佐藤敏宏   この人に聞く    

 2009年6月30日   本江正茂さん (第1回)         home 

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 その03

本江: で、僕の同級生で修士の時のね。Iさんて言うんですけど。お坊ちゃんでお金持ちだった。「これからコンピュータを使わないといけないから」と。で留学生がマッキントッシュを持っていたんですよ。アップルU。で当時はまだウィンドーズも無くって。でPC98で一太郎とかワープロ使っているぐらいで。キャドって言ってもダサイやつしかなかった

マッキントッシュは留学生とか。覗いていると明らかに、全然、別のものだったから。「買うんならこっちだ」って言って。で一式買わせたわけですよ。たぶん当時100万とか、そういうスキャナーと本体と13インチのモニターとプリンター買いましたから。

佐藤:85年ごろ僕ワープロ買った。150万円ぐらいしましたよ。
本江:そうそう、それのたぶんちょっと後ぐらいだと思うんですけど
佐藤:次の年になったら、性能が上がり、30万ぐらいに下がった!ムカツイテ、PCアレルギーになってしまった。PCは相当出遅れ2000年になった。
本江:ふははははは、ちょうどそれを買った。買わせた。

佐藤:プログラムをやってみたんですか
本江:マッキントッシュは直接プログラミング言語を使って、というよりは、当時はアプリケーション、凄いのあって。
佐藤:ソフト有ったですか!
本江:スーパーペイントとかですね、モデルショップとか。今思えば非常に素朴なモノですけど。でも非常に画期的なソフトでね。それこそさっきの話じゃないけど、暇だから、ずーっとコンピューター使ってましたですね
佐藤:ふふふふふふ
本江:で、ソフトもそう買えないから。留学生から頂いて使うわけです。今は時効だから言うけど。 そうすると英語版なわけ。マニアルも無いわけですよ。まだ昔は素朴だからソフトが。全部のコマンド順に試して。その初期設定とかも、単語の意味は判るけど、それが何を意味しているのか解らないから。全部いろいろパラメーターを代えてって、何が起こるか?を見たりしながら。これはこういうふうに構造付けられているんだ!と解析をしていました。延々

佐藤:PC使いながら、プログラムソフトを作った人と交流してたわけね
本江:どういう構造でデータが、これどういう意味なのか?
佐藤:機械を解体している少年みたいなものだ

本江:
そうそう、だから壊しこそしないけど、ソフトウェアーで中身をどうなっているか延々見ている。あれは、今思えば重要な、凄く面白いタイミングだったな〜と思います。

今、始めてコンピューター触ったら複雑過ぎて、同時に至れり尽くせりなので。ああいう、僕がやったみたいに全部コマンド試すとか。ちょっと代えて何が起こるか見るとか。何も変わらない。そんなような事をやる気にならないし。山ほどアンチョコ本も有るしね。だからそういうタイミングだったですね〜。特に3Dのソフトがあって。

モデルショップというのがあんですよ。今、無くなっちゃったんだけど。モデルショップというソフトが有って。今思えばもの凄い素朴なワイヤーフレームのパースは描けるわけだけど。でも透視図が描けるだけでも感動的じゃないですか。でパラメーターも少ないから、何を操作すると何になるのかみたいなこと延々やって。で中身を。暇だからずーっとやって。
佐藤:変革期は暇が重要です

本江:暇だからずーっとやってましたね。でインターネットも無い!まだ無いわけ。で、それを延々やっていて。それで、「やっぱり凄い面白い」と思って。その頃はマッキントッシュの色々デザインコンセプト解説する本とか、ボチボチ出だしてたんで。で、そんなようなものを読んだりしながら、デザインの。たえとえばユーザー・インターフェースっていう考え方とか。 そういうようなものは全部、マッキントッシュを解剖しながら学んだという感じですね。
佐藤:パソコン第一世代って感じですね。

本江:まあそれを作った人達いるから、あれだけども。使い始めた世代ですよね。非常に不思議なタイミングと縁と

 1995年頃

佐藤:
95年の爆発的なITブームはどんな感じに眺めていたんですか

本江:えーとね、その時は丁度ドクターから助手になるとか、そのぐらいの感じなんですけど。そのウィンドーズ、ブームちょっと前にインターネット利用ブームってのが大学には来たんですよ
佐藤:よく聞くけど実態は知らない

