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週報短文

バックナンバー 2011年 5月分


2011年 5月 29日

第61回関東教区総会報告

 5月25日と26日の2日間、大宮ソニックシティ小ホールにて、第61回関東教区総会が開催されました。
 開会礼拝において3人の先生の准允式が執り行われ、埼玉地区関係では、日野原記念上尾栄光教会主任担任教師に就任される長橋晴子先生が准允を受けられました。2日目の午後には、2010年度に逝去された教師4人と信徒93人の逝去者追悼礼拝が行われました。
 議事を進めながら、教区三役と、宣教部委員長、常置委員の選挙が行われました。教区総会議長には秋山徹牧師(埼玉・上尾合同教会)が新しく選ばれ、副議長は再任で飯塚拓也牧師(茨城・竜ヶ崎教会)、書記は栗原清牧師(埼玉・武蔵豊岡教会)が新しく選ばれました。宣教部委員長は熊江秀一牧師(新潟・新津教会)が新しく選ばれました。
 3月11日に起こった東日本大震災の対応のために、関東教区は、既に関東教区「東日本大震災」被災支援委員会を設置し、活動しています。この大震災への支援は今後時間を要し、継続的な取り組みが必要です。そのために、関東教区「東日本大震災」被災支援委員会設置に関する件(議案第20号)が提案され、可決されました。初日の議事の後、「東日本大震災」に関する報告会が開かれました。他被災教区への支援報告と共に、関東教区の教会と関連団体の被災について、写真つきで報告がありました。使用不可と診断された会堂もあります。会堂の自力再建のきびしい教会もあります。これからそれぞれの教会の決断がなされます。教区内外の必要に、わたしたちも歩みを共にして、献金に励み、支援を続けましょう。
 今回の教区総会で特に時間をとって取り上げられた議案は、昨年の教区総会から継続となった、関東教区「日本基督教団罪責告白」に関する件(議案第18号)でした。さまざまな意見、立場の表明があり、採決の困難がみてとれました。最後に議案の取り扱いについて、議長は議場にはかり、この議案は常置委員会付託となりました。(No.364)


2011年 5月 22日

共に礼拝をささげた人々

 「10年の記念誌」の発行を目指して、教会員と関係の方に寄稿していただきました。もうすぐ原稿を完成させ、印刷所に入稿いたします。もうひと息お祈りをお願いします。さて本日午後、西川口教会墓地である春日部墓苑にて、墓前礼拝をささげます。「10年の記念誌」巻頭言の冒頭に、天に召された兄姉を思いながら文章を書きましたので、その部分を紹介いたします。
 “はじめに、この約10年の間、共に主日礼拝をささげ、地上の生涯を終えた兄姉を覚えたいと思います。この方々がおられなければ、今の西川口教会はありませんでした。
 逝去された順でお名前を挙げます。
 H・T姉、S・A姉、S・M姉、N・H兄、H・S姉、N・H姉、K・M兄、I・M兄、S・R兄、S・I兄、N・T兄、A・Y兄、H・T姉、O・S姉、S・M姉、K・S兄、K・G兄、S・J姉、S・T姉、H・I姉、K・M兄。
 この約10年の間に天に召された方々を思い起こしますと、長年に渡り西川口教会で教会生活を過ごされた兄姉と、地上の生涯の終わりの日々に神に出会い救われた兄姉も多く与えられたと思います。救いのために西川口教会が用いられたことを光栄に思います。死ぬという最後の仕事を果たしつつ、人は限りあるものであり、また、キリストにあるよみがえりの希望を鮮やかに示してくださった兄姉です。その信仰をバトンタッチされているわたしたちです。
 「わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから」(詩編139・16)とあるとおり、人の地上の生涯の始まりも終わりも、神がお決めになりますが、神がよしとされるその日まで、神の御心に従って、残りの生涯を生かしていただけますようにと祈るものです。ご遺族の方々にも、召された兄姉の信仰が受け継がれますことを祈っています。・・・”(No.363)


