花田達朗教授による公共圏について
2002年3月3日の建築あそび の記録   2−1
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        花田達朗教授の講演 第二バージョン

             言説の公開性

西欧バージョンではですね、ハーバーマスが抽出したように、公共圏っていうものは、二つの原理でもって成り立つ・・一つは言説の公開性・・言説・ディスクール・言葉を発表し公開していく・・オープンにする・・これが公開性。

自分の考えとか思想を言葉にして、オープンにしていく。そういう行為の原則が言説の公開性。これは言い替えれば言論・表現の自由っていうことに重なるわけですね。

言論・表現の自由っていうことは、公権力が言説の公開性を阻んじゃいけない、検閲をしてはいけない、弾圧をしてはいけない、規制してはいけない・・そいうことです。だから、基本は国家からの自由なんです
その言説の公開性が第一の原則。ようするに行為の原則です。

             他者との共同性

もう一つの公共圏の原則は異なった他者との共同性ということにまとめることができる。一寸固いけれどこの意味合いは公共圏では確かに言説が公開される、そして交換される・・。言論の自由市場っていうものがそこに成立するわけだけれども、同時にそこにはもう一つ必要な原理が有って、それが異なった他者との共同性なんですけども・・、そういう風に言説が公開されていくっていう場所をですね、保障するっていうことにおいては、それは共同の利益・・みんなの利益だということ・・・そういう場所、そういう公共圏っていうものが保障される、自由に構築し参加することが出来る、他者を排除していけないっていうこと自身が・・共同の利益であるということ。だから共同性なんです

そこにさらにもう一個そこに付くのは異なっ他者との共同性。「異なった他者との共同性」・が重要なんですね

同じ意見の人達の言論の自由を認めましょうっていうことじゃない。
言論の自由の根本っていうのは異なった意見同士での言論の自由こそが、一番重要であって

    

だからさきほど言っていた、マルチカルチャラリズムの問題がここに入って来る。異なった他者との・・というところでマルチカルチャラリズムの問題がはいってくるわけです。

             他者とはなにか・・

我々にとって公共圏っていうものを考える時に、重要なポイントはですね「他者とはなにか・・」っていうことですね。「われわれは他者と、どういうふうな関係を構築していくのか」それはナショナリズムの問題でもあるかもしれないし・・政治ではね・・。
コミュニュケーション関係の中での同質的なコミュニュケーション。同質的な相手、同じような利益を持った人間同士の関係っていうのは成立しやすいわけですけれど。問題は困難なコミュニュケーションなんであって、困難なコミュニュケーションはなにかって言うと、異なった他者との間のコミュニュケーションなんですね。

つまりコミュニュケーション関係のなかで我々はいかに他者を位置づけ、他者とのコミュニュケーションをどういうふうに構築していくのかが重要であって、これがその共同性という問題。

     場所の論理・・原則・・他者を排除しない

普通場所の原理っていうのはクローズドかオープンか・・それから内と外の区分っていう問題がある

内と外の区分・・内部と外部の区分とか生ずるわけだけど、その時に我々は往々にして他者を設定し、それを敵として取り扱う傾向が強いんですね。そのようにして外部を創り出して、それによって内部というものを創り出す。



他者は敵である・・それが最も端的に出てくるのがナショナリズムの問題ですね。そういう問題を孕んでるわけだけども、公共圏っていうのはあくまで理念としては、

言説の公開性を貫徹することと、それから他者との共同・・を重視する

       

繰り返せば言説の公開性異なった他者との共同性。第一の原則は行為の原則だし、言論を公開して行くっていう行為の原則。第二の原則は場所の原則 。ようするに他者を共通の場所から排除しないっていうことです。これが二つの原理です。

これが一応理念です

ここに書いてあるのが第二バージョンです。日本の歴史の問題。今まで西欧的コンテキスト、西欧近代のパブリックってなんなのかということをお話してきたわけですね。日本の問題を当然考えなければならない。「公共圏は西欧のお話でしょうと・・日本ではどうなっている・・日本にはないんじゃない・・」 研究者の間にだってそういうふうに言う人いるわけ。「ハーバーマスって西欧のことでしょう」と・・「日本に当てはまらないんじゃないですか」と言う人もいる。私はけっしてそうは思いませんが、日本の問題をキチンと取り扱う必要がある

単に日本の問題をキチンと取り扱う必要があるということだけじゃなくて、パブリックっていう問題は・・その前提としてまた・・もう一つあるんですけども・・(こうしてまた横道に入る)

