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昭和13年頃のヘルマン邸

ヘルマン ハイツ
(旧ヘルマン屋敷跡)
(西岡本7丁目)

ヘルマン邸

 明治末期から大正にかけてドイツの電気通信企業シーメンス(ジーメンス)社の極東支配人ヴィクトル・ヘルマンが住んでいました。ヴィクトル・ヘルマンは、1870920日、ドイツのミュンヘンで生まれました。シーメンス社は、ドイツのミュンヘンに本社を置く世界的企業であり、この時期ドイツの海外進出とあわせて、日本にも主に電気関係の製品を売り込みに進出していました。
 当時東京と大阪が主な拠点であり、ヘルマンはその極東支配人として明治の末期に日本に派遣されました。ヘルマンは、住吉川沿いの高台に居を構えました。これは当時この地域が大阪郊外の高級住宅地として脚光を浴びており、多くの財界人がここに居を構えたのです。(この現象は阪神間モダニズムと呼ばれ、阪神大水害の起こる1930年代まで続いた)日本に永住する意志を固くしたヘルマンは、明治41年、16町歩もある一山全部を買い取り、工費35千円でこの地に豪奢な館を建てた。設計は同じドイツ人の建築家ゲオルグ・デ・ラランデに依頼しました。
 その頃日本に建てられた異人館は、日本の風土と豊富にある材質を考え合わせ、ヨーロッパの建築様式を変形させた木造建築で、北野町の異人館(例えば風見鶏館)に見られるようなコロニアル様式がほとんどであった。
 しかし、ヘルマンの館は、このようなコロニアル様式を完全に排除したドイツ式の本格建築であった。ヘルマンの財力と建築家ゲオルグ・デ・ラランデの理想主義がぴったりと合致し本国から遠く離れた日本の雑木林の中に、石材を積み上げて、まるで中世の貴族の城のような館を建てたのである。その豪華さでは、同じ本山近辺の六甲山中腹にある大谷光瑞師の建てた二楽荘とともに、人々の話題となった。
 シーメンス社は、1847年ドイツのベルリンにおいて、ヴェルナー・ジーメンスによって設立された会社で、主として鉄道車輌及び重電部門(発電機・変圧器等)の製造・販売を事業の柱としていた。明治に入り、日本の経済が発展するとともに、鉄道、電気に関する需要は増大していった。この分野に関しては、GE(ゼネラル・エレクトリック)(創業者エジソン)を代表とするアメリカが圧倒的に優位であり、続いてドイツ、イギリスの順であった。しかし、シーメンス社は、先行するアメリカのライバル社と熾烈な価格競争を続けることで、徐々にシェアを伸ばしていきました。シーメンス社と日本の企業との関係に着目すると、旭化成やチッソに代表される日窒コンツェルンを築いた野口遵も一時期シーメンス日本に籍を置いていたし、古川財閥系の富士電気は、シーメンスとの合弁により設立された会社である。現在では、通信機械も取り扱う世界的な多国籍企業であり、一般的にはなじみが薄いが、補聴器等では日本の消費者とも接点がある。
 ヘルマンは、日本に赴任すると猛烈な勢いで仕事をし、会社の業績も上向いていった。
ミュンヘンでは想像もしなかった豪奢な生活が繰り広げられることになるが、その代償として、ヘルマンは手を汚すことになるのである。
 世に言う「シーメンス事件」である。(「シーメンス」は英語読み。主として日本史の専門家が使う。西洋史では、「ジーメンス」。)
 シーメンス事件は、海軍の高官が賄賂をもらい、時の山本権兵衛内閣が大正三年に総辞職をするという大疑獄事件として有名であるが、間違った言い伝えもいくつかあるように思う。@軍事企業であるシーメンス社から賄賂をもらったことになっているが、シーメンス社は本来、軍事企業ではない。
