週報短文
バックナンバー 2011年 2月分
2011年 2月 27日
アシュラムとは
第35回西川口教会アシュラムが、26日土曜日午後から始まりました。アシュラム(クリスチャンアシュラム)はどんな集会でしょう。アシュラムの指針から紹介いたします。
教会アシュラムでは、主イエスが指導者です。その主イエスのもとへ、わたしたちは集まってきています。そして、主イエスと共に、「アバ、父よ」と呼んで、父なる神と交わりを持ちます。
「あなたがたは・・・神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです」(ローマ 8・15)。
父なる神は、わたしたちにも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)と語られます。その声を聞かせていただきます。
「アシュラム」は、「ア」と「シュラム」からなる言葉で、「ア」とは「全然〜がない」と「非常に〜がある」という意味です。「シュラム」は「労働」という意味です。ですからアシュラムとは、「全く、この世的な労働から退いて」「非常に霊的な労働をする」ことです。それは、「肉の思いを離れて」、代わりに「霊の思いを受ける」ことです。主イエスの語られた御言葉のとおりです。
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。(ヨハネ6・63)
アシュラムでは、毎朝、御言葉に聴く生活習慣を養います。この祈りのときを、密室の祈り、ディボーション、あるいは、アシュラムセンターの運動では、どんなときにも祈りの火を絶やさないレビ族になぞらえて「レビの時」と呼んでいます(レビ6・5)。お互いを覚え、祈り続けます。
アシュラム集会は、「唯一の指導者活けるキリストが、聖書を通して、わたしに語られる御声を静聴し、その恵みを分かち合う」のです。
このようにして、「主イエスが、わたしたちをいっそう、キリストの体である教会に根ざし、教会にあって育ち、教会を愛し、教会に仕える者としてくださいますように」と祈ります。 (No.351)
2011年 2月 20日
わたしの涙を蓄えてください
「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。
あなたの記録に
それが載っているではありませんか。
あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」(詩編56・9)
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。」 (イザヤ53・3 口語訳)
「悲しむ人々は、幸いである、
その人たちは慰められる。」 (マタイ 5・4)
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 (ヨハネ黙示録21・3-4)
少し前に、深い悲しみ中にある方のお話を聞いているとき、問いかけられました。「この悲しみは無くなるでしょうか」。わたしは答えました。「悲しみは無くならないと思います。和らぐことはあるでしょうけど、死ぬまで抱えていて、それで良いと思っています」。
涙を流してよい、悲しみを抱えたままで主のもとに行けると信じ、そうしています。詩編の御言葉から、主なる神は、わたしたちが流す涙を蓄えてくださる方であることを知ります。主なる神の前で安心して涙を流せるのです。イザヤ書53章は主イエスを預言しているとの教会の信仰があります。主イエスは悲しみも病をもご存知ですから、癌も、うつも、ご存知であられるはずです。病に苦しみ、悲しむ人々をその御腕の中に迎え入れてくださる。主イエスは、神に見捨てられる裁きさえ引き受けられた方です。わたしたちが決して知り得ない十字架の苦難と死を通られた方です。主イエスは死に打ち勝たれた方。共におられ、内に住んでくださいます。そしてわたしたち教会は、ついに神が涙をぬぐってくれる時、悲しみも嘆きも過ぎ去る時を、待ち望んでいます。 (No.350)
2011年 2月 13日
誰も奪うことができない自由
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ10・28)
2月11日に、大宮教会で開催された、埼玉地区社会委員会主催の「信教の自由と平和を求める2・11集会」に出席しました。講師は平山武秀先生でした。講演題は「『信教の自由』をとらえ直す」でした。平山武秀先生は、日本基督教団教師で、日本聖書協会・評議員会議長、日本宗教者平和会議代表委員とのことでした。わたしは平山先生にお会いするのも、お話を伺うのも初めてでした。レジメに添って、信教の自由とは何であるか、信教の自由を妨げるものは何であるか、信教の自由が確立された社会とはどのようなものであるか、信仰の自由と信教の自由との相関関係について語ってくださいました。
初めに、信教の自由と、信仰の自由との関わりについて述べられました。信仰は各自の心の内面の問題であって、それは基本的に自由であって、これが「信教の自由」の出発点となる。冒頭のキリストの御言葉のとおり、何人といえども魂の自由を犯すことができないし、この自由をわたしたちは神によって既に持っている。誰もこの自由を奪うことができない。だから、信教の自由の確立のための戦いは明るい戦いなのであって、内なる自由から外なる自由への戦いである、これが出発点である。平山先生が、明るく言い放ってくださいました。深く共感しました。
その信仰からくる自由は、日々の生活に形を持ってあらわれてくる、それが信仰生活(キリスト教会の場合であれば、礼拝と伝道)です。その生活が妨げられずに送ることができる。それが、信教の自由が保障されているということです。そしてどの宗教に対しても信教の自由が保障された社会は、人間が尊ばれている社会であり、公正な社会であると語られました。アーメンです。
紙面が尽きました。出席でき、主に感謝です。(No.349)
2011年 2月 6日
教会総会を前に
来週13日の一般礼拝後、役員改選の教会総会を開催します。祈りをもって教会総会に臨みましょう。役員会と教会総会の関わりについて、また役員選挙について、昨年度役員会で用いた「教会役員ハンドブック」(教団出版局)から引用します。
“教会が何かを決める場合、日本基督教団教憲第七条では、「教会総会をもってその最高の政治機関とする」と定められています。ここでの「政治」とは、人間の思惑や利害によって決めることではありません。・・・教会のかしらは主イエス・キリストです。主の御心に従って、神の民である教会を治めることが教会政治です。教会が主に従います。主の御心を会議で聴き取ります。それが教会総会です。教会担任教師と現住陪餐会員が議員となって話し合い、決議します。それを主の御心と信じ、従います。
ただし、いつでも何でも教会総会で決めるわけではありません。・・・時間も限られており、十分に議論を尽くすことができません。個人の状況に踏み込むことがあるかもしれません。そこで、教会総会の選挙で役員が選ばれ(教憲第一〇条の二)、教会担任教師・・・とともに役員会を組織します(教規第一〇〇条)。役員会が、教会総会の決議に従い、実行します。細かいことはここに委ねられ、決められます。教会総会の議案についても、ここで議論を尽くします。教会総会が万能なのではありません。実際には、役員会が重要な役割を担っているのです。”(17.18ページ)
“役員会が目ざすのは、教会が主の御心に従う群れとなるためです。そのためには、役員の選挙が重要です。主が誰を役員として選んでおられるか、その御心を選挙というかたちで聞き取ります。現住陪餐会員である議員ひとりひとりが主の御心を尋ね求め、祈って投票します。選ぶ基準は、社会的地位や教会への貢献度、教会員としての経歴の長さなどではありません。主が誰を役員に召しておられるかです。信仰による判断が求められます。・・・”(26ページ)(No.348)