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週報短文

バックナンバー 2014年1月から6月


2014年 6月 29日

第1回教会全体懇談会にあたり

 本日は2014年度第1回の教会全体懇談会を開催します。内容は耐震診断結果報告です。
 6月8日の週報で、6月1日の定例役員会からの連絡を次の通り記載いたしました。
 「耐震診断結果が報告され、@結果の要点を掲示すること、A教会全体懇談会で報告すること、B至急必要な補強工事を行うこと」。
 さらに、皆様に本日配布された西川口だより553号の、最終ページの役員会報告には、もう少し説明が加えられました。
 「耐震診断報告によると補強しても、耐えられる強度にあげることは到底できないので、早急に応急措置を講じる(柱3本の増強)ことを役員会として決定した」。
 この応急措置の発注をしました。業者と連絡を取り合いまして、この工事が明日から始まります。工事が終わると、1階の3か所、キッチン・1階手前の集会室・祈祷会で用いている集会室に、むき出しの柱があることになります。今後いくらか不便をかけることになりますが、ご理解の上、お許しをいただきたいと思います。
 50年前にこの会堂が建築されてから後、増改築を行って、部屋を広くするなど、利便性を良くしてきました。わたしたちはその恩恵に大いにあずかってまいりました。時代は移り、近年の大規模な地震による被災(阪神淡路大震災、新潟中越地震、中越沖地震、能登半島地震、そして、東日本大震災)を、我が国は経験してきました。建物の耐震基準も50年前よりも格段に高く厳しくなっています。倒壊による怪我や死を防ぐため、安全を確保するためです。教会は「礼拝にどうぞいらしてください」と人々をお招きします。地震はいつ来るか分かりません。集った人々の安全を確保することは主催者の義務なのです。
 今回の耐震診断結果を受けて、わたしたち西川口教会はどう信仰によって決断するか、その第1歩となる今日の教会全体懇談会です。(No.523)


2014年 6月 22日

会堂建築検討会を振り返って

 来週の午後は、教会全体懇談会を開催します。テーマは耐震診断結果報告です。ぜひ配布資料をよく読んでください。
 2012年度の役員会で、会堂について検討する場を設ける必要がある旨の意見が出され、教会全体懇談会で教会員の賛同意見を受けて、会堂建築検討会を立ち上げることにしました。第1回の会堂建築検討会は2012年11月11日に開催されました。内容は今年度の教会総会資料にある通りです。「検討会は、第2日曜の午後4時半から6時までの定例会とする。教会員はだれでも参加できる。役員会からの基本的な構成員は、牧師、書記、財務部役員と礼拝教育部・伝道牧会部より各1名とする。他の役員の参加もできる。司会は金田師とし、出席者からの意見を求める。会堂の他に、土地、駐車場、牧師館、現会堂管理についても視野に入れていく。・検討会では、毎回、「教会と教会堂 増補版」(長久清著 教団出版局)により学んでいる。」
 今月の8日に、第19回会堂建築検討会をいたしました。約2年、月1度の定例会を積み重ねてきました。メンバーが固定化する傾向となったのはやや残念でありましたが、休むことなく、会堂建築について検討する場として続けました。協議したことを役員会に報告、提案をしてきました。2013年度は耐震診断をしてもらうという役員会の決断に至りました。2014年度は耐震診断結果を受けて、どのように導かれるか。まず、来週の午後の教会全体懇談会で、会堂の現状を皆で共有することから始めます。宣教にふさわしい器を求めて、祈り、御心を求めていきます。信仰がなければと、改めて思わされているところです。
 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。(ヘブライ11・6)(No.522)


2014年 6月 15日

「今や、恵みの時」

 一般礼拝の賛美は讃美歌21からわたしが選曲しています。神を賛美し、礼拝する心をまっすぐに歌う讃美歌、神の言葉を聴く心を整える讃美歌、与えられた福音への応答の讃美歌を選びます。本日の讃美歌21の431番は、コリントの信徒への手紙二第6章2節に対応する讃美歌として選びました。
この讃美歌431番の歌詞にある「ヨベルの年」については皆様にぜひ知っていただきたい。聖書巻末の用語解説を参照しながら紹介します。
 イスラエルでは7年ごとに農耕せずに土地を休ませ(安息の年という。レビ記第25章8節)、これを7回繰り返した翌年、つまり50年ごとの1年をヨベルの年として祝いました(祝い方の詳しい規定はレビ記第25章8節以下)。ヨベルの年には引き続いて農耕を休むとともに、人手に渡っていた父祖伝来の土地(嗣業)が元の所有者に無償で返され、同胞の奴隷はすべて解放されました。この喜ばしい年の始まりは「雄羊の角」(ヨーベル)を吹いて告知されたので、ヨベルの年の呼び名が付いたと考えられます。この制度は極めて高い理想を表しているので古代イスラエルの民に実際にそのまま守られていたかどうかは疑問です。主イエスはナザレの会堂でイザヤ書を引用しながら、その宣教によって、罪からの解放を告げる新しいヨベルの年が到来したことを宣言されました。
 主イエスはナザレの会堂でこう語られました。「・・・主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18〜19)。イエスは、ご自分が父なる神から派遣されたのは、主の恵みの年(ヨベルの年)を告げるためであると宣言されました。50年に一度のことではなく、主の到来から、恵みの年は恵みの時となりました。この恵みの時は、主が再び来られる時まで続きます。使徒パウロは主の愛に促されて叫びました。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」!(No.521)


