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週報短文

バックナンバー 2013年1月


2013年 1月 27日

地区合同教師会に参加して

 1月22日(火)、初雁教会(川越市)を会場として、地区合同教師会が開催されました。参加者は31名でした。初雁教会は一昨年に牧師館新築と会堂リフォーム工事を行い、昨年献堂しました。木のぬくもりのある会堂でした。
 教師会の初めに、初雁教会の町田さとみ牧師の司式・説教による開会礼拝がありました。町田先生は、西川口教会出身で、親しく覚えている先生です。初雁教会に着任されたのが2003年4月ですから、もうすぐ10年になります。
 次いで、「川越の教会の歴史」と題して、山岡磐(やまおか・いわお)牧師(隠退教師・初雁教会協力牧師)より講演がありました。山岡先生は1963年1月に、夫人の幸子師と共に初雁教会に着任されました。2009年3月に隠退されましたが、引き続き初雁教会で奉仕されています。講演の冒頭で「川越に来て、まさにちょうど50年になります」と語られ、一つの教会で半世紀の長きにわたり伝道牧会されたとは、なんと尊いことかと、深く心動かされました。初雁教会は昨年創立80周年を迎えましたが、プロテスタント教会で川越に最初に伝道したのは、日本聖公会とのことです。その次には、1890年に創立された川越教会だそうです。100年を超えるプロテスタント宣教の歴史があります。さて、山岡先生が着任された頃は、まだ今ほど家も人も多くなく、寺町でもあり、ご近所で親しくなっても、信仰の面ではなかなか受け入れてもらえず、忍耐の伝道であったそうです。初雁教会は、多くの献身者を生み出し、坂戸伝道所(現・坂戸いずみ教会)を生み出しました。「苦労のない伝道はない。苦労しながら伝道しよう」との言葉も心に残りました。「福音宣教に徹していくところに出来事が起こる」とも語られました。川越市内の19の教会が協力して開催している「川越市民クリスマス」の話も興味を持って聞きました。「川越の地に、川越市民に福音を宣べ伝える」。そこで一致して続けてきたとのこと。尊い講演を感謝して聞きました。(No.449)


2013年 1月 20日

地区一区新年合同礼拝

 1月14日(月・祝)、岩槻教会を会場として、埼玉地区一区新年合同礼拝が行われました。
 今年は、各区での新年合同礼拝でした。地区一区新年合同礼拝の説教者は、シャロンのばら教会牧師(担任教師)の鈴木一義先生でした。「我もはや生くるにあらず」と題して、ガラテヤの信徒への手紙第2章15節から21節までの御言葉の説教をいただきました。鈴木先生は病との闘いの日日をお過ごしで、この度も、車いすに座ったままで説教されました。鈴木先生が若き日に出会ったのは、「もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」(文語訳、ガラテヤ2・20)の御言葉であったとのことです。「もはやわたしは死んでいる」、はずであるが、「死んだはずのわたし」があったのではないかと、深く問うておられ、会衆にも問いかけられました。「愛を説教しながら本当に愛に生きているか、所有欲が教会をだめにしていないか」と、神学者の言葉も紹介しながら、問いかけられました。鈴木先生は現在77歳、救われて60年、高校を卒業して神学校に入り、牧師となり50数年。ご自身の長い信仰生活、伝道・牧会生活を振り返りながら、今、ここで語っておきたい、という思いが伝わってくる説教でした。
 聖餐式は、東京聖書学校吉川教会の深谷春男牧師が司式されました。地区の新年合同礼拝で共に聖餐にあずかれることは、まことに意義深く喜ばしいことだと思っています。キリストの恵みによって、今年も共に歩む地区の教会です。
 当日は、礼拝の始まる頃から雨がみぞれへ、そして雪となり、ついには大雪になってしまいました。足元の悪い日でしたが、地区一区の20教会より135人の参加者がありました。子供への説教はありませんでしたが、子供たちも参加しており、うれしいことでした。
 礼拝後は、1階のお部屋に移動して、岩槻教会の皆様によって、茶菓のおもてなしをいただき、楽しい交わりのひと時がもたれました。感謝して報告いたします。(No.448)


2013年 1月 13日

「互いに愛し合いなさい」

 今年の西川口教会の御言葉は、ヨハネによる福音書第15章16節より、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」です。最近は教会の御言葉を、覚えやすいように、そして必要があって簡潔にしており、文章が短いのです。暗唱していただくと共に、この御言葉が、聖書においてどのような文脈で語られているかも、心に留めていただきたい。聖書全体から(神の救いの歴史)、そしてヨハネによる福音書全体から、さらに、ヨハネによる福音書における第15章の意味や意義を見つめながら、与えられた御言葉を手掛かりに、思い巡らし、黙想を深めたいと思います。今年の西川口教会アシュラム(2月23日〜24日)でも、この箇所を中心に、共に御言葉に聴くことができるようにと考えています。
 16節の後半から17節はこうです。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」 こうして、主イエスのもとに集められた弟子たちは、互いに愛し合う群れを形成していったのでした。イエスの弟子の共同体である教会が生まれたのでした。
 最近気づかされたのは、主の日の礼拝のただ中で「互いに愛し合いなさい」との主イエスの命令に生かされる、ということです。主の日の礼拝は神を愛する行為です。神をほめたたえ、神の語られる言葉を聴きます。神を愛すると言いながら主日礼拝を軽んじることは矛盾です。ですから礼拝のために祈ります。同時に主日礼拝は、隣人を愛する行為でもあります。共に心を合わせ、声を合わせます。自分勝手に振舞うことはしません。好きな人だけ集まるわけでもありません。神が与えられた人たちです。特に今日は合同礼拝として、幼い子供たちも共に礼拝します。これは神の業です。愛は神から注がれます。主の選びに応え、愛に生かされ、愛に生きていけますように。(No.447)


2013年 1月 6日

本当にめでたいものとは?

 主の年2013年を迎えました。この国で新年を迎えたわたしたちです。雑誌「信徒の友」1月号の巻頭言から分かち合います。
主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。(哀歌 3・22〜23)
 わたくしたちの国では、正月には家ごとに門松を立てます。『広辞苑』によれば、それは「新年に、歳神を迎える依代(よりしろ)として家々の門口に立てて飾る松」と説明されています。「依代」というのは「神霊が招き寄せられて乗り移るもの」のことで、日本の神事に神官が用いる「榊の枝と御幣(紙)」はそれにあたります。
 しかし、一休は狂歌で「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と歌っています。門松を立てるごとに年老いて、やがて死に至ることに即しての門松評価と言えましょう。「では、本当にめでたいのは何でしょう?」との問いは残ります。
 哀歌の作者は、苦難の時代を生きた人です。母国イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされ、主だった人たちはバビロンへの捕囚となりました。そして神殿も破壊され、都は廃墟に等しくなり、残された老人、婦人、子どもたちが飢餓のために次々と死んでいくという状況の中にいました。
 依代となるものは何もありません。しかしそういう中で、彼は目で見たり手でつかんだりするよりも確かなもの、すなわち「決して絶えない主の慈しみ」「決して尽きない主の憐れみ」を知り、信じることができた人です。だから、「それは朝ごとに新たになる」と言い得たのです。
 …カウントダウンして期待の中で迎えたこの新世紀も、「おめでとうございます」と言い交わして迎えたこの新年も、そして「グッドモーニング」との挨拶を交わすこれからの日々も、主の恵みを信じ、その導きの中に生きる者として、めでたく迎え、かつ生きたいものです。”(信徒の友1月号「みことばにきく」(篠田 潔)より )(No.446)