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週報短文

バックナンバー 2010年3月分


2010年 3月 28日

後で、分かる

 先週の木曜日に、エレミヤ書第52章をもって学びを終えました。祈祷会の出席者には感慨ひとしおでした。永本先生の御労苦に感謝です。
 預言者エレミヤは、南ユダ王国がバビロンによって滅ぼされ、人々がバビロンに捕囚の民として連れ去られていく(紀元前586年)、激動の時代に生きた人でした。主なる神が、バビロンという大国をご自分の道具として用い、イスラエルを裁くことを、エレミヤは預言しました。
 旧約聖書に親しみイスラエルの歴史を知るには時間がかかりますが、取り組んだ実りをいただきます。永本先生からのエレミヤ書の説き明かしを通して、歴史を支配し導く神を新しく知り、御言葉をとりつぐ厳しさと、神の真実に立ち続けるところにある祝福とを知らされました。また、まことの神を神としない人々の姿は、現代の人々と変わらないことを思いました。
 エレミヤ書には直接言及されていませんが、永本先生から、バビロン捕囚によって旧約聖書ができたと学びました。バビロンに連れ去られた人々が、その地で聖書を編集したからです。捕囚の民が聖書を生み出したことも、わたしたちが遠い昔のこの出来事によって、今旧約聖書を手にできることも奇跡のように思い、驚きでした。そして、エルサレム神殿が失われてしまったにもかかわらず、会堂(シナゴーグ)の礼拝が生まれたと知りました。神の民はそのようにして、聖書と礼拝により、今も生き続けています。
 神の導きは壮大です。バビロン捕囚という厳しい裁きを通しても、神は新しい御業を後の世代のために起こされます。その導きを垣間見ただけで、圧倒されます。主は生きて働いておられる。
 主イエスは逮捕される前に、弟子たちの足を洗い、ペトロに語られました。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13・7)
 主は後で分からせてくださる。あたらしい年度も、わたしたちは主を信じて進みます。(No.304)


2010年 3月 7日

聖書の読み方(静聴の方法)

 先月のアシュラム集会でもお伝えしましたが、聖書の読み方(静聴の方法)について、皆様の助けになれば幸いと思いますので、ここに書かせていただきます。
 一つは「直接話法式静聴」といって、主イエスが直接わたしに語ってくださるような読み方で聖書を読む方法です。たとえば、本日の主日礼拝の聖書、マルコによる福音書1章12節13節を、直接話法式静聴で、イエスさまが直接語ってくださっている言葉に直してみます。
 「それから、“霊”はわたしを荒れ野に送り出した。わたしは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けた。その間、野獣と一緒にいたが、天使たちがわたしに仕えた」。こういうふうに主イエスが語ってくださっている。マルコ福音書はマルコが書いているのですが、それを書かせているのは、よみがえられて今も生きておられるイエスさまです。イエスさまのお心があるわけです。
 もう一つは「賛美式静聴」で、イエスさまに感謝し、賛美して静聴する方法です。前述の聖書がこうなります。「それから、“霊”によって、イエスさま、あなたは荒れ野に送り出されました。感謝します。イエスさま、あなたは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられました。感謝します。その間、イエスさま、あなたは野獣と一緒におられましたが、天使たちが仕えていました。感謝します。」
 “イエスさまがご自分でおっしゃっている直接話法的静聴の時には「わたしは・・・した」ですが、賛美式静聴では「イエスさま、あなたは・・・されました。感謝します」となります。私はその両方をやります。それによって、二千年前の文章を遠いものとして読んでいるという感じから解放されて、身近にイエスさまがおられて私に語られ、私がイエスさまに感謝していることを忘れないようにするんです。”(アシュラムセンター主幹牧師田中恒夫遺稿集「キリストにおいて満たされています」より)(No.303)