主体と客体というふうな関係に分離・・
不思議なことです・・
首切りの事を指して昔は合理化っていうんですね。なぜなのか。これは理由があるんです。まっとうな理由がある。
つまり
誰にとっての合理性なのか、だれにとっての合理化なのか、誰の立場からみたときの合理化なのかってことを考えれば直ぐ分かる。
つまり首切りってなぜやるのか。誰がやるか。経営者が・・市場が停滞して需要が下がったときに、経営者は例えば工場でなら生産を落とし、そうすると労働力が余るから、その余った労働力、つまり
余った労働者を解雇するわけですね。
経営者の合理性はなにかっていうと、
利潤を最大にもっていくっていくことですね・・。
その合理性からすれば、経営者にとって余った労働者を解雇するっていうことは利潤を防衛するって意味で当り前の行為であって、自分の利益にかなった行為なんですね。これが目的合理性なんです。
私がいて、貴方がいるときの関係の作り方が、
主体と客体というふうな関係に分離しているんですね。こういう目的合理性の世界が・・国家行政と経済市場が癒着をしているシステムの世界なんですね。
それに対して
生活世界っていうものが有って、
それはシステムとは違う合理性をもっている、とハーバーマスは言うわけですね。それはどういう事かというと
コミュニケーティブな合理性・・というわけですね。
目的合理性っていうのが確かに
近代を動かして来た原理としてあるけど、同時に近代を動かして来た、もう
一個別の原理として、コミュニケーティブな合理性というのがあるんだと彼は考えます。コミュニケーティブな合理性っていうのは何だと言うと・・。
コミュニケーティブな合理性・・早稲田大学文学部の佐藤慶幸さんという社会学者は
対話的合理性っていう言葉を使われています。そういう合理性も近代の社会はもっているんだということです。この価値は相互理解を目指すということ。お互いに分かり合うっていうことです。その
制御媒体は言葉。ようするに「
言葉によってお互いに分かり合おうということを価値にする」、そういう世界・・その世界の行為基準のことをコミュニケーティブな合理性と呼ぶ。
じゃ・・一体これはなんなのか、コミュニケーティブな合理性。私がここに居てですね、貴方がそこに居る。この時のコミュニケーティブな合理性ってどういうことか。
さっきの目的合理性の関係では私が主体で貴方が客体であって、私が一方的に働きかける関係であった。
じゃ・・一体これはなんなのか、コミュニケーティブな合理性。
私がここに居てですね、貴方がそこに居る。この時のコミュニケーティブな合理性ってどういうことか。
さっきの目的合理性の関係では私が主体で貴方が客体であって、私が一方的に働きかける関係であった。
私が働きかければ貴方が働き返すわけで・・貴方が主体になったら私はその時には客体になる・・
その間でなにを目指すのかと言ったときに「相互了解」「分かり合う」っていうことを目指す・・ということですね。
それがコミュニケーティブという形容詞の意味なんだ。ということは
主体−客体っていう関係ではなくて、主体−主体の関係。っていうのがコミュニケーティブな合理性の関係。
このことを
間主体性だとか、
相互主観性だとか哲学者達は言うんですね。そんな難しい言葉を聞いてもなんだか固いだけだけれども、これは実に簡単な事なんですね。英語でいえば、
インターサブジェクティビティーと言うんですけども・・サブジェクティビティー 主観性だとか、主体性だとかのことですね。主体がサブジェクト、客体がオブジェクト。
サブジェクト−サブジェクトの関係に変わったときには、インター・・間の・・サブジェクトの関係。哲学的に相互主観性だとか間主体性だとか・・頭がぐらぐらしますけれども、実に当たり前のこと・・簡単なことで、そういう合理性がある・・
・・そういう合理性も近代の社会に宿っていて、
一方的に目的合理性だけが近代の原理ではないんだ、というのがハーバーマスの言いたいことですね。コミュニケーティブ合理性っていうものが働いている世界。あるいはそういう