2014年 6月 8日

教会が教会であるために

 皆様のお祈りと支えにより、先週は、名古屋説教者トレーニングセミナーに参加して、豊かな学びと交わりの幸いな数日間を過ごすことができました。地元から、関西方面から、首都圏から16人が参加しました。恵みと共に、危機に瀕している教団の教会(伝道が振るわない、高齢化に伴う諸問題、経済的な問題など)に遣わされているのだとの自覚を新たにしました。いのちを削るようにしてご指導くださる講師の加藤常昭先生の文章を紹介します。この文章からキリストの教会が教会となるために、説教が重んじられるべきことを共有したいと思います。
 “私は肩書きを求められたとき「神学者」とすることが多い。・・・言うまでもなく、牧師と自分の間に一線を画すという意味は全くない。そうではなくて、牧師もまた神学者であることを意味する。私は神学校で教えたからではなく、教会の教師、つまり牧師であったから神学者と自称する。
 私が牧師であったとき、教会において誰よりも自分が神学者としての責任を負っていると思っていた。説教、教会の祈りに責任を持つことは当然のこととして、教会管理、教会政治、教会における教育、あらゆる教会の働きが神学的な根拠があり、筋が通っていることに責任がある。・・・
 牧師はテモテへの手紙一第四章一二節において、「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません」と言われている。重んじられるべきなのである。教会の言葉の教師として。だから説教者としても重んじられる。その説教は重んじられる。説教者は神の言葉に仕え、神の言葉の語り手になるからである。それが何を意味するか、理論的にも、実践的にもそれを問い続けているが、その務めなくしては教会が教会であることができない。
そのために神学者である説教者たちは、神学学習を絶やすことはできない。神の言葉を聴き続ける黙想を止めることはできないのである・・・”(「説教黙想アレテイア」83号編集後記より)(No.520)


2014年 6月 1日

第64回関東教区総会

 5月27日から28日まで、大宮で、関東教区総会が開催されました。今回の設営担当は埼玉地区でした。地区委員が担当することになり、月曜から準備のため奉仕しました。今回は裏方の労苦も味わいました。
 総会の組織を確認して後、教区総会礼拝では、聖学院教会の東野尚志牧師が説教されました。その後、3人の先生方の准允式と2人の先生方の按手礼式が執り行われました。埼玉地区関係では、佐々木千沙子先生(東京聖書学校吉川教会担任)が准允を受けられました。また2006年度に西川口教会で神学生として奉仕された野口佳男先生(栃木・上三川教会に着任)が按手を受けられました。その後議事に入り、今年秋に開催される教団総会議員選挙が行われました。全体で協議を尽くすには限界があるので、すべての議案と報告が上程されたあとは、若干の質疑応答を経て分科会に回付されました。初日の議事の後、報告・協議会が開かれました。「東日本大震災被災支援の報告」では、関東教区で被災した教会のうち、昨年の教区総会からの1年間に会堂の再建を果たされた教会の報告が、写真をスクリーンに映して、なされました。その後「教会におけるハラスメント」に関しての講演と質疑応答がありました。
 2日目は、教団総会議員選挙の本選挙が行われました。午後には、2013年度に逝去された教師4人と信徒112人の逝去者追悼礼拝が行われました。次いで議事に入り、教区からの議案の可決、報告の承認を順次進めていきました。議員提案の議案第25号(「特定秘密保護法」の廃止を求める件)は可決されました。もう一つの議員提案の議案第26号(日本基督教団内に聖餐の在り方について研究、議論をする場を設置し、日本基督教団が今まで積み重ねた議論の継続、再会を求める件)は否決されました。熊江副議長の聖書朗読と祈りがささげられ、教区総会が終わりました。(No.519)


2014年 5月 25日

御言葉の種を蒔く人

 ご存知の方も多いでしょうが、マルコによる福音書第4章に、主イエスが語られた「種を蒔く人のたとえ」があります。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(マルコ4・3〜8)。
 このたとえを語られた後、弟子たちは主イエスにたとえの意味を尋ね、主は応えて説明しておられます。「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(マルコ4・14〜20)
 このたとえはわたしたちに、神の言葉をどう聞くのか、と問いかけます。それと共に、蒔くべき神の言葉がわたしたち(教会)に与えられていることが示されています。種を持っているだけでは何も起こりません。種を蒔かなければ。先立つ主に従って、あらゆる機会をとらえて御言葉の種を蒔くようにと、促しを感じているところです。(No.518)


2014年 5月 18日

YT姉召される

  祈りに覚えていただいていたYT姉が先週の5月11日午後、ご自宅でご家族に見守られて、安らかに息を引き取りました。99歳の生涯でした。葬儀は当教会で執り行いました。
 葬儀説教の準備のために、礼拝出席の記録を調べました。Y姉が主日礼拝にお出でになるようになったのは、2009年12月からでした。娘であるMK姉が一所懸命車いすを押しつつ、連れてきてくださいました。月に1、2回のペースで礼拝出席されており、最後に礼拝においでになったのは2013年12月1日でした。最近までお元気で礼拝を共にしていたのです。今年に入って体調をくずしていました。
 YT姉が洗礼を受けられたのは、礼拝に出席するようになってほぼ1年後の、2010年12月19日のクリスマス礼拝の時でした。96歳の受洗は神の大きな恵みの現われでした。受洗の準備のためにご自宅に伺いました。ご高齢で少し目や耳も弱っておられましたので、聖書物語の絵本を一緒に見ながら、神様を信じましょうとお伝えし、牧師の祈りのまねをして、後について祈っていただきました。しっかりお祈りされました。前述のクリスマス礼拝においても、M姉に助けられながら、はっきりとご自分の口で信仰の告白をされました。わたしたちはそれを確かに聞きました。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(ローマ10・9)。この救いを見ました。
 葬儀では、故人愛唱の「うるわしの白百合」(1954年版讃美歌496番)を賛美しました。主の復活をつつましく賛美する曲です。「うるわしの白百合 ささやきぬ昔を イエス君の墓より いでましし昔を」(1節)。 普段礼拝に来られていない多くの方々が葬儀に参列されました。教会の葬儀が初めての方も多くおられました。YT姉の存在を通して、神が生きておられることが力強く証しされた葬儀でした。ハレルヤ。(No.517)


