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週報短文

バックナンバー 2010年 8月分


2010年 8月 29日

心に刻む聖句

 本日午後は臨時教会総会で、教会規則制定に関しての審議をいたします。また、総会後は全体懇談会を行います。それぞれの集いに聖霊の導きを祈り求めます。
 信仰生活の中で聖書の御言葉が心に刻まれて、折々に思い起こされることですが、教会規則についての取り組みにおいては、使徒パウロの言葉を思い、たびたび心に言い聞かせていました。
 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。(フィリピ3・16)
 わたしたちの歩みは、まだ到達していないところから進むのではなくて、到達したところに基づくばかりなのです。当たり前のことなのですが、心配や焦りが過ぎると当たり前のことを見失ってしまいます。御言葉によって、そこまで導かれたのも、神の支えがあってこそ、と立ち帰ります。一歩一歩到達したところから歩みます。
 もう一つの聖句ですけれど、これはご存知の方も多いかと思います。
 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。(ルカ17・9、10)
 主に従って生きる心がまえを教えてくれる御言葉です。すべての人はやがて父なる神の御前に立ち、自分のしてきたことの一切を報告しなければなりません。そこで何と言ったらよいか、言うべき言葉を、イエスがあらかじめ授けてくださいました。「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」。命じられたことを果たすことができたなら、それもまた恵みでしかない。思い上がることなく、感謝と喜びをもって、主イエスが弟子たちに口移しで教えてくださった言葉を唱えます。何よりも、主イエスが先立ってこの言葉を父なる神に言われたはずです。わたしたちも主イエスの後に続きます。(No.326)

2010年 8月 22日

第57回こころの友伝道全国大会

 先週は第57回こころの友伝道神戸全国大会に5人の兄姉と参加しました。主題は「主を求めて、生きよ(アモス5・4)」、特別講演の講師は関西学院大学名誉教授の城崎進(じょうざき・すすむ)先生、会場は神戸市立国民宿舎シーパル須磨、参加者は全国の42教会より98人でした。久しぶりの関西地域の開催で、地元の諸教会からの方が多かったです。いろいろな方々との出会いと交わりに励まされて帰ってきました。
 特別講演の講師の城崎先生は、第1講演では「私の出会った人々」と題して、ご自身の歩みを語ってくださいました。城崎先生は1924年生まれ、86歳。お座りになってですが、1時間程の講演を2回なさいました。「遺言と思ってきいてください」と語られ、襟を正す思いで聞きました。特に心に残ったのはどのようにして先生が信仰に導かれたかという証でした。城崎先生は、旧制中学校時代は学業劣等、品行不良、居ないほうがよい生徒、教師は敵、だったそうです。そして関西学院大学に入学された昭和17年頃はドイツ語の授業の教材はヒトラーの演説とのことでした。教室では語れなかったけれども、大学予科教師の先生方が、自分たち学生に、自由の大切さを熱く語ってくれました。教師たちが、本当に大切なことを、存在をかけて語ってくれた。そうさせるものは何であるのか。そして求道が始まりました。城崎先生は1944年4月に洗礼を受けておられます。その時代に洗礼を受けるとは命をかけ、死を覚悟してということと思います。出会いによって人生が変えられる、人格を通して福音が届けられるのだと思いました。
 第2講演は「肉となった神の言」として、先生のご専門の旧約聖書の研究から語られました。教会の正典としての旧約聖書とは何であるか。神の救いの手口の証言、神との出会いの書、人間とその世界の自己理解の書、主のしもべイエスの証言である。説き明かしを興味深く聞きました。(No.325)

