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3・25無罪判決(抜粋)

私たちは無実だ

判決

須賀武敏
十亀弘史
板垣宏

右三名に対する各爆発物取締罰則違反被告事件について、当裁判所は、検察官岩垂一登、同中田和範、同西谷隆、同加藤雄三、弁護人藤沢抱一、同内山成樹、同坂井眞、同北川鑑一各出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

被告人らは、いずれも無罪。

六 被告人三名の共謀に関する証明の成否について

…検察官がその主張の重要な根拠とする岩手アジト押収のメモ類は、いずれも検察官主張の立証趣旨のとおり、それぞれのメモの存在・形状、ないしは岩手アジトにこれらのメモがあったこと及びその内容を立証事項とする非供述証拠として取り調べられたものであるから、これらのメモ自体を、各メモに記載された事柄が実際に存在したという立証に直ちに用いることが許容されるとはいい難い上、仮に、このような内容のメモの存在白体によって、その記載者らの一定の行為が推認されるという根拠として、これらのメモ類を用いるとしても、検察官の主張にはなお相当の飛躍があると考えざるを得ず、本件全証拠を総合しても、検察官主張のような推認をするにはなお疑間をいれる余地があることは、否定し難い。
すなわち、そもそも検察官が主張する前記五2(一)の各メモ類には、本件両事件自体に直接触れた記載は全く存在しない。また、岩手アジトが、本件両事件発生後の昭和六一年八月に鍋爆弾の製造場所とするために新たに設けられたものであって、同年四月及び五月における本件両事件発生時点には存在していなかったことは、幅田敏昭の検察官に対する供述調書等の関係証拠に照らして明白である。したがって、昭和六一年一〇月に岩手アジトにおける捜索、差押えの際に押収された各物件は、本件両事件発生以前に既に存在し、それが本件両事件との関係で検察官主張のような意味合いを有するものであるとしても、岩手アジト開設以前には、岩手アジトではない他の場所に保管されていたのであって、保管形態が押収時とは同一ではなかったことになる。

このことは、同時に、保管の場所のみならず、保管主体についても岩手アジトと異なっていた可能性を生じさせる。

もっとも、被告人らが岩手アジトに入居する前に、被告人らが本件メモ類を作成したという事実が認められるのであれば、これらのメモ類はもとより、岩手アジトでこれらメモ類とともに保管されていたその他の物品の岩手アジト開設以前における保管形態等についても、被告人らとの結びつきがうかがわれることになるが、前記五3(五)の筆跡鑑定により、本件で押収されたメモ類の中に被告人らの手になると認められるものが相当数あることを十分考慮に入れたとしても、そもそも本件ではこれらメモ類の作成時点が明らかではない。弁護人らが指摘するように、岩手アジトが鍋爆弾製造のための場所であったことなどに照らすと、被告人らが同アジトに持ち込んだ資料等も、基本的にその目的のために必要なものであったことが推認できるというべきであるから、被告人らが、岩手アジト開設に際して、他の保管主体が所持していたメモ類等のうち、鍋爆弾製造のために参考となるものを書き写すなどして所持するに至ったという可能性を否定するまでの証拠はないのである。なるほど、本件メモ類の中には、検察官指摘の信管製造・開発であるとか、炸薬の装填に関わる記載があり、本件両事件に関わるAV型砲弾の開発の過程で検討された事項とか、その際に行われた実験の内容とうかがわれるものも記載されていることは、既に説示したとおりであるが、これらのメモ類を鍋爆弾製造のための資料として被告人らが岩手アジトで所持していたという右の事情や、これらのメモ類の形状自体等にも照らすとき、本件で現に押収されているメモ類自体が、まさに右AV型砲弾の開発が行われていた時点で作成されたオリジナルのものないしはそれと同時に作成されたカーボンコピーに当たるとまでいえるかについては、そのように一概に断定することはできないと考えるほかはない。

補足すると、確かに押収されているこれらのメモ類の中には、その訂正部分の塗り潰し方などを見ると、事後に写すのならそのような状況にはならないのではないかと思えるものもあるし、報告書の性質を持つ文書のカーボンコピーとうかがわれる形状であって、オリジナルではなくカーボンコビーのみが残されており、オリジナルとカーボンコピーを同時に作成して、オリジナルの方は報告用に使用し、コピーの方だけを手元に残しておいたのでないか(後日になってもとの文書の写しを作成したのなら、カーボンコピーを保管しておく必要はないのではないか)などと一見疑わせるに足りるようなものもないわけではない。しかし、事後的に写しを取るときでも誤記を塗り潰すこともあり得るし、事後的に複数の写しを作成する必要があるときにカーボン紙を用いることなどもあり得ることは否定し難いのであって、いずれにせよ、以上の事情は、本件で押収されたこれらのメモ類が、他にもとになる文書の類があつて、鍋爆弾製造等の資料等にするため、被告人らが書き写すなどした上で岩手アジトでこれを所持していたものであるという可能性を否定するには足りないのである。