2014年 5月 11日

第42回関東こころの友講習会

 5月6日(火)、第42回「関東こころの友伝道講習会」が開催されました。参加教会は17教会、参加者は92名でした。こころの友伝道全国連合会顧問である横山義孝師(よこやま・よしなり、当教会初代牧師)を迎えて、「時が良くても悪くても」の主題のもと、2回の講演を伺いました。会場は、日本基督教団更生教会でした。
 開会礼拝は筆者が説教を担当し、次いで、横山師の講演T「こころの友伝道の三つの基本」でした。おそらく参加者の中で最高齢87歳の講師の伝道への情熱に、聴くわたしたちも心を燃やされました。横山師は現在、日本基督教団日野原記念上尾栄光教会の代務牧師として月3回の礼拝奉仕と、協力牧師として日本基督教団東京新生教会で月1回の礼拝奉仕をされています。現在も現役であり、長年にわたる伝道牧会の経験と、移り変わっていく時代を見据えながらのご講演をいただきました。「こころの友伝道の手引き」に沿って丁寧に解説をいただきました。特に「時代の問題を共に担いつつ」では、高齢者介護の課題、社会的ストレスからくる精神的な課題は避けて通れず、教会はこれらの課題を負う魂へのいやしの業が託されている、と述べられたことは、まさにそのとおりであると感じました。
 写真撮影の後分団(6分団)に別れて、昼食をいただきつつ交わりの時を持ちました。講演U「こころの友伝道の五つの実際」を伺いました。「こころの友伝道奉仕者の生活設計」では、横山師自ら生活設計の表を模造紙で示され、祈りの時間、奉仕の時間を生みだしていく大切さが語られました。
 最後は「献身の時」。KY兄(K教会)の救いの証しと、こころの友伝道者としての伝道実証に皆心打たれ、主を賛美しました。深谷春男師(東京聖書学校吉川教会)による詩編73編の説教より、神はわたしの右の手をぐいとつかんで、神の恵みの世界へ導いてくださると確信しました。一同こころの友伝道奉仕者として献身の祈りをもって散会しました。ハレルヤ。(No.516)

2014年 5月 4日

献身者の共同体・教会

 先週4月27日、2014年度第1回の定期教会総会が開催され、役員会が提案した議題が承認可決され、2014年度の歩みを踏み出しました。現住陪餐会員の兄姉には「教会総会議案書」を渡しますが、この短文の読み手にはそれ以外の方も多くおられるので、2014年度 教会活動方針から書いておきたいと思います。
 ◎教会の目標
1.主日礼拝を重んじる教会へ 
2.聖書に親しみ常に祈る教会へ(祈祷会を大切に)
3.各自の賜物がよく活かされる教会へ
4.次世代への信仰の継承
5.受けるより与える教会へ
6.地域に奉仕する教会へ
◎2014年御言葉 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。」(ローマ12・1)
◎2014年度主題 「神に応え、礼拝に生きる献身者の共同体」
 “教会の5つの使命(目的)は、礼拝・交わり・教育(弟子訓練)・奉仕・伝道です。今年度の教会の主題は、奉仕の共同体である教会を念頭に置いています。教会は、主イエスにならい、神の愛に促され、礼拝に生きる献身者の共同体です。今年度は、教会の目標の「受けるより与える教会」を特に、覚えていきます。与える幸い、献げる祝福を体験し、神の証人として歩めますよう、聖霊の助けを祈り求めます。”
 西川口教会のような中規模の教会でも活動は多岐にわたっており、教会員の奉仕で教会は動いていきます。その背後に祈りがあります。なによりも、わたしたちのためにすべてを献げてくださった主イエス・キリストが先立っておられ、教会のために執り成し祈り、支えていてくださる。神の選びに応え、神の愛に応え、礼拝に生きる献身者の共同体が教会です。あるがままの自分を主なる神に日々新たに献げていきます。(No.515)


2014年 4月 27日

「復活の確かさ」

 先週のイースター礼拝では、一人の受洗者、一人の信仰告白者が教会の群れに加えられ、大きな喜びでした。「イエスが主である」と信じるとは、イエス・キリストがよみがえって今も生きておられるとの信仰に立つことです。主イエスの十字架と復活の出来事によって、わたしたちは神と和解させていただいたのです。「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(ローマ 5・10)。救いとは何よりも神との正しい関係に生かされることを改めて心に刻みます。
 なぜかとういと、イースター礼拝を前に、朝のディボーションでこのような文章と出会ったからでした。“・・・子供の頃から信仰を持ち、疑ったことのない人々の間に、なお復活の信仰が何の力も持たない人々が数多く存在するのです。・・・彼らがイエスは死からよみがえりたもうたと信じることは・・・地球は丸いものだと信じるようなたぐいの信仰なのです。このような復活信仰などはいくらあってもだめで、信仰者であっても不信仰者と同じように、生の不安に悩み、そしてまたあの出口なしの恐怖にかられ、生の場所を求めて、血なまぐさく貪欲なたたかいに巻きこまれるのです。どうしてそういうことになるのでしょうか。その理由とはほかでもなく、神と和らいでいない、その復活信仰がイエス・キリストを通して神と和解するという体験から出てきていないからです。彼らは神と平和条約を結んでいないので、その生の中に平和がないのです。もし神との間に平和を持っていたなら、不安も、それとともに生の場所を取りあう争いも消え去ることでしょう。もしわたしたちがイエス・キリストの和解のみわざによって再び生まれるのでないなら、死人の中からよみがえりたもうたイエスの復活による生ける希望にふたたび生まれることはできないのです。”(「愛と自由の言葉一日一章」、4月19日、神学者エミール・ブルンナーの文章「復活の確かさ」より)(No.514)

