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週報短文

バックナンバー 2013年5月


2013年 5月26日

「マラナ・タ」(主よ、来てください)

 讃美歌21の81番「主の食卓を囲み」の歌詞にある「マラナ・タ」とは、どういう意味ですか、との質問をお寄せいただきました。
 この言葉は、コリントの信徒への手紙一第16章22節にあります。「マラナ・タ(主よ、来てください)」。ちなみに、この括弧部分は、翻訳の時に説明のためにつけられたので、聖書の原文にはありません。「マラナ・タ」はアラム語で、初代教会の祈りの言葉です。旧約聖書はヘブライ語で書かれていますが、アラム語はヘブライ語にごく近い言葉で、主イエスの当時のユダヤの人々は、このアラム語を使っていたと言われます。「マラナ・タ」は、名詞「主」及び動詞「来る」から合成されたもので、「主よ、来てください」という意味です。また「主はそこにおられる」という意味にもとれるので、礼拝する教会の人々が、これら両方の意味を一緒に聞き取った可能性もあります。特にこの厳かな言葉が聖餐式に際して語られ、参列者は、既に来られた主、臨在している主、さらに来るべき主にも思いを致したことと思われます。
 ちなみに、旧約聖書の言葉で、そのまま新約聖書の言葉になり、知られている言葉はいくつかあります。「アーメン」「ハレルヤ」「インマヌエル」「ホサナ」など。しかし「マラナ・タ」は旧約聖書には出てきません。アラム語の「マラナ・タ」はその発音のまま残り、ギリシア語を話す諸教会でも用いられました。
 今日の午後は、年に一度の墓前礼拝を、西川口教会の教会墓地である春日部墓苑でささげます。墓の前で礼拝するとは、「マラナ・タ」と祈ることと言えます。よみがえり、天に昇り、父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストが再び来られる時、もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21・4)世界が到来します。「主イエスよ、来てください」と、その新しい時を待ち望んでいる教会です。(参照「旧約新約聖書大事典「マラナタ」の項」) (No.466)


2013年 5月19日

聖霊の働き

 今日は聖霊降臨日・ペンテコステ礼拝です。月に一度のマナの会(ディボーションの分かち合いと学びの会)では、「雪ノ下カテキズム」(加藤常昭著)を少しずつ学んでいます。先週ちょうど聖霊のお働きについて学びましたので、紹介したいと思います。「第4部 臨在のキリスト・聖霊の働き」より引用します。
“問一四三  そのような時、あなたが知る主イエスが、目に見えるものでないとすれば、どのような存在なのでしょうか。
 答  それは、霊におけるキリストです。聖霊が示してくださる主イエス・キリストです。主の臨在は、まず信ずべきものであります。何よりも、霊は言葉とともに働きます。
 言葉は、霊的な主イエス・キリストとの交わりを造ります。礼拝における教会の説教がそうです。説教を聞きつつ、私どもは主と交わるのです。説教と共に礼拝の中核をなす聖餐もまた、その意味で見える言葉と呼ばれ、主との交わりを造るのです。私は、教会の礼拝に参加すると、主が生きておられることを知り、信じることができます。そして何よりも洗礼は、この主との交わりを造る、またそれに加わるためのまことに重要な道として与えられたものなのです。
 しかしまた、確かに主は目には見えませんが、霊の力をもって支配しておられます。この目に見えない主の霊的な存在は、その実りをもって知ることができます。私どもは、その主の働きを、さまざまなところで信じさせていただくのです。ここでも、その実りとして、何よりも愛の交わりの恵みを数えることができます。そして隣人を愛する愛です。私は、自分のような者でも、自分の愛に望みを持ち得るようになったことこそ、主の霊の働きのおかげであると感謝しています。”
 聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(コリント一12・3)
 神の言葉を届かせ、イエスを主と告白させ、愛に生かす聖霊は、今も働いてくださいます。 (No.465)


2013年 5月12日

「あなたを忘れることは決してない」

 今日は母の日です。
 主の日の礼拝に続けて来るようになると、聖書を通し、また説教を通して、神がどのようなお方であるか知るようになります。それは、使徒信条に沿って言えば「天地の造り主、全能の父なる神」、「神の独り子なる主イエス・キリスト」、「聖霊」です。父・子・聖霊なる三位一体の神です。
 わたしたちが祈るときは、まず、キリストが教えてくださったとおり「父よ」と呼び祈ります。キリストが父なる神を示してくださいました。
 他方、聖書は、神が母のようにわたしたちに向き合ってくださることも語っています。神はまことに親としてわたしたちを愛してくださる。今日は母の日なので、その箇所を紹介しましょう。
 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。
 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。(イザヤ書49・14〜15)
 神の大きな憐みと顧みの中に、神の民があることを覚えます。憐れみに富み、恵み深い神がわたしたちを忘れることが決してないことを、自分自身に告げ知らせます。同時に、まだその神を知らない人たちへ、そして次の世代の人たちへ、この良い知らせを告げ知らせる務めがあります。
 神の民の共同体は、昔から、子供も大人も一緒に礼拝してきました。聖書を読むと、イエスのまわりにも多くの子供たちがいて、イエスのお話を大人と一緒に聞いていました。初めのころの教会でも、子供たちは大人と一緒に礼拝をしていました。わたしたちも、聖書にならって、親も子も、大人も子供もしたいと考えました。昨年の秋から数回、一緒の礼拝を続けてきました。7月からは毎週皆で一つの礼拝をささげていきます。皆共に恵みにあずかることができますように。(No.464)


2013年 5月 5日

あなたは私のこころの友

 先週の4月29日(月)、第41回関東こころの友伝道講習会が赤羽教会にて開催されました。
 主題聖句は「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。(ヨハネの福音書10・16 新改訳)」、「あなたは私のこころの友」を主題として、講師は、名古屋神召キリスト教会牧師・こころの友伝道全国連合会会長の内村撤母耳(うちむら・さむえる)先生でした。
 ここで、「こころの友伝道」の「三つの基本」と「五つの実際」を紹介します。
「三つの基本」
1.福音の宣教は教会に託された使命であり、キリスト者は時代の問題を共に担いつつ、この使命に召されています。
2.「こころの友伝道」は牧師と信徒が互いにパートナーとなり、その祈りと協力によるティームワーク伝道です。
3.「こころの友伝道」は信徒が福音を求める人々のこころの友となり、責任をもって導く伝道奉仕です。
「五つの実際」
1.こころの友伝道の奉仕者の資格
 @忠実な教会員であること 
 Aこころの友伝道のために使命を感じること 
 B福音の恵みに共に与る姿勢を持つこと
2.こころの友伝道奉仕者としての生活設計
3.こころの友伝道奉仕者の受け持つ対象
4.こころの友伝道奉仕者の活動内容
5.こころの友伝道奉仕者の育成
 内村先生による丁寧で、実践に裏打ちされた講演でした。「一人を導く」ことを大切にされていると語られました。一人の魂をどこまでも大切にし、追い求める、キリストの心だと思いました。他の先生方や兄姉との交わりも感謝でした。(No.463)


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