そうすると、これらのメモ類が岩手アジト開設以前に、AV型砲弾の開発等が行われていた時点で、被告人らによって作成されたと認めるには足りないというほかはないのであって、したがって、岩手アジトで押収されたその他の物品が、岩手アジトでこれらメモ類とともに保管されていたからといって、この点は、これら物品の岩手アジト開設以前における保管形態をうかがわせる何らかの根拠となるものでもないといわざるを得ない。

そして、更に検討しても、被告人らが岩手アジトに入居する以前にこれらの物品を保管管理していたことをうかがわせる事情があるとは、本件全証拠に照らしても認定することができず、そうすると、被告人らが、岩手アジトで鍋爆弾の製造等に取りかかるに当たり、中核派内で爆発物の製造等に関わっていた他の者から、爆発物の製造等に係る火薬類や各種の用具等とともに、これらの物品等の引継も受けて保管管理するに至ったなどの可能性も決して否定することができない。

なお、岩手アジトにこれら物品が搬入された状況等については、幅田がその検察官面前調書で供述しているが、前記五3(二)(2)@のとおり、幅田供述の中には、岩手アジトに入居する前日に、盛岡市内のレストランで、被告人須賀、被告人十亀、高田とともに「B」なる人物と会った際、そのBから、翌日の昼の一二時前後ころ、トラック二台で荷物を運び入れる、二台一緒に来るか別々に来るかまだ決めていないが、一台に積んであるのはアンパン用の資材で、もう一台は生活用品だとの話を聞かされたなどの趣旨を述べる点もあり(甲六四一)、これは、被告人三名以外の者がそれまでこれら物品を管理していたと仮定したとしても矛盾しない内容であり、むしろそのような可能性を示唆する意味さえ持ち得ると考えられる。ちなみに、幅田供述の中で、Bの右発言を受けて、被告人須賀がアンパン用資材の方はいじらなくてもいい旨述べたとされている点、被告人十亀が岩手アジトに搬入された荷物を点検していたとか、資材リストを持っていたという点などは、岩手アジト開設以前から被告人らが岩手アジト押収物品を管理していなければあり得ない内容ではないから、右の結論に影響するような事情ではない。

すなわち、幅田の供述自体、被告人らが岩手アジトに入居する以前から同アジト押収物品を保管管理していたことをうかがわせるような意味を持つものではないのである。なお、岩手アジトで押収された書籍から被告人らの指紋が検出されていても、岩手アジト入居後は被告人らがこれらの物件を管理していたのであるから、この点は右の結論と特段の関係がないことが明らかである。
補足すると、検察官は、幅田が昭和六〇年に被告人三名と会った旨、その状況等とともに供述している内容や、被告人三名から成る班の会計収支を記載したという甲一五六メモ(前記五2(一)(8)ア)、被告人三名がいわゆる鍋爆弾を製造していた事実等により、被告人三名が昭和六〇年の秋ころには既に一つの班を構成しており、その後も継続して一つの班を構成していたことが明らかであるとして、これらもまた被告人らが岩手アジト押収物品を本件各犯行以前から保管管理していたことのいわば支えとなる事情に当たるという趣旨と解される主張をする。

しかし、仮に被告人ら三名が岩手アジト以前から一つの班を構成していたとしても、そして、そのことと岩手アジトで被告人らが岩手アジト押収物品を管理していたこととが相まったとしても、直ちに岩手アジト入居以前から被告人らが岩手アジト押収物品を管理していたと断定できるものではないことに加え、その主張には次のような問題がある。
すなわち、右の幅田供述は、要するに、昭和六〇年の秋口から暮れにかけてのことで、多分一〇月ころではなかったかと思われるころ、沼津のデニーズで被告人ら三名と会って「前進」や手紙を渡したが、被告人らはずいぶん親しげな口ぶりで、被告人須賀が被告人十亀と被告人板垣に対して「おい」などという呼びかけ言葉を使っていたので、被告人三名が同じ班で、被告人須賀がキャップであると思ったというものである。既に前記五3(二)(4)で説示したとおり、幅田の供述は、同人が体験した事実自体を述べる点については、基本的に十分信用できる内容のものであるということができるのであるが、幅田の右供述中、被告人らが一班を構成していたと思うとの部分は、幅田が体験した事実自体というよりは、同人のいわば判断ないし印象を述べたものであるにすぎないことが明らかであるし、被告人ら三名が一緒にかなり親しげに話しているところが一度目撃されたことから直ちに被告人ら三名が一つの班を構成していたとすることには、中核派の非公然組織に属する者同士の連絡の状況等を十分考慮に入れたとしても、いささか飛躍があり過ぎるといわざるを得ない。