2014年 4月 20日

受難週の祈祷会

 13日の棕櫚の主日から受難週が始まり、本日のイースター(復活日)を迎えました。
 先週の受難週の日々には、遠距離の訪問があり、地区委員の役目の引継ぎがあり、来られた方のお話を聞き、お見舞いに行き、さらに納骨式を執り行いました。動き回る日々でしたが、受難週の祈祷会は意義深く過ごすことができました。月報の巻頭言に書きましたように、パン裂きの聖餐を行い、主の恵みを味わいました。
 受難週の祈祷会では、最近出版された「主が、新しい歌を 加藤さゆり説教集 加藤常昭・編」を紹介して、その詩編22編の説教「わが神、わが救い」を朗読しました。加藤さゆり先生は、わたしが説教の指導を受けている加藤常昭先生のお連れ合いです。この説教集には、日本FEBCで放送された「詩編講話」と主日礼拝の説教が載っています。それらの説教は、昨年秋に、説教塾の仲間で分担して録音音声から文章起こししたものです。わたしも、石井真理子さんのご協力をいただいて作業に加わりました。この本のまえがきによれば加藤さゆり先生(1928年生)は、1964年胃癌により胃の三分の二近くを切除、その後舌癌を繰り返し五度の手術を受け、今はリンパ節悪性腫瘍を抱え、闘病の日々です。「苦難から救われた喜びではなく、苦難のなかでこそ知る主の恵み、それこそがこの説教者が語り続ける信仰の言葉の基本内容となる。それは今、その語る言葉もほとんど奪われている状況にあって、この人を生かしている神の現実である」と編者である加藤常昭先生が書かれています。
 説教のごく一部ですが紹介します。“「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」。この詩人が叫んだ叫びよりも、もっと深く、もっと厳しく、神に捨てられ断ち切られる、闇の深さを知っている方がおられる。最も深い、闇の深みに降ってくださった方、それが主イエス・キリストです。・・・神は、この主イエスを甦らせてくださいました。・・・”(No.513)

2014年 4月 13日

嘆きの詩編

 祈祷会・昼間祈祷会で詩編を聖書テキストに学びを始め、先週詩編第10編まで進みました。「今まで何を読んでいたのか」と、目が開かれる思いで詩編の言葉に耳を傾けています。弱くされればされるほどに、主なる神に嘆きの声をあげる詩編の信仰に、心打たれています。詩編の信仰に代々の信仰者たちが慰めと励ましを与えられてきました。そのお一人、北森嘉蔵先生の「詩篇講話 上」の「詩篇の特色」から分かち合います。
 “・・・わたしは・・・ある人生経験をして、大難関にぶつかって一種の岐路に立ったわけです。この時に今まで自分を励ましたり、導いたり、楽しませたりした書物は本棚の中に背文字を並べていても、非常にむなしいという実感を持ったのです。そういう時にわたしは聖書を手に取り、詩篇から離れられなくなったのです。・・・わたしはひとりで闇の中にいると思っていたのです。天涯孤独、だれも一緒にいてくれないと思っていたところ、詩篇の作者がわたしの先輩として実在したということです。お前より前にもっと苦しんでいた、と言ってくれたのです。わたしひとりが苦しんでいたのではない、わたしにまさって、先だって苦しんだ人間がいてくれたという実感です。・・・
 詩篇二二篇の賛美はいったいどこで出ているかというと・・・当事者の言葉なのです。自分が捨てられているという状況に今いるのです。「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」(口語訳・1節)捨てられているのはほかならぬ、わたしなのです。嘆いているのはどこかの英雄ではなく、わたしが嘆いているのです。・・・詩篇という文学の特質はわたしが当事者であり、わたしが捨てられているという叙述の後に讃美をしているのです。・・・これが特質なのです。・・・事柄のただ中にあって、未解決と不調和と矛盾のただ中にあって、解決と調和が与えられ、美が生み出されているという意味でのユニークな詩であるということです。・・・”。(No.512)

2014年 4月 6日

愛は忍耐強い

 年度初めの主日礼拝では、役員任職式を行います。わたしたちが神に約束したとおり生きられますように、聖霊の助けを祈り求めます。
 コリントの信徒への手紙一第13章には、「愛の賛歌」と呼ばれる御言葉があります。最近の学びの中で改めてこの聖書の説く神の愛、最高の賜物である神からの愛を覚えさせられて、自分自身に語り聞かせています。
 4節から7節に愛の特質が述べられています。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。「愛は忍耐強い」と語り始め「すべてに耐える」と閉じるところに、心を動かされます。愛は忍耐です。
 わたしが通っている説教塾の学びでは、互いの説教を批評・批判するという作業があります。それは容易なことではありません。批評された人が指摘された言葉を素直に受け入れられないことが多々ありました。説教のよくない点を指摘するだけでどうしたらよくなるか改善提案をしないで終わることもありました。そのため批評・批判の在り方を問い直す過程で、この御言葉の「愛」を「説教批評」と置き換えて読んだのです。「『説教批評』は忍耐強い。『説教批評』は情け深い。ねたまない。『説教批評』は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。参加者たちは苦笑しつつも、説教批評の言葉は、相手を建て上げる愛の言葉であるはず、と確認したのでした。そこを目指しています。
 各教会でも同じだと思います。わたしたちが交わす言葉が、相手を建て上げる愛の言葉になるように。特に、教会運営、教会形成に責任を持つ役員の兄姉は、自覚的に目指していただきたい。忍耐と慰めの源なる神に依り頼みます。(No.511)