2010年 8月 15日

信仰は生きているか

 先週8日の午後の平和学習会では、遠藤富寿先生(日本基督教団隠退教師・元埼大通り教会牧師)をお迎えして「あなたの信仰は生きていますか」との講演をいただきました。
 はじめに、旧約聖書ミカ書第4章1節から3節が朗読されました。この3節の後半部分が、国連の石碑に刻まれています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」
 先の大戦では多大な犠牲を出し、戦後日本国憲法、「平和憲法」が制定されました。遠藤先生が資料を用意くださり、憲法前文、さらに、第99条、第96条、第9条を朗読しました。憲法があるから国の権力を縛っている現実もあります。
 教会における平和活動とはどういうものなのか、聖書の御言葉によって語られました。マタイ福音書第5章9節「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」 イエス様は身をもって平和を実現なさった。身をもってなさりながら、十字架につけられて殺された方です。平和を実現するとは、そのくらい厳しいこと。しかし、そのイエス様に従っていくのは幸いであり、その人たちは神の子と呼ばれるのです。そのことを厳しく言ったのが、ヤコブの手紙です。第2章14節から20節まで。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」(17節) 「神を愛している」と言えても、「隣人を愛しています」とはなかなか言えない。見えるからです。しかし行動を伴わない心の決意とは何だろうか。わたしたちは、信仰の二元論に陥っていないだろうか。「温まりなさい、おなかいっぱい食べなさい」と言いながら、自分は指一本動かさないなら、それはイエス様がいちばん嫌ったことではないか。すべての人が神に愛されているかけがえのない命であり、人間らしく生きる権利を持っています。
 平和問題を考えるための年表資料や他の資料もいただきました。関心を持ち続けます。(No.324)

2010年 8月 8日

平和への祈りを

 先週の6日は広島の原爆の日。昨年アメリカのオバマ大統領はで核兵器のない世界の実現を訴えました(プラハ宣言)。原子爆弾を投下した自国の「道義的責任」に触れました。今年はこの日の広島の平和記念式に、アメリカの大使、また核保有国であるイギリス・フランスからの代表が初参列、国連事務総長も初参列したと伝えられました。
 今年は、日本が韓国を併合し朝鮮半島を植民地化した「韓国併合」から100年にあたります。日本の植民地政策がどのようなものであったか、特別番組も放映されていました。
 過去の過ちに目を向けて真摯に振りかえり、核兵器のない世界、すべてのいのちが安心して生きることができる世界が実現するよう祈ります。
 ご存知の方もあるかと思いますが、「平和を求める祈り」を紹介します。

平和を求める祈り
神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
いさかいのあるところにゆるしを、
分裂のあるところに一致を、
疑惑のあるところに信仰を、
誤っているところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように。
わたしたちは、与えるから受け、ゆるすからからゆるされ、
自分を捨てて死に、
永遠のいのちをいただくのですから。(No.323)


2010年 8月 1日

神の祝福

 先週の27日の火曜会では、5月・6月・7月生まれのメンバーの誕生会をしました。バースデイカードにお祝いの言葉を皆で寄せ書きして渡します。誕生日を喜び祝うのは、とても大切なことだと思います。いのちを与え、守ってくださる神への感謝であり、存在の尊さを思い起こす時です。祈りの栞には、現住陪餐会員の誕生日を覚えて祈りを合わせています。誕生日に届くようにバースデイカードを送る伝道牧会部の奉仕は、教会にふさわしく尊いことと感謝しています。
 さて、誕生会でしたので、火曜会では神の祝福についてショートメッセージをしようと導かれました。そうしましたら、祈祷会・昼間祈祷会で学んでいるヘブライ人への手紙でも、先週は、アブラハムが祭司メルキゼデクを通して神に祝福された、という箇所にあたりました。わたし自身が神の祝福をよくわきまえるようにと、主に促されたように思いました。
 民数記の「アロンの祝福」と呼ばれている御言葉を皆様にも紹介しましょう。礼拝の祝福に用いられている場合もあります。
 主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
 主が御顔を向けてあなたを照らし
   あなたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたに向けて
   あなたに平安を賜るように。(民数記6・24〜26)

 祝福とはもともと、そこだけ切り分けて聖別するという意味があります。そこだけは他の部分と違うということです。人間の目から見て、疑問に思えるようでも、神の目からみればよしとされていることがあるのが、神の祝福です。
 教会は祝福されている存在です。キリストによって神の祝福を受けているからです。教会は祝福を告げることができる存在です。8月は特に平和を思い、祈り求める時ですが、侮辱されてもかえって祝福を祈る(ペトロ一3・9)人々こそ、平和を生み出すことができるでしょう。(No.322)