被告人三名が一つの班を構成しているものと幅田が思った理由も、右の内容以上には説明されておらず、結局のところ、相当に主観的な印象に過ぎないといわざるを得ないところがある。被告人須賀がキャップと思ったという理由についても、同様に相当に主観的な印象であるにすぎない。そして、幅田は、本件両事件に関係する事柄については自分は知らないとしており、同人の供述の中には、岩手アジト設定前から被告人らが岩手アジト押収物品を管理していたことをうかがわせるものが他にあるとも認めることはできない。

また、検察官指摘の甲一五六の内容は、前記五2(一)(8)アのとおりである。すなわち、このメモは、三枚から成り、各用紙には、「NNR班6月会計」、「NNR班7月会計」、「NNR班8月会計」との表題が付され(年度の記載はない。)、それぞれに表形式の記載がされている。縦に「収入の部」 (「エアロ」、「シューズ」、「特別援助」、「スニーカー」、「その他」、「くりこし」及び「合計」の各項目に分かれる。)、「支出の部」(「交通費」、「泊費」、「食費」、「サ店」、「ロック」、「その他」及び「合計」の各項肩に分かれる。)、収支合計(「総収入」、「総支出」及び「合計」の各項目に分かれる。)の各欄があり、横には、「NNR」、「IS」、「MA」、「合計」の各欄があり、表中の各欄にはそれぞれ金額と思われる数字が記入されている。そして、小島直樹の鑑定により、その筆跡は被告人須賀の筆跡と同一と推定するとされている(前記五3(五)(1)@)。しかし、このメモの記載内容自体、必ずしも一義的に明確であるとはいい難いところがあることは否定できない。

なるほど、甲六四四の幅田供述調書によれば、被告人須賀は昭和六一年七月以降は「野々村」というペンネームを用いており、「NNR」と略称していたとされている(前記五3(二)(2)C)。しかし、このメモで「NNR」以外の構成員を示すとうかがえる前記「IS」と「MA」について、これが被告人十亀と被告人板垣のことを示すという根拠としては、甲六四五、六四六の幅田の供述調書があるだけであるところ(前記五3(二)(2)DE)、その中では被告人十亀の昭和六一年七月からのペンネームは「岩下」であり、被告人板垣の同年八月終わりないし九月初めころからのペンネームは「松井」であったとされているものの、幅田は、略称については、被告人十亀の「岩下」は「IWS」あるいは「IS」ではないかと思うし、被告人板垣の「松丼」については、「MA」、「MAT」あるいは「MAI」だろうと思うとしているのであって、結局右両被告人の略称を確実に知っているのではないとし、また、略称としてそれぞれについて複数の可能性を挙げていることや、その述べる略称の内容につき「野々村」を「NNR」と略称するのと対比して一定の法則性があるとはいい難い内容を述べているという問題があることは、否定し難い。

また、幅田の供述によると、被告人ら三名がそれぞれ野々村、岩下、松丼というペンネームを使っていたのは、昭和六一年七月以降のことであるというのである(被告人板垣についてはそれよりも更に後のこととされている。)が、甲一五六は六月から八月の会計メモであり、それが昭和六一年のものであるとしても、同年六月及びそれより前に被告人らが上記名前を用いていたとの裏付けがあるとはいえない(なお、略称が「NNR」であった旨幅田が明確に述べている被告人須賀についても、前記のとおり、同被告人がそのペンネームを用いていたのは昭和六一年七月以降であるとされ、甲六四四、六四七の幅田供述調書によると、昭和六〇年の秋口から暮れで、おそらく一〇月ころと思われるころに幅田が同被告人らと沼津で会ったときには、同被告人のペンネームは「丹波」で略称が「TB」であったとされている(前記五3(二)(2)CF)。また、幅田は、被告人十亀及び同板垣についてもかねてペンネームを知っていたかの趣旨をも述べる (前記五3(二)(2)@)一方で、「岩下」、「松井」のペンネームの使用時期については前記のように述べているから、それ以前は別のペンネームが使用されていたかのようにうかがえないでもないが、この点の供述の趣旨は明確でない。)。

