宝暦治水工事

薩摩藩御手伝普請目論見図
先人たちの鎮魂碑
(社)中部建設協会桑名支部(1998)より

 木曽、長良、揖斐の三川は下流部では分流しておらず、三川が入り乱れて流れていました。地形的に木曽川の河床が高く、長良、揖斐川が低いため、洪水の際には木曽川の水は西に流れ込み、美濃、伊勢側では毎年水害に悩まされていました。

 宝暦3年(1753)三川に洪水が起こり、幕府はその復旧と分流工事を外様大名の薩摩藩御手伝普請(おてつだいぶしん)として命じました。

 御手伝普請とは工事に必要な一切の経費を命じられた藩が負担するもので、幕府は藩の財力をそぐため、たびたび普請を各藩に命じました。

 この時、薩摩藩は60万余両の累積赤字を抱えていましたが、幕府の命令を断ることはできず、家老の平田靭負を総奉行として途中大坂で工事費を調達し、約1,000人の藩士や農民が見知らぬ土地へ来て工事を始めました。

 予想をはるかに越える難工事でしたが、薩摩藩は1年余りで完成させました。 しかしこの工事に投じられた経費は当初の予算30万両に対し、実際の支出は270万両にも及びました。またこの工事中、疫病の流行で亡くなる者33人、幕府役人の仕打ちに憤慨し切腹・自害する者51人と多くの犠牲者を出しました。

 幕府の検分を受けた後の宝暦5年5月25日平田靭負は大幅な出費と多くの藩士を失った責任を取り「住みなれし里も今更名残にて立ちぞわずらう美濃の大牧」の辞世の歌を残し美濃大牧の役館で自害しました。

 海津郡平田町(現海津市平田町)はこの平田靭負に因んでつけられた町名です。

油島千本松原(木曽三川公園より下流域を望む、左:長良川、右:揖斐川)
宝暦治水工事の最大の難所でした。当時薩摩藩士によって植えられた日向松が200年を越える歳月を経て繁茂していますが、最近になって枯木が続出しています。河口堰による長良川の水位の上昇で地下水の流れが滞留し、根腐れを起こしているのではないかと心配されています。
薩摩義士の像(吉村主税作 海津町 治水神社)