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週報短文

バックナンバー 2010年 5月分


2010年 5月 30日

関東教区総会報告

 5月26日と27日の2日間、大宮ソニックシティ小ホールにて、第60回関東教区総会が開催されました。
 開会礼拝説教者は元関東教区総会議長で南房教会牧師の原田史郎先生でした。ルカ16章「不正な管理人」のたとえの箇所より、終わりの時が迫っていること、終末に生きる教会であることが示され、主の裁きの座に立たされる緊張感を覚えました。開会礼拝において准允式と按手礼式が執り行われました。埼玉地区関係では、大宮教会担任教師に就任される許 昌範(ほう・ちゃんぽむ)先生が准允を受けられました。開会礼拝の後、隠退教師感謝の時があり、初雁教会で40数年伝道牧会された山岡磐先生が感謝を述べられました。今年初めてですが、関東教区で25年以上伝道牧会された先生方への感謝のときがありました(24人)。また、2日目の午後、こちらも今回初めてですが、2009年度に逝去された信徒の逝去者追悼式が執り行われました。佐藤ツルノ姉のお名前も記載されています。教区全体で134人。
 秋の教団総会のため総会議員の選挙が大きな議題です。2回の投票を経て、教師14人、信徒14人が選出されました。多くの議案と報告があり、ナルドの壺献金推進の件など、毎年提案される議案もありますが、今回の教区総会で特に時間をとって取り上げられたものは、議案第12号「日本基督教団罪責告白」に関する件でした。11年かけて取り組まれたことですが、賛成・反対の意見が出され、採決の難しさが感じられました。常置委員会からの継続の提案が受け入れられました。今回の総会ではじめて出された議案は、教団年金に関する件、2011年部落解放センターキャラバンに関する件でした。昨年の教区総会で常置委員会付託となった議案「聖餐式の正しい執行に関する件」を巡っての議員議案がこの総会で提出され、意見が交わされましたが、審議未了廃案となりました。聖餐を巡っての事柄が教団・教区・教会の課題であることが浮き彫りにされました。(No.313)


2010年 5月 23日

わたしの聖霊体験

 本日は聖霊降臨日。ペンテコステ礼拝をささげます。この言葉の由来はユダヤ教の三大祭の一つ「五旬祭」です。これをギリシア語で「ペンテコステ」というのです。
 復活した主イエスが天に引き上げられる前に弟子たちに約束が与えられました。
 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(使徒1・8)
 そのとおり、五旬祭の日弟子たちが一つになって祈っているところに、聖霊が降り、弟子たちを通して力強い神の業が始まりました(使徒2章)。
 イスラエルから見れば地の果てといえる日本にまで福音が宣べ伝えられ、教会が立てられました。主イエスが再びおいでになるときまで、この約束は果たされていきます。
 聖霊を信じるとは聖書に記されている聖霊のお働きを信仰によって受けとめることです。しかしわたし自身がそう言えるまで、時が必要でした。
 わたしがはっきりと洗礼を受けると決断ができたのは、中学3年の夏のキャンプの夜の説教のときでした。主イエスの十字架の救いが自分のためであると確信できたのです。でも、そのときは聖霊のお働きに目が開かれていませんでした。
 今から十年以上前、まだ会社務めの頃、夜の祈祷会の学びの中で、コリントの信徒への手紙一12章3節の御言葉「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」を、素直に受けとめたことを覚えています。「ああ、そうだったのか。聖霊のお働きによって、わたしはイエスさまが救い主と信じることができたのだ」と。さらに、聖霊がわたしを住まいとなさるという事実を驚きつつ、信じたことを覚えています。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり・・・」(同6・19) このようにして、神はわたしたちと共にいてくださる。今日新しくその賜物を受け取ります。(No.312)


2010年 5月 16日

墓前礼拝に思う

 今日の午後は、西川口教会の墓地である春日部墓苑にて墓前礼拝をささげます。春日部墓苑は、同じ埼玉地区にある日本基督教団春日部教会が運営管理している春日部聖地霊園内にあります。現在は30人の方のご遺骨が納められています。
 2年前の2008年5月に、墓地の改築工事が始まり、同年9月に完成感謝墓前礼拝をささげました。墓地の工事は完了しましたが、その時点で工事費用は満たされていませんでした。しかし着実に献金がささげられ、2009年度末には工事費用が満たされたことも感謝でした。利用者のご遺族の方々も献金をささげてくださいました。墓前礼拝の案内と共に献金の報告もしました。こうして教会の業としての墓地改築が全うできたのは(今後も手入れは必要ですが)、主の恵みによることです。ただ主に、栄光をおかえしします。
 天に召された母のことを先週の週報短文で書きました。突然の母の召天で、葬儀やお墓のことなど何の備えもしていなかった我が家でしたから、教会員の家族も利用できる春日部墓苑があったことは本当に有難かったです。
 主イエス・キリストの死は、世の人の誰も経験することがない罪人としての死、神に見捨てられた死でした。そして極刑であった十字架の死でした。主イエスはご自分のお墓は用意なさいませんでした。福音書にはアリマタヤのヨセフが、主イエスのご遺体の引取りをローマ総督ピラトに願い出て、許しを得、主イエスのお体を自分の墓に葬ったという出来事が記されています。ヨセフによって主イエスの墓が備えられたのでした。主イエスは葬られたお方となってくださいました。そして三日目に、重い墓石は封印されたにもかかわらず脇にころがされ、主イエスはよみがえり、墓は空になりました。
 春日部墓苑も空になる日が来ます。葬られた兄姉が、そしてこれから葬られる者たちも、主と同じ栄光の体を与えられる復活の朝が来る。その希望を今日新たに受け取ります。(No.311)


