週報短文
バックナンバー 2010年 12月分
2010年 12月 26日
祈りは聞かれている
主の年2010年がもうすぐ終わろうとしています。覚えておられる方があるでしょうか。この年は、年頭の1月3日に、日本キリスト教団出版局の月刊誌「信徒の友」の聖書日課「日ごとの糧」にある、「この教会のために」で、西川口教会を祈りに覚えていただきました。「信徒の友」の大半の読者である日本基督教団の諸教会や信徒の方々に、またそれ以外の読者の方々にも、西川口教会のために祈っていただきました。たくさんのお便りが届き、大いに励まされました。
そのとき提出した祈りの課題は、次のとおりでした。「教会規則の制定、宗教法人規則の改定に向けて取り組んでいます。この取り組みが宣教のために用いられるように。新年度体制への導きを祈り求めています。」これは1年前、2009年の秋に書いたものでした。
規則に関しては一応区切りがつきました。宗教法人規則変更、教会規則の制定が、教会総会の議決を経て、手続きの完了を見ました。本日の臨時総会では、制定された教会規則に基づいて、二つの規程案を協議しようとしています。西川口教会は会議制で運営を行っています。その運営のために用いられる教会規則と規程です。
2010年度、担任教師一人体制となり、9ヶ月が過ぎました。今までどおり、いいえ、さらに互いに重荷を担い合いながら歩んできた日々であったと感じています。ある方は喜んで、ある方はじっと黙って、定められた重荷を担ってくださっています。重荷を担う幸いを知りました。
幸いといえば、牧師であることの幸いは、自分が祈るより、祈っていただく祈りの方がはるかに多いということです。とりなしの祈りに、主は耳を傾け、伝道の実を結ばせてくださっています。主イエスの約束を握って、今日も、これからも祈り続けます。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。」(ヨハネ16・23)
ただ主にのみ栄光がありますように!(No.342)
2010年 12月 19日
洗礼とは
本日のクリスマス礼拝で洗礼式を行います。教会にとって大きな喜びです。
洗礼とは、主イエス・キリストの救いが、わたし自身の現実となるために、主ご自身が定めてくださった救いの道です。これによって、わたしが真実に主の救いにあずかることができます。
主イエスは洗礼を行うことをお命じになりました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・なさい」。(マタイ28・19)
主イエスは、洗礼者ヨハネのもとで、罪人の先頭に立つようにして洗礼を受けられました。旧来の洗礼の儀式を用いながら、これに新しい意味と力とを与えてくださいました。本来洗礼は全身を水に没するものです。水に全身を浸して隠れ、そこから再び姿を現すように、受洗者は、キリストと共に罪に死に、キリストの復活のいのちを与えられて新しい存在として生まれ変わります。今日の洗礼式もそのことをかたどって行われます。水が使われるのは、水に霊的な力があるのではなくて、身体の汚れを水が清めるように、聖霊が働いてわたしの全存在を罪から洗い清めて聖なる者としてくださることを示すしるしです。
主を信じ、主に救い出していただかなければならなかったほどのわたしの罪を認め、悔い改め、主の祝福を確信したとき、教会によって洗礼が与えられることを教会に願い出ます。教会を代表する役員会に、自分の信仰が福音の真理を正しく受け入れていることを承認していただきます。そして、公の礼拝において、自分の信仰を言い表し、教会がたてた牧師が、父・子・聖霊の三位一体の神の名によって、わたしに水を注ぎます。洗礼を受けたわたしは、それによって、主の生きた体である教会の交わりに加えられ、主の体である教会を造るものとなります。洗礼を受けたわたしは、主の恵みのもう一つのしるしであり、明確な信仰の告白をもってあずかるべき聖餐を受ける資格も与えられます。(参考 雪ノ下カテキズム)(No.341)
2010年 12月 12日
主を賛美するために民は創造された
2011年の御言葉を、表題の御言葉(詩編102編19節)に決めました。主日礼拝では来年もマルコ福音書を続けます。主日礼拝に集まり、主日礼拝から世へと派遣されるわたしたちの唇に、神への賛美が満ち溢れる年であるように。
「西川口だより特別号」と称して、特別集会の記録を小冊子で発行してきました。それらを時々読み返して、恵みを新たにしています。加藤常昭先生の特別礼拝説教も忘れがたいもので、励ましを受けます。そこには、人が賛美する存在へと変えられる喜びが語られています。
“・・・洗礼を受けると自分がどうなるのか。いろいろな答え方があると思います。・・・その中で最も単純なひとつの答えは「歌を覚える」。新しい歌を覚える。・・・信仰を持つと讃美歌という歌を歌うようになる。・・・一生の愛唱歌として生きるようになることが信仰に生きるということです。
鎌倉の教会におりましたときに、鎌倉の教会員は自分がもっとも愛している賛美歌は何かということを教会に届けております。お葬式のときに歌ってもらうためなのです。「わたしがぜひお葬式に歌ってほしい、いつも歌っている賛美歌はこれです」といって届ける。・・・おかしな言い方かもしれませんけれども、私はその愛唱歌が並んでいる表を見ながら、心の中でいつも喜びを感じます。
歌を歌うというのは悲しいときにも歌います。喜びに溢れた時にも歌います。歌というのは昔から、信仰の世界に、当然のごとく、いつでも根をおろしていました。・・・
「あなたによって、神さま、あなたはわたしに勇気を与えてくださった」。これは死に勝つ勇気です。死ぬときにも賛美歌を歌える勇気です。主イエス・キリストの神を知り、主イエス・キリストのお体になった人間は、広い道を、いつも見ているのです。広い道が自分の歩く道です。・・・生きておられる神の中に全存在を置くということです。それを喜びとするということです。・・・”(No.340)
2010年 12月 5日
クリスマスを前に
今年も12月に入りました。
先週の大掃除はご苦労様でした。会堂がきれいになりました。アドベントの飾りつけも、玄関前のイルミネーションもとてもすてきです。こうして、主のご降誕のお祝い・クリスマスを前に、備えの期間であるアドベントを過ごしています。
先週、インターネットのキリスト教放送番組に先輩の牧師が出るというので、その番組をみました。日本で伝道することは、日本の教会が常に抱えている課題ですが、その番組の中で先生が、「日本人がキリスト教会に行ってみようと思うときは2回あって、それはクリスマスと結婚式です」とおっしゃいました。その教会(都心にありますが)では、10年ほど前に会堂を新築してから、クリスマスイブ礼拝には、普段の礼拝の4倍近い人が来るようになったとのことです。また結婚式の依頼も増えたそうです。そういうことから、「普段教会に行くことがない人々がせっかく教会に足を運んで来てくれるのだから、その出会いを大切にして、迎えたい」と語っておられました。番組の主旨は本の紹介で、教会でする結婚式と結婚について、聖書に基づいて知ってほしいことを書いた本のことでしたが、そこで語られた問題意識については共感することばかりでした。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。(ヨハネ3・16、17)
この良き知らせを告げるように集められているわたしたち(教会)です。
今週7日の県南四市クリスマスの夕べ(川口リリア音楽ホール)から、教会のクリスマス諸集会が始まります。12日のゴスペル夕拝があります。19日はクリスマス合同礼拝です。24日はイブ礼拝のキャンドルサービスです。神と人との出会いを大切にして、クリスマスを祝いましょう。 (No.339)