本江:そうそう。当時は電子メールもろくすっぽ無くって。その前でいえば。パソコン通信やっていたんですね、電話で。アナログの電話機で。それは自宅でやってましたけども。それとは別に、「インターネットって言うものが 有る」と。「それは、ただならないものである」と、いうことは情報としては知っていたけども。

民間で利用するっていうのがまだちゃんと無くって。民間向けのプロバーダーが始まるの、始まらないのぐらいのとき。だから大学にインターネット特需がやって来てですね。全部の教室にインターネットを引くと。で、コンピューターはネットに繋ぐべし。で、eメールをみんなで使え!ついてはこれだけ予算が有るみたいな。来た。

で学科で、こうデザイン系と構造とか環境とかに三台ぐらいワーク・ステーションそれぞれ、92年とか3年かな。直前です95年の。でワーク・ステーション買うと。

何買って良いか判らないんですけど。ちょっと色々調べて。ソニーのねミューズ、知っている人もういないと思いますけども、ワークステーション買って。で「周りを見渡すと一番詳しいのお前だから、その係りをやれ!」と言われてですね。でそのマッキントッシュを朝から晩までやってたのと同じような事を、今度ユニックスのワークステーションでやって。

佐藤:大学のメール管理をやっていたんですね
本江:そうそう。でだから思えば僕が、たぶんドクターの学生の時。今思えば恐ろしですけれど。それこそ歴史の先生とか建築学と意匠の先生のメール・サーバー、僕が管理してたからさ〜。

佐藤:メールのぞけちゃう

本江:見ようと思えば見えちゃう。見なかったけども。でもそういうような感じで、やっとメールサーバーを動かす。「もうやりたくないと!」と思うぐらいでしたけれど。

でもそれをやって、そうこうしているとワールド・ワイド・ウェッブ(www)というものがあると。モザイクというソフトが有るという話を、もうちょっと詳しい人がやっぱ居るので。「何ですかそれ?」とか言いながら見に行って。絵が一緒に出るのを見て「へー〜!」と「論文を共有する」とか。「へー〜!?」とか言っていたです。

佐藤:インターネットは大学者たちが論文を共有するために有る、みたいなことで言われていた事が一番最初の情報でしたね
本江:そうそう。だったです。でそれが現場ででも、もちろん電子メールとか使っている人達はいましたけど。構造もみんなスタンド・アローンで構造計算とかはもちろんやっていたけど。ネットを使うっていう文化が無かった。それで「これは何だろな〜?!」と思いながら。

佐藤:情報をみんなで共有するっていう概念は無かったですよね
本江:無かったです。コピーもらうとか。
佐藤;情報を譲り受けるのは有ったけどね ふふふふ
本江:っていうようなことだったわけですよ。それで。
佐藤:あの当時は情報は金吊弦だけど、独り占めして、人に教えないのが常識だった。情報は金だ!集めろと。

本江:
そうそう。だったです。それでHTMLというのを書くとホームページが作れるみたいなのがあったから。東大の建築の中で、サーバーを立ち上げて。情報を発信しましょうと。でも全部手書きで作ってたりしたですよね。で、そんなような事をやっていたです。

佐藤:まさにサイバー空間に入り浸っていた
本江:まあ暇だったから。
佐藤:やっぱ暇って重要ですよね
本江:暇ってことが大事。で当時はだからもの凄くコンピューターを使っていると言っても、素朴な。もちろんプログラム・スタンドアローンで何かやるっていうのは。凄い人は沢山いたんですけどね。ネットで何かっていうのは。特に日本語でっていうのはあんまり無い頃だったですね

佐藤:その当時はどんな活用のされ方をしたんですか
本江:やっぱメール。メールだけど。メールの相手があんまり居ないから
佐藤:ふふふふふふ メール出してからオーイとか言いながら、研究室に行くとか
本江:名刺にメール・アドレス書と「と言われるような時代だったですよ。「これって何?」って。「アッドマークってどうやって入れるの?」みたいなことだったけど。でも直ぐに普及していったですね。そうするとボチボチコンピューター使っている人たちが、パソコン通信とかに投稿してくるから、建築系の人達も。で、「みんなの建築」っていう掲示板を作ったりとか。

佐藤:2000年以降ですけど、見たことありますね。
本江:なんですね。
佐藤:みんなの建築」掲示板っていうのは、建築系の人達に、今は2チャンネルなんかで直ぐ立てますけど。あんなふうに成るとは考えてなかったでしょう。
本江:もっと素朴な、パソコン通信のインターネット版と

