野寄区 地車祭り
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永禄十二年巳
南郷春日社御神供料摂州
山路荘公事銭取調帳
      十二月吉日

*条里制
  集落は固有名詞で呼ばれずに機械的に何条何里と呼ばれた
(後に郷と改称)。

*山路荘
  荘園時代の京都北野神社の社領地、後に春日神社の社領となる。

*加地子(かちし)
  田地の年貢の他に畠地に対しては畠地子と称して生産物の物納を行った。

*山公事
  領土直轄の田畠に労力を提供した。

参考:兵庫県地名大辞典(角川書店)
   本山村誌

ヘルマン邸の面影    エッチング画

私達の町名は、武庫郡本山村が神戸市との合併により昭和25年10月10日神戸市東灘区本山町野寄になりました。
その後、昭和54年(1979)に本山町野寄から「西岡本」に変わりました。

住吉川の清流
明治19年(1886)頃
「のいり」とも呼ばれた(摂陽群談)。六甲山南麓、住吉川東岸の扇状地に位置する。地名の由来は、別称の通り「野入り」により、住吉川沿いに野が入りこんでいたことからといわれる。
(神戸の地名)

また、条里制の遺構とする莵原郡野四里による説もある。
(本山村誌)
  戦国期に見える村名。摂津国莵原郡山路庄のうち。永録12年(1569)12月吉日付山路庄公事銭取調に「野寄村分」とあり、当村への加地子・山公事負担の割り当てが記されている(高井家文書)。ここに記載された村内の小字地名は16あるが、その内「四つ枝・松本」(西岡本1)は近年にも本山村野寄地区の小字として残る。 (本山村誌)
 江戸期〜明治22年の村名。莵原郡のうち。山路荘に属した。もと豊臣氏蔵入地。はじめ攝津幕府領、元和元年(1615)幕府領、同3年尼崎藩領、明治6年からは幕府領。村高は、「摂津高改帳」132石余「天保郷帳」192石余、「旧高旧領」196石余。戸数、人数は、元禄6年(1693)36軒・198人、明和6年(1769)57軒・270人。鎮守は大日女尊神社。寺院は浄土宗明休寺。純農村地帯で、住吉川より用水を引いていた。明治22年(1889)本山村の大字となり、当村飛錯地は魚崎村の一部となる。
 明治22年〜昭和54年の大字名。昭和25年からは本山町を冠称。はじめ本山村、昭和25年から神戸市東灘区の大字。明治24(1891)の戸数56、人口は男性162、女性172。明治30年(1897)頃は農閑期に酒造米の水車精白や素麺製造を行っていた。明治37年(1904)久原房之助が広大な邸宅(西岡本2)を構え、同40年ドイツ人ヘルマンが字東坂口(西岡本7)に別荘を設けてから住宅地として発展した。しかし昭和13年(1938)の阪神大水害では住吉川の洪水、山津波を受け様相を一変、さらに同20年(1945)の戦災で大打撃を受けた。昭和25年の所帯数904、4,190人。一部が、昭和45年甲南町1〜5丁目・田中町1〜5丁目・魚崎北町1〜8丁目、昭和48年岡本1〜9丁目、昭和54年西岡本1〜7丁目となり現在に至る。平成7年(1995)1月17日午前5時46分阪神・淡路大震災により、西岡本地域で15名の尊い命の犠牲者が出ました。
野寄から西岡本へ
野寄〔中世〕
野寄〔近世〕
野寄〔近世〕
私達の町名
野寄から西岡本へ