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週報短文

バックナンバー 2013年3月


2013年 3月 31日

聖礼典の意味 洗礼から聖餐へ

 イースターおめでとうございます。主イエス・キリストは本当によみがえられました。イエスは生きておられます。
 先週の受難週の祈祷会では、パン裂きの聖餐式を行いました。初代の教会では、一つのパン、一つの杯を用いていたと思われます(コリント一10・16〜17)。パン裂きの聖餐を祝う前に、改めて聖礼典の意味を確認しました。
 まず、洗礼とは何か。洗礼とは、主イエス・キリストの救いがわたし自身の現実となるために、主ご自身が定めてくださった救いの道です。聖霊によって、イエスはキリスト(救い主)であることを信じ、自分がキリストによって救い出していただかなければならないほどの罪人であることを認め、主の前に罪を悔い改めた者は、洗礼を受けることを教会に申し出るのです。洗礼を受けることによって、その恵みは、洗礼を受けた一人ひとりの現実となります。洗礼を受けた者は、教会の交わりに入れられ、教会を造る者となります。洗礼は生涯ただ一度のもの(幼児洗礼も同様)。聖霊の働きを信じ、洗礼の後に起こる疑いや動揺にもかかわらず、主のものとされた現実は揺らぐことはない、と信じることです。
 次いで、聖餐とは何か。主イエスは弟子たちと食事をされながら、「このように行いなさい」と繰り返して言われました。聖餐は、主を囲んでの食事、主と主イエスの弟子たちの食事です。洗礼によって主の弟子とされた者は、「わたしの記念」と呼ばれた食卓に着き、主イエスを思い起こします。教会は、主イエスの体が裂かれ、血が流されたことによって新しく結ばれた神との契約に生きる神の民です。パンとぶどう酒を実際に味わうことによって、主イエスの体が現実に裂かれ、血が現実に流された十字架の出来事を新しく知ります。わたしたちが主の命によって生かされることを新しく知るのです。こうして、わたしたちは独りではなく主が共におられることを確信するのです。(No.458)


2013年 3月 24日

「われらがなお」

 今年のイースター(復活日)は来週の31日です。イースターを前にした最後の一週間が「受難週」、本日の主日は、「棕梠の主日」です。主イエスの苦難と十字架の死、葬り、そして復活の朝へと向かっていく神の救いの出来事を思い起こします。神の愛を覚える黙想を紹介します。
 “われわれが神をまだ愛しなかったときに、神はわれわれを死に至るまで愛し給うた。われわれが神をまだ知らなかったときに、神はわれわれをすでに知り給うた。われわれが神をまだ呼ばなかったときに、神はわれわれの名をすでに呼び給うた。われわれが神についてまだ何ごとも知ろうとしなかったときに―われわれがまだ異郷にとどまっていたときに、父の家の食卓には、われわれのためにすでに席が設けられてあった。「われらがなお罪人たりしとき・・・・・・。」われわれが自分の罪に驚く以前に、罪を厭う以前に、自分の穢れに嫌悪を感ずる以前に、神が禁じ給う一切のことをまだ愛していたときに、罪を憎む以前に、悔い改める以前に、自分の胸を打つ以前に、「起ちてその父のもとにゆく」以前に、真に言葉通りに「われらがなお罪人たりしとき」に―そのときすでに、キリストは、われわれのために、その命を捨て給うた。天にいます父の愛は、それほどに完全であり、それほどに絶対的であり、それほどに徹底的・無前提・無私である。・・・はかりがたい信実によって上から私に向かって差し伸べられ、あのあわれみの洗礼の水の中へと私を浸し、私のために十字架におもむき、パンとぶどう酒を私に差し出し、私の罪のためにそのパンを割き、そのぶどう酒を注ぎ給うたのは、あの御手である。永遠の愛によって動かされ導かれたあの御手である。”「愛と自由のことば 一日一章」 3月21日、リュティの言葉より引用) 
 しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5・8)(No.457)


2013年 3月 17日

中期的な取り組みから

 今年度の歩みも残り約半月となりました。先月の教会総会では新年度の役員も決まり、今年度の報告をまとめ、来年度の計画の準備をしています。年度の区切りは活動の見直しや見通しをつけるために、とても大切だと思います。今年度は、中期的な取り組みも始まりました。会堂建築検討会と、子供と大人が一緒の合同礼拝です。
 会堂建築検討会は、定例会が第2主日の午後4時半から6時までです。先週で第5回を終えました。語り合われている内容は、まだまだ漠然としたものです。しかし会堂について検討する場を設けることができたことは良かったと思います。すべては神の御心のままに、神の時に成りますが、御心にお従いできるように、わたしたちも準備をしておかなければなりません。かつて川口本町教会時代の信仰の先輩方がこの西川口の地に現会堂を建てたことにより、現在まで教会活動を続けることができています。恩恵を受けていると感じています。後の世代のためにも今できることをしておきたいと願っています。次の定例役員会で協議しますが、会堂建築検討会の中間報告と意見を聴く機会を設けたいと思います。
 今年度は子供と大人の合同礼拝の取り組みも始めました。子供と一緒に神を礼拝する行為を通して、子供たちに礼拝するとはどういうことか体験してもらいたいと願っています。子供たちはわたしたち大人を見ています。わたしたちの姿勢が問われます。「説教と聖礼典が正しく執行されるところ、まことの教会が存在する」と言われます。教会の礼拝を支えるのは、信仰告白をして洗礼を受け聖餐にあずかっている教会員です。この主日礼拝に、子どもも含め未信者を招き入れるわけで、それは教会全体の大切な伝道、信仰継承の働きです。わたしたちの祈りが合わせられますように。役員会では、今後も合同礼拝を続けることにしました。3月31日のイースター礼拝、4月14日、5月12日、5月19日ペンテコステ礼拝、6月9日、6月30日まで予定しています。(No.456)


