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週報短文

バックナンバー 2011年 4月分


2011年 4月 24日

復活以上の証拠はない

 キリストのおよみがえりを祝うイースターを迎えました。教会は、今も生きておられるキリストを信じます。そして復活以上の証拠はないことを知ってください。復活を信じてください。
 “・・・復活を信じるのには、いろいろな徴(しるし)がほしいものです。たとえば、墓は空になっていたとか、主イエスの復活した体が見たいとか、あるいは、傷が見たい、これが本当に主イエスなのか、にせ者ではないのか、知りたいとか、あるいは、今日の科学的な常識に、今日の医学的な常識に、あるいは今日の人間としての考えに、ぴったり合うような説明がほしい、徴がほしいと言うのであります。けれども、もし何か証拠がほしいと言うのならば、ほんとうを申しますと復活以上の証拠はないだろう、と思います。・・・ 
 使徒行伝第二十六章をご覧になりますと、パウロがアグリッパ王に対して弁明している演説がありますが、その八節に・・・「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」と言っております。・・・考えてみますと、われわれは、みな、それを信じたいのです。これくらい信じたいことはないでしょう。おそらく、キリスト教を、聞いたことのない人でありましても、もし自分が死んでもなお生きかえることができるということを信じうるならば、どんなにそう信じたいことか分からないと思うでありましょう。それならば、信じたらいいではないですか、とここで、パウロは言うのです。それならば、その約束のあるのをなぜ信じようとしないのだ、と言うのです。復活以上の証拠はないということは、そういうことだ、と思うのです。ただ、われわれは、それなのに、ああでもない、こうでもないと言って、なかなかこれを受け入れようとしないだけなのであります。・・・主イエス・キリストは、今日も、われわれの魂の扉をたたいて、信じない者にならないで信じる者になりなさい、と・・・言っておられるのであります。”(竹森満佐一 説教「復活U」より)(No.359)

2011年 4月 17日

十字架を背負って

 今年のイースター(復活日)は来週の24日です。復活日から数えて、40日前のレント(受難節)が定められています。その最後の一週間が「受難週」と呼ばれ、本日の主の日は、「棕梠の主日」と呼ばれます。受難節そして受難週は、主のおよみがえりの朝に根ざして定められたことを心に刻みましょう。既に教会に与えられている大きな祝福の恵みの中で、主イエス・キリストの苦難と十字架の死、葬り、そしてよみがえりの朝へと向かっていく出来事を思い起こします。主のまなざしの中で、祈りを深めて日を過ごします。
 2010年の年頭から、主日礼拝ではマルコによる福音書を聖書テキストとして、少しずつ御言葉に耳を傾けてまいりました。わたしにとって昨年の秋頃から、幾度も心に語りかけてくるマルコ福音書の御言葉は、主イエスが弟子たちに語られた言葉でした。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(マルコ8・34)
 「自分の十字架を背負って」が心に迫りました。「どういうことでしょう」と祈りながら、御言葉に聴きながら、待ちました。十字架とは死刑の道具でした。自分が死ぬための道具を背負っていくことだと、わかっていませんでした。黙想の中で目が開かれました。朝の祈りのときに手引きにしている本から、十字架とは、イエスと共にはりつけになることだと教えられました。それは、眠っていることはできない、イエスを一人にして逃げることはできない、イエスを否定することはできない、イエスと離れ離れになることはないことだ、と。十字架の逆説の恵みが示されました。
 使徒パウロは言いました。「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2・19〜20)(No.358)


2011年 4月 10日

救いの御言葉を宣べ伝える

 2011年度が始まり、二度目の主日礼拝です。今日の一般礼拝では、礼拝スタッフ任職式を執り行います。教会の教育であり、伝道の第一線でもあるこの務めを担う兄姉のため、わたしたちも祈り、協力いたしましょう。教会全体で、子供たち中学生・高校生若い人への伝道、信仰の継承の使命を果たしましょう。
 わたしは、約40年前に西川口教会の教会学校に導かれて、今日までつながり続けてきました。幼い頃に聖書に触れ、讃美歌を歌い、説教を聞き、礼拝をささげた体験は、まことに得難い貴重なときでした。礼拝後の分級は学びあり、遊びあり、楽しいときでした。何を教わったかは覚えていませんが、居心地が良かったことは忘れません。母はキリスト者でしたが、子育ての時期は主日礼拝から遠のいていました。わたしの信仰生活は、西川口教会で身につけたものです。
 教会の教育で大切なのは、祈ることができるように導くことです。どんなときにも「父よ!」と神を呼び求める祈りを知っているならば、教会から離れ、迷いや葛藤の中に入ったときでも、(ルカ15章11節以下の放蕩息子のように)教会に帰ることができます。神を呼び求める祈りを始めたら、聖霊がその人を導いてくださいます。
 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマ8・15)
 もう一つは、子供といえども、罪人であり、福音を必要としているということです。ですから、魂の救いのため祈り続けることです。
 この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブ1・21)
 主の助けをいただいて、子供たちのため御言葉を宣べ伝えます。届く言葉を語れますよう祈ってください。子供たちを送り出してください。喜びを持って福音の種蒔きを続けられますように。(No.357)


2011年 4月 3日

選びに答え約束に生きる

 2011年度が始まりました。今日の一般礼拝では、新年度最初の主日に役員任職式を執り行います。教会の日常の働きの運営主体である役員会を構成するのが教会役員と牧師です。役員は責任の重い務めであって、わたしたちは役員のためにとりなし祈り、働きのため協力していきます。
 神に救われるとは、主イエスに選ばれたということです。すべてのキリスト者は主イエスに任命された主の弟子であり、弟子の群れが教会です。
 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。(ヨハネ15・16)
 わたしたちは、洗礼を受け、教会に入会するときに誓約をしました。神が主イエスにあってわたしたちの一切の罪を赦し、救われた恵みに感謝して、神と会衆との前で約束をしました。
問 あなたは聖書に基き、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか。
答 告白します。
問 あなたは主イエス・キリストの救いのしるしである洗礼を受けることを心から願いますか。
答 願います。
問 あなたは今後、主の聖餐を重んじて誠実にこれにあずかり、日本基督教団の教憲・教規に従い、この教会の会員としてふさわしい生活をし、また教会の定めに従って忠実にその責務を果たすことを志しますか。
答 志します。
 教会役員は、教会員として、神の選びに応え、この約束に誠実に生きます。役員は洗礼志願を承認するかどうかという務めを負っていますから、信仰告白に堅く立ち、信仰が自分のものになっていなければなりません。主が、役員の兄姉に聖霊を注ぎ、誓約を果たさせてくださいますように。(No.356)