佐藤:
ハンドルネームで悪口書き合うとか想像してなかったでしょう
本江:してなかった。パソコン通信時代にも有った。あそこまで露骨ではないけれども。パソコン通信はIDが出ちゃうんですね。でもオペレーターには匿名じゃないので。あんなにはえげつなくなかったです。でもまあ類することはあった。だからフレーミングなど炎上するのは何度も見ていたので。
佐藤:パソコン通信の頃から炎上ね

本江:パソコン通信で炎上。
佐藤:「みんなの建築」を開始したのは何年ですか

本江:「みんなの建築」をやったのはですね、何年だろうな〜。御免なさいその辺ちゃんと、90年代前半ぐらい
佐藤:90年代前半!早いですね〜。2000年頃、知ったけど
本江:それで、iMacが出たり。win95が出たりして。だって当時はマッキントッシュもインタネットに接続するのはオプションでソフトを買わなきゃいけなかったんですから。
佐藤:ソフトを買わなければwwwに繋がらない時代だったと
本江:繋がらない。

佐藤:ビールおかわり下さい 。「みんなの建築」は今はどうなっているか知りませんけど。「「みんなの建築」というのはサーバを大学に置いて、運営はどうしていたんですか ほっといたんですか
本江:運営は元永二朗さんというね。当時は理科大に行った人が。そのプログラミングも出来たので。それを作って。だから構想だけ、あとは京都に行った、ちょっと前まで宮城大にいた仲隆介さんと。「それでやろう」って盛り上がって。サーバー設けてやったんです。試行錯誤して。

佐藤:今もあるんですか。
本江:今も一応は有る。でももう掲示板は動いてないです。役割を終えたと。
佐藤:2チャンに任せて
本江:2チャンネルも有るし。マルチメディアでずーっとやっていくみたいな事もなかなか無いので。

佐藤:掲示板の話に入ってしまうと脱線し過ぎそうなので、本江先生の話に戻しましょう
本江:そんなことでコンピューターの管理をやっていた。


都市デザイン研究 

佐藤:まだ博士論文までは
本江:遠いですね。でも別にそれで、すごいコンピューター少年になっていったと言うのかと。今僕が情報云々と言っている事は、かならずしも直接つながるわけでもない。というか。というのは大野研に永く居たんですけど。何やっていたかと言うと。これは92年SDの、今は無い。(バッグから本を取り出す)ですけど。香港の特集っていうのをやっていた。

佐藤:聞いたです、寺田さんじゃないですか
本江:寺田真理子さんとかが居た頃です。寺田真理子さん僕と同じ年ぐらい。そしてこれ大野研で編集してて。で香港の研究をやった。これは2回ぐらい
佐藤:香港をテーマにしたっていうのは、どういう流れですか
本江:それはだから大野研の都市デザイン論の文脈で。オルタナティブを掘り下げていて

パリとかニューヨークとかの研究は沢山あって。で都市研で江戸東京の研究をやって。それとの流れで大都市を観ようと。でパリ・ニューヨークじゃなくってアジアでっていうので。当時シーラカンスの小嶋さんが助手やっていたんで。香港に行って。「すげー!!」って言って。

「じゃーみんなで見に行こう」で行ったんですね。だから返還前の。もう凄いこういう(写真をみながら)ガッチャガチャのファサードですね。でこういうもの(ファサード)は一体何だろうな〜っていうような研究を。

佐藤:表紙の写真を撮らせてください。
本江:はい
佐藤:これは一体なんだったんですか ふふふふ都市っていうのは一体何なんだろうっていうのを、答えは無いですよね。
本江:まあ、無いんですけど、都市研究ですよね。
佐藤:この本と写真、貴重ですね〜

本江これは貴重で、本当は差し上げたいんですけど、沢山もっていないので。
佐藤:凄いですね〜
本江:こんなのもやったりして。
佐藤:これは、コンピュータを片手でやりながら、一方の手で都市も研究していた

本江:そうそう、だから、仕事でコンピュータやっていたんだけど。こういうファサードとか雑踏的な、沢山の光と看板が飛び込んでくるとか。臭いとか。
佐藤:メージャーな都市に対するオルタナティブな都市を観よっていう発想は、何かディスカバージャパンじゃないですけど、そういうアジア系が出たんですか。
本江:大野研で当時は表層と言っていて、表の層
佐藤:表層とか表象とかね  

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