週報短文
バックナンバー 2010年 6月分
2010年 6月 27日
盛岡説教者トレーニングセミナー
今月14日から17日まで、盛岡説教者トレーニングセミナーに参加しました。会場は、盛岡市内のシャルトル聖パウロ修道女会の黙想の家でした。こぎれいでさっぱりしたすてきなところでした。自然と祈りに向かわせられる聖堂はすばらしく、カトリック教会の力を感じました。
セミナー参加者は、講師の加藤常昭先生を入れて24人。関東や中部、関西からの参加者もありましたが、東北の教会の牧師たちの参加が多かったです。日本基督教団の牧師が17人で多かったです。東北教区や奥羽教区の様子、それぞれの伝道牧会している教会や地域のことを聞かせてもらいました。同じような悩みがあること、一方地域性の違いなど感じました。説教セミナーでは、自分の教会ばかりではなく、日本の伝道を考える機会でもあり、同労の牧師たちと出会い、励ましあい、祈りあえる交わりでもあります。
今回の聖書箇所はルカによる福音書第15章11節から32節です。「放蕩息子のたとえ」としてご存知の方も多いところです。伝道礼拝説教を作ります。事前に説教黙想の資料が届けられ、共同の黙想を行いました。
福音書にでてくるたとえ話について気をつけるべきことは、「たとえ話を、どういう意図で主イエスが語られたのか」ということです。主イエスの意図から逸脱してはならない。そのことを踏まえながら、いろいろな説教黙想と対話しました。このような共同の黙想と討論の中でも、自分が御言葉にどう向き合い、どう聴いているのか問われます。キリストを紹介する説教、キリストの恵みが現れてくる説教が求められます。
3日目より説教演習と批評です。8つの説教を聞きました。欠けを指摘するだけではなく、その説教がもっと活かされるための改善提案をするように、と求められます。本当に難しいことです。説教批評は何よりも愛の言葉であると。愛の訓練がもっともっと必要です。(No.317)
2010年 6月 20日
主日礼拝について
先月の5月30日の全体懇談会は20人の出席で、礼拝について意見交換を行いました。懇談会の前に礼拝教育部から資料が配布されました。懇談会に出席できなかった方も多くありましたが、資料には目を通してくださったことと思います。全体懇談会ではほぼ全員が発言して、意見が出されました。
6月6日の定例役員会で、全体懇談会の意見を受けて礼拝について協議しました。すぐ対応できること、時間をかけていく必要があること、互いに確認することなど語り合いました。そして、7月の主日礼拝から、礼拝のプログラムを2点につき変更することに決めました。礼拝教育部から資料を配り、月報にも載せることにしましたが、周知徹底のため、この週報短文でもお伝えしておきます。重複をお許し願います。
ひとつは、一般礼拝で毎週告白していた日本基督教団信仰告白ですが、毎週ではなく、聖餐式のある主日(第一主日、イースター・ペンテコステ・クリスマス礼拝)に告白することとします。他の主日礼拝では使徒信条のみを唱えます。もうひとつ。報告は礼拝の中ではなく、礼拝終了後に行うこととします。この二つを7月4日の主日礼拝から変更します。ですから、賛美礼拝では、報告に関してのみの変更となります。
説教に先立って信仰告白するということは、自分たちの信仰を言い表し、それに基づいて神の言葉が語られ、神の言葉を聴くという考え方によります。このたびの変更では、特に聖餐を祝う礼拝において、西川口教会が合同教会である日本基督教団に属する教会であることを覚えたいと願います。また報告については、礼拝の流れを大切にしたいと考え、変更することにしました。
礼拝は、神のお働きになるところです。神の招きがなければ、礼拝は成り立ちません。同時に、人の行為でもある礼拝です。礼拝にふさわしいかたちとこころを祈り求めつつ、忍耐強く取り組みを続けてまいりましょう。(No.316)
2010年 6月 13日
足ることを知る
来週20日の午後のグループ例会はマリア会と交励会と合同で行います。マリア会からの依頼により、合同例会で3月のイスラエル旅の報告をさせていただきます。旅の恵みを分かち合える機会が与えられてうれしく感謝です。先週は、KM姉のご労苦により、旅の文集も作成、配布されました。参加者の声を興味深く読みました。
イスラエルの旅では、最初に南のユダの荒れ野に連れて行ってもらいましたが、日本では見られない光景に強烈な印象を与えられました。
今年の4月から、祈祷会と昼間祈祷会ではヘブライ人への手紙を読み始め、先週は3章を読み終えました。荒れ野について触れられておりました。
“だから、聖霊がこう言われるとおりです。
「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。
荒れ野であなたたちの先祖は わたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。・・・”(ヘブライ3・7〜10)
昔イスラエルの民は、主なる神によってエジプトの奴隷状態から救い出され、約束の地カナンに向けて荒れ野を旅しました。出エジプトの出来事です。しかし、約束の地を目前にしながら、不信仰のため、神によって、四十年間、すなわち一世代が過ぎ去るまで旅をすることになりました。ヘブライ人への手紙は、そのような不信仰に陥ってはならないと教会を励ましています。
旅行に同行解説された安田眞先生が教えてくださいました。イスラエルの荒れ野は荒涼としたところのようですが、実は大変肥沃なところであるのです。しかし、足らないものが一つあります。それが水です。荒れ野は「砂漠」ではなくて「沙漠」なのですと語られました。荒れ野の生活は人々に困難を強いるようですが、そこには豊かさがあるのです。足りないことへの不平不満ではないのです。足ることを知る生活です。信仰には荒れ野を肥沃な地に変える力があります。(No.315)
2010年 6月 6日
御言葉が開かれると
2008年6月から、早天祈祷会を火曜日から土曜日までの午前6時半から7時15分までといたしました。時々、体調がよくないときはお休みすることがありますが、一日、また一日と続けて2年たちました。主の守りを感謝します。
ある方から「わたしもその時間に祈っています」と励ましていただいたことがあります。もっと早い時間にご自宅で祈りをささげている方もおられます。早天祈祷会の時間帯では、通学または通勤などの準備や移動があるでしょうし、家族のために働いている方もあるでしょう。
祈りの大切なこと、必要なことを否定する人はないでしょうが、祈りの習慣を身につけること、聖書を読み続けることはまた別で、容易ではないことです。それでもどうして続けることができたかを考えてみると、御言葉をとおして神を知る喜びがあるからなのです。そして、とにかく「わたしが」、「今日」、「する」ことです。習慣になってしまえば、体が動き始めます。
わたしの場合ですが、特に御言葉を「書く」ことが大いに助けになっています。わたしは相変わらず朝起きるのが苦手です。目が覚めても、しばらくボーっとしています。情けないことに、聖書日課で与えられた箇所を黙読するだけでは御言葉が心に響いてこないのです。うわべだけ、文字だけ目で追っています。でも、声に出して聖書を読み、御言葉を書き写すことによって理解できるようになってきます。そうすると、その箇所の前後の文脈もつかめるようになり、御言葉が伝えようとしていることが少しずつわかってきます。また自分の中に問いがわき、御言葉が問いかけます。こうして御言葉に触れ、御言葉に触れられる交わりとなってくると、祈りは、主と共に過ごす喜ばしいひとときになります。どうか主が、皆様の祈りを助けてくださいますように。
御言葉が開かれると光が射し出で
無知な者にも理解を与えます。(詩編 119・130)(No.314)