から張られる以上に心を深いところで傷つけます。そうした価値観を、今の日本社会はいつのまにか受け入れてしまっている。・・・幸福というのは定義できないものだと思います。何を幸せと感じ、不幸と感じるかは、人により、状況によって異なる。・・・人の目を過剰に意識することは、自分の評価を他人に委ねてしまうことにつながる。そして、そういう人ほど、ちょっとしたことで傷つきやすいのです。・・・本当の意味で「個」を育てておく必要がある。そして、このような「個」は、自分の頭で考え抜き、他人と意見をぶつけ合いながら、人間関係を培っていくなかでしか、育ち得ないのです。・・・日本人の多くは・・・「どうせ変わらないから」との理由で、社会のあり方や国の未来像を考えることなく、ただ流されてきた気がします。多くの人が、何の疑問を抱くことなく、世間のいう「幸福行き」の列車に乗りたいと思い、そのレールから外れたら不幸になると、自ら子どもたちを駆り立てました。そして、子どもたちから考える力や生きる力が奪われてしまったのです。・・・まず、親にあたる、あるいはこれから親になるであろう世代が、自分を不幸と決め付けず、身の回りにある小さな幸せに目を向けていくこと。挫折も幸福になるための要件だと考えること。しなやかな精神にこそ、幸福の源泉はあるのだと思います。”
 これを読みながら、わたしは教会に生きるとき、「個」が育てられるだろうと感じました。(No.300)


2010年 2月 7日

二つの祈り

 2010年も早一ヶ月が過ぎました。
 いよいよ来週は教会総会となり、大切な議題が掲げられています。そのために全体懇談会も行われました。わたしたちは今までも祈ってきましたけれど、もう一息、祈りを合わせて教会総会に臨みましょう。
 祈るとき、自分の言葉で祈る祈り、聖書の言葉で祈る祈りがあります。そして、教会の歴史と伝統で受け継がれている祈りがあります。その中で教会総会を前にして、前任の島隆三牧師が、礼拝でときどき引用し、牧師室に掲げてあった二つの祈りを思い出しています。ご存知の方もあると思いますが、改めて紹介させていただきます。
 一つは、ドイツ敬虔主義の父といわれるシュペーナーの言葉。
「大事には一致を、
 小事には自由を、
 すべてのことに愛を」
 もう一つは、昔から伝えられていたのを、ラインホールド・ニーバーが引用したという祈りです。こちらは、丁寧に長い文で翻訳されたものを紹介します。
「神よ、
 私に変えることのできないものは、
 それを素直に受け容れるような心の平和を!
 変えることのできるものは、
 それを変える勇気を!
 そして変えられるものと変えられないものとを、
 見分ける知恵を!
 この私にお与えください」
 これらの祈りが有名になって語り継がれているのは、信仰者の必要に答える祈りということでしょう。祈ることができるのは望みです。
 教会総会において神の導きとご支配を信じます。役員選挙がありますが、その根底には、教会員は役員会を支え、役員会は教会に仕えるという信頼関係に根ざして、選挙します。ただ御心がなることを信じます。祈りましょう。(No.299)