Aシーメンス事件は、ドイツのシーメンス社とイギリスのヴィッカース社の二社が関与する。疑獄事件は、圧倒的にヴィッカース社にその責があるが、事件が報道された発端がシーメンス社であったことにより、「シーメンス事件」と呼ばれるようになった。しかし本来は、「ヴィッカース事件」と呼ばれてしかるべきである。「シーメンス事件=ドイツの軍事企業シーメンス社による贈賄事件」といった、ステレオタイプの通説となっているが、事実は、これとは少し違っているように思う。シーメンス事件の主役は、ヴィッカース社が戦艦金剛の発注に絡み、賄賂を日本の高官に日本の代理店である三井物産を通じて送ったことである。
脇役として、海軍無線電信所船橋送信所設置に絡み、贈賄をしたシーメンス社が登場すると考えられる。その根拠は次の通りである。まず賄賂の額であるが、ヴィッカース社が40万円なのに対し、シーメンス社は10万円余りである。戦艦発注に対する贈賄と、「船橋」という一地方都市の無線所設立に対する贈賄とでは、意味合いが違うように思える。本来なら、「ヴィッカース事件」若しくは「ヴィッカース・シーメンス事件」と呼ばれても良いように思う。
 しかしながら、ヘルマンはその行き過ぎた違法行為により、処罰されることになる。
大正3714日、「懲役1年、執行猶予3年」の有罪判決が下された。時にヘルマン43歳であった。
 ヘルマンはその後、シーメンスの子会社であるシーメンス電気会社に一介の技師として就職し、再起の機会をねらっていたが、それが無理だと分かると、事件から7年後の大正10年に館を日本の会社に売却し、一家をあげて東京に移住していった。
 東京に転居して2年後の大正12年には、電気技師としての職を辞し、ドイツへと帰国した。その後のヘルマンの消息は不明である。
 ヘルマンが去った後、館はそのまま住む人もなく放置されていたが、洋画家である宇和川(みちさと)(洋風美術団体「白馬会」所属)夫妻が館を借り受け、一人息子とともに、ここに住んでいた。  その後の館については、いくつかの都市伝説があるが、「昭和20年の空襲で焼夷弾の直撃を受け、燃えるものは燃え、廃墟は昭和40年代後半まで存在していた」というのが一般的な史実であろう。(一部、不審火と言う説もある)
その後、館は取り壊され、跡地は「ヘルマンハイツ」として売り出され、現在は高級住宅地となっている。遠く大阪湾まで見渡すことのできる高台は、主を変えてもなお、その素晴らしい景色を住民に供している。
 ヘルマン邸の敷地がどのように変遷してきたかを見ていくと、地域と近代日本の関係が垣間見えてくる。もともとの所有者は地元野寄のO氏である。明治41年、ヘルマン合資会社が土地を買い取り、ヘルマン失脚後、シーメンス日本大阪支社の元社員であり、川北電気工業株式会社(本社名古屋)の創始者である川北栄夫氏に買い取られた。その後、戦時中に神戸製鋼所に所有権が移り、戦後泉州の阪本紡績の手に移った。
昭和46年前後に、跡地が造成され、分筆区画分けされて宅地として売り出され、現在に至っている。

                            西岡本からのお知らせ「ヘルマン邸」

   ヘルマンハイツ(西岡本7丁目)からの大阪湾を望む 
当時のヘルマン邸の容姿 (大正3年1月発行 神戸新聞転載分に着色・想像着色)
ドイツ人建築家 ゲオルグ・デ・ラランデの作品(北野町風見鶏の館も手がけた)
   

塔屋の尖塔部分

塔屋の尖塔部分

南側に石造りの回廊

窓の外に見える書庫 (2階の回廊より望む)

西側を望む(住吉川 観音林)

ヘルマン邸の廃虚跡(中世城郭風建築)
昭和34年6月(1959)   管理者 画 
幻の「ヘルマン邸」
幻の「ヘルマン邸」

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            画像8枚提供:海野氏