2013年 3月 10日

東日本大震災から2年

 明日3月11日で、東日本大震災より2年を迎えることになります。この大震災で亡くなった人は1万5千人を超えました。避難している人は31万人を超えています。家族や親しい者を亡くされたり、行方が分からなかったりという、今なお深い悲しみの中にある方々に、主の慰めをお祈りします。そして、避難生活・転居生活を余儀なくされ、今もなお戸惑いの中にある方々に、主の導きがありますように祈ります。
 関東教区では、明日午後2時から宇都宮上町教会を会場に、記念礼拝が行われます。
 震災より2年がたつ今も、東京電力福島第1原子力発電所の原子炉からは放射性物質が放出され、放射能の危険にわたしたちは脅かされています。
 日本基督教団東日本大震災救援対策本部作成の礼拝式文が届きました。
「まえがき(はじめに)
 3・11の震災より2年がたとうとしています。私たちは、あの痛みの出来事を想い起こし、未だその中に在る方々、また原子力発電所の事故による分断と喪失の中に在る方々を覚え、その方々への必要な支援が与えられ、復興への歩みが一層早く強くされることを願います。・・・主は私たちに、礼拝を通して救いの業を「記念すること」を教えて下さいました。私たちキリスト者は、み言葉を通して神の救いの業を心に抱き、希望を新たにし、今なお苦しんでいらっしゃる方々のために祈りたいと思います。そして、無関心を戒め、隣人への愛に生きるようにとの主の教えに誠実であるように導きを祈りたいと思います。・・・」(以上、関東教区からの案内より抜粋)
 わたしたち西川口教会の教会員・関係者の中にも、親族や親しい方が被災して避難生活を余儀なくされている人たちがいます。忘れないで関心を持ち続けることが大切だと思います。また、被災地を訪れること、被災者の声に耳を傾けることができますように。今日と明日は特に、全国の諸教会と共に祈りを合わせます。(No.455)


2013年 3月 3日

箴言を学ぼう

 水曜日の夜の祈祷会、木曜日の午前の昼間祈祷会では、先週から箴言の学びが始まりました。ご一緒に旧約聖書の知恵の言葉を学びましょう。ふるってご参加ください。お待ちしています。
 先週の第1回目の学びから紹介します。
 初めに、「箴言」という書名について。「箴」は、「針」「鍼」とほとんど同じで、裁縫や医療に用いられる「はり」のことです。したがって箴言は、チクリと人を刺す気の利いた言葉ということになります。わたしは「箴」がハリということを初めて知りました。「箴言」と名付けた人こそ気が利いていると思いました。これは日本語の書名ですが、旧約聖書はヘブライ語で書かれましたので、ヘブライ語の書名は1章1節の先頭の言葉から取られ「ミシュレー」といいます。「ミシュレー」の元の言葉は「マーシャール」で、聖書では「箴言」「ことわざ」「格言」「嘲りの歌」「物笑いの種」「託宣」「たとえ」「言葉」と文脈により訳し分けられている、実に多様な言葉です。
 次いで旧約聖書における知恵について。人が日々の生活の中で直面する様々な問題に対して、適切に対処していく能力が「知恵」と呼ばれました。古代イスラエルの歴史の中で、最大の賢者、知恵者に挙げられるのは、ソロモン王です。しかし、無名の主婦もまた賢者と呼ばれることがあります。箴言第31章には、生活上の様々な問題にてきぱきと対処して立派な「家」を築き上げることのできる賢い女性が描かれています。このように、旧約の語る知恵のあるなしは、身分や性別とは関係がなく、箴言の教える知恵は、基本的にすべての人に対して語られています。
 箴言には生活を積極的に肯定する姿勢があります。神と共同体と被造世界の秩序に調和し、意味ある仕事や愛する人間関係の喜びで満たされた生活を追い求めています。「神と人」「知恵」「教育」「正義」「公平」「倫理」「愚か者」「友人・家族」などのテーマを見いだすことができます。
 主を畏れることは知恵の初め。(箴言1・7)(No.454)

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