ホームページへ

パンフ「私たちは無実だ」から転載しました

年表「16年間の裁判の経過」

《1986年》

4月15日 米軍横田基地にロケット弾が打ち込まれる
5月4日 東京サミット式場の迎賓館にむけロケット弾が発射される
8月7日 岩手借家開設
10月11日 岩手借家で須賀、十亀、板垣が不当逮捕(岩手事件)

《1987年》

10月13日 1986年5・4迎賓館事件でデッチあげ逮捕
86年岩手事件で東京拘置所に勾留中の須賀、十亀、板垣の3人を、爆取1条(爆発物の使用)容疑でデッチあげ逮捕
11月2日 迎賓館事件で起訴
     1986年4・15横田基地事件でデッチあげ再逮捕
11月24日 横田基地事件で起訴
警視庁と東京地検は、2事件で43日間にわたり、1日13時間を超える長時間の拷問的取調と転向強要を行った。(同時に福嶋昌男さんを両事件でデッチあげ指名手配。93年3月9日に不当逮捕)

《1988年》

9月19日 第1回公判
神垣裁判長が検察官に「直接共謀を立証する証拠があるのか」と問うと、検察官は「ありません」と証拠が無いことを自認。第1回公判から、本件両事件が仕組まれた政治的フレームアップであることが明らかになった。

《1989年》

8月29日 第11回公判 中谷裁判官の発言を弾劾
当時右陪席であった中谷雄二郎裁判官が、雑誌『ジュリスト』(89年3月25日付)で、本件両事件について「証拠がないのは被告が隠しているからだ」「証拠の薄いままでも有罪だ」という恐るべき予断を公言(『朝日新聞』も「担当裁判官が予断発言」と報道)。中谷裁判官の忌避申立に対し、豊田裁判長は簡易却下し、全く不当な発言禁止と退廷処分で応じた。

《1990年》

9月12日 第22回公判 現場関係立証始まる

《1991年》

5月28日 第31回公判
看守を各被告の両脇に配置するサンドイッチ式重戒護の中止を勝ち取る。

《1992年》

4月27日 第42回公判 岩手借家押収物をめぐる立証が始まる
岩手借家は本件両事件の数ヶ月後に借りられたものであり、そこからの押収物は、本来、両事件との関連性はない。

《1993年》

7月21日 第56回公判 検察官、「新たな証拠」200点以上を追加請求
「岩手以前」の立証ができない検察官が、証拠ねつ造にも等しいやり方で金沢、奈良、静岡(いわゆる「三大証拠群」)など、本件とまったく関連性のない「証拠」と称するものの追加請求を突如行ってきたため、激しくその違法性を追及。

《1994年》

12月14日 第72回公判 
検察官の立証計画が不明確であることに対し、公訴棄却を要求して闘う。

《1995年》

5月24日 第76回公判
検察官がロケット弾「製造」の核心的な「証拠」としていた、金沢借家押収の「金属くず」を撤回。検察官主張の捏造性が明白となる。

《1997年》

6月24日 第101回公判 
警視庁公安部の警察官星隆夫が、別件岩手公判では「見ていない」と証言していた「メモ」について、本件公判では「見た」と偽証。星証人を厳しく追及。
10月21日 第105回公判
「岩手押収物」の捜索・押収関係に関する検察側「立証」が終了。検察側証人の証言がデタラメなため、一人の証人の審理に1年以上かかるものもあり、全体で5年以上もかかった。
11月11日 第106回公判 
「岩手借家押収物」を一括採用する暴挙

《1998年》

1月9日 第108回公判 
現場押収物と岩手押収物の関係に関する鑑定や実況見分の「立証」開始
5月8日 第113回公判 須賀、 腰椎間板ヘルニアのため出廷できず
須賀はこの後、的確な検査も治療も行われず、保釈になるまでの間、車椅子での出廷を強要される。

