12 伝「沼波弄山生誕地」 (西船馬町)

生誕地標識
住吉神社から県道の坂を下り七里の渡し方向に
右折する角の駐車場の中に建っています
弄山画像(桑名市博物館蔵)
江戸時代の資料を基に再現
桑名市HPより管理者の許可を得て転載

 沼波弄山(1718〜1777)は船馬町の豪商の家に生まれました。場所ははっきりとは分かりませんがこの付近だといわれています。沼波家は江戸にも店を持つ豪商でした。幼児より茶道に親しみ修業に出た京で当時もてはやされていた尾形乾山のやきものに心酔し、20歳の頃、小向(おぶけ、三重郡朝日町)に窯を築き作陶をはじめました。

 最初は趣味としてのやきものでしたが、温雅な中に異国趣味を加えた新しいデザインが評判になり、江戸にも窯を築いて将軍家の御用もつとめました。
 弄山は自分の作品に永久に変わらないという意味の「萬古」あるいは「萬古不易」という刻印を押しました。それで世間では彼のやきものを萬古焼と呼ぶようになりました。

 しかし彼が60歳で江戸で亡くなると小向や江戸の窯も閉ざされてしまい、一時萬古焼は途絶えてしまいます。その後約50年ほど経って、桑名の骨董商森有節、千秋兄弟が萬古焼を復興しようと萬古焼の発祥の地小向に窯を設け、やきものを生産しました。この時期の萬古焼を有節萬古と呼びます。有節萬古は弄山の作風とは異なり、木型を使って大量生産できました。

 この復興に刺激され、その後伊勢の各地で萬古焼の生産が行われます。桑名萬古、松阪の射和(いさわ)萬古、津の阿漕焼などです。そして幕末から明治にかけて四日市で萬古焼の本格的な生産が始まるようになりました。

 なお沼波弄山のお墓は東海道筋の光徳寺にあります。









地理案内図(87Kb)