 公共圏って・・実体としてそこに有る、そういうものじゃない

公共圏っていうものを観るときにですね・・固定されてそこに存在してるとかね、実体としてそこに有るとかね、そういうものじゃないんです。またそういうものとして考えるべきではないんです。なぜか・・「公共圏ってどこにあるか見せてちょうだいよ」と言われたってですね・・見せることが出来ない。

例えば市場を見せてくださいと。物と物とが交換される場所。これを見せてくださいって・・マーケットに連れて行きますね。これは物理的空間としてマーケット・市場っていうのが存在していますね。

しかし同じ漢字を書きながら市場(しじょう) っていうものがあるでしょう。・・・同じ漢字を書きながらですね・・読み方がちがう。じゃ・・市場(しじょう)っていうのもを見せてくださいって言われたらどうしますか、そう言われたって見せることが出来ないですね。

しかし市場っていうのが機能して働いているっていうことはだれも否定しない。これは一つのメカニズムなんですね。市場。そのメカニズムを支えている、例えば証券取引所とか銀行とか・・そういうものの建物は目で見ることが出来るかもしれないけども、市場そのものを観ることは出来ないですね。




これは目に見えない空間なんです。インビジブルなステージなんですよ。ある種のメカニズムが空間として作動しているんです。今日で言えばグローバルに作動してるんです。これを我々は直接可視的に認めることが出来ない。しかし我々はその存在を否定しない。

    

なのに公共圏の方はなぜか一寸事情が違うんですね。なぜか皆さんそう思わないんですね。サロンやここの建築あそび、これは目で見ることが出来る。なぜなら物理的な空間だから。
これは文芸的公共圏です。TAF公共圏

        佐藤  笑う

ところが抽象的な公共圏っていうのがある。これ見せてくださいって、見せることことできないですね。これ市場と一緒なんですね。例えば新聞社とかTV局っていうものがメディア公共圏を作り出しているっていうことは分かる。

      抽象的な公共圏・・ある種の運動してる形式・・

それは証券取引所と一緒ですね。市場における東京証券取引所と同じように・・朝日新聞社が日本のメディア公共圏というものの一角を作っているインスティテューションだと言える。朝日新聞社を見ることは出来るけれども公共圏を見ることが出来ない。ま・・そう言う関係が一つ。

それからもう一つ、公共圏っていうものは、あくまで実体でないだ・・ということを強調しておく必要があって・・公共圏っていうのはある種の運動してる形式なんですよね。

運動形態なんですね。だからそれはある時には浮上したり、ある時には沈下したり。潜行して、又浮かび上がる時には変容してるっていう・・そういう可変的なものなんですね。固定した実体ではない。そういうふうに考えないと、また変な批判をしだす人がいるんですが、そういう人はよく公共圏を実体的なものと捉えていて、それは私からすれば間違った理解の仕方ですね。

何度も繰り返しますけど、公共圏は決して実体ではない。実体のたいは体(からだ)の体(たい)ですね。しかし確かに公共圏には現実の姿、今ある姿っていうのは確かに有るわけです。実態ですね。その態は状態の態です。現実の姿です。我々が感じ取ることのできる公共圏の今ある姿。しかし同時に公共圏っていう言葉を使うときには・・公共圏っていう言葉は二重性を持っている

もう一つ公共圏という言葉を使う時に出てくるのは理念的な言葉として・・理想的な有るべき姿としての公共圏。そういうことを頭の中に置いて考えてください。

         実体理念の公共圏

公共圏って言葉を使いながら一方では現実の姿の公共圏っていうことを言っていたり、ある時には理念的な、規範的な姿のことを言っていたり、実態規範の両方を指している

だからそこで混同が起きたりします。

         現実態可能態の公共圏

もう一つの二重性があって、公共圏という言葉は一方では現実態を指す。他方ではいまだ無い公共圏っていうものを意味する。これを私は「可能態としての公共圏」と言ってきました。可能な姿。

ズーット遠くにある・・ある方向のズーット先にある・・未来の地平にある・・可能な姿として想定できる公共圏ですね。そういう意味での「可能態としての公共圏」。そういう捉え方ですね。そこでもまた二重性が出てくる


公共圏っていう概念そのものに・・・理念実体の二重性。それから現実態可能態の二重性がある。そこが一寸複雑だろうと思います。

パブリックという問題を考えたときにどうしても、そういうふうに二面性で捉えざるを得ない。

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