住吉 お旅筋での記念写真   昭和13年頃
本住吉神社本殿前での記念写真   昭和10年頃
昭和8年11月15日の地車新調記念写真 (大日女尊神社の境内  後の建物は公会堂)
戦災(昭和20年6月5日)で焼失した地車         大工は大石巳代吉師、彫刻は川原啓秀師
江戸時代  嘉永7年(1854)本住吉神社だんじり(当時:楽車)宮入の順番を記載した書物がみつかった。
      当時の地区名で
12台のだんじりが宮入している。7番目に「野寄村」と明記されている。
      (原本:住江地区所蔵)
      【宮入順】嘉永7年寅六月改(この年に「改」で、それ以前から地車宮入があったことが分る)
           1番:西ノ町、2番:茶屋町、3番:吉田町、4番:空ノ町、5番:山田町、6番:呉田町
           7番:野寄村、8番:魚崎村、9番:横屋村、10番:田中村、11番:青木村、12番:岡本村

      
この時期の地車が初代のだんじりと推測する。

明治時代  明治元年、神仏分離令により、元禄5年(1692)に建てられた萱葺きの「大日堂」(大日如来)を村内の
      寺院にあずけ、お堂をそのまま社殿として、旧家の宝刀を御神体に献じ、「大日女尊神社」として「天照
      大神」奉祀した。(本山村誌)
    

大正時代末 古い地車は、久原邸に寄贈して庭園の中に飾として置かれたが、鳥小屋として使用されていた。
      
(東灘区役所発行「うはらの歴史再発見」より故坂田茂二氏談)

昭和初期  昭和5年頃、大阪河内方面より中古の地車を購入した。(馬で引っ張って来た)
      
(東灘区役所発行「うはらの歴史再発見」より故坂田茂二氏談)

      
この地車が、2代目のだんじりと思われる。
      その後、この地車は昭和8年に本山村の中野地区に売却された。(平成15年改修される)

昭和8   区画整理で道幅が広くなったのを契機に大日女尊神社境内にて地車を一年かかって新調する。
      大工: 大石巳代吉    彫刻: 川原啓秀
      この新調地車が、3代目となる。

昭和13年  阪神大水害で大きな被害を受ける。

昭和20  空襲により地車焼失する。

      地車復興までに、昭和22年頃森地区の地車を2度程借りて曳く
              昭和24年頃弓場地区の地車を借りて曳く
              昭和30年頃打出地区の地車を借りて曳く

本住吉神社宮入    
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地車の沿革

昔の地車
(昭和8年〜昭和20年)