花田達朗教授による公共圏について
 2002年3月3日の建築あそび の記録   1−5
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 政治的公共圏
   言論の自由って・・頭の中で考え出した戦略だった

当時は血であがなったものだった。非常ーな努力をして、頭の中で考え出した戦略だった。言論の自由っていうものの考え方は。で、こうして政治的公共圏っていうもの・・ブルジョアジーがプライベートな世界での経済的利益を貫徹するために、政治的な公権力と闘うために、パブリックな論争を始めます

そこでリテラルチャルナなノンビリした性格からポリティカルな・・政治的な性格へと公共圏は転換して行った。でこれが政治的公共圏です。

 この政治的な公共圏・・ようするに政治的な事柄が議論される社会的空間ですね。これがやがてさらに発達をしていくと・・この基本構造である公権力と私人の領域という分割線を突破して、つまり空間突破して、公権力の領域の側に・・政治的公共圏が入り込んで行くわけです

つまりなにを言っているかというと、近代の市民革命のことですね。イギリスの名誉革命であるとかフランス革命であるとか、あれは何をしたのかと。政治的な公開の議論をする、ブルジョアジーの論争の世界はあくまで私人の領域に属しているんだけども、この境界線のこっち側なんだけども・・この政治的公共圏のポテンシャルが高まって、臨界に達したときにですね、分割線を突破して公権力の側に自分達の世界を作り出すわけです

これが近代の議会です

     

この境界突破。この空間的基本構造を突破したからこそ革命なんです。普通はあり得ない。公共圏っていう私人の領域に帰属していたものが、ボーダーを突破して公権力の領域に入っていった。これは大変なことだった。だから革命。その時の革命っていうものを担った種子ですね。これは公衆だったり世論だったり、或いは政党



これがいわばパブリックっていうものの・・ザ・パブリック と言えば公衆・・パブリックの発生史なんです

こういうかたちでパブリックっていうものがヨーロッパの舞台では始まる

               

だからここでもう一度おさらいすれば、パブリックっていうものが生まれた、現場はあくまで私人の領域なんだ。公権力に対する私人の世界。

パブリックという世界はプライベートな世界の中から生まれたものである。そのパブリックな世界が生まれて、その生まれたものが、公権力の領域に向かって突き出して行ったときに、公権力との間でシビアーな交渉をするゾーンとしてここに政治的公共圏というのが生まれていった

そうすると、決してですね・・日本語で言っている公共性の世界とは違う。官とかお上とかいうニュアンスが、公共性については日本ではありますけれど、西欧的なコンテキストでいうパブリックは、あくまでプライベート・パーソンから生まれて来たものであって、それが公権力の領域と交渉関係に入る空間のことを言っているんだということですね

これがその発生論的構図です。パブリックっていうコンセプトの誕生のプロセスですね。


これをハーバーマスは歴史過程を観察することによって抽出した、それは社会科学的にいうとアイディアルタイプとして抽出した。理念型として抽出した

   実際の世界がこうだったと言っているわけではないのです

歴史を観察すると理念の運動としてはこういうふうな事があった、こういうふうに理念型として、型として抽出することが出来るということ。

けれどもハーバーマスに対して批判などもある・・ハーバーマスがそれを現実だったと言っていると解釈して、現実はそうじゃない、違うじゃないかというふうな批判をする人がいるんですね・・。

これは一面仕方がないかもしれません。ハーバーマスも一寸反省をしてますけれども・。

      80年代におこった ハーバーマス批判

そういう批判は発表された当時は無いんだけど・・・80年代半ばになって、英米圏でパブリックスフィアーっていう言葉でこの概念が流通するようになった。80年代の半ばあたりから、英米圏のフェミニストからフェミニズムからハーバーマス批判が起きて来るんですね。

ナンシー・フレーザーとか代表選手です。ハーバーマスのこの議論はジェンダーの問題は考慮されに入れてない。それは端的に言うと・・・どういう事かと言うと、小家族の内部空間ですね。親密圏というものに近代の理念が宿っと彼は考えるんだけど、実際にはこれは家長制の世界だったのではないかというわけですね。家父長制というのはようするに男性中心主義のことですね。

というふうなことなんですが、それは現実の機構のレベルで・・・ただサロンなんて女性の主宰者がいたりしていたから、一概には男性中心主義の理論だとは言えないとは思うんでけども、ともかくそういう批判もある。

              

それでですね・・第一バージョンのヨーロッパ・コンテクストはだいたい中心部分は終わりなんですが、

           現代的な構図

ちょっと下の図を説明しておきますと、これは現代の構図。上の図は歴史的な発生の舞台。下の図もハーバーマスが言っていることを私がビジュアルに図にしたものですけれども、我々が暮らしている日本社会もこれにあたると言えるのか・・・私は言えると思うんですけど、理論的に考えた時の現代の構図です。

この構図もやっぱり二元論なんですが・・二分割なんですけれども、システム生活世界の二つに分けられている。二つの行為領域に分かれている。あるいは分断されている。

システムというのは何から成っているかと言うと、国家行政機構経済市場から成っている。それらが癒着した形で、システムというものを作り出している。他方、生活世界の方は私生活圏公共圏から成っている。

      

こういう二分法なんですね。じゃなぜこの二つに分かれているんだということを、システムと生活世界はそれぞれにルールが違う。ルールが違ってるから分かれている

そのルールって言うのはなにかというと合理性・・合理性とは何かというと人々が行為するときの基準ですね。何を合理的だと考えて行為するか、アクションするか、行動するかとい行為基準。国家行政だとか経済市場だとか、システムの方はどういう合理性の基準かというと、それは目的合理性なんです

目的合理性っていうのは何かというと、目的にかなったことが合理的であると。というものの考え方。目的にかなったことを行うのが合理的。で、これの価値は競争とか効率

目的合理性っていうのは今の説明では良く分かっていただけないと思うんですけど、・・目的合理性っていうのは・・我々が行為するときに、私が行為主体だとすれば、私が働きかける相手である貴方は私にとって客体になるわけですね。わたしが主体であって、貴方が客体になるわけですね。わたしからすればね。私が貴方に働きかける、行為をする場合ですね。

そのとき私がなぜどういう理由でどういう基準で、つまりどういう合理性であなたに働きかけるかといったときに、システムの世界では目的合理性である。

その目的合理性とはなにかと言うと、私の目的にかなったかたちで貴方に働きかけるということです。それはどういう事かというど、私自身の目的に・・かなうように貴方に働きかけるんだから、逆にいうと私の利益のために貴方に働きかけることですね・・。

いまの俗っぽい言い方で・・「自己チュウ」・・自己中心的かな。私が中心なんです。あくまで私が中心で、私の合理性で動く。私の目的のために貴方に働きかける、これが目的合理性ですね。

私の目的にかなっている限り、私は貴方にどんなこともできる・・と思っているんですね私。私の目的にかなっていることを貴方に働きかける。これが一つの合理主義です

経済市場とか、国家目的合理主義の原理で動いている・・
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