2014年 3月 30日

週報短文第510回

 2013年度もまもなく終わろうとしています。主が共にいてわたしたちをここまで守り導いてくださいました。感謝です。
 この週報短文は、休暇の時以外は週報発行とともに発行し、今回で第510回となりました。第500回は今年の1月26日でしたが、このことよりもいろいろ皆様にお伝えすべきことが続きました。この度は年度末でもあり、感謝を込めてお伝えしたく、書いています。
 わたしは2004年4月から西川口教会の主任担任教師となり、永本慶子牧師との共同牧会が始まりました。第1回の週報短文は2004年5月2日でした。週報短文をどのような意図で書くかを、同年6月13日の週報短文に書きました。初めは「教務会だより」と題して書いていましたが、毎回タイトルをつけるようになりました。2004年当時は、毎週木曜日の夕方教務会を開いており、永本慶子牧師と、柏明史神学生(現・茅ヶ崎恵泉教会牧師)と教会活動をふりかえり、消息を報告し、祈りの課題を分かち合い、教会形成を学び、祈り合いました。週報短文を書くことは前任者の島隆三牧師に倣ってのことでしたが、内容については、教務会からの言葉、教会に仕える牧師の声として発信してきました。2010年4月からは、牧師はわたし1人になり、教務会はなくなりましたが、週報短文は、引き続き、教会の主に仕え、教会に仕える牧師からの声として書いています。
 そうはいっても、初めのうちは週報短文に何をどう書いたらいいのか分からず苦労しました。「これを書く」と内容が定まるまでに時間がかかり、書くこと自体にも時間がかかり、四苦八苦でした。そんなもたもたしている者の文章を「楽しみにしていますよ」とお声をかけ、励ましてくださる兄姉には、どんなに力づけられたことでしょうか。いつかは良い文章が書けるようになるかもしれない、と希望を持ちながら今日も書いています。これからもよろしくお願いいたします。(No.510)


2014年 3月23日

埼玉地区総会を終えて

 先週の3月21日(金・祝日)に2014年度埼玉地区総会が、東京聖書学校吉川教会で開催されました。開会礼拝では、3月末で東大宮教会を辞任される山ノ下恭二牧師の説教がありました。「牧師とともに苦労する役員(長老)に」と題して、20数年にわたる埼玉地区の教会の交わりに生きた体験も踏まえての説教でした。聖書テキストは使徒言行録第20章25節から32節でした。これは使徒パウロがエフェソの長老たちに告げた別れの説教です。「・・・どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。・・・そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」(使徒20・28、32)。教会は、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」です。教会は神のもの。だから尊いものです。地区総会開会にまことに相応しい御言葉を与えられました。
 議事では、「2013年の地区諸報告承認に関する件」に時間がかかりました。埼玉地区は60の教会・伝道所を有し、活動も多岐にわたっています。埼玉地区規則第2条(目的)にはこうあります。「この地区は、日本基督教団の教憲・教規および同教団の規則、関東教区の規則の定めるところに従って、地区内諸教会・伝道所の一致と連帯の強化に努め、福音の前進に仕えることを目的とする」。どれだけ福音の前進に仕えることができたか、究極的には最後の時に裁かれるのですが、主の愛と赦しの中で奉仕させていただいたとしか言えません。地区総会では、すべての議題がふさわしく協議されたと思いました。地区委員選挙も行われ、わたしはもう1期(2年)の地区委員の奉仕をすることになりました。皆様のお祈りとお助けをお願いいたします。(No.509)


2014年 3月16日

十字架上の七つの言葉

 今年のレント(受難節)は今月の5日から始まり4月19日まで続きます。レントが明けてイースター(復活日)となり、今年のイースターは4月20日になります。
 現在、当教会の主日礼拝ではヨハネによる福音書をテキストにしています。主イエスの受難の出来事がしばらく続きました。皆様に心に留めていただきたいのは、ヨハネによる福音書も、また他の福音書も、十字架がどんなにむごたらしいか語ってはいないことです。それは福音と関わりがないからでしょう。4つの福音書が書き残しているのは、何よりも十字架の上で主イエス・キリストが何をお語りになったかでした。それを4つの福音書全部から書き出して、違った言葉だけを並べてみると7つあります。これらの言葉は教会の歴史において、「十字架上の七つの言葉」と呼ばれ、心に刻まれ、レントや受難週にはこの主イエスの「十字架上の七つの言葉」を繰り返し思い起こし、黙想するのがひとつの伝統となりました。使徒パウロはこう語っています。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(コリント一2・2)。レントのとき、使徒パウロの決意に倣い、十字架の主を仰ぎつつ、この方がわたしの主であられると、信仰の告白を新たにできますよう、聖霊の助けを祈り求めます。
T 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。(ルカ23・34)
U はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。(ルカ23・43)
V 婦人よ、御覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。(ヨハネ19・26、27)
W わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。(マタイ27・46)
X 渇く。(ヨハネ19・28)
Y 成し遂げられた。(ヨハネ19・30)
Z 父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。(ルカ23・46) (No.507)