2011年 5月 15日

関東こころの友伝道講習会に参加して

 5月5日、日本基督教団小松川教会にて、第39回関東こころの友伝道講習会が開かれました(主催・こころの友伝道全国連合会関東支部)。当日は昼間祈祷会をお休みし、教会の兄姉と共に参加しました。当教会から初参加の方もあり、感謝でした。主題は「こころの友になろう―教会の伝道として」(ヨハネ15・16)、講師は、姫井雅夫先生(日本基督教団赤坂教会牧師、総動員伝道)でした。
 姫井雅夫先生の講演一の題は「わたしたちに何ができるか」。冒頭に、姫井先生のリードで、「あなたはわたしのこころの友です」と互いに伝え、5人くらいの人と握手してくださいとのことで、参加者が立ち上がって挨拶して回りました。会場はとたんににぎやかに、和やかな雰囲気になりました。参加者はこころの友になろうと、信仰をもって集まってきたお一人ひとりです。主に結ばれて友と呼べるのだと思いました。
 もうひとつ新鮮であったのは、健康な教会と教会の健康診断というアンケートでした。健康な教会とは、
1、生き生きした礼拝(形式的でなく求道者にも感動的か。霊的感動を与えているか)
2、賜物に基づいた奉仕(会員の賜物を見出し、ふさわしい奉仕の場を提供しているか)
3、霊的喜び(整えられた霊性、熱心な祈り、日常生活のあかしを心がけているか)
4、愛のあふれる交わり(会員同士が時間をすごしているか。悩みを分かち合っているか)
5、機能的な組織(委員会や例会がその務めを果たしているか。組織の改善が必要か)
6、ニーズ志向の伝道(求道者や地域のニーズに的を絞っているか)
 教会批判、牧師・役員批判ではなく、自分を見直すため、前向きに改善できるところを見つけるため、皆で検討する材料にするため、さらに、15の質問がありました。参考にしたいです。(No.362)


2011年 5月 8日

母の日によせて

 本日は母の日です。
 わたしが牧師に導かれたきっかけは母の突然の死であることは、折にふれ皆様にお話させていただいています。連れ合いも、子もいないわたしですから、家族のつながりというと、親やきょうだいの関わりばかりです。母の日に寄せて、今でも母に大いに感謝していることを一つ分かち合わせていただきます。
 それは、手紙を書けるようにしつけられたことです。良い手紙を書くにはまだまだですが、手紙を書くことがそれほど苦にならないことは、伝道牧会の上でも、大きな利益となっています。
 母は手紙のやり取りが好きな人でした。そして、今のように電話、ファックス、メールなどない時代でしたから、手紙が交流の手段でした。手紙でお願いし、安否を問い、お礼を伝え、お知らせする時代でした。
 母は、わたしを含め子供たちに、毎年、クラス担任の先生に年賀状を書くようにさせました。わたしは、恥ずかしく、照れくさく感じ、いやいや書いた思い出があります。けれども、どの先生からも丁寧な年賀状をいただいたので、それは子供のわたしにもうれしいものでした。またわたしたち子供たちが小学生のとき、母は、同じ小学生の新潟に住む女の子をペンフレンドとして見つけて、わたしたちはその子と数年間文通で交流したことがあります。手紙を受け取る楽しみ、書いて送る楽しみを味わいました。
 大人になってようやく、子育ての苦労を想像できるようになりました。手紙を書かせること一つとっても、素直に従わない我が子を励まし、時になだめたりすかしたりして、しつけてくれた母の労苦を思うと、「本当にありがとうございました」と頭を下げたい思いでいっぱいです。
 人が一人育つために、親ばかりではなく、どれほどのたくさんの人々の労苦があることでしょうか。今の自分を育ててくれたつながり、与えられた恵みを思い、神に感謝します。(No.361)

2011年 5月 1日

ヨナ書を読んでいます

 先週は、4月24日の西川口教会の教会総会と、もう一つ4月29日、東日本大震災のために延期になった埼玉地区総会が開催されました。予定されていた議案は承認されました。主の御前に決議した責任を各自が果たし、委ねられている使命を全うできますように。新年度の活動が、祈りを共有して始まりました。
 この国で主に従うこと、この国で福音を宣教するとはどういうことか、考えています。説教の言葉の貧しさを思い、仲間と学び続け、その問いを共有し、聖書に聴きながら、考えています。
 先日の祈祷会は、ヨナ書の第3回目の学びで、第1章の4節以下から共に御言葉に聴きました。物語の生き生きした語りに引き込まれ、興味深く読みました。その学びの中で、ヨナの姿はわたしの姿、もしかしたら日本の教会の姿であるかもしれないとも思わされました。
 アッシリアの都ニネベに行け、という主なる神の命令に逆らって、預言者ヨナは反対方向に行き、タルシシュ行きの船に乗って逃げていきます。その船は神の起こされた嵐に遭います。嵐の中で、異邦の民である乗組員たちは一生懸命自分たちの神に祈り、嵐をしのぐために力を尽くします。一方でヨナは船底でぐっすりと眠っています。ヨナは船長に起こされ、皆の前に引き出され、海と陸とを創造された神、主を畏れる者だと言います。そうは言いながら、自分のしている行動は、語っている言葉を裏切っているのです。いさぎよく神の前に悔い改めることがなかなかできない中途半端なヨナです。ヨナはこのような中途半端のまま海に投げ込まれ、神の御手に落ちることにしました。それがヨナのこの時点での信仰でした。乗組員は仕方なくヨナを嵐の海に投げ出しました。しかし神はヨナを死に渡さず、魚に飲み込ませて生かしてくださいました。神は、どこまでもヨナを愛し、ヨナを追いかけ、聖め、使命に立たせられます。わたしたちもまた神の愛の御手の中に生かされ、立たされています。(No.360)

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