僕は先天性角膜混濁という目の病気を持っている。 これは眼の表面にある角膜がにごっているというもので、現在の視力は右が0.01,左はそれ以下である。 実際どのくらい見えているかというと、まず裸眼で字を読むことはほとんどできない。 中学、高校の6年間は点字を使っていたのだが、大学受験を機に拡大読書器を使うようになった。 また、「人がいる」というのは見えるが、それが誰なのか、どんな顔をしているのかはわからない。 なので普段は、声で誰かを判断するようにしている。
さて、こんな僕であるが、日常生活で何が困るかというと、実のところさほど困ることはない。 街を歩く時には白杖を持っているので問題はないし、字が見えない時には人に聞けばよい。
しかし、中にはお手上げなモノもある。 その一つは銀行のCDやATMである。 皆さんもご承知のとおり、現在銀行のCDやATMはタッチパネル式である。 これは僕達視覚障害者、それから高齢者の方々にはとても使いづらい。 と言うよりハッキリ言って使えない。 全盲の人はもとより、弱視の僕でさえ目を近づけると鼻や髪の毛で他のボタンを押してしまう。 僕の場合、画面上のボタン部分の色の違いはわかるので、ボタンの場所を覚えることで最低限お金を下ろすことはできるが、残高照会や振込みなどはまったく手も足も出ない。 郵便局のCDやATMには点字表記や押しボタン、音声ガイドなどが設置されているので、視覚障害者でも問題なく使えるのだが、銀行の場合、そのようなものはほとんど皆無である。 これは、タッチパネル式のCDやATMを設計する段階で視覚障害者がそれを使用することを想定していないということが原因であろう。
そこでどうやって振込みや残高照会をするのかというと、銀行に行く度に銀行員に暗証番号を教えて機械を操作してもらうのである。 なんとお粗末な方法だろうか。 第一、これでは暗証番号の意味がない。 銀行員の中には、僕が小声で言った暗証番号を大きな声で繰り返す人や、ひどいのになると、自分が勤めている銀行のCDやATMの使い方を知らない人もいる。 また埼玉県の銀行員が視覚障害者の夫婦の預金からお金を騙し取り、さらにそのことを隠すために二人を殺害するという、怒りの鉄拳を食らわしてやりたくなるような事件も起きている。
それに、銀行の窓口は平日は午後3時で閉まってしまうし、土日や休日には銀行員はいない。 これでは本当にお手上げである。 マジで何とかしてほしい。
・・・なんかしょっぱなから愚痴ってしまった。 でもこのことは日本全国の視覚障害者が一度は不満に思ったことのあることだろうと思うし、この問題はかなり重要かつ緊急なものであると思う。
僕が音楽を聴くようになったのは小学校6年の頃。 ある晩ラジオから流れてきたTHE BLUE HEARTSの"Train Train"を聴いて「何だこれは!」と思った。 鳥肌が立った。 一発でとりこになってしまった僕は妹の友達のお姉ちゃんに頼んでTHE BLUE HEARTSの曲をカセットテープにダビングしてもらって、それを何回も何回もテープが伸びるまで聴きまくった。 特に"リンダリンダ"と"終わらない歌"がお気に入りだった。
中学に入ると僕は寮で生活するようになった。 そこには僕なんかよりもずっと音楽に詳しい同級生や,ギターやドラムをやってる先輩とかがいてとにかく刺激的だった。 その中で僕は松任谷由実、吉田拓郎,オフコース、チューリップ,嘉門達夫、ZIGGY、BOOWY等を幅広く、というよりは何の脈略もなく聴いていたが、特にJun Sky Walker(s)が好きだった。 金持ちや政治家に対する批判や風刺の利いた詞、それと"カステラ"や"ごみ箱"なんかの,とても短いけどぴりりと辛い曲が好きだった。
そして中2のとき,大事件が起きた。
当時僕には好きな人がいたのだが,なかなかうまくいかずに悩んでいた。 そんな僕を見てある友人が「彼女もこのアーティスト好きなんだって。 だからとりあえず聴いてみろ」と嘘を言って、Xの"BLUE BLOOD"というアルバムを押し付けられた。 はじめは気が進まなかったけれど,彼の嘘をまに受け,「これを聞いて少しでも彼女と共通の話題を作ろう」と考えた僕は,部屋に帰ってCDを聴いてみた。 ・・・圧巻だった。 暴れまくるYoshikiのドラム,Toshiのハイトーンボイス,ギターの早弾き、迫ってくるような曲の激しさ,またその一方で"Endless Rain"や"Unfinished"のような繊細なバラード,どれも鳥肌モノだった。 中でも"Endless Rain"が特に好きで,曲にあわせて歌いたくて英語の歌詞を辞書で調べたり先生に聞いたりした。
それから高校を卒業するまでの5年間,僕はX一色だった。 年末には東京ドームへ行って暴れまくり,CDやビデオを買いあさり聴きあさり、歌詞も覚えて歌いまくった。 大げさかもしれないが,僕の考え方,生き方にXはとても大きな影響を与えたバンドだと思う。