2014年 3月 9日

東日本大震災から3年

 今週の11日で、東日本大震災から丸3年となります。
 先週の石田家家庭集会では、テキスト(「人生を導く5つの目的」)の「第28日目 与えられた任務を受け入れる」を学びました。その学びで改めて厳粛な思いにさせられたのは、すべての人は地上の人生を終えて、神の御前に立つことになり、そのとき神はわたしがどれだけ人に仕えてきたかを評価される、ということです。
 日ごろ親しんでいるヘンリ・ナウエンの本(「ナウエンと読む福音書」)にも同じ問いかけがありましたので、分かち合いたいと思います。
 “キリストが再び来られるのは、裁くためです。・・・私たちの毎日は、そのときに決して尋ねられるはずのない問いに応えようと生きているかのようです。「あなたの一生でどれくらい稼ぎましたか」「どれだけ多くの友人ができましたか」・・・「どれくらい大きな影響を人々に与えましたか」・・・ これらのどれも耳にしないでしょう。私たちの誰もが突きつけられる問いは、最も備えのできていないものです。それは、「あなたは、わたしの最も小さな者のために何をしましたか?」です。・・・私たちより少しでも欠乏した人がいる限り、最後の審判の問いは、目の前に突きつけられます。流浪の人、飢えている人、裸の人、病んでいる人、囚人、難民、奴隷、そして身体的、精神的、情緒的ハンディのある人、仕事、家、自分のいられる場所のない人が地上にいる限り、裁きの座から絶えず発せられる問いです。「あなたは、わたしの最も小さい者のために何をしましたか?」。この問いかけこそが、キリストの来臨を、つねに現在とかかわる出来事とするのです。”
 震災のために、原発事故のために、「自分のいられる場所のない人がいる限り」支援は続けられなければなりません。教団救援募金はあと1年の区切りがありますが、支援はこれからも続きます。子供たちも大人たちも安心して暮らせる日が来るまで、主に問われながら、仕えていきます。(No.506)


2014年 3月 2日

2月を振り返って

 3月となり、今年度も残り1ヶ月となりました。先月はいろいろなことがありました。
 2月5日・6日の祈祷会から詩編の学びが始まりました。多くの発見があり、うれしく思っています。神がわたしたちに詩編が与えてくださった!と恵みを喜んでいます。主イエスも詩編を暗記して、賛美されました。祈祷会にぜひいらしてください。学びのためプリントを作成配布していますので、読みたいという方にはお渡しします。
 7日に開幕した冬季ソチオリンピックがありました。普段は冬のスポーツにほとんど関心がないのに、若い選手の活躍にも、ベテラン選手の活躍にも胸が躍りました。
 それから、特筆すべきは8日、14日の2回の「記録的大雪」でした。埼玉県でも秩父方面は豪雪で孤立状態となりました。建物被害や、死者やけが人があって胸が痛むことでした。西川口教会堂は特に被害はありませんでした。ただ9日と16日の礼拝は、出席者が約3分の2となりました。特に、9日は礼拝後の教会総会が定足数を充たさないのではないかと心配しましたが、兄姉の協力により無事終わりました。
 17日は、「信徒の友」「日毎の糧」で、西川口教会のため祈っていただく日でした。祈りの課題は、「2013年7月から、主日の朝の礼拝は、子どもも大人も一緒にささげる一つの礼拝にしました。礼拝するとはどういうことかを問いながら、じっくり取り組んでいきます。」でした。全国の諸教会・諸兄姉によって祈りがささげられました。特に、祈りが込められた愛の便りが次々届き、大いに励まされました。
 22日・23日は西川口教会アシュラムが開催され、初めて参加する方が多く与えられた集会でした。祈り仕えてくださった兄姉に感謝です。
 ヤコブ5・16 だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。(No.505)


2014年 2月 23日

「信じる」ことから「信仰生活」へ

 第38回西川口教会アシュラムを迎えました。アシュラムのオリエンテーションで話すことをここにも書いておきます。アシュラム運動に専心された榎本保郎先生の言葉から紹介いたします。
 “「信心のために自分を訓練しなさい。」(テモテ一 4・7、口語訳)とあります。この「信心」という言葉は文語訳では「敬虔」と訳されています(原語のギリシャ語ではエウセベイア)。…「信じる」ということは、だれにとっても緊迫状況下において起こるものであります。しかしこれが「信仰生活」となると、現実の生活の中で連続しておこなわれねばなりません。それはちょうど幾何でいう「点」と「線」の関係のようなものです。…「信じる」ということは点のようなものですが、この「信じる」ことが連続していくところに、「信仰生活」が生まれてくるのです。「信じる」という信仰告白を“点”に終わらせないためには“線”へと持続してゆかねばならないのです。
 しかしながら、御言葉を聞くことと祈ること、そういう信仰の実践としてのエウセベイアを毎日続けていくことが…私たちに必要であることは申すまでもありませんが、それがなかなか実行できない、というのが実情ではないでしょうか。…日本のキリスト教は、“信仰の生活化”という点になると、はなはだこころもとない感じがいたします。これが日本の教会が絶えず揺れ動いている原因ではなかろうかと私は思います。
 アシュラムはエウセベイアとしての信仰生活を指向する集いです。めいめいがここでもう一度ゆっくりと聖書を読み、時間をかけて祈る時であります。このことによってもう一度個人の霊的生活への歩み出しをする、というのが、この集会のねらいなのです。…この集会を鉄道にたとえるならば、あくまでも始発駅であって、決して終着駅ではない…。キリストの十字架の愛に迫られる時、はじめてキリスト者として生きはじめます。…”(「ちいろば牧師アシュラムを語る」より)(No.504)


2014年 2月 16日

「なぜ、何おいても聖書なのか」

 今週末の22日そして23日の西川口教会アシュラムにぜひ参加してください。キリスト教ラジオ放送局FEBCの月刊紙の2月号に、カトリック司祭の雨宮慧(あめみや・さとし)氏が出演する番組の紹介がありました。わたしたちの聖書への姿勢に通じるものがありますので、教会アシュラムを前に一部、紹介したいと思います。
 “…私は出来る限り人間的な思いを除外して、「聖書そのものが神をどのように語っているのか」ということを感じ取り、読み取る努力をしてまいりました。まず、イザヤ書55章からそのことを考えてみたいと思います。7節の「たくらみ」と訳されている言葉は8〜9節の「思い」と全く同じ言葉です。その一方で…8〜9節で神と人間は天と地ほどの違いがあると述べているのだと思います。つまり、神から見れば人間の思いはすべてたくらみだということになります。…だとすれば、神の思いを完全には理解し切れていない人間が「主を信じる」ということをすると、それは欠けた神様、つまり人間が自分で考えた神様を信じることになってしまいます。旧約では「主を信じなさい」という言葉より、「主を尋ね求めよ・探せ」という言葉の方が多いのは、人間の思いは神の思いとは遠く離れているということを認めているからだと思います。…そうでなければ、人間の思いに過ぎないものを神の思いと思いこんでいるに過ぎません。…ですから、聖書の言葉に聴くということが欠かせないのです。
 …聖書は、「自分は欠けている」ということを認めていないと面白くないし、分からないのだと思います。…結局、人間が求めているのは自分を認め、受け入れてくれる存在です。そうすると、その欠けを満たしてくれる方に出会ったなら、大きな喜びに満たされるでしょう。そのことを、聖書は「呼ばれている」という表現で表していると思います。…私は聖書を読むようになって「ああ、欠けていていいんだ」と分かったんです。…”(No.503)


