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週報短文

バックナンバー 2011年 6月分


2011年 6月 26日

祈りを合わせて

 今月半ばに参加した盛岡での説教者トレーニングセミナーでは、日本基督教団奥羽教区、東北教区の教会に仕える牧師たちが数名参加して、食事や休憩時間には。東日本大震災のときのことやその後の状況などを聞きました。その言葉は生々しく、重く、尊いものでした。牧師たちが疲れているという声も心に残りました。要請に応えられる体制が求められているでしょうし、教会でなければできない支援を続けること、そのようにして地域に仕えることが必要かと思います。また、被災教会へ訪問してから盛岡のセミナーに来た牧師たちの話も聞き、現地の牧師から「『祈ってもらっていることが大きな力だ』と言われた」との言葉も心に残っています。祈りを合わせるため、教団議長からの祈りの呼びかけをここに転載します。
「全キリスト教会の11246祈りの会の呼びかけ
 東日本巨大地震と津波がもたらした大惨事と、二次災害としての福島第一原子力発電所事故は、地域を不安の中に陥れ、戦後最大の危機として日本社会を脅かしています。
 大津波は1万2千を超える命を呑み込み、なお1万5千名の行方不明者がおり、言語を絶する悲惨に言葉を失っています。
 一つの命にどれほどの愛する者のつながりがあったでしょうか、人のつながりがあったでしょうか。その関係が断ち切られた絶望をどれほどの人が味わっているでしょうか。
 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた十字架の主の声が心に浸みこみます。
 十字架の主に慰めと希望があります。日本の諸教会が心を一つにして、共に熱い祈りを捧げる時をもちたいと強く願っています。
 11246(11日 午後2時46分)、この日とこの時間を覚えて共に祈りましょう。
 2011年4月5日  日本基督教団 総会議長 石橋秀雄」(文中の被災者の数字は、4月5日当時)(No.368)


2011年 6月 19日

献身のしるしとしての献金

 先週はお祈りに支えられ、盛岡での説教者トレーニングセミナーに参加しました。セミナーで学ぶ聖書が、本日の礼拝説教の聖書箇所と重なり、うれしい偶然でした。セミナーでは、マルコによる福音書第12章41節から44節まで、「やもめの献金」と小見出しが着いている箇所です。
 献金のことが話題になり、それぞれの教会で配慮し、工夫していることを知りました。
 ある教会では、教会に来て間もない方からの、「献金はどのくらいすればいいのですか」という質問にどう答えるか話し合って、「できるだけたくさんしてください」と答えるのがよい、という意見にまとまったそうです。それではますます困ってしまうのではないかという参加者の声もあがりましたが、おそらくさらに、献金とは何であるか丁寧に伝えて、理解していただくのでしょう。
 他に、個別の献金袋を用意して、あらかじめそこに献金を入れて、それを礼拝で献げるという方法が紹介されました。新来会者で用意のない人も封筒だけ入れればよいとのことです。わたしは、このやり方が西川口教会でも実現できればよいと思います(同じ話は、地区IT祭りでも、参加者から紹介がありました。個別の献金袋に献金の趣旨が印刷されているとのことで、それもよいと思いました)。多くの兄姉は、月定献金と同様に席上献金も用意しておられるでしょう。また、西川口教会も新来会者の少ない教会ではありません。新来者への配慮の一つとしても検討してはどうでしょう。子供礼拝に送り出されている子供たちを見ても、用意してきている子がほとんどです。保護者の方が用意してくださっています。子供たちがしていることは大人もできるでしょう。
 献金は他人と比べるものでもありませんし、他人と同じにすることでもありません。神に献げるものです。教会は自分たちで献げ、自分たちで運営しています。これからも教会に委ねられた使命を果たすために、喜んで献げます。(No.367)


2011年 6月 12日

聖霊を信じます

 本日は聖霊降臨日(ペンテコステ)です。
 先週の週報短文に、主イエスの昇天の出来事について書きました。主イエスが神の右の座で執り成していてくださる恵みを覚えました。
 天も、神の右の座も、わたしたちの目には見えません。主イエスも目に見えません。わたしたちが教会において、礼拝において、信仰生活において「主イエス・キリストは生きておられる。主は共にいてくださる」と語りますが、それはいったいどういうことなのでしょうか。わたしたちが知る主イエスはどのような存在なのでしょうか。
 それは、霊におけるキリストです。御言葉を通して聖霊が示してくださる主イエス・キリストをわたしたちは信じることができ、知ることができるのです。主イエスが語ってくださった主の臨在の約束をただ信じるのです。
 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイ18・20)
 礼拝において主イエスは聖霊として臨在くださっています。
 キリストの霊、聖霊は教会を神殿として宿ってくださり、洗礼を受けてキリストに結ばれた一人ひとりの体を神殿として宿ってくださいます。ですから、教会は聖なるもの、わたしたち一人ひとり体まで含めた存在が聖なるもの、神のものとされています。だからわたしたちは自分の体も、お互いの体も大切にしましょう。
 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(コリント一6・19)
 聖霊は、イエスを「わが主」と告白させてくださいます。
 また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(コリント一12・3)
 聖なる霊よ、来てください!(No.366)

2011年 6月 5日

主イエスの昇天

 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。(マルコ16・19)
 研修会で聞いたことのあるエピソードです。
 ある教会の長老会で受洗志願者の諮問会がありました。その席で牧師が受洗志願者に質問しました。「主イエスは今どこにおられますか」。受洗志願者は答えました。「神の右に座しておられます」。そうしましたら、牧師が長老たちに向かって「あなたがた、分かりましたかね」と言ったそうです。笑い話です。
 今年の昇天日(主イエスが天に上げられた出来事を記念する日)は先週の6月2日でした。
 わたしたちは主日礼拝ごとに使徒信条を唱えます。主イエスの昇天の出来事「天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、」をも、信仰告白しているのです。わたしたちは、主イエスがどこにおられるか、と思い迷うことはないのです。
 主イエスは、父なる神の右の座で何をしておられるのでしょうか。ローマの信徒への手紙第8章34節にこうあります。
 だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
 何とありがたいことでしょうか。ただ、御言葉を信じるばかりです。
 主イエスは十字架に命をささげる前に弟子たちに告げられました。
 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。・・・その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。(ヨハネ16・7、13)
 こうして、主イエスの十字架の死、葬り、復活、昇天、そして聖霊降臨の出来事に、わたしたちは与かっています。(No.365)


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