A 法盛寺

 桑名坊舎柳堂と号し、浄土真宗本願寺派のお寺です。元は三河国矢矧(やはぎ、現同崎市)にあり、室町時代後期に戦乱を避けて桑名三崎に移り、長島一向一揆では本願寺の基幹寺院として重要な位置を占めました。この戦乱ののち法盛寺と改称、慶長の町割りで現在地へ移りました。
 
 東御坊の本統寺に対し、西御坊とも呼ばれ、明治初年まで尾張、美濃、伊勢に末寺200余ヵ寺を数え、境内地4,000坪余、寺内寺7ヵ寺がありました。明治8年(1875)桑名別院となり、同15年別格寺に列しました。戦災により全伽藍焼失。平成16年バリアフリーを考慮した、教会風の椅子席配置を持つ新本堂が完成しました。

 本尊は「阿弥陀如来立像」(市指定文化財)で両足裏に仏足紋があります。制作年代は未詳ですが江戸期よりは古いとされています。また歯が表現されているので「歯吹如来」とも呼ばれています。

 新本堂建築に先立ち平成12年(2000)に掘調査が行われ、方18間あったと伝えられる基壇の一部が確認されると共に、「柳堂」や「柳」と記された茶碗や瓦が出土しました。さらに下層からは50体近くの幼児の遺体を埋葬した江戸時代初期のお墓の跡も見つかりました。
 墓地には「桑名日記」の筆者である渡部平太夫の墓があります。

法盛寺新本堂
内部は教会風の椅子席になっています
法盛寺発掘調査全景 (1999年8月)北から南を望む、
本堂北面基壇の石組みと礎石穴が見える。
ひと・まち・みちの今昔展図録 朝日町歴史博物館より
渡部平太夫の墓
庫裡北側の墓地にあります