2014年 2月 9日

できることをする

 週報短文はいつも金曜日に書いているのですが、今日(7日)の天気予報によると、明日8日の未明から大雪、午後がさらに積雪が多くなる、とのことでした。予報を聞いて、そうだとすると、日曜日の朝はどんな状況になっているか、交通機関は大丈夫か、心配になってきます。皆さんの足元が守られますように。どんな天候でも、なんとか主日礼拝ができるようにと思っています。
 今回のような雪のため、あるいは台風のため、あるいは諸事情のために礼拝をお休みすることがあります。このような天候や事情ではなく、一人ひとり、やがて病や老いのために体がきかなくなり、礼拝に行きたくても行かれなくなるときがきます(そのような人たちへの配慮については、教会で考えなくてはいけない課題ですが)。わたしの献身は、母の突然の死の出来事がきっかけでした。母の人生が突如断ち切られたように感じたので、「人は死ぬ時が来る」と死を深く思うようになりました。それは同時に「生きる」とはどういうことかを深く考えることでもありました。
 献身して日本基督教団の教師となり、西川口教会に担任教師として迎えられたのは、2000年4月。その後2004年度からは主任となり、今年の3月が来れば主任となって10年が経とうとしています。神の憐れみと皆様の忍耐によってここまで歩むことができました。歩みの中で、わたしの生き方は単純になってきたように感じます。御言葉のとおりであると実感しています。
 マタイ6・34「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 朝にはよく「今日という日をなすべきことをなす力を与えてください」と祈ります。そしてできることをします。できないことは、神にお任せします。「何とかしなくては」という思いを手放しました。自分のできることに一つ一つ集中します。できたなら神様のおかげです。できなくても思い悩みません。安らいで生きています。(No.502)

2014年 2月 2日

東北での研修の旅

 昨年に引き続き、1年ぶりに東北での研修の旅へ出かけてきました。
 1月27日・28日の「婦人教職の集い」の会場は仙台市の作並で、被災地での3度目の開催でした。開会礼拝は仙台青葉荘教会の島静江牧師が説教され、うれしく聴きました。その後説教について学びました。翌日の28日午前は被災地の声に耳を傾ける時が持たれ、東北ヘルプ(仙台キリスト教連合被災支援ネットワーク)で奉仕されているK師の報告を伺いました。宮城だけでなく、岩手や福島の教会のネットワークと協力しています。東北ヘルプは支援者の支援という立場で、宗派も越えて協力し合い、活動を展開しています。福島の原発事故の被災を「放射線禍」と呼び、放射線汚染と不安の中にある重苦しい現実を伺い、心に残りました。皆で祈りを合わせました。
 「集い」が終わり、28日の午後は、岩手県大船渡市にある、日本基督教団大船渡教会(村谷正人牧師)に向かいました。途中、陸前高田を通りました。昨年は広大な更地が広がっていましたが、そのときより、建物が増え、重機も増え、工事が進んでいることがわかりました。「奇跡の一本松」も車中から見ました。
 夕方に大船渡に到着し、まず大船渡印刷のK社長にご挨拶に伺いました。今年の秋に西川口教会にお招きする山浦玄嗣(やまうら・はるつぐ)先生の著書を出版している会社です。大船渡印刷も津波で被災しましたが、社屋を高台に移転して励んでおられます。次いで、村谷先生と一緒に山浦先生にご挨拶に伺いました。冬の間は、講演活動は控えて、執筆活動に専念されているとのことです。次の本が楽しみです。
 翌日29日の午前は、村谷先生に大船渡中学校校庭にある仮設住宅に連れて行っていただき、被災して入居されている一人の方から、被災の体験と現在の心境を伺いました。一つ一つ尊い言葉でした。午後の祈祷会に出席し、帰路につきました。運転も守られ、無事帰宅しました。感謝します。(No.501)


2014年 1月 26日

神の言葉を語った指導者たち

 日本基督教団関東教区埼玉地区では、毎年成人の日を「地区デー」として、この日に埼玉地区新年合同礼拝を行っています。さらに地区デーを覚えて地区内教会での講壇交換礼拝を実施して、地区の交わりを深めています。西川口教会も毎年講壇交換礼拝に参加、実施しています。
今年度の相手先教会は東所沢教会です。本日は説教者として指方周平牧師をお迎えでき感謝です。
 東所沢教会は1986年4月6日に創立されました。東所沢教会を開拓伝道された初代牧師の山下萬里先生は、こころの友伝道の集会で親しくご指導いただきました。山下萬里先生はクリスチャンアシュラムのご指導もなさり、2000年夏の西川口教会ファミリーキャンプでご奉仕くださいました。山下先生の「みことばに聴く」姿と御言葉の説き明かしに、いつもわたし自身の姿勢が正される思いでした。晩年、山下先生が病に伏されたときお見舞いに伺いましたが、病床からわたしのために祝福の祈りをしてくださったときには、神への畏れが呼び覚まされ、同時に、牧師とはこのようなものかと厳粛な思いになりました。山下先生との出会いを感謝しています。
 ヘブライ13・7 あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
 先週21日は思いかけず、聖泉キリスト教会の三浦清重牧師が神のみもとに召されたとの知らせを受けました。三浦先生は有志の牧師たちと共に、現在の埼玉県南牧師会を立ち上げてくださいました。この牧師会が実行委員会となって「クリスマスの夕べ」が始められました。三浦先生は、川口市朝日で開拓伝道を始めて50年、車椅子の生活をされるお体にもかかわらず、キリストの僕として、福音宣教に邁進されました。
 神の言葉を語られた先生方の御姿が心に刻まれています。(No.500)