2010年 5月 9日

母の日に思う

 今日は母の日。わたしは14年前に天に召された母のことを今でもよく思い出します。今は日々、高齢の父の世話をしながら暮らしています。
 両親と自分との関係を見つめなおす助けとなった、カトリック司祭ヘンリ・ナウエンの著書「いま、ここに生きる 生活の中の霊性」より「第9章 家族」のところを紹介したいと思います。
 ナウエンはずっと「わたしの名のために父、母、兄弟、姉妹を捨てよ」というイエスの言葉を、まったく文字どおりに受け取ってきた、と語ります。家を出て結婚する、修道院に入る、伝道者になって遠い国に赴くというように。しかし年を経るにつれ、この「捨てる」という言葉により深い意味を見出すようになったと言います。彼は、家族や故郷を離れて二〇年以上もたつのに、自分が父や母の期待に答えようと、選択の多くが家族を喜ばせたいという心の奥深い願いからきていることに気づき、ショックを受けたと率直に書いています。気持ちの上で両親に縛りつけられている自分に気づいたのです。また、自分だけではなく、友人の中にも、大人になっても両親から受けた拒絶の経験に苦しんでいたり、才能を認めてほしいと切に願っていたり、自分の不運のため両親を責めている人がいることに気づきました。
 それを読みながら、わたしにも両親を責め、自分自身をみじめに感じていた葛藤がありましたから、自分のことが書いてある、と思いました。
 イエスは、使命に完全に従うことを妨げるものから私たちを自由にしたい、と願っておられます。その自由に向かうために、父、母から離れ、イエスに従っていくことが求められているのです。
 ナウエンは、そのために大切な二つの道は、赦すことと感謝することだと語ります。
“神だけが、私たちが本当に必要とし、また求めているとおりの愛をもって愛してくださる父であり、母であるお方です。この信仰をしっかりと保つなら、わたしたちは自由とされ、両親を赦せるように・・・なります。”(No.310)


2010年 5月 2日

第38回関東こころの友伝道講習会

 先週の4月29日(木・祝日)、東京聖書学校吉川教会で、第38回関東こころの友伝道講習会が開催されました。約100人の参加者で、西川口教会から9人の兄姉が参加できました。
 昨年はキッズクラス春の遠足があり、二年ぶりの講習会参加でしたが、改めて、こころの友関東講習会はまことに恵み豊かな集いなのだと、しみじみ思いました。当日は風も強かった日でしたが、人間的な思いをも吹き飛ばすような、力強い聖霊の風を感じさせられる集いでした。何よりも伝道に集中して、説教や講演が語られます。聴く方も、「何とかして福音を届けたい」という伝道の意欲があります。喜んで「主よ、用いてください」という信仰の心意気とでもいえるような雰囲気で満ちておりました。
 講師の唐渡 弘先生(日本イエス・キリスト教団高松田村町教会牧師)の2回の講演、開会礼拝の横山義孝先生(日本基督教団東京新生教会牧師)の説教、献身の時の池原三善先生(基督兄弟団境キリスト教会牧師)の説教、そして半世紀またそれ以上にひたすら伝道し、「まだまだこれからも伝道する」という先生方の存在そのものから、強く迫るものがありました。主によって、聖霊を受けてここから遣わされていくのだとの新たな恵みをいただき、また、先生方の若々しさと、内から輝いているお顔にも励まされました。
 関東講習会は、だいぶ前は1泊2日の集会でしたが、数年前から各教会を会場として日帰りの集会になりました。移動に時間がかかることもありますが、教会をお訪ねできること、おいでいただくことは大きな意味があります。この街で、この地域に、教会が建てられ、伝道しているのだと知らされます。日帰りならば参加できる人も多いでしょう。昼食と交わりの分団では、横浜の教会から来られた80代半ばのご夫妻とご一緒できました。「生涯現役でこころの友伝道の奉仕をいたします」との自己紹介に、心打たれました。(No.309)


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