コミュニケーティブ合理性が働くべき世界。これが生活世界であって、それが
私生活圏と公共圏から成り立っているというわけです。
で・・しかしながら・・
現実には、システムと生活世界いう二つの領域はどういう関係にあるかというと、システムの世界のロジック・・の方が強くてですね・・競争とか効率とか目的合理性なんていうものが強くて、そういう原理原則が権力とか貨幣とかっていう乗り物に乗っかって隣の生活世界のほうに侵入して来てる。
それで・・
本来コミュニケーティブ合理性で動いているはずの生活世界をいわば撹乱している。その結果、生活世界は病気に陥っている。・・ということです。そういう事態を捉えて「
システムによって生活世界が植民地化されている」と彼は言いました・・
これも抽象的に言われると分かりにくいかもしれないけれど、
我々の生活世界が現在様々に病んでいるっていうことは、我々は非常に良く知っているわけですね。
いろいろ社会問題と呼ばれるようなものが沢山あるわけですけれど、
それはみんな生活世界が病んでいる姿なんですね。
生活世界が病んでいる社会現象なんですね。
じゃ一体なんでそれが起きているのかということを説明する・・道具としてこれは使えるわけです。
例えば
学校・・学校はいわば私生活圏と公共圏の間にあって、教育という働きを専門にする施設です・・小学校っていうのは教育する場所だけれども、本来教育っていうものは家庭が半分、それから学校・・・
学校っていうものの発生はね、もともと家庭が教育の場だったんだけども・・その役割を外部に出して、集めて、誰でもが利用できる施設として作られたんですね。例えば寺子屋がそうでしょう。
共有財産として作り出すわけですね。
そういう学校っていうものは家庭の延長線上にあり、かつパブリックな暮らしの中の一つの制度としてある・・いまその学校が病んでいる。イジメとか不登校とか・・
なぜなのかっていうと、学校というものが本来置かれている生活世界の原理原則っていうものは「相互了解に基づいたコミュニケーティブな合理性」のはずだけれども、しかし今の学校はどうかっていうと、システムの論理・・効率とか競争とかですね。あるいは目的合理性が入り込んで来ていて、そっちの原則で学校っていうものが運営されているから、そこに病が発生する。
それは現実にそうでしょう。
偏差値だとか、それはまさに効率と競争の原理でしょう。あるいはお金の有る家庭のこどもが高価な私立学校に行くことができるとかね・・そういうふうな問題、お金・・お金が関わっている。
そういうふうにして・・本来学校っていうところでの原理原則ではないはずの原理原則が学校の中に持ち込まれているから、学校は病んでくる。例えば教師と生徒の関係っていうものも、目的合理性の主体−客体関係のような関係
会場 笑う
関係で構成されていて、
主体−主体というふうな関係ではない・・教師がこどもたちにコミュニケーティヴに対応しないっていうようなところから、問題が発生しているわけです。
教育っていうものが目的合理性に基づいた教育になってきているっている・・そういうことはこれで・・この図で説明可能だと思いますね
これが現代の姿だというわけです。
公共圏が病にかかる
こういう構図の中にあって、
公共圏っていうもの、パブリック・スフィアーっていうものも本来は生活世界のなかの一角にあるものなんだけれども、この植民地化圧力によってですね・・・
資本主義や国家行政の原理が公共圏の中に入り込んで来ていたりして、公共圏が病にかかることになる。
公共圏の病理現象を作り出す。
公共圏が衰弱する、ポテンシャルが下がる・・っていう問題が生まれて来た。というかたちで現在の公共圏の問題を説明することが出来るわけです。
これがだいたい・・ヨーロッパバージョンの公共圏とは何かと・・どういう道具だてかと・・いうことなんですね ・・これで
第一バージョンお終い
会場拍手 パチパチパリ
スゴーイ・・・・
休憩にしましょう
日本バージョン 2−1 へ
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