《1999年》

6月1日 第129回公判
大淵裁判長が、筆跡鑑定の対象となるメモ類の押収立証が行われていないという弁護側の主張を無視し、突如、次回から筆跡鑑定証人尋問に入ると宣言
6月23日 第130回公判 筆跡鑑定関係立証始まる
被告・弁護団の異議申立や求釈明によって検察官立証の違法性が明らかとなり、検察官主尋問に計7回の期日を要した。

《2001年》

2月23日 第151回公判 
「共犯証人」幅田証人尋問。検察官は、幅田の「85年の秋から暮れにかけて、沼津のデニーズで3人に会った、3人は1つの班だと思う」という密室で捏造された供述調書を「証拠」にしようとして、幅田に証言拒否をさせる。被告・弁護側は「言いたくありません」を繰り返す幅田への尋問の内容自体によって、供述調書のウソを徹底粉砕。
3月30日 須賀、医療鑑定のための精密検査
5月8日〜12日 須賀、東京医科歯科大学病院での入院検査を勝ち取る
6月11日 第155回公判 検察側立証終了
木口裁判長は、93年7月(56回公判)に検察官が行った金沢等の違法な追加証拠請求の採用を却下。検察官の「岩手以前」の立証が完全に崩壊。
11月5日 第156回公判 弁護側立証の開始
弁護側証人として26人を申請(裁判所は第159回公判で、7人についてだけ採用を決定)。

《2002年》

3月1日 第161回公判 ダイス切削痕鑑定を批判するA証人出廷
A氏は、岩手借家で押収したとするダイスで迎賓館・横田両事件の現場にあった信管が作られた、とする検察立証の核心を突き崩す決定的証言を行う。唯一の「物証」として検察立証の核心をなす「切削痕」問題での勝利が確定。
3月22日 第162回公判 板垣の健康状態が悪化、医療鑑定を請求
7月19日 第167回公判 
岩手県警技官宮野が警察、検察の示唆により偽証。岩手事件公判での証言を180度ひっくり返す。
8月28日 第168回公判 板垣の医療鑑定決定
16年目に入る長期勾留によって、後頭部及び腕と足の痛みやしびれ、原因不明のノドの痛み、白内障、前立腺肥大症、めまい、吐き気などの症状が起きていた。
10月17日 第170回公判 筆跡鑑定批判し、故木下信男氏証言
明治大学名誉教授であった故木下信男氏(03年5月1日逝去)は、小島筆跡鑑定について、「100年も前のドレフュス事件の過ちを繰り返すものだ」とその非科学性を弾劾する証言を行った。
11月11日 第171回公判 足立昌勝氏が爆取は違憲・無効と証言
関東学院大学教授足立氏は、爆取は元老院には「検視議案」という法案が可否・検討の出来ない形で回されただけで、実質的な審理は一切していない事を明らかにし、「当時の立法過程にすら反するものを今なお効力を持たせること、そのこと自体が私は問題だと思っています。違憲とするほかない。」と証言。
12月19日 東京地裁が保釈許可決定。 検事が直ちに抗告
12月26日 東京高裁が抗告棄却決定
12月27日 3人、東京拘置所から出獄

《2003年》

1月21日 第173回公判
16年もの長期勾留を打ち破って出獄した3人が出廷。木口裁判長は弁護側請求の書証を全面的に採用した。15年間続いた裁判は、この日で全ての審理が終了した。
2月26日 第174回公判 論告求刑
検察官は、須賀武敏に15年、十亀弘史、板垣宏に13年もの求刑を行った。検察官の論告は、検察官立証に13年もの長時間を費やしながら、「共謀」がいつ、どこで、どのように行われたのかについては、何一つ明らかにしていない、デタラメなもの。
9月1日〜3日 第175回〜177回公判 最終弁論
弁護人の最終弁論、被告人の最終意見陳述を勝ち取る。

《2004年》

3月25日 無罪判決かちとる

4月2日 検察官が控訴
【完全無罪判決を勝ち取ろう!】

 

ページの先頭へ