僕が高2の頃,Xのギターリストhideがソロデビューした。 デビューシングルは"Eyes love you"と"50% & 50%"の2枚同時発売で、2枚のジャケットを並べて見ると真中に3Dの目が移るという仕掛けがついていた(僕には見えなかったが)。 hideはこういうイタズラが大好きだ。 例えば"Eyes love you"には92曲目というのがあり風邪気味のhideがギターを弾きながら"Eyes love you"のさびの部分をうたっている。 こういうイタズラを見抜くのも一つの楽しみだ。 だがやっぱりhideのうりは"TELL ME"や"Misery"、"frame"、"LEMONed I scream(レモネードアイスクリーム)"なんかにあるようなポップなメロディーとポジティブな詞だと思う。 個人的には"doubt"とか"damage","Fish scratch fever"なんかが気に入っている。
というわけで僕の音楽遍歴をつらつらと書いてきたが,この文章を書くにあたって,いろいろと思い返してみてなんだか懐かしくなった。 THE BLUE HEARTSとかJun Sky walker(s)を今聴いたらまた違う感じがして面白いかもしれないな。
2月6日から1週間ほど,私用で沖縄に行ってきました。 トップページにも書きましたが,滞在中,毎日昼間は半そででOK。 ちょうど桜が満開で,あっちこっちで桜祭りが行われていました。 今回は僕が沖縄で感じたことを書こうと思います。
まずはやっぱり食べ物の話から。
滞在中に畑仕事をしました。 祖父がさとうきびを作っていてちょうど収穫の時期だったので、それを手伝ったのです。 できたさとうきびを数本ずつ束ねておいてあるのを畑の端まで運び出す作業でした(沖縄の方言で「うじかたみや」といいます)。 さとうきびって僕なんかよりも背が高くて、中には3mぐらいあるのもあるんです。 おまけに台風の影響なんかでひん曲がってるのもあるんですよね。 経験の浅い僕たちは肩にタオルをしいてから担ごうとしたんですが,慣れるまでは結構苦労しました。
途中でちょっと休憩を入れました。 その時にさとうきびをかじってみたんですけど,やっぱり甘かったです。 って当たり前か。 そうそう,さとうきびって味の素の原料になってるんですね。 知りませんでした。
それにしても畑仕事はイイですね。 太陽の下で汗を掻く。 すごく単純なことなんですけど,普段都会で生活している僕にはすごく新鮮に感じました。 終わった後のオリオンビールと昼飯がうまいことうまいこと。 こういう経験をすると普段何気なく食べているものに対して改めて感謝したくなります。
話は変わりますが…
沖縄から帰る前日,いとこの子供達をつれて近くの公民館へ野球をしに行きました。 途中から祖父とおばが来て,なかなか楽しい時間でした。
お昼ご飯に帰る途中,祖父の妹に会いました。 しばらく話をしていると,彼女のだんなさんが帰って来ました。 そしてまたしばらく話をして,彼らと別れた後,ちょっと歩くと,今度は祖母の姉に会いました。 その後も,祖父の小学校以来の同級生,祖母の妹などに会い,そのたびに立ち止まって話をしました。 おかげで,普通に帰ってくれば5分とかからないところを20分もかかってしまいました。
なかなかご飯にありつけずにいた僕達でしたが,「こういう環境って子供にはとてもイイかもしれないなあ」と思いました。 地域全体が一つの家族みたいでもあり、また学校のようでもある。 だからたとえ他の家の子供でもきちんとしかる。 親や学校だけじゃなく,社会全体で子供を育てていく。 そんな感じがしました。 僕が小学生の頃は東京でもこんな光景が見られたのになあ…
滞在中,複雑な思いもしました。
一足先に東京へ帰る妹を那覇空港へ見送りに行った帰り、いとこ達に北谷(ちゃたん)の町を案内してもらいました。 街にはまるでお台場のそれのような大きな観覧車や、おしゃれなレストランが建ち並び,夜遅くまでネオンがきらきら輝いていました。 でも一方でナイフや水筒などのアーミーグッズを売るお店や軍人を相手にしている飲食店も並んでいました。
僕達が沖縄にいる間,テレビではちょうどアメリカ軍の幹部による「馬鹿な弱虫発言」やえひめ丸事故のニュースが報じられていました。 北谷に行くまではこれらのニュースを見るたびに,アメリカ軍人の傍若無人振りや日本政府の対応のまずさに腹を立てていて、「早く撤退させろよ」と思っていたのですが,軍を生活の糧にしている人達が予想以上にたくさんいることを知り、また県内の失業率の高さを思うと「軽々しく軍撤退を叫んじゃいけないのかなあ」と考えてしまいました。 でもやっぱり腹の虫は納まりません。
最後に…
東京に帰ってきてから家族の間では「早く沖縄に帰ろう」という話がよく出ます。 数年後には,両親は沖縄にいるかもしれませんね。 そして,年に数回アノあったかい沖縄に帰る。 今からとても楽しみです。