2014年 1月 19日

大津健一先生の説教より

 1月13日(月・祝)、埼玉新生教会を会場として、埼玉地区新年合同礼拝が行われました。今年は、隔年で開催される三区(1区・2区・3区)が合同で行う礼拝でした。300人以上集まりましたので、礼拝堂のほか、隣のホールでは映像を見られるように準備されていました。子供たちが30人近く参加してくれてうれしいことでした。小川教会の末永廣(すえ・はるひろ)牧師の子供メッセージの後、アジア学院校長の大津健一先生の説教がありました。その一部を分かち合います。
 “アジア学院は昨年創立40周年を迎えた。途上国の農業指導者の研修を行っている。アジア学院が目指す指導者は「サーバントリーダー」。人々に安全な食べ物を提供する持続可能な農業(化学肥料や農薬を使わない)によって、人々が食べていけるように、様々な人々が共に生きていける農村社会を形成する指導者の養成を行う。この世界の7人に1人が飢えている。同時代に生きる者として、食べることのできない人がいることを忘れない。毎年約30人の学生(農村リーダー)をアジア、アフリカ、中南米、太平洋の島々の諸国から招いて研修を行っている。
 東日本大震災はアジア学院にとってたいへんな危機であった。建物の被災、放射能汚染対策に追われた。学校の存続が可能なのか、苦しみの時であった。丹羽前理事長の言葉が励ましとなった。「わたしたちの働きが、神の御心にかなうならば、神が何とかしてくださる」。信仰はお守りではない。苦しみのただ中で、主イエス・キリストが共にいてくださることを経験する。コリントの信徒への手紙一第13章にある「愛」とは、まず、神のわたしたちに対する愛(アガペー)であり、キリスト者が立つべきところである。「愛を追い求めなさい」(同第14章1節)と続けて命じられている。初代教会は迫害の中で愛の共同体を形成していった。それがやがて新しい社会の基礎になった。愛の行為が基礎となるのである。・・・”(No.499)

2014年 1月 12日

キリストがお書きになった手紙―教会

  年末年始にかけて、敬愛する諸先生方や兄姉、諸教会からクリスマスカードや年賀状が西川口教会宛に届きました。掲示板に貼ってありますので、ぜひご覧ください。西川口教会が多くの方々に覚えられ、祈られ、祝福を受けていることを実感し、うれしく思い、主に感謝です。執り成しの祈りを主は必ず聞いてくださいます。こんなに愛されているわたしたちもまた、執り成しの祈りに励み、愛を表していきたいと願います。
 このように手紙を通して多くの方々からの祈りと愛が届いていますが、手紙といえば、わたしたち(教会)が手紙なのだ、という使徒パウロの言葉があるのです。ご存じでしょうか。
 コリント二 3・3  あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です
 神の教会は、伝道者(または説教者、牧師)を用いて、主イエス・キリストがお書きになった手紙であり、世に対して公にされている、というのです。教会という手紙は、墨などで書かれたり、石の板に刻まれたりするのではなくて、生ける神の霊によって、人の心の板に書かれているというのです。主イエスが教会(わたしたち)という手紙にどんなメッセージを書いてくださるでしょうか。それは神の国の福音であり、神の愛であり、主の救いの出来事に違いありません。主が書かれた手紙であるわたしたちが発する言葉もまた、愛に根差したもの、平和と祝福に彩られたものとなりますようにと祈ります。
 一般礼拝では平和の挨拶を続けて一カ月経ちました。「キリストの恵みと平和がありますように!」祝福に満ちた交わりに共に生かされますよう祈ります。お互いに気持ち良く挨拶を交わすことができますよう配慮してまいりましょう。握手が苦手な人は両手を合わせても結構です。(No.498)

2014年 1月 5日

真理によってささげられた者

 主の年2014年を迎えました。
 アドベント第2主日から先週の主日礼拝までは、ルカによる福音書から御言葉を聞きました。主イエスの降誕の出来事を直接に告げてくれる御言葉に耳を傾けようと考えたからです。本日の主日礼拝から再びヨハネによる福音書に戻ります。2011年12月18日からヨハネによる福音書の説教を始めました。少しずつ進んできて、本日の第18章まできました。本年の復活日(イースター)は4月20日になりますが、ヨハネによる福音書第18章以下の内容は、イースターの朝に向かうようにして、主イエスの逮捕、苦難、十字架への出来事に移っていきます。
 第18章に先立つ第17章には主イエスの祈り(「大祭司イエスの祈り」と呼ばれることもある)があります。全存在をかけて、弟子たちのために祈ってくださる主イエスがおられます。この祈りで教会は昔も、今も、これからも支えられていくのだ、と信じます。この主イエスの祈りの中で、教会とは何であるか、主の弟子たちとは何者であるかが示されています。
 ヨハネ17・17〜19 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです
 真理によって、弟子たちは聖なる者とされます。弟子たちが真理によってささげられた者となるために、主イエスはご自身をささげてくださいました。「彼らも」とありますように、まず主イエスが真理によってささげられた者となられました。この主イエスの祈りと、今年の御言葉に選んだ聖書のことばが響き合うのです。
ローマ 12・1 兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(No.497)


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