1 七里の渡し跡

木曽3川の一つ揖斐川の河口に面し、東海道の伊勢の国へ入る東の玄関として、尾張の宮(熱田)から海路七里あったことからこの名前が付けられました。

東海道が制定された江戸時代には技術的にも戦略的にも大きな河川に橋を架けることは出来ませんでした。また木曽川の河口は当時はまだ沼地が多く、洪水の度に川の流路が変わり、道路を付けることは不可能でした。そこで宮と桑名の間は東海道で唯一海路を船で渡るということになったのです。 宮までの所要時間は潮の干満により航路が異なりますが、3〜4時間はかかったようです。

 ここから伊勢路に入るため、天明年間(江戸時代中期)に伊勢の一の鳥居が建てられ、昭和初期からは伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。この鳥居は平成5年の遷宮以前には内宮の宇治橋の外側に建っていた鳥居です。その20年前は外宮の正殿の棟持柱でした。このように伊勢神宮の遷宮は建造物のリサイクルも考慮したシステムになっていることは大変興味深いことです。

竪絵東海道(歌川広重)より桑名七里の渡船
 名古屋市博物館特別展「広重」図録より

七里の渡しに入港間近の順風満帆の渡船、岸にはケンペルやツンベルクを驚嘆させたといわれる絶景の桑名城が見えます。

明治初期の七里の渡し
写真集明治大正昭和桑名 国書刊行会より

向かいに桑名城の隅櫓が見える。

 七里の渡しは昭和34年の伊勢湾台風以後、大きなコンクリートの防潮壁で囲まれてしまいました。あまりに殺風景な景観から、その後防潮壁の上を地場産業の鋳物の瓦で葺いて少しでも史跡らしい雰囲気を出そうとしていますが、最近さらに防災上の理由から、揖斐川とこの渡し場を隔絶するような堤防工事が進められています。

 東海道は江戸時代の幹線道路であり、そのルートも災害の影響を受けにくい場所を選んで制定されました。この七里の渡しも上流からの洪水、海からの高潮の影響を強く受けないような少し入り江になった場所が選ばれています。伊勢湾台風の時も川から溢れた水が流れ過ぎましたが、この場所は大きな被害は受けずに過ぎました。今回の工事は対岸にある長良川河口堰の影響による高潮時の揖斐川の潮位上昇の対策のためだそうですが、全く迷惑な話です。


 しかしこの工事は史跡環境への配慮も図られており、その副産物として、かつての桑名城の隅櫓の一つ「蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)」が復元されました。また七里の渡しから新設された堤防伝いに住吉神社や住吉入り江の方向への散策道も付けられました。またこの付近一帯を国営の木曽三川公園に含めて、さらに整備を進める計画もあるようです。

蟠龍櫓
付近の3つの水門の管理所としてかつてここに建っていた桑名城の隅櫓を模して作られました。
蟠龍櫓内部
1階は管理所、2階はミニ博物館になっています。
蟠龍瓦
蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍です。川に面した破風の上で長良川河口堰を睨んでいます。
川口水門
七里の渡し前に作られました。史跡環境に配慮した上部に突出部のない構造です。開いた水門からかろうじて揖斐川が望めます。
旅館街の堤防
御座船が着岸できた本陣跡に建てられた名門旅館も堤防の内側になってしまいました。
堤防上の遊歩道
七里の渡しと住吉神社が堤防で結ばれました。
七里の渡し