しかも、この甲一五六が昭和六一年に関するものであるとしても、そもそもこのメモ自体、本件両事件の時期である同年四月一五日及び五月四日の時期を含め、六月より前の時期にこの班が存在していたと認める根拠と直ちになるものではない。前記のとおり、被告人三名は、まさに一班を構成して岩手アジトで爆発物(すなわち鍋爆弾)の製造作業をしていたのであり、岩手アジトに現に入居するに先立ち、その準備等の段階で既に一班を構成していたとしても、それより前の本件両事件のときに一班を構成していたという事実までを推認するのは、いささか飛躍が大きいといわざるを得ない。確かに、このメモの六月分には、「くりこし」の記載などもあるが、その内容自体が必ずしも明確でなく、右の記載があるからといって、この「NNR班」が五月にも存在していたとまでいうのは、根拠が不十分である。

結局、この甲一五六のメモも、被告人らが本件両事件のころに既に一つの班を構成していたと認める根拠とするには足りないというべきである。

また、被告人ら三名が鍋爆弾を製造したという事実は、被告人らが以前にも爆発物の製造等に関わることが可能であったのではないかと疑わせる事情であるとはいうことができても、当然ながらそれ以上のものではない。

付言すると、証人豊田和俊(人一四)は、昭和六二年に入ってから(すなわち、被告人らが既に勾留されていた時期に)、警視庁深川警察署管内で本件と同様の砲弾発射事件があり、その装置の基盤の一部は迎賓館事件のものと一致していた旨を述べている。その詳細は明らかではないが、中核派の関係者の中で、被告人ら以外にも、信管を製造して炸薬を装填するなどして、砲弾を製作することができる人物が存在する可能性を示すことは否定できない。

そして、そのほか、関係証拠を精査しても、被告人ら三名が本件金属製砲弾の信管の開発・製造、炸薬の装填を行ったことを合理的疑いをいれない程度に証明するような証拠があるとは認められない。

5 そうすると、前記のとおり、本件では、取調べ済みの全証拠をもってしても、被告人らが本件金属製砲弾の信管の開発・製造、炸薬の装填を行ったという事実が、合理的疑いをいれない程度に証明されているものとは認められないことが明らかである。

補足すると、検察官の主張中には、「前進」の記事を引用するなどして実行行為者らとの共謀の存在について論じる部分があるが、これは、被告人らが本件金属製砲弾の信管の開発・製造、炸薬の装填を行ったという前提で、実行行為者らとの間で共謀を形成した経緯を述べたものであって、それ自体が被告人らの犯罪の成否について独立の意味を有する主張ではないし、実際にも、信管の開発・製造、炸薬の装填の事実が認められない以上、右のような「前進」の記事などがあるからといって、本件実行に係る共謀の成立を認めるに足りないことは明らかである。
更に補足すると、検察官の主張中には、福嶋昌男の関与について述べる部分もある。すなわち、検察官は、福嶋が本件両事件の発射薬室の開発・設計、発射薬の製造等に関わったとし、それに関して福嶋が作成したメモ類が岩手アジトで保管されていたなどと主張している。しかし、仮に検察官が主張する事実関係が認められたにせよ、信管の開発・製造、炸薬の装填という行為を本件被告人らが行ったという検察官の主張事実が認められない以上は、この点は被告人らの共謀関係の成否に関する結論を左右するものではない。

したがって、本件では、検察官から、福嶋の作成に係るとされる前記メモ類の筆跡鑑定書等、福嶋の関与に関わるとされる証拠が申請され、取り調べられてはいるが、この点についてはこれ以上改めて判断を示す必要がないと考える。

第六 結論

以上述べてきたところによれば、本件では、被告人ら三名が本件各爆発物使用事犯に関し、実行正犯との間で共謀したことについて合理的疑いをいれない程度の証明がないことに帰する。そうすると、本件各公訴事実はその証明がないものとして、刑事訴訟法三三六条により、被皆人ら三名をいずれも無罪とすべきである。

よって、主文のとおり判決する。

平成一六年五月六日

東京地方裁判所刑事第一一部  裁判長裁判官 木口信之
裁判官               合田悦三
裁判官北村治樹は、てん補のため署名押印することができない。

判長裁判官            木口信之